思いの名前
衝撃を受けてから、数秒。
とりあえず、ミィをまず台所の椅子に座らせた。ラヴィーナが戻るまでの間に、三人分のお茶を淹れることにする。かたかた、と手が震えてしまって、情けない有様に苦笑も出ない。
わかっていた。
ミィが、カディス様が好きなんだろうなってことは。
見ていればバカでもわかる。知らない人でも、きっとわかる。いつかきっと、彼女はその思いをまずわたし達に打ち明けてくれるだろうと思った。これは覚悟していた未来だった。
……のに、わたしは動揺している。
みっともないほど、うろたえてしまっている。
覚悟していたものは所詮『つもり』で、実際はどうにもなっていなかったらしい。普段はそれなりに落ち着いている方、と自負していたけれど……それは、ただの驕りだったようだ。
「たっだいまぁーっと……え、何この空気。重いんですけど」
そこにちょうど戻ってきたラヴィーナ。助かった。とりあえずお茶をカップに注ぎ、テーブルに並べた。上からはユイリックの声らしき絶叫が響いていて、彼がまた敗北したと伝える。
いい加減に……諦めた方がいいような気がするのは、わたしだけじゃないはずだ。
巻き込まれる王さまやカディス様も、いい迷惑だろうし。
しかし、負けっぱなしが気に入らないという、ユイリックの気持ちもまた理解できてしまうから止めるに止められない。何より止めたところで何とかなるなら、止める必要もない。
そうして、再び静かになった世界。
さて、どこから詳しいことを訪ねたものだろう。
とりあえず何も知らないラヴィーナに、完結に事情を説明した。
「ミィが……カディス様が好きなんだって」
「……へぇ」
意外と普通に受け止められた。何だそんなことかぁ、と彼女は笑う。もしかして、というかやっぱりラヴィーナも気づいていたのだろう。まぁ、わたしにわかることを、わたし以上にそういうのを感じ取りやすいラヴィーナがわからないなんて、やっぱりありえないことだ。
「そっかー、ミィがねぇ……カディス様にねぇ」
ずず、とお茶を啜るラヴィーナ。
だがしばらくして、その動きが止まった。かくかく、と小刻みに震えたかと思うと。カップをそっとテーブルに戻し、ぎぎぎ、と動きが鈍った扉のように首を動かして。
「……ミィが? ミィがカディス様を? あの、カディス様?」
「そんなにたくさん『カディス様』がいたのか知らないけど、とりあえず、最近会った『カディス』ってお名前の人は、あのカディス・リーヴィリクム様しかいないと思うな」
「そっか……そっかぁ、あははは」
あはは、とひとしきり笑って。
「――ってどういうことよっ!」
がたーん、と椅子を床に転がすような勢いで立ち上がった。
その音は上に響くかと思ったが、ほぼ同時に上からも同じような音がした。続いて、何でそんな手が使えるんだよっ、というユイリックの言葉。……大変そうだ。
ともかく双子が同時に動いたおかげで音は一つになって、何事もなく世界の時間はとろとろと流れていく。ラヴィーナは椅子を直して座りなおすと、じとっとミィを見た。睨むというよりも探るような目で、普段のミィなら怯えてしまうだろうに今の彼女には通用しない。
「あのね……」
と、どこかたどたどしい、いつものミィの口調で綴られたのは。
何というか、実に甘酸っぱい話だった。
初対面の時の発言で、彼女をショックで失神させてしまったカディス様。さすがにうら若き乙女にそんな思いをさせてしまった、という自責があったのだろう。彼はそれとなくミィを気遣ってくれたそうだ。たとえば、倒れた彼女が目覚めた時、彼は真っ先に謝罪したという。
それは、とても紳士的で優しくて。
あんなに怖い思いをしたという記憶も、気にならなくなるほどで。
忘れてしまった――と、ミィは少し苦笑するように目を細めた。忘れてしまった。彼がどういう身分で、自分がどういう立場なのか。忘れてしまうくらい、心が引きずられていったと。
侍女として接する貴族は、とても恐ろしいもの。
彼らにとって侍女、召使は口で命令できる『家具』でしかないの。
ミィは前に、そういっていた。身分の差はどこまでも深く広く、乗り越えようと思ってどうにかなるものではないと。死してすら結ばれることがない、埋まる日も来ない。
たとえば――王さまのように、暴食王のように『幽閉』されていた王子だっていた。何事もなければ今頃は、王弟と呼ばれていた身分の人だ。気が触れて、郊外の屋敷に幽閉された彼は若くして死んだというけれど。実は、身分違いの恋に狂ったなんて話が、あったそうだ。
それは、よくある身分違いをテーマにした恋愛小説。
小説をそのまま現実に、そっと解き放ったかのようなお話。
違うのは相手の女性は『始末』され、王子もまた『抹殺』されたこと。要するに実力を持って引き裂かれた悲恋。そして王子は正気を失って、遠くに追いやられて死んでいった。
けれど、愛する人を消されたのなら気がおかしくなっても、仕方がない気がする。わたしにはそんな経験などないけれど、何となく、そういうこともあるのだろうと思う。
たとえ片方を――あるいは両方を殺してでも『なかったこと』にしなければならない、身分ある者と身分なき者のつながり。王族には劣るとはいえ、カディス様も貴族。次男とはいえ養殖につき、縁談の一つ二つ、いやいや三つ四つ、いろいろ話があるような身の上の方だ。
対するミィは、ただの侍女でしかなくて。
そこらへんにいくらでもいる、百人ぐらいなら替えがきく召使。
それでも彼女は落ちてしまった。
恋に。
「カディス様ね、優しいんだ……」
えへへ、とうれしそうに笑うミィは、幸せそうだった。
逢瀬といえるほどの交流は、未だ存在していないのは明らかだった。二人っきり、というのもないに等しいはず。出会ってまだ日も経っていない、それでも――落ちることができる。
ラヴィーナは心配する表情と、喜びと、期待が混じった表情で、ひたすらミィの惚気ともいえる話を聞いていた。わたしも途中までは、ちゃんと聞いていたはず、だけど。
しばらくすると、黒い感情がなぜかこみ上げてくる。
黒いというよりも、自問だろうか。
ずるいな、という声が聞こえる。同時に、どうしてわたしは、という声も。
ほんの少しでもまだ望みがないこともないミィが羨ましいなと、わたしの中にいる誰かが泣きながら笑っていた。それを、わたしはそっと否定する。
だって、そんなのまるでわたしが、王さまを好きみたいじゃないか。
わたしを今日も生かす、あの衝動が『恋情』みたいじゃないか。
好きとか、そういう感情じゃない。
これはわたし自身。
人間には三つの欲があるというけど、わたしには四つそれがあって。ずっと抱えていたあの衝動は、他の人にはない四つ目の欲。だってわたしは、ただ『思っていた』だけなのだから。
逢いたい人に、逢いたい。
好きなら名前ぐらい知っているし、それがどこの誰かも知っていてほしい。それがわからなかったということは、この衝動は恋愛にまつわる感情を持っていないという証だと思う。
だけど、羨ましいなと……やっぱり、思う。
衝動がそうじゃないからこそ、わたしは思ってしまう。
だけど、同時に冷静にこう結論を添ええるわけだ。いつものわたしが、いっそすがすがしいほど現実をよく見て、ばっさりと切り捨てるように結論を出す。
――あの衝動が恋でなくてよかった。
わたしは定められた別離に耐えられるほど、決して強い人間ではないのだから。




