悪役令嬢は、血が見たいだけ
百万金貨。
その数字が王宮大広間に響いた瞬間、貴族たちは一斉にヴァルチェリカ・ノアゼルムを見た。
白い大理石の床。金の燭台。天井から垂れる水晶灯。今夜は本来、聖女リメリアの快復を祝う夜会だった。
けれど今、広間の中央に立たされているのは、聖女ではない。
悪役令嬢と呼ばれた女だった。
「ヴァルチェリカ・ノアゼルム公爵令嬢」
王太子アーヴェントは、壇上から厳かに名を呼んだ。
彼の隣には、薄桃色のドレスをまとった聖女リメリアがいる。彼女は胸元で指を組み、今にも泣き崩れそうな顔をしていた。
それを見て、広間のあちこちから同情のため息が漏れる。
ヴァルチェリカは、黒いドレスの裾を整えただけだった。
「そなたは聖女リメリアに毒を盛り、救済基金を横領し、さらに罪を逃れるため侍女に偽証を命じた。その悪辣さ、もはや王家の婚約者として看過できぬ」
アーヴェントの声はよく通った。
学院時代からそうだった。
彼はいつも、正しいことを言っているように聞こえる声をしていた。
「よって、余はそなたとの婚約を破棄する」
どよめきは起こらなかった。
誰もが予想していたからだ。
ここしばらく、ヴァルチェリカの評判は地に落ちていた。聖女の茶に毒を入れた。孤児院への寄付金を奪った。王太子への執着からリメリアを階段から突き落とした。
噂は毎日のように増えた。
否定しても、否定したことがまた噂になった。
悪役令嬢は往生際が悪い、と。
「さらに、横領した救済基金と慰謝料を合わせ、百万金貨を王家へ返納せよ」
アーヴェントは一枚の紙を掲げた。
「そして、そなたの罪を自ら記した反省文を王都広場に掲示する。貴族として最後の責務だ」
何人かが小さく笑った。
百万金貨。
反省文。
婚約破棄。
修道院送り。
大人たちが立ち並ぶ王宮で下されるには、どこか幼稚な罰だった。けれど、その幼稚さがかえって残酷だった。
ヴァルチェリカを人として裁くのではない。
泣かせ、恥をかかせ、二度と顔を上げられないようにするための罰。
「何か申し開きはあるか」
アーヴェントが言った。
聖女リメリアは小さく首を振る。
「殿下、もうよろしいのです。わたしはヴァルチェリカ様を恨んでなどおりません。ただ、もう誰も傷ついてほしくないだけで……」
その言葉に、広間の空気が柔らかくなった。
可哀想な聖女。
慈悲深い聖女。
そして、その聖女に許されてもなお罪深い悪役令嬢。
ヴァルチェリカは、ゆっくりと顔を上げた。
黒い睫毛の下で、青灰色の瞳が笑っていた。
「百万金貨で足りますの?」
広間が静まり返った。
アーヴェントの眉が動く。
「何?」
「ですから、百万金貨で足りますの、とお尋ねしました」
ヴァルチェリカは、穏やかに言った。
「救済基金から消えた金額は、正確には百二十七万四千三百金貨。うち百万金貨は聖女庁へ、二十万金貨は王太子殿下の私設騎士団へ、残りはリメリア様の装飾品と、証人買収に使われております」
誰かが息を呑んだ。
アーヴェントの顔から、ほんの一瞬だけ色が消えた。
「黙れ。まだ虚言を重ねるか」
「虚言かどうか、血を見ればわかりますわ」
その言葉に、リメリアがびくりと肩を震わせた。
ヴァルチェリカは壇上を見上げる。
「王家には、血印裁定箱がございますね。王族の血で開き、王家名義の契約と支出を真実のまま映す古い箱が」
老いた宰相が目を伏せた。
血印裁定箱。
王家の裁定が私怨や謀略に傾いたとき、王族自身の血をもって潔白を示すための古き遺物。
そしてノアゼルム公爵家は、代々その裁定に立ち会う証人家だった。
アーヴェントは唇を引き結ぶ。
「そのような古い儀式、今さら持ち出して何になる」
「殿下が正しければ、わたくしはこの場で反逆者です。処刑でも修道院でも、お好きになさればよろしい。けれど、わたくしが正しければ」
ヴァルチェリカは微笑んだ。
「今夜、反省文を書くのは殿下です」
ざわめきが広がった。
王太子は怒りで頬を紅潮させた。
「そなた、立場をわきまえよ」
「わきまえております。だからこそ、今まで黙っておりましたの」
ヴァルチェリカの声は震えていなかった。
「殿下がわたくしを断罪する日を、お待ちしておりました」
アーヴェントは一歩下がろうとした。
だが、その身体は動かなかった。
足元に展開された裁定魔法陣が、彼自身を壇上へ縫いつけている。
この場を公開断罪の場に変えたのはアーヴェントだった。王家の名で、逃げも隠れもできぬ場にしたのも彼だった。
王族が王法の名を掲げて裁きを始めた以上、裁定が終わるまで、その場を降りることは許されない。
「箱を」
ヴァルチェリカが言うと、広間の扉が開いた。
ノアゼルム公爵家の家令が、黒檀の箱を抱えて入ってくる。王家の紋章が封じられた、古い裁定箱だった。
宰相が震える声で言う。
「殿下。ここまで来ては、拒む方が疑義を招きます」
「宰相、貴様まで」
「王家の潔白を示すだけでございます」
アーヴェントの喉が鳴った。
その音は、いつもの美しい声とは違っていた。
濡れた革袋を押し潰したような、低く、醜い音だった。
ヴァルチェリカは、それを聞いて少しだけ目を細めた。
「殿下」
彼女は甘い声で呼んだ。
「わたくし、ずっとチュウしたかったのです」
広間が凍った。
リメリアが、嘲るように唇を歪める。
「まあ……この期に及んで、まだ殿下に口づけを?」
アーヴェントの顔にも嫌悪が浮かんだ。
「気色の悪いことを言うな」
「口づけではありませんわ」
ヴァルチェリカは、黒い手袋をはめた指をそっと唇に添えた。
「誅でございます」
その一言で、誰も笑わなくなった。
家令が銀針を差し出す。
アーヴェントは抵抗しようとしたが、魔法陣は彼を許さない。宰相が目を閉じ、近衛騎士が王太子の手を取る。
銀針が、指先を浅く刺した。
血が一滴、黒檀の箱へ落ちる。
箱の紋章が赤く光った。
蓋が、音もなく開く。
中から現れたのは、何枚もの羊皮紙だった。
宰相が一枚目を読み上げる。
王太子アーヴェントの署名。
救済基金より百万金貨を聖女庁特別費へ移す命令。
二枚目。
王太子アーヴェントの署名。
ノアゼルム公爵令嬢名義で、毒薬商から薬品を購入した偽造契約。
三枚目。
聖女リメリアの筆跡。
侍女ミアを買収し、毒杯をヴァルチェリカのものと証言させる手順。
四枚目。
リメリアの私的な宝飾品の購入記録。
支払元は、孤児救済基金。
広間の空気が、冷たく割れた。
「違う」
リメリアが呟いた。
「違います。これは殿下が、殿下がわたしに……」
「リメリア?」
アーヴェントが振り返る。
その首の動きは、不自然だった。
身体はヴァルチェリカから逃げようとしているのに、顔だけがこちらへ戻される。裁定魔法陣が、罪を問われる者の視線を告発者へ向けさせているのだ。
先ほどまで令嬢を見下ろしていた王太子の顔が、今は助けを乞うように歪んでいる。
ヴァルチェリカは、静かに見つめ返した。
「ようやく、こちらをご覧になりましたわね」
アーヴェントは口を開く。
「私は、知らなかった。リメリアが勝手に」
「殿下」
ヴァルチェリカは家令から白い紙を受け取った。
「反省文のお時間です」
その紙を見た瞬間、宰相が息を詰めた。
真実誓約紙。
嘘を書けば黒く腐り、真実を書けば赤く残る。古い裁定に使われる、貴族にとって最も忌むべき紙だ。
「お書きくださいませ。はやく」
「ふざけるな!」
アーヴェントの声が裏返った。
「私は王太子だぞ! こんな茶番で、私を裁けると思うな!」
「王太子でいらっしゃるから、裁かれるのです」
ヴァルチェリカは紙と羽ペンを差し出す。
「平民が盗めば罪。貴族が盗めば誤解。王族が盗めば政務。そんなことを、いつまで続けるおつもりでしたの」
アーヴェントは羽ペンを握った。
震える手で、「私は潔白である」と書こうとする。
文字は紙の上で黒く膨れ、腐った虫のように潰れた。
広間から悲鳴が上がる。
「違う、違う、違う」
アーヴェントは喉を鳴らした。
ごぼり、と濁った音がした。
「無理だ。こんなもの、書けるはずがない。私は悪くない。私は、王家のために」
「その声」
ヴァルチェリカは、懐かしむように言った。
「少し、わたくしのいた場所に近づきましたわ」
アーヴェントが顔を上げる。
彼女は続けた。
「わたくしが毒害犯にされた夜、地下の隔離室は寒うございました。けれど身体だけは熱かった。弁明しても、誰も聞きませんでした。リメリア様は祈ってくださったそうですね。殿下は舞踏会で、わたくしの代わりに彼女と踊っていらした」
リメリアが青ざめる。
ヴァルチェリカは彼女を見た。
「あなた方は、ずっと平熱でしたわ」
声は静かだった。
「わたくしだけが、地獄で熱を出しておりましたの」
その沈黙は、どんな怒声よりも重かった。
貴族たちは目を伏せ始めていた。
彼らもまた、噂を楽しんだ。悪役令嬢という言葉を便利に使った。真偽など確かめなかった。美しい聖女と正しい王太子の物語に、悪女が必要だったからだ。
ヴァルチェリカは、そこで初めて広間全体を見渡した。
「皆様にも、あとで証言文を書いていただきますわ。どの噂を、どなたから聞き、どなたへ流したのか。心配なさらないで。死刑にはいたしません」
誰かが小さく泣いた。
アーヴェントが叫ぶ。
「やめろ! ヴァルチェリカ、私は、私はお前を愛していた!」
広間の視線が二人に集まる。
ヴァルチェリカは、ゆっくりと壇上へ上がった。
近衛騎士が止めようとしたが、宰相が首を振る。
彼女はアーヴェントの前に立つ。
かつては、王太子と婚約者として並んだ距離だった。
彼は汗を浮かべ、かすかに笑った。
「そうだろう。お前はまだ、私に未練がある。だからここまでした。私を取り戻したくて」
「ええ」
ヴァルチェリカは頷いた。
アーヴェントの顔に、ほんの少し希望が戻る。
「わたくし、あなたに触れたかった」
彼女は手を伸ばした。
頬には触れない。
指先からまだ血を滲ませている、彼の右手を取った。
「この血が見たかったのです」
アーヴェントの笑みが消える。
「あなたが人を傷つけても流さなかった血。わたくしが泣いても温まらなかった血。罪を暴かれるまで、痛みを知らなかった血」
彼女はその手を離した。
「ようやく見られました」
リメリアがその場に崩れ落ちる。
「わたしは悪くありません! 殿下が、殿下が望まれたから! わたしは聖女で、皆がわたしを必要としていて、だから少しだけお金を使っても、それは救済のためで」
「では、あなたもお書きなさい」
ヴァルチェリカは二枚目の紙を出した。
リメリアは泣きながら羽ペンを握る。
自分は脅されていた、と書こうとした。
文字は黒く腐った。
次に、殿下を愛していただけ、と書いた。
それも腐った。
最後に、震える手が勝手に真実を書いた。
救済基金が欲しかった。
聖女として飾られるために、奇跡も涙も必要だった。
王太子妃になるには、ヴァルチェリカが邪魔だった。
だから、悪役令嬢にした。
赤い文字が紙に浮かび上がるたび、リメリアの喉から潰れた声が漏れた。
綺麗な泣き声ではなかった。
池の底から泡が上がるような、醜い音だった。
ヴァルチェリカは、それを最後まで聞いた。
「殺してくれ」
アーヴェントが言った。
もう王太子の声ではなかった。
「いっそ殺せ。こんな恥を晒すくらいなら、死刑にしろ」
「嫌ですわ」
ヴァルチェリカは即答した。
「死刑なんて、一度で終わってしまうでしょう」
アーヴェントが凍りつく。
彼女は宰相に向き直った。
「王太子アーヴェント殿下の廃位奏上。聖女リメリアの聖女資格剥奪。救済基金の返還。両名の罪状および反省文の王都掲示。関与貴族の再審問。これでよろしいですわね」
宰相は深く頭を下げた。
「王法に照らし、廃位を奏上するに足る事案でございます」
「ヴァルチェリカ!」
アーヴェントが叫ぶ。
彼の首はまだ、彼女の方を向かされている。
身体は逃げたがっている。足も、肩も、背中も。けれど顔だけが、どうしてもこちらを向く。
ヴァルチェリカは、そんな彼を見て、少しだけ笑った。
それは勝利の笑みではなかった。
幸福の笑みでもない。
長い高熱のあと、ようやく自分の手足がまだ動くことを確かめた人間の、静かな笑みだった。
「殿下」
彼女は最後に言った。
「わたくし、あなたを愛していたこともございました」
アーヴェントの唇が震える。
「でしたら」
「だから、苦しかったのです」
広間が静まる。
「愛していなければ、地獄ではありませんでした。ただの不運で済ませられた。けれど、あなたはわたくしの手を取った人でした。未来を約束した人でした。その人が、わたくしを悪女にした」
彼女は黒いドレスの裾を翻す。
「だから、あなたにも来ていただきたかったのです。わたくしのいた場所へ」
アーヴェントは何かを言おうとした。
だが、もう言葉にならなかった。
喉が鳴るだけだった。
ヴァルチェリカは壇上を降りる。
大理石の床に、一滴だけ王太子の血が落ちていた。
彼女はそれを見下ろした。
「血が見たいだけでしたのに」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
「あなた、血の気まで失くしてしまわれたのね」
その夜、王宮の大広間で死刑は行われなかった。
誰の首も落ちなかった。
ただ、翌朝、王都広場には二枚の反省文が掲げられた。
一枚は、廃位の奏上を受けた王太子アーヴェントのもの。
一枚は、聖女資格を剥奪されたリメリアのもの。
赤い文字でびっしりと埋められたそれを、人々は朝から晩まで眺めた。
泣く者もいた。
罵る者もいた。
笑う者もいた。
けれど、誰もが最後には黙った。
そこに書かれていたのは、悪女の罪ではなかった。
悪女を必要とした者たちの罪だった。
ヴァルチェリカ・ノアゼルムは、その日を境に悪役令嬢とは呼ばれなくなった。
代わりに、別の名で呼ばれるようになった。
黒い裁定者。
血印の令嬢。
王太子を誅した女。
どれも、彼女は否定しなかった。
ただ一度だけ、侍女が尋ねたことがある。
「お嬢様は、本当に血が見たかったのですか」
ヴァルチェリカは窓の外を見ていた。
庭には、朝露に濡れた白薔薇が咲いている。
彼女は少し考えてから、答えた。
「いいえ」
侍女が顔を上げる。
「本当は、痛いと言ってほしかったの」
ヴァルチェリカは、静かに笑った。
「わたくしだけが痛い世界は、もう嫌でしたから」
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、とある曲のかわいらしい響きと、そこに混じる物騒な言葉の落差から、「チュウ」と「誅」を重ねた悪役令嬢ものにしてみました。
恋の未練に見せかけて、実際に欲しかったのは口づけではなく裁き。
血が見たい、という言葉も、殺したいというより「あなたにも痛みを知ってほしい」という方向に寄せています。
ヴァルチェリカは正義の人というより、自分だけが地獄に落とされたことを許せなかった人です。だからこそ、王太子たちを殺して終わりにはせず、生きたまま同じ場所に立たせました。
罰金、反省文、公開断罪。どこか子供じみた罰の言葉が、貴族社会ではそのまま社会的な処刑になる。そのあたりの嫌な怖さを感じていただけたなら嬉しいです。
お読みくださり、ありがとうございました。




