そのことを小学6年生でしる。
そのことは小学6年生でしった。
交際上などの関係からいやでも他人にしなくてはならないとき、義理にその意味を持たせて使うのがまかり通ってることだ。それを鼻先に浮かべてわたしに向かって使うあいつらの臭いから、中学生より1年早く買った大人用辞書の五番手の用例に出ていた。きっと、人として行うべきことに茶々を入れたがる輩のせいで義理が横にはみ出していったのだ。
あいつらが、義子の義は義理の義だからとわたしの聞こえないところで嘯くから、その五番手の用例はどんどん太っていく。
あいつらとは6年生でクラス替えしてから一緒になった田丸裕次のいる五人組を指す。塊が5人は変わらないが、左手をパッと開いてあいつらの顔を指人形みたいに被せると、人差し指にハマった田丸裕次の不動は別格にして、あとは皆んなぼんやりでとっかえひっかえしてる。
そこに、なぜか、いちかちゃんが混ざっていたりする。
ないない、ないないと、ないを外そうとするのだが、いちど指の腹にハマったものはおいそれとは外れてくれない。薬指に現れたいちかちゃんは、中指で通せんぼしてる井上圭介とか山崎誠一とかを透かし通して人差し指を見つめている。
もちろん、いちかちゃんが見つめてるのは、わたしの人差し指なんかじゃない、田丸裕次の顔だ、顔というより掌脚ふくめた全部の骨に肉の巻かれた全身だ。
わたしは顔でしか男子を識別しない。
むかしもいまも、幼稚園も小学6年生も、結婚し、いちかちゃんと同い年の娘を連れてるいまも、それは変わっていないかもしれない。
でも、いちかちゃんは違った。小学6年生の夏から、男子を顔でなく全身で見つめている。
もちろん、誰もかれもというのではない。田丸裕次だけだ。女子中学生が購読してる雑誌を回し読みしてるおませなクラスメイトの使ってる「恋」とか「オトコ」とかの手触りをいちかちゃんも気づいているが、田丸裕次を見るときだけ、わたしの左手の指人形見るみたいにあけすけな、その全身をみつめる感じに変わっていったのまでは気づいていない。
窓の奥が差し込まれる。
裏側にある見えないもの、隠されてる意味、あるいは心象風景といったものを暗示する、詩的・文学的な表現として使われる言葉。それに具体の意味を持たせるには、その言葉が使われている前後の文脈が重要だ。
いちかちゃんと田丸裕次の窓の奥にいるのは、わたし。わたしの映ってる影がいくつも乱反射して、ふたりを囲っている。
それに気づいてるのはわたし。わたしだけだから、これもわたしだけの秘密にしておこう。




