異世界のチュートリアル・前
※犯罪に関する描写があります
後頭部がズキズキする。
ぼやんとする視界に何度かまたたきすると、だんだんと周りが見えてくる。
暗い。夜空だ。星がやけにたくさん輝いている。視界の左右端には無数の木の梢が映っている。どうやら柏は仰向けに横たわっている。
柏は高校から最寄り駅への道を一人下校中で、最寄り駅からは予備校に向かうつもりだった。
時間がおかしい。柏は思った。駅に向かって歩いていたときは、まだ夕方前だった。
どこだ。こんなところは知らない。
事故にでも遭ったのだろうか。
轢き逃げされて、隠蔽工作で死体を山中に……とか?
まさか。サスペンスドラマじゃあるまいし。
後頭部の痛みに、ぼぅっとしたまま横たわっていると、音が聞こえてきた。足音だ。
まさか轢き逃げ犯が……?!
痛みをこらえ、慌てて身体を起こしかけて、柏はあぜんとする。
足音の主は、轢き逃げ犯ではなかった。
ゲームの中で見かける、というかゲームの中でしか見たことがない、山賊や野盗のテンプレ画像を正確にトレースしたような男が、そこに一人。
男が手に掲げた松明の火で、しっかり見えた。
ぐへへ、なんて笑い声は、柏の人生で初めて聞いた気がする。
「女ぁ!」
これは絶対、轢き逃げ犯より質悪い。
柏は本能的に腕と脚で後ずさったが、腰が抜けていた。尻で引きずった制服のスカートがざりざりと音を立てた。
なんだろうこの事態は。
日本に、山賊や野盗?そんなバカな。
現実とは思えない。でも頭はまだ痛い。痛みがあるから、たぶん夢ではない。
「逃げるなよ」
ああ日本語じゃない。でも言葉はわかる。
ぐへへという笑い声がまた聞こえる。男は松明を置いて、こちらに来ようとしているようだ。
今のうちに逃げなければ。
逃げなければ、このあとあらゆる意味で無事でいられる気がしない。震える手足を叱咤して立ち上がろうとして、柏は気がついた。
視界の中で、空中にボタンが浮いている。
「え……?」
【キャラクターメイク】を行いますか?
はい / いいえ
【はい】のボタンのほうが明滅している。
柏は反射的にタップしていた。
目の前に、ゲームの始めによく見るようなキャラクターメイク画面が現れた。表示されているのは、山賊もしくは野盗っぽい男の全身像。それからいくつかの項目。
「…………」
なんだこれ、という疑問と同時に、これ知ってる、とも思う。
柏だって日本の高校生だ、これまでいくつかのゲーム、メジャータイトルくらいはプレイしたことがある。ド◯クエとか、モ◯ハンとか。
新規にゲームを始めてすぐ、自分のキャラクターの容姿を設定するときに、だいたいこの画面になるのだ。キャラクターメイク画面。
柏はこの画面が表示されたとき、何をどうすれば良いのか知っている。操作だって慣れている。設定画面上に浮かぶ変更可能項目も馴染みあるものばかりだ。ざっと眺めて、そこそこ細かく設定できるらしいとわかる。
この設定を完了させたらどうなるのだろう。結果は想像はできるが、でもきっと、想像を絶する。
まず、タイプ1 / タイプ2の選択。 柏はタイプ2にした。タイプ2は女性型だ。昔は、男 / 女の選択だったらしい、と聞いたことがあるが、世代的に柏はよく知らない。
身長……スライドバーを最小に変更。
体型……これもスライドバーを最小に。
髪の色は金色、瞳の色は碧色。
そこまで変更して、ハッとする。キャラクターメイク画面に気を取られすぎていた。
柏は男に足首を掴まれていた。
「ぐへへ。捕まえたぜ」
もう顔の詳細までは変える時間がない。でも、キャラクターメイク画面の中の山賊もしくは野盗は、雰囲気可愛い少女になった。十分だろう。
最後に、年齢12。
12より下にはできなかった。
CEROレートかかってるのかな?!
男の息がかかる。臭い。
柏は半ばヤケクソで、設定完了ボタンを押した。
ポチリ。
「なっ……」
「あ……」
松明の灯の中に浮かぶシルエットが、縦にも横にもでかい男のものから、ほっそりした少女のものに縮んだ。柏を掴む手も小さくなる。
「なっ……なにしやがった!」
雰囲気可愛い少女に可愛い凄まれてもべつに怖くない。脚をめちゃくちゃに振り回し、柏は少女を引き剥がした。
柏はようやく頭が回りだした。
どうにか立ち上がる。
あぁ、たぶんここは異世界だ。日本に、そんな設定のフィクションはいっぱいあった。何かの理由で異世界に転移して、そして柏は【キャラクターメイク】という能力を得た。きっと、そういうことだ。
「おい!おまえ、おれになにしやがった!」
元山賊だか野盗の少女に怒鳴られて、柏は力いっぱい少女を押しのけた。年齢的にも体格的にも、もう柏のほうが上だ。負ける要素がない。
「私にもわからないよ!」
混乱してわめく少女に突撃されて、柏はドンと突き飛ばした。
少女は近くの木の幹に思いっきり背中を打ちつけたようだが、知ったことか。柏が気に掛ける義理もない。
高校の鞄やコートや傘など、急いで周りに落ちていた私物をかき集めて、柏は駆け出した。とにかく今は逃げたほうが良い、その直感に従って。
闇雲に走ったわりには幸運なことに、しばらくして柏は街道と呼べそうな道を引き当てた。道は土だが、森の中よりはずっと走りやすい。
左右やや離れた位置には黒くそびえる山の連なり。やはり日本国内とは思えない。眼下は遠くまでほとんど森のようだが、地平線より手前には小さな灯がちらっと揺らいで見えた。見間違い……ではなさそうだ。街?民家だろうか?
柏は、山賊か野盗と思われる男を少女に変えてしまったが、他に悪党の仲間がいないとは限らない。ここでモタモタしていて、さらに山賊だか野盗だかが出てきたら、どうにもならなくなるのは想像がついた。
灯のあるところまで逃げてみるべきだろう。誰かに助けを求めることもできるかもしれない。柏は一度止まってコートを鞄に押し込み、鞄を抱え直した。
深呼吸して、再び脚を動かす。
あぁもう!長距離走なんて、体育でもしばらくやってないのに……!
道が下り坂なのをいいことに、柏はひたすら走った。
肉眼で見える水平線って約四キロ先だっけ?
えっと、でも今は峠の途中?っぽいちょっと高いところにいて、それだともっと遠くまで見えるね。
つまり、あの灯のところまであと何キロ?!
明日絶対筋肉痛〜〜〜!
再度山賊やら野盗が出てこようものなら、筋肉痛確定の明日すら迎えられないだろうが、そこは意図的に考えないようにした。
柏は半泣きになりながら走り続けた。喉も肺も心臓も痛い。ガクガクした足は何度ももつれて転びかけ、実際に三度転んだ。膝から流血し、途中からもう走るというより歩くと変わらない速度になって、それでも進み続けた。
どれくらいかかっただろう。空の星の位置が目視でも明らかに変わった頃になって、柏は火の灯とその周囲が見えるところまで辿り着いた。
もうその場で倒れこみたい。もう動きたくない。が、柏は焚き火の主が山賊もしくは野盗だった場合を考えなくてはならなかった。
灌木のそばで足を止め、呼吸を抑えて、じっと観察する。
そこはキャンプ場というほどは整っていない。野営地というのが近そうだ。
幌馬車が八台。焚き火が三つ。毛布やマントにくるまって地面に直に寝ている人が複数人。焚き火の灯が届かないあたりは柏にも見えないし幌馬車の中も見えないので、正確な人数は数えられない。
不寝番は五名以上。女性もいるようだ。小声でも喋っていたり、動いていれば不寝番と判断できるが、じっと座ったままの人影は判断がつかない。
ただ、不寝番と思われる人たちはみな、鍛えているのか引き締まった体型で、よく手入れされている風の実用的な装備をしていた。
さっき少女に変えてしまった男は、あり合わせの防具に、締まりの無い体型だったのに。
比較して考えてみると、この野営地の彼らは山賊でも野盗でもないように思われた。たぶん、商隊とその護衛の集団、と柏はあたりをつけた。
彼らに助けを求めても、きっと今以上に酷いことにはならないだろう。そう信じることに決めて、柏は一歩を踏み出した。制服のスカートに引っかかった灌木の小枝が鳴る。
さらにもう一歩。野営地に近づこうとして、しかし、柏は自分で考えていた以上に疲労していたらしい。柏の足はもう身体を支えていられなかった。そのままどさりと地面に崩れ落ちる。
「誰だ!」
柏の存在に気づいていたらしい不寝番から誰何されるも、もう答える力は残っていなかった。
薄らぐ意識の中で、何人かが柏のほうに駆け寄ってくるのが見えた。