第三章 第十二話 二〇XX年十月十六日
羽音山 二〇XX年十月十六日
あ、ヤバ、大失敗した……。鈴郁が声も上げず卒倒した。並んで立っていた朝比奈家現当主、朝比奈真さんがすかさず受け止めてくれている。
大丈夫。今なら動ける。祝詞を上げてる最中だったら終わってた。まだ立て直せる。
外なる神から目を離さず、足音を立てずでも可能な限り急いで鈴郁の元へ。今すぐ鈴郁とあたしを入れ替えなきゃならない。
装束の内から小太刀を抜き、ぞくりと親指に刃を滑らせる。鈴郁の蔵面を剥ぎ取り、眉間の拇印を消すようにあたしの血で塗りつぶし懐紙で拭い取る。従者の蔵面を被せる。
口の中だけで鈴郁に謝り親指へ切っ先を当てる。見る間に溢れる血であたしの両瞼を横切るように横一線、眉間に押印。これでこの場ではあたしが鈴郁だ。鈴郁は死なない。
鈴郁にもう一度謝って髪を一房もらい、懐紙で作った形代に結ぶ。まだ血がにじむ鈴郁の親指を形代の胴体に押印。上手く行けばあたしも死なない。
「おじさま。供物を捧げた後、片手を挙げもう片手でしっかり鈴郁を抱きかかえてください。それで戻れます。先の屏風岩に戻ったら、《《白い瓶子》》の酒を皆に飲ませてください。あたしの事は、父さんに明朝迎えに来るよう伝えてください」
真さんが微かに頷く。さすが鈴郁のお父さん。娘が卒倒しても声一つあげなかったのは踏んでる場数のおかげか。そっと背後に立ち、ささやき声で事後の処理をお願いする。
顔を伏せしずしずと外なる神の前に戻る。懐から奉書紙を取り出し祝詞を上げる。
高天原に坐し坐して 天と地に御働きを現し給う龍王は
大宇宙根元の御祖の御使いにして
一切を産み一切を育て 萬物を御支配あらせ給う王神なれば
一二三四五六七八九十の十種の御寶を 己がすがたと変じ給いて
自在自由に天界地界人界を治め給う
龍王神なるを 尊み敬いて 眞の六根一筋に御仕え申すことの由を
受け引き給いて 愚かなる心の数々を戒め給いて
一切衆生の罪穢れの衣を 脱ぎさらしめ給いて
萬物の病災をも立所に祓い清め給い
萬世界も御親のもとに治めしせめ給へと
祈願奉ることの由をきこしめして
六根の内に念じ申す大願を成就なさしめ給へと
恐み恐み白す
奉書紙を三方へ置き、教授と下男さんに目配せ手配せ。鈴郁を皿岩の横まで運んでもらう。
真さんと並び、供物にトドメを。まず首を切り裂き、次に心の臓を一突き。皿岩に溢れるイノシシの血に、真さんと鈴郁の指から血を一滴ずつ。
真さんは鈴郁をしっかりと抱きかかえ左手を挙げた。教授たちも同じように外なる神に背を向け跪く。
あたしはこの場で一人だけ不確定で不要な存在となっている。当主筋の眉間には薬草と混ぜた二人の血が押してある。この場で悠長に調合するヒマは無かったので、あたしは鈴郁の血の臭いだけがする人間だ。
蔵面の墨も、供物の血にも、父娘二人の血が混ぜてある。当主筋二人が神事に挑む時、二人の血を混ぜ、臭いを併せなくてはならない。眉間の拇印は当主筋の印なのだ。
あたしは鈴郁の臭いしかしない。そして、形代も鈴郁の血の臭いがする。この場では、外なる神の前では、あたしと形代は等しく在ってはならない異物だ。そう在らねば、他の皆が応報を被ってしまう。
あたしも皿岩の横で皆と同じ姿勢に。すぐ横に形代を置く。古い神事では祝詞の後に神楽の奉納をしていたそうだが、簡略化された神事でよかった。さすがに今の状況でちゃんと舞う自信はない。
外なる神が供物に手を伸ばす。音も無く、それでも皮膚に直接届く重圧感。打ち震えているのは身体か地面か。魂を握りつぶされるような、氷のような冷たさがこの場を支配している。
我々が知る何とも似つかわない異形の神、その存在自体が肌を粟立たせる。
あたしに外なる神の加護があるならば、応報は形代が被る。加護がなければ、あたしが死ぬ。
あと数秒で、外なる神の指が供物に触れる。
なにか冷たいものが背筋を落ちる。
おじさまにしっかりと抱きかけられた親友に目をやる。
『れーちゃんは、無事帰れる』
覚えていられたのは、そこまでだった。