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二坂 望 国際学校 敷地内 午後六時二十分四十秒


「ここなら………」

 つぶやき、あたりを警戒しながらオレは足もとの穴の中へと自らの体を躍らせる。

 教室での一件の直後、廊下の窓から外の雨樋へ飛び移ったのがつい先ほどのこと。

 そのまま数メートルほど進み、屋上からの雨水排水用のパイプを用いてグラウンドへ下りたのがわずかに一分前で、ここを使うことを思いついたのが三十秒前、見つけたのが十秒前で、開けたのがついさっきだ。

『奴ら』の姿はいまだ見えず、穴の中は音どころか明かりもない暗黒である。一寸先も見えぬほどの濃厚な闇ではあるが、言い換えればそれはオレの姿も見えなくなるということ。降りる間は上からの光があるが、中に入ってしまえば安全という、それだけのことだ。

 思いながら、オレは穴の壁面に付けられた梯子を下る。

 下るに連れ、ゆっくりと音量を増していくのは小さな水の音。

それとは別にオレの立てる呼吸音、心音、足音といった何げない物音でさえも極大の音として認識するようになり、無意味に下る足がゆっくりになる。

 時間にしてわずかに十秒ほど、普段のオレからすれば、あり得ないほど長い時間をかけ、オレは梯子を降り切った。

「……………」

 教室から咄嗟につかみだしたマグライトを取り出し、オレは点灯する。

 白色LEDの光に浮かび上がったのは半円を描く広々とした通路。中心を水深の浅い、しかし幅のある水路が占め、天井近く、水路の直上をいくつものパイプが走っている。パイプの太さはまちまちで、最大で人の胴体、最小で由梨絵の二の腕ほどだろうか。いずれにせよバットでも打撃できないような位置のため、現状では関係ない。

 島内市街地の地下を網目のように走る、ライフライン整備用トンネルのうちの一本。

 それがここ。

島内の大抵の場所から鍵の折り合いさえつけばマンホールを通じて進入可能であり、そして一度入れれば作業員以外の誰とも出くわさず大抵のところへ移動可能である、最高の裏道である。

 もともとこの島は日米両国の共同管理、ということもあり、テロリズムの標的になりやすい。二つの国が、それも大国と呼ばれる規模の国が並んで管理している島に問題ありとなれば、国際紛争はトントン拍子。軍事産業やら傭兵やらに莫大な利益が生まれることは間違いないだろう。

 その際に狙われやすいのが、島内のライフライン。

 狙われれば最後、島全体のライフラインが停止し、医療機関通信機関交通機関その他もろもろに大打撃をこうむることになる。鎮圧行動もはるかに取りづらくなるし、何よりこの島は全方位が海だ。応援を呼べなくなるのは、それだけでもかなり痛い。

 その点をカバーするために、政府が取った対策がこれ。

 ライフラインを重要度別に地下トンネルに隠し、すべてを地上から消し去ってしまうことだ。

 電柱はある。が、それは最低重要度の街頭や一般邸宅の電気設備といったそれほど重要度の高くないものばかりで、それ以外の重要な回線――――島内各種施設や、避難所として機能する場所のものなどはこういったトンネルによってまとめられ、整備用トンネルもそれに倣い、島内各所のマンホールから侵入できるようになっているのである。

 当然、問題となるのはどうやってマンホールの鍵をはずすかと、鍵の外れたマンホールをどうやって開けるのかになる。

 後者はまず問題がない。避難時に一般人が開けられないとなれば大問題。梃子の原理を必要とするまでもなく、取っ手が付いているので普通に引けば開く。

 が、鍵のほう。こちらは銃弾程度であれば簡単に兆弾させることのできる防弾仕様の上、ピッキング不能の堅牢錠だ。爆薬を持ち出そうともそう簡単には開かないようになっており、純正キーを使わない限りはまず開けることができない。

 だが、こちらには『特異点』というイレギュラーな要素がある。

 オレたちの通う国際学校の敷地内、そこに存在するマンホールは遥か二ヶ月も前に明日香の手によって解錠されているのだ。

 主な目的は深夜での密談、あるいは構内から隠密に脱出する必要のある場合の通路だったが………まさかこんな形で使用する羽目になるとは、到底考えつかなかった。

 ………ま、一応視野には入れてたけどな。

「………さて」

 小声で呟き、右手でバットを、左手でライトを保持し、奥へと進む。

 目指す場所は、このトンネルで間違いなく繋がっているであろう場所、島内に存在する警察署の本部だ。

 到達後の目標は発令されていないであろう非常事態通告を発令すること、および間違いなく存在するであろう銃器の確保。

 本土からここまで船を全力で飛ばして四時間、救助隊が現状を完全に理解するのにさらに二時間かかるとして、こっちに到達するのにさらに一時間かかるとすれば七時間を必要とする。そしてその間、一切の銃器がない状況で生存するには少々無理があるし、そして何より、休息を一切とらずに動くには現状は厳しすぎる。

 その点、警察署なら、もしくはトンネル内であれば、多少なりとも安全だ。音にさえ気をつけていれば接近は明確にわかるし、警察署であれば丈夫なドアと、休める部屋もある。弾丸もある程度はあるはずだし、それに何より、島内全域に呼びかけられる放送設備の存在はありがたい。

 ………あいつらとも、合流できるからな。

 全員の状況はいまや等価。全員がいつ死んでも、いつ大怪我を負ってもおかしくない状況下にある。合流するなら一刻も早く、しないならしないで、自分にできることをやる。

 それが、オレの方針だ。


 ―――― ザッ  ザッ  ザッ…………


 ライトによって照らしあげられた、白色の闇の中。オレの足音が大きく響く。

 制限された視界、緊張した状態、閉鎖空間の音響効果。

 それらの要素が、人体の感覚を倍増させる。

 普段では決して感覚しない感覚であるはずの己の肌に衣服が触れる感触が、己の足に地面が反射する感覚が、体内で脈動する心臓の感得が、自分の中に焦燥にも似た感覚をもたらす。緊張感からだろうか、バットを握り締める右手の中にじっとりと湿り気をもたらし、左手のライトがわずかに滑った。


 ―――― ザッ  ザッ  ザッ…………


 暗闇の閉鎖空間、無音と緊張、制限された情報、そして異常事態であるという認識と、たった数時間で崩落した日常という現状。

 通常であれば到底受け入れられないような事態を即座に受け止められたのは、偏に俺たちが異常(アブノーマル)であったからだろうか。

 国際学校、オレたちがその名称で呼ぶあの学校には三つのクラス区分がある。

 ひとつは一般学部。至極一般的なインターナショナルスクールとして機能する、日本で言えば普通科高校のような位置づけのクラス。

 ひとつは特別クラス。一般から突出した学力、才能などを持つ特殊カリキュラムクラスで、将来の官僚、教授といった立場になることを約束されたかのような、特別教育クラス。

 そして、最後のひとつが『特異クラス』。

 オレが異常(アブノーマル)と揶揄するほどの絶対的な才能、経験した隔壁的な過去、その身に穿たれた障害などによって偶発的に発生する、人間でありながら人間ではないかのような『突出分野』を持つ人間を教育、否、『矯正』するクラスだ。

 そう、そのクラスで行うのは『教え、育てる』行為ではない。

このクラスに選出されているという事実がひとつ存在するだけで、その人間はもはや将来を約束されたも同然なのだ。

 教わることなど何一つない、育てる場所など何一つない。

 ただ必要なのは、その突出しすぎた才覚を人間社会の中にあわせる『調整』。生まれながらにしてズレてしまった箇所を人間らしく戻す、『矯正』なのだ。

 だからこそ、必然的にそのカリキュラムには穴が生じる。

 もともと目標はあっても予定はない教育制度を持つ学校である。授業進行の度合いによっては基本的にどのクラスでも余暇の時間を大きく作ることも可能であり、実際『一般』『特別』『特異』を問わず、カリキュラムに生じた穴を利用しさまざまな活動を行っている。

 が、オレたちのクラスは元来が教育ならぬ教育、教育ならぬ矯正である。

 故、その内容はほかのクラスに比較して随分と密度が低い。

 そして授業密度が低い故、その実施機関をひとところに一気に圧縮すれば、かなり多くの余暇が生じることになる。事実オレたちのクラスは過去何度も今回のキャンプに似た旅行を行っており、それでもなお授業に余裕が生じるほどであったのだが…………

 ………なんで、こんなことになったんだろうな……

 内心で、オレはつぶやく。

 ついで湧き上がるのは後悔。どうしてあんな山奥へ行ったのか、どうして龍美を助けられなかったのか、どうして力ずくでも碇を連れ出さなかったのか、どうして明日香とともに行動しなかったのか。湧き上がる後悔がオレを内側から締め上げ………

 ………いや。

 直後に、理性の声がそれを打ち消した。

 ………結局、いいほうに流れてるとも言えなくはない。

 山奥へ行っていなければ、この状況にモロに巻き込まれる羽目になっていた。

 龍美を助けようと動いていれば、おそらくはオレもやられていた。

 碇を力ずくで連れ出していれば、間違いなく『奴ら』の餌食だった。

 明日香とともに行動していれば――――

 ………これだけは、違う、か。

 明日香をあの場から脱出させてやれなかったのは完全なオレの過失、どうしようもない失点だ。

 しかし、だからといっていまさらやれることはない。

 今のオレにできるのは、このどうしようもない現状を打破する救助を呼ぶため、危険極まりないとわかっている警察署へと向かうこと、ただ、それだけだ。

 制限されている視界の中、トンネルがゆったりとカーブを描く。

「………………」

 自然と足が止まった。

 カーブが描くのは、緩やかな曲線。

 生じるのは影、そしてその影はこの暗闇においては完全なる闇を示している。

 それだけなら、まだいい。警察署付近まで到着するために少なくとも二桁は角を折れなければならなかったはずであるし、そのあたりの対処もちゃんと考えてある。

 問題なのは、眼前の道が直線ではない『曲線』であるということだ。

 完全なる直角ではない、緩やかな曲面。

 それは時として、通常の直角の曲がり角より厄介な側面を見せる。

 直角な曲がり角であるのなら曲がってしまえばそれで終わり。その先に死角はなく、仮に曲がった先から銃撃されようとも隠れればそれでおしまいである。向こう側から接近されたときも不意打ちしやすいし、何よりギリギリまで接近できるというのが大きい。

 だがそれが曲面となれば、話は変わる。

 曲面には、明確な終始がない。

 通路を区切る、『角』がない。

 角があれば隠れることもできる。壁として使うこともできる。警戒は非常に容易で、現状明かりを阻む時間もそれほど長くはない。

 しかし、曲面にはそれがない。そればかりか曲面は僅かずつではあるが角度を持っている、進行方向へと伸びる明かりを、微量ではあるが阻んでしまう。

 普段であれば絶対に意識しないような、わずかな死角。

 それが現状、いつあの化け物がやってくるかわからない状況である現状では――――たまらなく、怖い。

 通路の先は、無音である。

『奴ら』は低脳、少なくともそのはずなのだ。ゆえにこの先に『奴ら』と化した何者かがいたとしても、それは間違いなく音を立てる。そしてその音がなかったからこそ、オレはこの通路がそれなりに安全であると判断した。

 ………だけど、だ。

 教室内、ぶち破られたその瞬間のことを思い出す。教室の前にたむろした『奴ら』、その中で唯一、加速を行うことでドアを破壊した一体のことを。

 通常では破れない、ならばどうする、より強くする、そのためにどうする、加速をつける。

 この思考サイクルを辿らねば辿りつけぬはずの結論に辿り着いた一体がいたのだ、同程度の知能を持つものが潜んでいたとしても、なんら不思議はない。

 武器はある、使い方は知っている、一撃必殺の間合いも掌握している。だがこの閉鎖された通路の中、人間の頭骨を金属で破壊する音など、どれだけ大きく響き渡るのか――――

 ………だが、

 前方の得体が知れないからといって、

 後方の得体の知れた絶望へ飛び込むわけにも行かない。

 曲面であれば隠れるのが困難になる、それはそうだ。

 だが条件は向こうも同じ、同等、等価であることを忘れてはならない。こちらにとって隠れにくいということは、裏を返せば仮に高知能の『奴ら』がいたとしても、こちらが捕捉するのも容易であるということでもある。

 恐れる理由は、ない。

「…………――」

 一歩、オレは曲面へと踏み出した。

 隠れている人陰らしきものは、見えない。緩やかに右へと続いていく曲面、影は続くも、ひとまずは安全だ。


 ―――― ザッ………


 さらに通路を、進む。曲面の角度が変わり、更なる範囲が照らしあげられる。

 何も、いない。さらに進む。


 ―――― ザッ…………


 天井を這うパイプの影が、床によって生じた水路の死角が、眼前の曲面の影が、例えようもなく恐ろしい。

 一歩一歩の音が、例えようもなくやかましい。

 ライトの明かりの儚さが、例えようもなく腹立たしい。


 ―――― ザッ………


 あと、二歩。

 それだけの距離で、この曲面は終わりを告げる。

 汗のにじむ手で両手の中の金属を握り締め、一歩――


 ―――― ザッ………


 何も、いない。

 死角は、残り僅かだ。

 だがその残り僅か、焦りと恐怖の狭間にあるその僅かに何かがいたら、何かが潜んでいたら………そう考えると、自然と足が尚早とともに慎重になる。

 いつでも振り上げられるような位置にバットを構え、

 容易に踏み込めるような位置に足を配備し、

 そしてそのまま、

 一歩――――


 ―――― ザッ…………


「………………――」

 曲面の先には、何もいなかった。

 ただ続いているのは今までどおりの通路、少し先に直角の曲がり角を有する、十字型の通路だ。その先も怖いといえば怖いが……対策がしやすい分、かなり気は楽だ。

 普通のペースに戻り、歩を進める。十字路はもう目前、到達すればひとまず角に張り付いて伺って安全を確かめてか


 ―――― ドガン!


「!」

 咄嗟の判断で角へと飛び込んだ。

 角の先、正面にあるのは配電盤、有事の際避難路として用いる場合に、通路各地点に存在する明かりを点灯するための操作盤である。

「………っ」

 飛びついて配電盤をこじ開け、


 ――――ドガン!


 通路に反響する爆発音、一瞬閃いた閃光、何かが跳ね返る硬質な音に、軽快な金属の落下音。連想されるのは鉈切さんの家、ベネルとハリス、時折由梨絵が行っていたあの訓練。音速超過で金属を射出する、純然たる殺害のためだけの道具。

 拳銃。

 配電盤の中、ブレーカーを手当たり次第に上げていく。

 薄ぼんやりとした照明が通路に満ちるその瞬間に、オレは先ほどまで進行方向であったその方向を伺うべく角へと張り付いた。


 ―――― ドガン!


「くっ」

 直後にやってくる、音速超過の金属弾。うすぼんやりとした明かりの中、オレの視界が映したのは一人の人影、ふらふらとした足取りで身体を支え、こちらに向かって黒鉄の塊を、銃を向ける人間の姿だった。

 だが、その全体的な容姿。

 それはもはや、人間のものではない。

 伸ばされた腕、そこにある関節はどう見ても肘ではなく膝のものである。

 前を見据える目、そこにある色は理性どころか光を失っているとしか思えぬほど白濁している。

 命を支える首、その場所は骨がそこに存在しているとするならありえぬほどの角度で折り曲げられている。

 間違いない、それは今地表で街中を跋扈している、学校において龍美と単を殺した、オレたちの日常を滅茶苦茶にしてくれた存在であるところの『奴ら』。

 だが、『奴ら』は基本的には低脳であるはず。加速をつける、などの学習行動を行えたとしても、銃などの複雑な道具を扱うほどの知能があるとは到底思えないのだ。

 だが、現に眼前に存在する一体は間違いなく銃器を構え、そしてこちらめがけて発砲している。

 そう、まるで生前の記憶が存在しているかのように。

 ………まさか。

 思ったまま、オレは耳を澄ます。銃弾の音を聴くためでも、警戒のためでもない、ただそれは、あいつの発するわけのわからぬ繰言を聞くために。

 だが、

「しょうだくみんかんじんのひなんゆうせんひなんろかくほ確保確ほしますすすすあんデットは見つつけ次第しゃさつうつころすいけないひところすころす撃つ引き金たま携帯許可発砲許可ならいいいいいいいいいいいい――――」

 聞こえてきたのは、確かに繰言ではあった。

 ただし、それなりに意味の通った、いまだに理解のできる代物。言葉の羅列を耳にするだけでこの先に存在する『奴ら』の生前の職業が警官であり、避難路の確保の途中でやられ、そして警官内には拳銃携帯命令と発砲許可が下りていることを知ることができ、なおかつ殺しをためらっていたことまでが完全に理解できる程度に、その意識は明瞭だった。

 どうなってる? 何がどうあれば言葉もろくに解せないはずの『奴ら』が意味の通った言葉を発することができる?

 これではまるで、生前の記憶が残っているかのような………

 ………まさか、そうなのか?

 だがそうでもないと、あの個体の特異性が説明できない。あいつの存在が理解できない。

 事象というものはそこに存在する以上、それを確かであると認める必要のある概念である。つまるところ、現実以上に説得力のある証拠はない。

 間違いない。

 ………連中の中には、記憶のあるやつまでいる………!

 つまり、ただ無作為に襲い掛かるだけではなく武器を用いて攻撃することもできる。ドアノブを捻って開けることもできれば、鍵のかかったドアを単体で破壊できる。銃が撃てるということは、もしかすると『奴ら』内での連携もできるかもしれない。由々しき事態だ、このままでは脱出どころか、生存すら危うくなる。


 ―――― ドガン!


「くっ」

 また発砲。これで四発目。ここから動けない今、接近されるとかなり厳しいことになる。


 ―――― ザッ ドガン!


 足音と同時、牽制のように一発。これで五発。リボルバーならあと一発で、オートマティックならあと十発程度で、弾が切れるはず。見た感じ身にまとっていた制服は日本警官のもの、となると緊急時に特別なものが支給されていない限りはあと一発ほどで弾が切れるはず。

 そうなれば、こちらから攻めることも可能なはずだ。

 この際物音は目を瞑るしかない。あれだけ反響させた後だ、いまさら多少の物音を挙げたところで、たいして変わる由もない。


 ―――― ザッ カチッ


「!」

 一歩の音と同時、響いたのは金属の稼働する音、のみ。

 判断は一瞬、壁から一気に身を躍らせ、通路へと移動する。

「みんかんじんかくにん保護するるる食べタべ食べるおなか空いたたたたべる食べる食べ食べたた食べ―――!」

 繰り言を繰り返す警察制服をまとった『奴ら』。銃を放り捨て白濁した右目を見開き奇妙に飛び出した左目を向け爪がはがれところどころ肉の抉れた腕を全開に引き伸ばしこちらに迫る。拳銃は手元にあるもののただ持っているだけ、落下防止用のストラップがなければ落としていてもおかしくないような、そんなわずかな引っかかりを見せているだけの状況だ。

 もはやこうなってしまえば、脅威でも何でもない。

 こんなのは、ただの、

 昔のオレの、日常だ。

 迫ってくる『奴』、明かりは十分、音を気にする必要性もない。その状況下で、オレは手元の金属バットを振り上げ、

 走るほどの勢いではないものの、足早に接近してくる『そいつ』に狙いを定めて、

 何の容赦も、何の感覚も抱かず、

 ただただ単純に、『そいつ』の脳を破壊するべく、

 全力を持って、振り下ろした。


 ――― ごちゃっ!


 手元に伝わる確かな破砕の感触。落下の音は湿った響きを持ち、一撃を持って『そいつ』から考える能を奪う。

 一瞬にして奇形に歪んだ表情、光の失せた片目、辺りに飛び散る血液――壁に、床に、天井に、張り付いている。内側には粘性の高い液体以外の肉片を含み、一撃しただけにもかかわらずバットは血潮にまみれる。

 確かに、確かな、確かすぎる、撲殺の感触。

 悪くない、ああ、悪くない。

 これが命の略奪。何の感情も抱かずに行ってしまった、社会生物最大の禁忌。

 だが、内側に湧いた感情は、確かな実感。

 間違いない。

 オレは今、眼前でくず折れる警官の死に、人というものの確かな崩壊の感触に、自らが行ったという実感に、確実な快楽を抱いている。

 それは紛れもない、破壊に対して酔う快楽殺人者のごとき――――


 ――― かたん。


 硬質な落下音で正気に戻った。

 突然響いた、金属の落下音。それに反応し、足元を見る。

 そこにあったのは黒鉄でできた十七センチほどの全長を持つ破壊の力の権化、一撃で人間一人を確実に無力化することも不可能ではない、武器の筆頭系。

 この警官の用いていた、拳銃だった。


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