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悪役令嬢は、血が見たいだけ

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/07/10

百万金貨。


 その数字が王宮大広間に響いた瞬間、貴族たちは一斉にヴァルチェリカ・ノアゼルムを見た。


 白い大理石の床。金の燭台。天井から垂れる水晶灯。今夜は本来、聖女リメリアの快復を祝う夜会だった。


 けれど今、広間の中央に立たされているのは、聖女ではない。


 悪役令嬢と呼ばれた女だった。


「ヴァルチェリカ・ノアゼルム公爵令嬢」


 王太子アーヴェントは、壇上から厳かに名を呼んだ。


 彼の隣には、薄桃色のドレスをまとった聖女リメリアがいる。彼女は胸元で指を組み、今にも泣き崩れそうな顔をしていた。


 それを見て、広間のあちこちから同情のため息が漏れる。


 ヴァルチェリカは、黒いドレスの裾を整えただけだった。


「そなたは聖女リメリアに毒を盛り、救済基金を横領し、さらに罪を逃れるため侍女に偽証を命じた。その悪辣さ、もはや王家の婚約者として看過できぬ」


 アーヴェントの声はよく通った。


 学院時代からそうだった。


 彼はいつも、正しいことを言っているように聞こえる声をしていた。


「よって、余はそなたとの婚約を破棄する」


 どよめきは起こらなかった。


 誰もが予想していたからだ。


 ここしばらく、ヴァルチェリカの評判は地に落ちていた。聖女の茶に毒を入れた。孤児院への寄付金を奪った。王太子への執着からリメリアを階段から突き落とした。


 噂は毎日のように増えた。


 否定しても、否定したことがまた噂になった。


 悪役令嬢は往生際が悪い、と。


「さらに、横領した救済基金と慰謝料を合わせ、百万金貨を王家へ返納せよ」


 アーヴェントは一枚の紙を掲げた。


「そして、そなたの罪を自ら記した反省文を王都広場に掲示する。貴族として最後の責務だ」


 何人かが小さく笑った。


 百万金貨。


 反省文。


 婚約破棄。


 修道院送り。


 大人たちが立ち並ぶ王宮で下されるには、どこか幼稚な罰だった。けれど、その幼稚さがかえって残酷だった。


 ヴァルチェリカを人として裁くのではない。


 泣かせ、恥をかかせ、二度と顔を上げられないようにするための罰。


「何か申し開きはあるか」


 アーヴェントが言った。


 聖女リメリアは小さく首を振る。


「殿下、もうよろしいのです。わたしはヴァルチェリカ様を恨んでなどおりません。ただ、もう誰も傷ついてほしくないだけで……」


 その言葉に、広間の空気が柔らかくなった。


 可哀想な聖女。


 慈悲深い聖女。


 そして、その聖女に許されてもなお罪深い悪役令嬢。


 ヴァルチェリカは、ゆっくりと顔を上げた。


 黒い睫毛の下で、青灰色の瞳が笑っていた。


「百万金貨で足りますの?」


 広間が静まり返った。


 アーヴェントの眉が動く。


「何?」


「ですから、百万金貨で足りますの、とお尋ねしました」


 ヴァルチェリカは、穏やかに言った。


「救済基金から消えた金額は、正確には百二十七万四千三百金貨。うち百万金貨は聖女庁へ、二十万金貨は王太子殿下の私設騎士団へ、残りはリメリア様の装飾品と、証人買収に使われております」


 誰かが息を呑んだ。


 アーヴェントの顔から、ほんの一瞬だけ色が消えた。


「黙れ。まだ虚言を重ねるか」


「虚言かどうか、血を見ればわかりますわ」


 その言葉に、リメリアがびくりと肩を震わせた。


 ヴァルチェリカは壇上を見上げる。


「王家には、血印裁定箱がございますね。王族の血で開き、王家名義の契約と支出を真実のまま映す古い箱が」


 老いた宰相が目を伏せた。


 血印裁定箱。


 王家の裁定が私怨や謀略に傾いたとき、王族自身の血をもって潔白を示すための古き遺物。


 そしてノアゼルム公爵家は、代々その裁定に立ち会う証人家だった。


 アーヴェントは唇を引き結ぶ。


「そのような古い儀式、今さら持ち出して何になる」


「殿下が正しければ、わたくしはこの場で反逆者です。処刑でも修道院でも、お好きになさればよろしい。けれど、わたくしが正しければ」


 ヴァルチェリカは微笑んだ。


「今夜、反省文を書くのは殿下です」


 ざわめきが広がった。


 王太子は怒りで頬を紅潮させた。


「そなた、立場をわきまえよ」


「わきまえております。だからこそ、今まで黙っておりましたの」


 ヴァルチェリカの声は震えていなかった。


「殿下がわたくしを断罪する日を、お待ちしておりました」


 アーヴェントは一歩下がろうとした。


 だが、その身体は動かなかった。


 足元に展開された裁定魔法陣が、彼自身を壇上へ縫いつけている。


 この場を公開断罪の場に変えたのはアーヴェントだった。王家の名で、逃げも隠れもできぬ場にしたのも彼だった。


 王族が王法の名を掲げて裁きを始めた以上、裁定が終わるまで、その場を降りることは許されない。


「箱を」


 ヴァルチェリカが言うと、広間の扉が開いた。


 ノアゼルム公爵家の家令が、黒檀の箱を抱えて入ってくる。王家の紋章が封じられた、古い裁定箱だった。


 宰相が震える声で言う。


「殿下。ここまで来ては、拒む方が疑義を招きます」


「宰相、貴様まで」


「王家の潔白を示すだけでございます」


 アーヴェントの喉が鳴った。


 その音は、いつもの美しい声とは違っていた。


 濡れた革袋を押し潰したような、低く、醜い音だった。


 ヴァルチェリカは、それを聞いて少しだけ目を細めた。


「殿下」


 彼女は甘い声で呼んだ。


「わたくし、ずっとチュウしたかったのです」


 広間が凍った。


 リメリアが、嘲るように唇を歪める。


「まあ……この期に及んで、まだ殿下に口づけを?」


 アーヴェントの顔にも嫌悪が浮かんだ。


「気色の悪いことを言うな」


「口づけではありませんわ」


 ヴァルチェリカは、黒い手袋をはめた指をそっと唇に添えた。


「誅でございます」


 その一言で、誰も笑わなくなった。


 家令が銀針を差し出す。


 アーヴェントは抵抗しようとしたが、魔法陣は彼を許さない。宰相が目を閉じ、近衛騎士が王太子の手を取る。


 銀針が、指先を浅く刺した。


 血が一滴、黒檀の箱へ落ちる。


 箱の紋章が赤く光った。


 蓋が、音もなく開く。


 中から現れたのは、何枚もの羊皮紙だった。


 宰相が一枚目を読み上げる。


 王太子アーヴェントの署名。


 救済基金より百万金貨を聖女庁特別費へ移す命令。


 二枚目。


 王太子アーヴェントの署名。


 ノアゼルム公爵令嬢名義で、毒薬商から薬品を購入した偽造契約。


 三枚目。


 聖女リメリアの筆跡。


 侍女ミアを買収し、毒杯をヴァルチェリカのものと証言させる手順。


 四枚目。


 リメリアの私的な宝飾品の購入記録。


 支払元は、孤児救済基金。


 広間の空気が、冷たく割れた。


「違う」


 リメリアが呟いた。


「違います。これは殿下が、殿下がわたしに……」


「リメリア?」


 アーヴェントが振り返る。


 その首の動きは、不自然だった。


 身体はヴァルチェリカから逃げようとしているのに、顔だけがこちらへ戻される。裁定魔法陣が、罪を問われる者の視線を告発者へ向けさせているのだ。


 先ほどまで令嬢を見下ろしていた王太子の顔が、今は助けを乞うように歪んでいる。


 ヴァルチェリカは、静かに見つめ返した。


「ようやく、こちらをご覧になりましたわね」


 アーヴェントは口を開く。


「私は、知らなかった。リメリアが勝手に」


「殿下」


 ヴァルチェリカは家令から白い紙を受け取った。


「反省文のお時間です」


 その紙を見た瞬間、宰相が息を詰めた。


 真実誓約紙。


 嘘を書けば黒く腐り、真実を書けば赤く残る。古い裁定に使われる、貴族にとって最も忌むべき紙だ。


「お書きくださいませ。はやく」


「ふざけるな!」


 アーヴェントの声が裏返った。


「私は王太子だぞ! こんな茶番で、私を裁けると思うな!」


「王太子でいらっしゃるから、裁かれるのです」


 ヴァルチェリカは紙と羽ペンを差し出す。


「平民が盗めば罪。貴族が盗めば誤解。王族が盗めば政務。そんなことを、いつまで続けるおつもりでしたの」


 アーヴェントは羽ペンを握った。


 震える手で、「私は潔白である」と書こうとする。


 文字は紙の上で黒く膨れ、腐った虫のように潰れた。


 広間から悲鳴が上がる。


「違う、違う、違う」


 アーヴェントは喉を鳴らした。


 ごぼり、と濁った音がした。


「無理だ。こんなもの、書けるはずがない。私は悪くない。私は、王家のために」


「その声」


 ヴァルチェリカは、懐かしむように言った。


「少し、わたくしのいた場所に近づきましたわ」


 アーヴェントが顔を上げる。


 彼女は続けた。


「わたくしが毒害犯にされた夜、地下の隔離室は寒うございました。けれど身体だけは熱かった。弁明しても、誰も聞きませんでした。リメリア様は祈ってくださったそうですね。殿下は舞踏会で、わたくしの代わりに彼女と踊っていらした」


 リメリアが青ざめる。


 ヴァルチェリカは彼女を見た。


「あなた方は、ずっと平熱でしたわ」


 声は静かだった。


「わたくしだけが、地獄で熱を出しておりましたの」


 その沈黙は、どんな怒声よりも重かった。


 貴族たちは目を伏せ始めていた。


 彼らもまた、噂を楽しんだ。悪役令嬢という言葉を便利に使った。真偽など確かめなかった。美しい聖女と正しい王太子の物語に、悪女が必要だったからだ。


 ヴァルチェリカは、そこで初めて広間全体を見渡した。


「皆様にも、あとで証言文を書いていただきますわ。どの噂を、どなたから聞き、どなたへ流したのか。心配なさらないで。死刑にはいたしません」


 誰かが小さく泣いた。


 アーヴェントが叫ぶ。


「やめろ! ヴァルチェリカ、私は、私はお前を愛していた!」


 広間の視線が二人に集まる。


 ヴァルチェリカは、ゆっくりと壇上へ上がった。


 近衛騎士が止めようとしたが、宰相が首を振る。


 彼女はアーヴェントの前に立つ。


 かつては、王太子と婚約者として並んだ距離だった。


 彼は汗を浮かべ、かすかに笑った。


「そうだろう。お前はまだ、私に未練がある。だからここまでした。私を取り戻したくて」


「ええ」


 ヴァルチェリカは頷いた。


 アーヴェントの顔に、ほんの少し希望が戻る。


「わたくし、あなたに触れたかった」


 彼女は手を伸ばした。


 頬には触れない。


 指先からまだ血を滲ませている、彼の右手を取った。


「この血が見たかったのです」


 アーヴェントの笑みが消える。


「あなたが人を傷つけても流さなかった血。わたくしが泣いても温まらなかった血。罪を暴かれるまで、痛みを知らなかった血」


 彼女はその手を離した。


「ようやく見られました」


 リメリアがその場に崩れ落ちる。


「わたしは悪くありません! 殿下が、殿下が望まれたから! わたしは聖女で、皆がわたしを必要としていて、だから少しだけお金を使っても、それは救済のためで」


「では、あなたもお書きなさい」


 ヴァルチェリカは二枚目の紙を出した。


 リメリアは泣きながら羽ペンを握る。


 自分は脅されていた、と書こうとした。


 文字は黒く腐った。


 次に、殿下を愛していただけ、と書いた。


 それも腐った。


 最後に、震える手が勝手に真実を書いた。


 救済基金が欲しかった。


 聖女として飾られるために、奇跡も涙も必要だった。


 王太子妃になるには、ヴァルチェリカが邪魔だった。


 だから、悪役令嬢にした。


 赤い文字が紙に浮かび上がるたび、リメリアの喉から潰れた声が漏れた。


 綺麗な泣き声ではなかった。


 池の底から泡が上がるような、醜い音だった。


 ヴァルチェリカは、それを最後まで聞いた。


「殺してくれ」


 アーヴェントが言った。


 もう王太子の声ではなかった。


「いっそ殺せ。こんな恥を晒すくらいなら、死刑にしろ」


「嫌ですわ」


 ヴァルチェリカは即答した。


「死刑なんて、一度で終わってしまうでしょう」


 アーヴェントが凍りつく。


 彼女は宰相に向き直った。


「王太子アーヴェント殿下の廃位奏上。聖女リメリアの聖女資格剥奪。救済基金の返還。両名の罪状および反省文の王都掲示。関与貴族の再審問。これでよろしいですわね」


 宰相は深く頭を下げた。


「王法に照らし、廃位を奏上するに足る事案でございます」


「ヴァルチェリカ!」


 アーヴェントが叫ぶ。


 彼の首はまだ、彼女の方を向かされている。


 身体は逃げたがっている。足も、肩も、背中も。けれど顔だけが、どうしてもこちらを向く。


 ヴァルチェリカは、そんな彼を見て、少しだけ笑った。


 それは勝利の笑みではなかった。


 幸福の笑みでもない。


 長い高熱のあと、ようやく自分の手足がまだ動くことを確かめた人間の、静かな笑みだった。


「殿下」


 彼女は最後に言った。


「わたくし、あなたを愛していたこともございました」


 アーヴェントの唇が震える。


「でしたら」


「だから、苦しかったのです」


 広間が静まる。


「愛していなければ、地獄ではありませんでした。ただの不運で済ませられた。けれど、あなたはわたくしの手を取った人でした。未来を約束した人でした。その人が、わたくしを悪女にした」


 彼女は黒いドレスの裾を翻す。


「だから、あなたにも来ていただきたかったのです。わたくしのいた場所へ」


 アーヴェントは何かを言おうとした。


 だが、もう言葉にならなかった。


 喉が鳴るだけだった。


 ヴァルチェリカは壇上を降りる。


 大理石の床に、一滴だけ王太子の血が落ちていた。


 彼女はそれを見下ろした。


「血が見たいだけでしたのに」


 誰にも聞こえないほど小さな声だった。


「あなた、血の気まで失くしてしまわれたのね」


 その夜、王宮の大広間で死刑は行われなかった。


 誰の首も落ちなかった。


 ただ、翌朝、王都広場には二枚の反省文が掲げられた。


 一枚は、廃位の奏上を受けた王太子アーヴェントのもの。


 一枚は、聖女資格を剥奪されたリメリアのもの。


 赤い文字でびっしりと埋められたそれを、人々は朝から晩まで眺めた。


 泣く者もいた。


 罵る者もいた。


 笑う者もいた。


 けれど、誰もが最後には黙った。


 そこに書かれていたのは、悪女の罪ではなかった。


 悪女を必要とした者たちの罪だった。


 ヴァルチェリカ・ノアゼルムは、その日を境に悪役令嬢とは呼ばれなくなった。


 代わりに、別の名で呼ばれるようになった。


 黒い裁定者。


 血印の令嬢。


 王太子を誅した女。


 どれも、彼女は否定しなかった。


 ただ一度だけ、侍女が尋ねたことがある。


「お嬢様は、本当に血が見たかったのですか」


 ヴァルチェリカは窓の外を見ていた。


 庭には、朝露に濡れた白薔薇が咲いている。


 彼女は少し考えてから、答えた。


「いいえ」


 侍女が顔を上げる。


「本当は、痛いと言ってほしかったの」


 ヴァルチェリカは、静かに笑った。


「わたくしだけが痛い世界は、もう嫌でしたから」

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、とある曲のかわいらしい響きと、そこに混じる物騒な言葉の落差から、「チュウ」と「誅」を重ねた悪役令嬢ものにしてみました。


恋の未練に見せかけて、実際に欲しかったのは口づけではなく裁き。


血が見たい、という言葉も、殺したいというより「あなたにも痛みを知ってほしい」という方向に寄せています。


ヴァルチェリカは正義の人というより、自分だけが地獄に落とされたことを許せなかった人です。だからこそ、王太子たちを殺して終わりにはせず、生きたまま同じ場所に立たせました。


罰金、反省文、公開断罪。どこか子供じみた罰の言葉が、貴族社会ではそのまま社会的な処刑になる。そのあたりの嫌な怖さを感じていただけたなら嬉しいです。


お読みくださり、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
面白かったです。  アーヴェントの唇が震える。 「でしたら」 この「でしたら」は、アーヴェントのセリフでしょうか? だとしたら口調がおかしくなってるなと。
歌詞利用、歌詞二次創作、のようにタグか冒頭に記載してもらえると踏まないので助かります。
良い仕組みを思い付きましたね。 これがあれば人を貶める事が難しくなるし冤罪による断罪もなくなってくるでしょうね。 ただ、一部でこの仕組みがあるのに忘れてしまい王子みたいにお馬鹿行動をとってしまう者がい…
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