冷たい指先
いつものように仕事を終えて、穏やかな時間をすごして。夕食だから、わたしが久しぶりに王様を呼びにいった。他のみんなは準備をしていたから、たったそれだけだったのに。
昨日、食器などを運んでいくと、王さまはリビングにいなかった。上にある部屋に戻っているのは明らかで、とりあえずわたしが呼びに行くことになった。ミィはテーブルの準備に忙しそうだったし、ユイリックはできた料理を運んでいて、ラヴィーナは下でまだ調理中。
手が空いてしまったのは、わたしだけだった。
一言、王さまを呼びにいってくるね、と声をかける。残りの料理を取りに行きかけていたユイリックが、おう、と笑って手を上げた。わたしは、背を向けて階段を上っていく。
最初は、狭いし薄暗いなと思ったこの階段をはじめとした通路も、今はそれほど暗いとか狭いなどとは思わなくなった。ただ、それでも夕方になると、多少は暗いなと思うけど。
たん、たん、と石を踏みしめていく。
ほんのりとした明かりをもたらす、窓のような隙間のような四角い空間。そこから外の賑やかな声が、かすかに風に乗るようにして届いた。あっちも、そろそろ夕食にいく頃合。いつも通りだったらわたしも、仕事を切り上げて食堂に向かっている時間帯だ。賑やかな食堂の幻影が見えたような気がして、ほんの少しだけ、寂しいなと感じる。
わたしは、とてもわがままだ。
ずっと抱えていた衝動が、その矛先がやっと見つかった。それだけで、きっと一生の何にも勝る幸運であるのに。これ以上、わたしは何を望むというのだろうか。何を望めるのか。
たん、と階段の途中で足を止めた。
現状に、あえて憂いを探すなら――王さまとの別離が、定まっていることだ。
今がどれだけ失いがたくても、失わなければいけないのだ。
前に、わたしはミィと自分を比べたことがある。お互いに叶わない、叶うことがないものを抱え込んだ同士。あの時どう思ったのか、わたしは思い出せない。けれど今は、ミィは幸せなのではないかと思う。二度と会えなくても……彼女は、同じ時間を生きることができるから。
何より、ミィは自分で『夢』を終わらせる強さがあった。
あの強い衝動を自覚してからずっと、わたしが捨てることも忘れることも諦めることもできなかったことを彼女は、まるで糸をはさみで切るように。たやすく、終わらせてみせた。
その強さは、わたしにはない。わたしは今も昔も、すがり付いている。いっそ情けなくみっともないほどにしがみついて頬を寄せて、離れたくないとすすり泣いて肩を震わせて。
王さまがいない世界が、初めて怖くなった。
失うことが、恐ろしくなった。
どうにもならないと、誰よりわかっているのに。ミィと同じく、そっと離れた方がいいのかもしれない。これ以上何も得ないように、得て、期待したりしないように。
再び歩き出し、扉を軽くノックする。反応がないので、一声かけてから入った。王さまはどこかをじっと見たまま、何か考え事をしている様子。わたしには、気づいていないようだ。
「王さま」
声をかけ、王さまがわたしを認識して。
そして――わたしは始めて、王さまに触れた。
触れられて、しまった。
■ □ ■
冷たかった。
思った以上に、ひんやりしていた。
しゃらり、と耳元で響く、手枷をつなぐ鎖の音。目を閉じると思い出せてしまう。身体が今更震えてきて、全部夢だったらいいのにと思うのに――あの感覚、瞬間は、現実だった。
王さまは、何をしたかったのかわからない。
こうして薄暗い早朝、ベッドの中で考えても何もわからない。
わたしは眠れたのだろうか、眠ったつもりなのだろうか。頭だけがやけに冴えていて、なのに思考は泥のそこへと沈んでいくようだ。睡魔とは違うまどろみが、前進を絡めとっていく。
四肢が、やけに冷たく思えた。
だんだん身体が、石になっていくようだ。
「……おき、よう」
誰に言うでもなく、あえて言うなら声を使って身体を動かした。ぎぎぎ、と油を差さねばいけない扉のように鈍く動き、身体を手繰る。ゆっくりと、わたしは身体を起こした。
クローゼットを開いて――結局閉じた。起きて、着替えようかと思ったけど、小さな窓の向こうに見える外の明るさは、明らかに早朝の少し手前といった感じの薄暗さだから。
しかし喉が渇いている。台所まで行こう。
水を飲んで、もう一眠りすればいい。
そうすれば忘れられる、そのはずだから。
きぃ、と扉がか細い声を発し、わたしは廊下に出た。ゆっくりと足を動かし、音を立てないように台所へ降りていく。水は瓶にある程度溜めてあるので、そこから汲めばいい。
誰もいない、静まり返った塔の中。
台所にたどり着いたわたしは、戸棚からコップを取り出す。
瓶から水を汲み、コップへ注いだ。ゆらゆらと波打つ水面を見ていると、少し意識がすっきりしてくる。澄み渡る――という感じだろうか。水はやっぱり、神聖なものだと思う。
一気に飲み干すと、喉を冷たいものが流れていった。
「……ふぅ」
気分はだいぶすっきりした、けど、同時に目も冴えてきてしまう。二度寝しようと思ったけれど、無理かもしれない。これならいっそ、顔も一緒に洗った方がよかったかな。
「でも……寝よう」
誰もいないけれど、言い聞かせるようにつぶやく。
考えたく、なかった。
何も考えたくなくなった。
考えるほどどうにもならない、ただただ苦しいばかりだ。期待をしてしまう。意味のない夢を抱いてしまう。また、あんなことがあればいいなんて、くだらないことを考える自分。
――あの衝動が恋でなくてよかった。
ミィの恋を知った日、知らされた時にわたしは確かにそう思った。安堵した。自分には耐えられないとわかっていたから、比べて、違うとわかって心の底から安心していたはずなのに。
そう、これはミィの抱いたものとは違う。ぜんぜん違う。
わたしが抱いた衝動は、あんなほほえましく幸福に満ちたものなんかじゃない。
少し顔をのぞかせた、浅ましい欲でしかない。
だから必死に、心の奥に押し込んだ。二度と表に出てこないように、永遠に見なくてすむように……奥へ、奥へ。たくさんの重りをくくりつけて、ずぶずぶと沈めていく。
わたしはコップにもう一度、水を注いだ。
冷たい水ごと飲み干し、はぁ、と低い息を吐く。
『はじめまして、■■■■■さま。わたしは■■■といいます』
その時、ふいに声が聞こえた。
知らない、聞いたことのない『わたし』の声が――。




