2.第四王女さま
*****
修行に一年、費やした。店主――おっちゃんは死んでしまった。癌だったのだ。ぎりぎりまでぼくにラーメンづくりのいろはを教えてくれた。おっちゃんが亡くなって、ぼくは落ち込んだ。死に際、おっちゃんの落ちくぼんだ目元と薄っぺらくなってしまった手を見て、泣きたくなるくらい、悲しくなった。泣かなかった。ぼくはそれくらいには強くなった。おっちゃんがいたからこそ、一生懸命にがんばれたわけだけれど、おっちゃんがいなくなったからこそ、心も身体も引き締めて、持ちえたものをすべて投じて、がんばろうっていう気になったのだ。
文字どおり、ぼくは店の主人になった。おばちゃんには引き続き、配膳係をお願いしている。おばちゃんは「旦那の味だ」と評価してくれている。「これならまだまだ店を開けていられるねぇ」と喜んでくれた。ぼくは生き甲斐を見つけた。一番出るのは、やっぱり真っ赤な辛味噌ラーメンだ。食べたヒトは額に汗を浮かべながらも、「この唐辛子の辛さがたまらないのさ」と言って引き揚げていく。だからぼくは、よりよい赤唐辛子を仕入れるべく、あちこち回った。一番おいしいものを見つけた。だけど、それってあまり意識されないことだろうとも思う。お客さんはわからないかもしれない。それでもぼくは。こだわることが好きらしい。そんな考え、"伝説の勇者"だった頃は、意識もしなかったことだけれど。
*****
店の評判が広まり、たくさんのヒトが来店してくれるのは嬉しいことだけれど、まさか国の第四王女さまが姿を現すだなんて、考えてもいなかった。それはそうだ。どうして街の、しかも裏路地にあるラーメン屋に、わざわざおいでなすったのか。
「激辛ラーメンがおいしいと聞いたわ。早く出しなさい」
王女はそう言った。ぼくが頭に来るより先に、おばちゃんが怒った。
「お姫さまかなんだか知らないけどねぇ、順番があるんだ。守りな」
わからずやでもなければ、無礼でもない。金色の長い髪が美しく麗しい王女はそういった人物で、「いいわ、待ちます」と答えた。意外だった。王族のニンゲンなんて、偉そうで横柄でしかないと思っていたからだ。
数分後、おばちゃんが「あいよ、お待ち」と激辛ラーメンを王女に持っていった。ぼくはどきどきしていた。「まずい」と言われるのが嫌だからだ。ぼくの自信の腕を馬鹿にされ、蔑まれるのであればいい。だけど、この店のラーメンは、亡くなった先代の味を誇るのだ。
お客さんにすべての商品を提供したのち、ぼくはたまらなくなって、厨房から出て、王女のテーブルの脇に立った。白い首のスカーフを正して、おずおずと「いかがですか……?」と訊ねた。王女は王女らしくなく、がつがつ食べた。食べ終えると真白のナプキンで上品に口元を拭い、「ええ、悔しいけれど、とてもおいしかったわ。辛いものにもおいしいものはあるのね。あなた、城で雇ってあげるわ。こんな場末の醜い店のことなんて捨てて、さっさと来なさい」などとのたまった。長いセリフを早口で一気にのたまった。
ぼくは「城で雇う」との言葉には驚いたものの、"場末の醜い店"と言われたことについて強い憤りを覚えた。だけど、そんなふうにこちらに思われることを、王女は織り込み済みだったみたいで。
「言いすぎたわ。だからこそ、ウチに来なさい。高給を約束してあげる」
だけどやっぱり、その言い方はむしょうに癪に触って。
「嫌です」と、ぼくははっきりと言った。「一度かもしれないけれど、あなたはこの店を馬鹿にした。侮辱した。ゆるせることではありません」
「お、怒ることないじゃない」
「ぼくはまだまだひよっこです。だけど、先代はほんとうに立派なヒトだったんです。だから、怒ります」
「悪かったって、言ってるじゃない」
「ゆるします」
「えっ、もういいの?」
「いいです。ぼくはこれからもがんばります。以上です」
ぼくは厨房にひき返す。そのとき王女が「待ちなさいよ!」と大きな声で呼びかけてきた。
「わかったわ。城で雇うのは諦めてあげる。でも――」
「でも、なんですか?」
「私がこの店で働いてあげる。配膳係くらいだったら、できるでしょ?」
「は?」
「いいから、私はここで働くの! なにかテストが必要でも、がんばるの!!」
店内そのものが、いよいよしんと押し黙った。
「待ってください、王女さま。そんなわけにはいきません。ダメですよ」
「どうしてダメなのかしら。あなただって、もとは『伝説の勇者』でしょう? "勇者"がラーメン屋を営んでいるのに、どうして王女が配膳係をしたらいけないの?」
「そういう話ではありません。ぼくと王女さまとではまるで立場が――」
「いいの、そんなこと。もう決めました。明日、来ます、明日から働きます」
「そんな……」
はっはっは。
そんなふうに笑ったのは、おばちゃんだった。
「いいじゃないか、ジョン。雇ってさしあげようじゃないか。ダメならすぐにクビにしてやればいい。裏を返せば、箱入り娘の力の見せどころだよ」
「でも、相手は王女さまなんですよ?」
「その王女さまは、それでもいいって言っているんじゃないか」
王女はテーブルを両手でバンッと叩くと、立ち上がった。「エプロンくらいは用意しておきなさいよね」と上から目線で物を述べると、とっとと店から出ていった。外ではSPさんがスタンバイしているのだろうけれど、それはさておき――。
「いいんですか?」
「王女とはいえ、自分で言ったんだ。言葉には責任が伴うんだ。あんたがそうじゃないか。あんたはこの店を継ぐと言って、立派にやっているじゃないか」
「立派かなぁ」
おばちゃんは、また笑った。
「勢いでのたまっちまったのかもしれない。気にすることはないさね」
「それはそうなんですけれど」
*****
小さくはない国家の第四王女さまが、ほんとうにやってきた。高価な生地を使っているであろう真っ白なブラウスを着てやってきた。腰巻きの白いエプロンをつけ、ぼくがじっと凝視していると、「な、なによ。なに見てるのよ、このスケベ。さっさと仕事、しなさいよ」――朝の八時半のことである。
「すぐに出せます。下ごしらえは済んでいますから」
「そ、そうなの?」
「じつはルーチンワーク化されています」
そんなふうに言うと、おばちゃんにぽかっと頭を叩かれた。
「ルーチンワークだなんて難しくて偉そうな言葉を使うんじゃないよ。あんたは毎日仕込みをがんばっているんだ。そのがんばりのうえに、ウチの味は成り立っているんだよ。それだけでいいんだよ」
「そう言っていただけると、とても嬉しいです」
ぼくは大きく頷くと、自然と笑顔になった。
「それで、なにをすればいいの? 配膳係だけやればいいの?」
「王女さま、どこまで本気なんですか? それこそ、とことん誠実であってくださらないと――」
「わかってるわよ。しっかりやってくれないと困るんでしょ? やるわよ。あんまり舐めないでよね」
「だったら、働いていただきますけれど」
「じつはそれって、そちらのおばさまが決めることじゃないの?」
おばちゃんは「それは違うね、王女さま」と言い、でっぷりとした胸を張り、「いまの主人はこちらの『勇者さま』だ」と伝えた。王女は眉間にしわを寄せた。「それはもう、がんばってやるんだからっ」と、そっぽを向いた。
この先、やっていけるかはわからないけれど、とりあえず、店員が一人増えた。王女さまへの給料、どれくらいが、適当なのだろう……。
*****
王女さまは失敗ばかりした。接客態度が横柄であることは想定内なのだけれど、運ぶだけなのに、途中でどんぶりをひっくり返してしまうありさま。きっと、それこそ、スプーンよりナイフより重い物なんて持ったことがないのだ。でも、ぼくは怒ったりしなかった。いちいち目くじらを立てる性格でもないし、まるごとおじゃんにしたところで、また作ればいい。お客さんを待たせてしまうとか、原価がどうとかいう問題は発生するけれど、あいにく、ウチの店は盛況だ。
――それから少し経過しての昼休みのことである。王女におばちゃん、そしてぼくが、厨房のなかに置いた小さな四角いテーブルを囲んでいる。
王女はまかないの焼き飯を食べると「わぁ」と、まあるい声を出し、それが恥ずかしかったのか、頬を桃色に染めた。続いて、不機嫌そうな顔をした。
「し、仕方ないじゃない。この焼き飯はおいしいのよ。レシピがあるなら聞かせなさい。命令よ」
ぼくは「にんにく味噌を使っているんだよ」と答えた。いつのまにやら、ぼくは王女さまに対してフランクな接し方をしている。
「今度、具体的に作り方を教えなさいよね。おいしいものは万国共通なんですからね」
「王女さまはどこかに似たような店を作って、レストランでもやりたいの?」
「やりたいわけないじゃない。こんな仕事をしていたら、身体中から強烈な負の臭いがするようになってしまうわ」
「すでににんにく臭いよ」
「まあ、まあっ、なんですって!?」
「ぼくは応援します」
「な、なんの話?」
「だから、どこかで店を出したいというのであれば、暖簾分けをするにあたっては、やぶさかではないということだよ」
「暖簾なんて要らないわよ! 私はこのお店が大好きなんですからねっ!」
焼き飯の皿を、ぼくはテーブルに置いた。
「ただ、思うんだ、王女さま」
「あらたまったふうにして、いったいなによ?」
「毎日、SPのヒトを店の表に立たせておくのは、忍びないよ」
「あー、わかった、わかったわ。ジョン、あなたは私が王女であることが気に食わないのね?」
「そうは言ってない。むしろ王女さまは、もはや貴重な戦力だよ」
「だったら、わたしは、やってやるんだから」
「なにをするの?」
「ジョン、あなたが望む私になってあげる」
――五日後。
くだんの第四王女さまが、王室を離脱するというニュースが流れた。国民みんなが「えぇーっ」とか「ひょえぇっ」とか驚いたことは言うまでもない。手続きに半年ほどかかるらしいけれど、彼女は本気らしい。ぼくは戸惑った。来る日も来る日も我が店でラーメンを運んでくれているからといって、それとこれとは話がまるっきり別だ。
王女はやはり、毎日毎日、ラーメンをお客さんのまえまで運ぶ。最近は愛想もよくなって、「今日もおいしいですよーっ」とか、「いつもご来店、ありがとうございまーす」などと言って迎える。最初は戸惑ってばかりいたお客さんたちだけれど、最近はもっぱら、かわいいかわいいと、第四王女"ソフィアちゃん"を快く思っている感じだ。
表にSPさんの姿はなくなった。自らが強く望んだ結果だと言って、ソフィアは笑った。しばらくは、あるいは自身が生きているあいだは護衛がつくのかもしれない。だけど目に見えて、素直に、あるいは朗らかに、くったくなく、彼女は笑うようになった。
ソフィアがニ十歳になったと知ったのは、その頃のことだった。
*****
店が繁盛している最中での、出来事だった。厨房でラーメンを作っていたぼくの耳に、店内から男の低い怒声が届いた。強盗だとすぐにわかった。だって、「金を出せ!」と怒鳴っているからだ。
ぼくは急いで厨房から店内に出た。ソフィアが人質にとられていた。うしろから首に右腕を巻きつけられていて、左手のナイフを首元に突きつけられている。男が慌ただしく立ち上がる際にそうなったのか、割れたどんぶりが落ちていて、ソフィアのエプロンにはスープの赤色が散っていた。
「殺したいなら殺しなさいよ! 私はなにも怖くないんだから!!」
ソフィアが叫んだ。こういう場合、犯人を刺激するべきではないのに、そのへん、彼女にはわからないのだろう。――否。わかっているのだろう。自らを崩したくないのだ。自らの強さを貫き通したいのだ。
「もう一度、言ってやるわ! いいわよ、殺しなさいよ! でも、殺したら、あなたは"伝説の勇者"に殺されることになるんですからね!!」
お願いだから、ほんとうに刺激するようなことを言わないで。ぼくがそう言うと、ソフィアは涙をぽろぽろとこぼし始めた。限界が訪れたみたいだ。大きな声を上げて泣きだした。
「嫌よ、嫌よ! こら! ぼーっとしてないで私を助けなさい、ジョン! 私が死んだらあなたは困るはずよ!!」
たしかに困る。自分の店で殺人なんて、起きてほしくない。それだけの理由でもないのだけれど、とにかく、そして、だったら――。
ぼくは風よりも早く動いて、ナイフを持った手を目がけて飛びかかった。あっという間に男をうつ伏せに組み伏せ、左手をうしろに捻り上げた。おばちゃんがすかさず駆けて店を出ていった。警察官を呼びにいったのだろう。店内はしんと静まり返り、男の「いててててっ!」という醜い悲鳴だけが響きわたる。
そんななかにあって――。
「あなたなんかに命を奪われそうになっただなんて、私の恥よ! 謝罪しなさい! 謝りなさいよ!!」
「ソフィア、そういうことじゃないよ」
「で、でも、ジョン!」
「そういうことじゃないんだ。こういうことをするのは、なんらかのわけがあってのことなんだ。ひっ迫した理由があるんだよ」
――やがて、やってきた二人の警察官に、犯人の男は連行され。
「なによ、なによ。私を危ない目に遭わせたのよ? だったらもっと派手に連れていってくれてもいいじゃない」
「派手に連れていくの定義はわからないけれど。ソフィアが無事であればそれでいいし、ソフィアが無事であるように、これからもぼくは尽くすから」
ソフィアの顔が見る見るうちに真っ赤になる。スープが飛び散ったエプロンをいら立たしげに取り払って――。
「ソフィア。今日はもう店を閉めようと思うんだ」
「そんなのダメに決まってるじゃない。ディナーの時間じゃない。稼ぎどきじゃない」
「わかった。じゃあ続けよう。店を開け続けよう」
ソフィアが来てからというもの、ぼくは自信を取り戻して、すっかり前向きに生きられるようになったなあと、心のなかで、彼女に感謝したのだった。