王子様の想い人
聖都の、城に近い場所。そこは貴族などが暮らす住宅街で、立ち入るには検問のような場所を通過するしかない。ある意味では、城を守護する壁のような地帯である。
基本的には騎士階級を持つ家がそれを持たない家を挟むようになっていて、そこを抜けた先には名家中の名家の屋敷が並ぶ地域があった。その一角に、フランベル家の屋敷がある。
普段、聖女シエラリーゼは大聖堂で、祈りを捧げたり人々の話を聞くのが仕事だ。人生のほとんどを大聖堂で過ごした、といっても過言ではない。こうして外に頻繁に出るのは、暴食王が目覚めてからのことだった。中央にある大聖堂からでは、城が遠すぎるというのが理由だ。
今日のシエラリーゼは、年頃が迫る令嬢らしくシンプルながら華やかなドレスを着て、木陰に置いた椅子に座って読書をしていた。流れるような金髪に、薄い青はよく映える。
彼女は、今日も愛読している恋愛小説を手にしていた。
大聖堂はよく言えば平穏で、悪く言えば退屈で。
こういうものでしか、刺激がない。
自分には縁がない世界の話。それも興味が尽きない恋物語。
その世界に、どっぷりとつかっていると。
「シエラ」
そこに、兄――クリアがやってきた。
いつもよりラフな格好をしているのは、彼が今日は休暇だから。聖女としての『仕事』を始めてからは、以前より兄とよく会うようになったが、普段着姿を見たのは久しぶりだ。いつも王子の執務室の手前にある、応接用の部屋でお茶をしたり話をする程度だったから。
「あら、お兄様。どうかなさいましたの?」
兄の様子が、仕事の時以上にピリピリしているのに、シエラリーゼは気づく。本人は普通のつもりなのかもしれないが、やたら人と会うことが多い聖女にして妹にはお見通しだ。
あれは、何か悩みのようなものがある雰囲気だ。
表情は硬いし、ため息をつくように肩ががっくりと落ちている。
何かあったというのが、よくわかる姿だ。
「……別に、何もない。久しぶりだから、ちょっと一緒にいようかと思っただけだ」
「まぁ」
となりにどかりとすわり、ついに小さくため息を一つ。
悩み以上に、どうもいろいろ疲れているようだ。
シエラリーゼは、何も言わずに手早くお茶の準備をする。大聖堂では、そういう自分でできることは、極力自ら行っていた。そうしなければ、普通の令嬢以上に何もしなくても日々がおくれてしまうからだ。それではもはや、生きているとはいえないような気がしている。
程よい温度に下がっているお湯が、ふわりとお茶の香りを纏う。
「はい、お兄様どうぞ」
「あぁ……」
むっすりとしたままカップを受け取り、クリアはそのまま一気に飲み干した。いくら冷めているとはいえまだお湯、シエラリーゼは一瞬どきりとしたが、兄が普通にしているのでほっとする。そして自分も、そっと一口、お茶を口に入れて喉を潤した。
「それで、何かありましたの?」
「だから……別に、何もない。何も」
言い聞かせるような声は、何かあった、といっているに等しかった。
「……お前に、言っていいことじゃないのはわかっている、が」
「はい」
「どうも、セシルには想う人がいるらしい……お前以外に」
「セシル様……に?」
ためらいがちに告げられたのは、衝撃的な言葉だった。しかし、同時に一つの疑問への答えでもあった。あぁ、だから彼は――いきなり、あんなことを言い出したのかと。
シエラリーゼが二度目に暴食王に会う、その前日だ。
大聖堂にいた彼女を訪ねた王子セシルは、いきなりこんなことを言い出したのだ。
『暴食王は、本当に殺せない存在なのか』
シエラリーゼは答える。
『準備に時間はかかりますけれど、できないことはありませんわ』
『……では、やってくれ』
『セシルお兄様?』
『暴食王を殺してくれ。跡形もなく』
聖都を呪いから解き放ってくれと。王子セシルは頭を下げる。居合わせたサリーシャが、動けないシエラリーゼに変わって頭を上げるように言うが、それでも彼は動かない。
そこに、シエラリーゼは彼に王子としての矜持を見たと思った。
自分が心底慕う相手は、立派な存在であると。
『えぇ……えぇ、おまかせください。わたくしが、何とかいたします』
笑顔で答えた彼女は、聖女の皮をかぶったただの少女。その身体が、指先が震えていることを王子は気づかないままだった。振り返ることもせず、背を向けて満足そうに去っていく。
恐ろしい。恐ろしくて逃げ出したくなる。暴食王は神にも連なる存在。それに敵として相対するのかと思うと身体がみっともないほどに震えて、投げ捨てたくて。けれど、だけど。
――それでも、やらなきゃ。
他ならぬ最愛の王子、最愛の人の願いを叶えるために。それが、女神の生まれ変わりであること、聖女であることを『利用して』婚約者の椅子に座った、彼女が己に貸した宿命。
月並みな言葉だが、シエラリーゼは死ねるのだ。
彼女にとって、聖女であり続ける理由はたった一人、王子セシルのためなのだから。
例え彼が自分以外の誰かを想い、それゆえに言い出した願いでも。シエラリーゼはいかなる苦悶も受け入れて、毒も誹りも笑顔で飲み干して見せられる。
そんな妹の決意を、何も知らないだろうクリア。
彼は黙ったままの妹の、頭を優しく撫でた。
「ボクは、誰もが幸せになることができないことを、知っている」
誰かの幸福の反対側には、誰かの不幸がある。
この世界のすべてが、幸福だけで満たされることなど絶対にありえない。すべては表裏であることを、シエラリーゼはよく知っていた。その一点を、兄よりもきっと知っている。
「それでもボクは、お前には幸せになってほしい……ずっと、幸せでいてほしい」
祈るような言葉に、シエラリーゼは不思議そうに首をかしげて微笑む。本当に、兄はなにをいっているのかしらと思い、とりあえず笑って見せておいた。
幸せになってほしい、幸せでいてほしいなんて。
何を言っているのだろう。
「やだ、お兄様ったら――」
こんなに、自分は幸せなのに。




