小さな蕾を抱き締める
「っだー!」
ユイリックの絶叫が、今日も塔の中に響いている。
声だけでわかった。あぁ……また負けたんだなぁって。隣にいるラヴィーナが、肩を揺らして兄の敗北を哂っていた。ざまぁないわね兄貴、という声が聞こえるような気がする。
今、ユイリックはチェスの真っ最中だ。
暇つぶしの道具として、数日前に持ち込まれたもの。
相手はいうまでもなく王さま。召使の中じゃかなりの腕を持つ彼でも、王さまには手も足も出ないようだ。勝てないことはないのだけれど、圧倒的なほど負けまくっている。ユイリックが言うには感情が読めなくて、どうにも調子が狂ってしまうのだとか。
確かに、無表情で淡々と駒を進められたら、調子の一つや二つは狂うかもしれない。
ユイリックのチェス仲間が、わりと賑やかに遊ぶ方なのもある。
まぁ、でもやっぱり最終的には、実力の差だ。
わたしはチェスはほとんど触らないので、ルールもよくわからない。交互に駒を動かして勝敗を決する、という程度の知識。確か、キングと名づけられた駒を取ればいいのか。その程度の認識しかない素人以下という感じなのだけれど、それでも王さまが強いのはよくわかった。
そして。
「ユイくん、またカディス様にわがままいうのかな」
と、ミィが心配する事態が発生する、かもしれない。というのも、王さまといい勝負をするのがカディス様で、ユイリックは彼にいろいろ教わっているわけなのだ。さすがに、勝ちたい相手に師事するのは、プライドとかが許さなかったのだろうと思う。
妹曰く、ちっぽけな意地ね、とのことだけど。
そんな感じで、塔での生活は順調に、穏やかであり騒がしく流れていた。
もう数日、すでに数日。
正確にはもうすぐ一週間、だろうか。
予定だとここでの生活のうちの、半分が終わってしまったことになる。
聖女は未だ来ないが、いっそ二度と来なければいいと思うのは、わたしが抱える衝動が叫ぶ本音の一つ。だって彼女が来なければ、わたしはずっと、王さまの傍にいることができる。
それでどうする、と。
たったその程度でどうにかなる、そんな温い問題でもないでしょう、と。
あまりにも愚かでばかばかしい本音をそっと飲み込み、わたしは今日も五人分――いや、六人分の昼食を作っていた。わたしと、双子とミィと、それから王さまにカディス様。
今日は、カディス様が様子を見るついでに、食事を取りに来る日だ。
朝、塔の出入り口を守る騎士様が、そう言っていたから。
なのでわたし達三人で、あーでもないこーでもない、と差し入れてもらったレシピ本などをひっくり返しつつ奮闘中だった。材料的に作れない料理はないけど、ないんだけど。
「カディス様のお口に合うといいなぁ……」
ミィのつぶやきこそがすべて。
わたし達三人とも、そしてもちろんユイリックも。本職の料理人ではないし、そっちの道を志したこともない。必要最低限に料理を作れる程度だから、はっきり言って自信が皆無。
どうしてこうなったのか。
あの騎士様に、無理ですダメですって、言えばよかった気がする。後悔しても、あまりにも遅すぎることだし……たぶん、何度同じ場面に立たされても、わたしは拒否できないだろう。
身分の差は怖い。
しかし、了承してしまったものは仕方がないので、できる限りがんばらなきゃ。
「えーっと……とりあえず、昼だからあっさりの方がいいわよね? こんな丸々した肉の塊とか焼かなくてもいいわよね? オーブンとか扱うのめんどくさいし、極力回避したいわー」
「ラヴィちゃん、それ……女神祭用のお料理だよ」
「あれ? ……あ、ほんとだ。っていうか、女神祭ってこんなの食べるのね」
食べたことないわー、と本を見ながらラヴィーナがつぶやく。女神祭というのは、年に一度あるお祭りというか、祝いの日。文字通り女神ラウシアに関わるもので、彼女がこの世界に降り立った日なのだという。今からだと半年以上先になるけれど、あの日は町の中がどこもかしこも華やか。どの家もごちそうをテーブルに並べて、女神ラウシアに感謝を捧げ夜をすごす。
その『ごちそう』の中で、よくあるのが鶏肉を丸々オーブンで焼くものだった。この日のためにお金をためている、なんて話もよくあること。わたし自身も、過去に一度だけ運良く手ごろな値段で手に入ったという鶏肉を、食べたことがあった。あの味は忘れられない……。
そんな時でもないと手に入らない肉は、ここではわりとすぐ手に入る。
なので、あの料理などを作れないことはないけど……お昼ご飯ではない。断じて。
「もっとシンプルでいいと思うけどな……これとか、どうかな」
珍しく自分の意思を示すミィは、もっと一般的な家庭料理のレシピ本を開いた。そこにはわたしが故郷でよく食べていた、実にありふれた庶民的料理が並ぶ。確かに、これならまず失敗しないだろう。材料だってすぐに手に入るし、よそ見して焦がしでもしない限り失敗しない。
「じゃあ、これにしましょ。あたし、下から材料取ってくるわ」
「いってらっしゃーい」
籠を抱え、ラヴィーナが勢いよく走っていく。
たんたんたん、と階段を駆け下りていく弾むような足音が聞こえた。
さて、残ったわたしとミィは、まず散らかった本を丁寧に片付ける作業をする。本を置いた机も調理の時に使うので、このままだと何もできない。それに汚すと、面倒そうだし。
「カディス様、喜んでくれるといいな……」
誰に言うでもないミィのつぶやきは、だいぶ聞き慣れてきた。ちらりと横を見れば、うっとりとした表情で、なぜか扉の方を見るミィの姿。もちろんそこには誰もいない。
でもたぶん、ミィには見えているのだと思う……。
そこに立っている、彼の姿が。
――彼女の様子がおかしいと、最初に気づいたのは王さまだった。
ミィが朝食を届けて、食器をわたしが片付けにいった時。綺麗に食べてもらったことに安堵しつつ、部屋を出て行こうとしたところ。わたしの背に、ぽいっと言葉は投げられた。
『あの娘に、気をつけてやるといい』
最初は誰のことかわからなかったけど、意識して二人を見ればすぐにわかった。ラヴィーナはいつも通りで、ミィはどこかぼんやりしていたから。まるで、寝起きみたいな感じで。
体調が悪いのかな、と最初は思った。
頬も赤いし、熱が出ているように見えたから。
でも、すぐにそれは勘違いで、原因が彼にあると気づく。
彼――カディス様が来るたび、ミィの様子はおかしくなった。ただでさえぼーっとしているのがさらにひどくなって、頬もほんのり赤いを通り越して真っ赤に近い。目は潤んで実にかわいらしいというか、そんな目を向けられたら普通なら勘違いしてしまいそうな状態だ。
知らないのはミィ本人と、カディス様ぐらいだろう。
誰が見ても、そこに含まれる感情が手に取るようにわかるというのに、カディス様はいっそ不気味なくらい異変がなかった。気づいていて、あえて受け流しているのかもと思うほど。
わたし達が気づいてからすでに数日。
ミィは変わらず潤んだ眼で彼を見つめていて、彼はまったく気づいたそぶりを見せない。
「……あの、ね。ラキちゃん」
と、どうしたものかな、と思案するわたしに、ミィが話しかけてきた。ほぅ、という感じの息を吐き出すような、ふわふわしたおぼつかない声だった。ゆっくり振り返ったミィが、恥らうように目を細めて頬に手を当て、ほにゃり、といった感じにやわらかく微笑む。
「あのね、好きに……なっちゃった、かも」
カディス様のこと、と。
わかりきっていた言葉を前にして、わたしはそれでも動けなくなってしまった。




