望んではいけない
人が消える。
彼女の中から、ヒトとしての気配が消える。
「ご機嫌はいかがですか、暴食の君」
厳かな声が、男の耳朶を撫でた。見た目につりあわない、低い音。男はちらりと一瞥し、すぐに視線をはずす。周囲が、周囲の有象無象が、威嚇するように身じろぐ音がした。しかし彼らはそれ以上は動かない、動くことを許されていない。女神を前に、その命にはそむけない。
久方ぶりに見たその黄金色の光は、やはり一点の曇りもない女神そのものだった。
世話をする少年少女の話を聞く限り、当代の聖女は最高の力を持つといわれているが、まさにその通りだと男は思う。彼女は女神だ。やはり、女神と呼んでしかるべき存在だ。
――だが、知っているのだろうか。
女神であればあるほどに、重くのしかかる宿命を。
「あなたの処遇を、そろそろ決めねばなりません」
淡々とした低い声で。
「この世界から、暴食の君――あなたを、消しましょう」
聖女は、男に処刑宣告をした。
ざわめきはない。
どうやら、この場で知らなかったのは男だけのようだ。
男は、ため息のような息を、ゆっくりと吐き出してから。くるり、と髪を揺らし、背を向けたままだった聖女と向かい合う。彼女の金色の目が、青い男をじっと見ていた。
■ □ ■
王さま、と呼ぶ声がする。
視線を向けた先に、やわらかい黄金色があった。肩につく程度に髪を揃えた、男の世話係の仕事をしている、侍女の娘だ。年齢はまだまだ若く、むしろ幼いといっていいかもしれない。
部屋の中には彼と彼女、二人しかいなかった。
どうやら読書中に、少し意識が飛んでいたらしい。朝の、久方ぶりの聖女の来訪。いつも目覚めのたびに繰り返してきたその出来事に、今回は少しの異変が起きたからなのだろうか。
男からすると彼らの『決意』は、あまりにも遅かったといわざるを得ない。今まで、どうしてと。何度思ったか。何度――無意識に、その決断を求め続けたか。
『今更だな』
男は、聖女にそう言った。
聖女は少し驚いたように目を見開くが、すぐに元通りになる。
『やっと準備ができたのです。これで聖都は、自由になる』
『それを、お前が望むか……聖女』
『えぇ、望みます。だってそれが、それを叶えることがわたくしの使命』
『……それでいいと、お前はいうのか。その運命を享受するのか』
えぇ、と。
ただひたすらまっすぐに、切り裂くように、射抜くように。
聖女は背筋を伸ばし、凛とした声音で。
『それが、わたくしの矜持ですわ、暴食の君』
彼女自身の声で、そういった。
ならば、何も言うことはないと。暴食王と呼ばれる男は、再び背を向ける。そして聖女は供を連れて去っていった。何事もなかったかのように、処刑の日取りも伝えないままに。
それから、何時間も時が流れて。
「……王さま、大丈夫ですか?」
彼の傍に近づきながら、声をかけてくる少女がいた。
窓の外は夕暮れ。もうじき夕食、といった頃合なのだろう。呼びに来たのかもしれない。休息も食事も何も必要としないと説明しても、彼女はそれらをとるよう彼に言った。かつて男が望み欲したがゆえに失った、一人の少女と同じように。あぁ、そういえば彼女も――。
「どうしましたか?」
そんなふうに、少し首を傾けるようにして尋ねてきていた。
さらり、と金髪が流れる。長さは――見た目のシルエットだけを見れば、少女と娘は似ても似つかない。まだあの聖女の方が、髪の長さといいよく似ているように思えたが。
されどそれ以外は、この娘の方が近い。
いつか、聖女にしたように――男はゆっくりと手を伸ばした。
ラキという名の彼女は、逃げない。
短い髪に、触れた。さらりとしている。軽い。彼女の髪は、その長さもあってもっと重たさがあったと記憶している。あぁ、だけどこの艶やかさは、聖女といい、とても似ている。
「……お前は、聖女の縁者か?」
尋ねた。
「いいえ? わたしは、この聖都から離れたところからきたので。庶民ですよ」
答えは男の想像を裏切る。
そんな質問初めてされました、と笑う娘。
男からすると、どうして二人を繋げて見ないのかが理解できないほど、聖女と少女はよく似ているのだが。身分というものは、そうもヒトの姿を隠してしまうのだろうか。
「お前は、我になぜ近づく」
「なぜ……と、言われましても、その」
「我が誰なのか、わからないほどの物知らずではないだろう」
暴食王。神々すらも喰らい、今はその力を殺されているがヒトならざるもの。この世界の多くの人々が崇め奉る女神ラウシアの、対極に立つ存在。それを、知らないとは言わせない。
男は、少女の頬に触れた。
だんだん赤く染まっていく白い肌。
あごに指をかけ、くい、と上を向かせる。視線だけではなく、表情が向かい合う。少女は頬を染めたまま、何も言えず唇を震わせていた。怯えているのとは違う。それが不思議だった。
なぜ怖がらないのか、恐れないのか。
当然のように男を慕うようなそぶりをみせたのか、今も昔も。――昔というほど、まだ時間を共にしていないと気づいたのは、彼女を解放して俯いた姿を見てからだ。
表情を隠さない髪の長さに――男は、しばし言葉を失う。
俯いた少女には見えない位置で、軽く唇を噛んだ。
望まねばいい。
何も、欲しがらなければいい。
――思い出せ。
男は自らに言い聞かせる。思い出せ。触れると頬を染める彼女を、ルシアを、どうやって自分は失っていったのかを。よく思い出せ、痛みと共に。色彩とにおいを。思い出せ。
少女は、ラキは。
ただ似ているだけにすぎないのだ。
ルシアに似ているだけだ。それだけの存在でしかない。巻き込むことはできない。似ているならなおのこと。遠ざけてしまわなければ。手を離さなければ。同じ目にあわないように。
言い聞かせ、記憶をえぐるほど心は凍りつく。
「先に。我は後から向かう」
「でも……」
「少し考えたいことがある。必ず行くから」
何度かそんな言葉をやり取りすると、向こうが先に折れた。待ってますね、と少し寂しそうに笑った少女が、扉の向こうに消えていく。それを視線で見送り、男は再び窓の外を見た。
触れてしまった。
指先が、今も温もりを求めるようにうずく。力の限り手を握り締めても、触れた感覚を忘れてくれない。今にも追いかけて抱き寄せ、あまつさえその先を。心が狂喜する声が響く。
彼女は、どういう因果なのか――暴食王を、嫌ってはいないらしい。
むしろ好いている、ような気がする。
求めれば、身体すら差し出してくるかもしれない。そんな俗物的で、嫌悪すべき心の声を必死に踏み潰していった。沸き起こるたびに叩き潰して、黙らせて、次第に静かになっていく。
もう、望んではいけないのだ。
得ようとも、思ってはならないのだ。
「……そうだろう、ルシア。我は独りでいい。もう独りでよいのだ」
誰もいない部屋で、男はつぶやく。
遠い昔、欲望と権力と憎悪と狂信によって血に塗れた――最愛の少女への、誓いを。




