同じようで、違うようで
思考に雑音が混じる。
そう多くはないはずの記憶が、どこか混濁している。
『あの、■■■■■さま、お菓子が――』
「あの……王さま、お菓子が焼けたのでお一つどうぞ」
彼女の声に、別の声が重なった。視線を向けるとそこには、どこか彼女を思わせる笑みを浮かべた少女が立っていた。彼女が手にしている皿には、よい色に焼きあがった菓子がある。
彼は、暴食王はそれを、無言で数枚ほど受け取る。
続いて差し出された、レースのようにふちを飾られた紙の上に、それを乗せた。
「お茶のおかわりは……」
「……結構だ」
短く答えると、ミィ、と呼ばれているその少女は去った。多めに焼いたのは、他の全員で一緒に食べるためなのだろう。そこに、いつもいる黄金色の光は、なかった。
あの日、王さま――と彼を呼んだ少女。
やけに親しくなりたそうに、接近してくる変わり者。
見ていると、かつての聖女であり王女だったある少女を思い出す。彼女も、物怖じもせず彼に近づいてきていた。いや、聖女は皆そうだった。どこまでも気高く、己の宿命に殉ずることを誉れとして胸を張っていた。……そうしなければ足が、止まってしまうからなのか。
女神と同じ名を持つ少女。
数多ある聖女で、唯一よく覚えている存在だ。
名前も、声も――触れた肌も。
「ねぇねぇ、ラキは?」
「えっと……まだ、仕事中なのかも」
「手伝いに行った方がいいか?」
「お風呂でしょ? 広いけど、二人も三人もいるとジャマよ。そのぶん、他の仕事を余分にやってラキを休ませましょ。……特に兄貴、兄貴はもーっとがんばりなさいよねー」
うっせぇ、と少年が妹を睨んだ。
負けても負けても、少し手を抜いて勝たせても。飽きずに勝負を挑む少年だ。騒がしく暑苦しいのが玉に瑕といった感じだが、暴食王はそんな少年を嫌いではない。彼の妹も同じくだ。
その騒がしさは、何も考えずに耳を傾けるのにちょうどいい。
相手にするのに面倒なのは、残りの二人。一人は未だこちらを見て怯えを隠せず、もう一人は同じような類なのか口数が少なく、おそらく二人っきりでも何も言わないままだろう。
そして、できれば相手にしたくないのは――ここにいない少女らだ。
黄金色の髪を持った、侍女と聖女。
聖女は近々ここを訪れるといい、そして侍女の方は――外にいた。
窓の外、飛ぶ鳥を見ていた彼は、誰かと話をする彼女の存在を外に見つけた。薄い髪色の少年と話をする、ラキと呼ばれた少女を。あの少年は、目覚めた時に一度見た記憶がある。
あれ以来会っていないが、確か――王子だったはずだ。
尋ねてはいない。だが『いつもそうだった』からおそらく、彼は王子だろう。
暴食王の目覚めに立ち会うのは、数人の選ばれた聖職者と聖女。そして王をしばし隠さなければいけない城の主。それも王ではなく、王子の方だった。どうしてそうなのか、彼は興味を持たなかったので尋ねたことはない。国王であれ王子であれ、何もかわりはしないのだから。
二人は、ずいぶんと親しそうに話をしているようだ。
身分はだいぶ違うだろう。仮に少女が貴族令嬢だったとしたら、そもそも暴食王の世話係になどなるはずもない。であれば、あの二人の未来は、あまり明るいものではない。
それでも――と、暴食王はしばし目を閉じた。
かつて、こんな存在と添い遂げると、一緒に逃げようといった愚か者がいたことを。
彼はふっと思い出して、笑うように息を吐く。
もちろん、それは叶わない夢だった。彼は彼女の手をとらず、彼女の兄に、すべてを託して眠りに沈んだ。それから後の、彼女の短い人生に少しでも多くの光があればいいと願って。
時は流れ、流れさって。
当代の聖女、シエラリーゼという彼女は――『ラウシア』だった。
あの視線の鋭さも、人々を引き付ける力も。堂々とした立ち振る舞いもすべて。だから手を伸ばしてしまったのか、と自問する。聖女ではなく女神が、目の前に戻ってきたと思ったか。
あるはずがない。女神は死んだ。人間の輪廻の渦に身を沈め、生まれ変わり誰かの魂の底に眠りながらも役目を果たそうとするだけの、ある種の概念へと成り果てた。現にシエラリーゼは雰囲気や力こそ誰よりも『ラウシア』だったが、それ以外は何もかも違っていた。
女神ラウシアとも、あるいは――彼女とも。
「……くだらないことを」
自嘲の声が漏れた。
遠い昔の、もはや彼しか知らないだろう数多の思い出がにじむ。
敗因と失敗は、たった一つだけだった。
――我を通したこと。
それが彼から、ルシアという名の少女を奪った。世界から彼女を失わせ、運命をゆがめてしまった。ただ願ってしまっただけだ、願ったから彼女は死んだ。彼女以外にも失った。
ならば、その願いは永遠に捨てなければならない。
自分以外のすべてを、ありのまま残すため。
「……今だけだ」
何かを欲し望む夢を見るのは。
誰にも聞こえない声で、彼はつぶやく。
そして、こちらを見上げた黄金色の瞳から、逃げるように背を向けた。




