纏ヶ丘 明日香 国際学校 教室 午後六時十二分三十八秒
「桜花!」
その姿を視認した瞬間、あたしのなかから周囲の世界が消失した。
ベネル・マスタートル、あたしのクラスの中でも過去に謎が多い事で時折話の種にされるその人物の背に背負われた桜花に一気に駆け寄り、その安否を確かめる。
「大丈夫だ、明日香。気絶してはいるけど、噛まれちゃいない」
言いながらベネルは桜花の小柄な体躯を床へゆっくりと横たえた。
「っ」
その矮躯の脇へとひざまずき、確認するのはその身体的なダメージの確認。出血はないか、露出した部位に蛇などの牙痕は存在しないか、頭部に打撃痕は、各部に骨折は、呼吸器などの内臓系統にダメージは、痣などの損傷は――――
「燈!」
わからない。眼に見えた損傷はわかっても、内蔵や毒物、衝撃に対する損傷度など眼に見えない部分、すなわち最も早期に発見するべき場所のダメージがわからない。解らなければ訳には立たない。役に立たないのならあたしにやれることはなにひとつない。だからこそ、あたしは他人に頼らなければ成らなくなる。自らの力で判断する事が、出来なくなる。
すぐさま燈が桜花の隣、あたしの正面へと膝を突いてしゃがみこみ、桜花の身体の各所を確認する。首元、瞳孔、脈拍、呼吸数、その他の身体的な情報を測定しているのだろうが、あたしにはそれが良なのか悪なのかもわからない。
わからないわからない。
わからないこと尽くしが、今のあたしなのだろう。
だから、
「…………うん、大丈夫」
その一言、あたしにとっての大事な人の安全が確認できた一言に、思わず崩れ落ちるほどの安堵を得てしまった事は、不思議ではないと思う。
「たぶん脳震盪と、寝不足――じゃないかな。ひょっとしたらナルコレプシーかも知れないけど、そうだとしてもじきに起きると思う。特に怪我もないみたいだし、大丈夫だよ」
「そう――ですか」
言いながらあたしは立ち上がり、教室を見回す。
窓から入ってきたベネル、礼先輩、田ノ里さんは机にもたれかかるようにして座り込み、それぞれの武器を手放しておらず、その三人を連れてきたハリスは窓から身を乗り出し、隣の教室を伺っていた。
「なあ、ハリス――――」
「なんだ、ベネル」
机にもたれかかったまま、ベネルが言う。
言いながらもその眼は手の中のリボルバーへと向いており、装備の確認に余念がない。それだけ警戒をしている、と言う事なのだろう。発砲したのは間違いない。
「………あいつら、一体何なんだ?」
「それがわかるなら、俺たちのほうが知りたいぐらいだ。俺だって出くわしたばっかりなんだ、知ってるほうがどうかしてる」
「…………確かにな」
言葉と同時、ハリスが教室の中へと目線を戻す。そのままベネルに向かって手の中の銃のグリップを向け、
「とりあえず、こいつは返すぞ。相変わらずいい銃だった」
「当たり前だろ。残弾は?」
「四発。予備はなし。そっちは?」
「こっちも四、予備なしだ。先輩は?」
弾の再装填を行っているのだろう、こちら、すなわち教室の前方に背を向けていた礼先輩が振り向きもせず、
「予備含め、残りは十発。12ゲージの散弾だ、長持ちはしない」
「つまり、武器は少ないってことか………」
そのあたりは、同感だ。現在の生存人数はあたし含め、ベネルにハリス、田ノ里さんと桜花に燈、望、隔と碇さんと礼先輩の合計十人。今のところ使えるとわかっている武器が拳銃二挺、散弾銃一挺、鉈が一つとネイルハンマーが一本だけ。捜せば他にもあるのだろうが、そのどれもが間違いなく打撃武器であり、おまけに銃の弾丸数は明らかに足りていないのだ。武器事情は、かなり逼迫しているといっていい。おまけに………
「ああ、ついでに言っておきますとこの教室のドアもいつまで持つかわかりませんよ。一応釘付けにしてバリケードになるようにはしていますが、全力で向かってこられれば間違いなく壊れるでしょうね」
「ならここにいるのは間違い、ということになるな」
ガッシャン。装填の終わった散弾銃をコッキングしながら、礼先輩が立ち上がる。
「俺はこの先、この島からの脱出を目指させてもらう。このクラスの方針は今のところどうなっている?」
言われてあたしは一歩前に出、
「一応、一名を除いて脱出で意思は固まっています」
「一名?」
怪訝な声を上げるベネルに、ハリスが顎でその『一名』を指し示す。
「な、なんだよベネル」
「いや……その判断は懸命じゃない、としか言いようがない、と思って」
「どこがだよ!」
激情に駆られ、立ち上がる碇さん。ああなれば、恐らく徹底的に言い聞かせなければ意思を変えるまい。
内心であきれ果てながらも表には出さず、あたしは言う。
「先程も言いましたよね? このバリケードは長く持ちそうにありませんし、武器も食料も救助が来ると言う保障もないんです。それどころか、事態が認知されているかどうかも怪しい。そんな状況下で、この場に留まり続ける事が懸命だと言えますか?」
「………それは――――」
「それに、言っとくぞ単。俺もハリスも、この場に残るつもりはない。それどころか、全員が脱出に意識を固めてるんだ。この場において残るって言うのは、独りでこの場を持ちこたえるって事だぞ」
「ぐっ………でも、バリケードだってもっと強化すれば――――」
「無理ですね。机程度でどれだけ強化しても、ドアが破られる可能性がある時点で破られる事は自明の理です。逃げたほうが、得策だと思いますけど?」
「だけど!」
碇さんが更に言葉を連ねようとしたそのとき、
「――――ぅ……ん?」
足元の桜花、その身体がうめくようにうごいた。
「桜!」
動いた、と言う事は間違いなく生きていると言う事、意識を取り戻そうとしている、と言う事。つまり、この場において動ける人間が増えたと言う事だ。そうなってくれれば、この先更に脱出は容易になるし、何より、
………よかった…
生存、無傷、その事実が体に染み渡ってくる。生まれてから数年後、それ以来ずっと一緒にいた、かけがえの無い友達。その人が、今こうして生きていてくれると言う事。
それだけでも、今のあたしには嬉しい。
「……あれ? 明日香…? ここ、は……」
薄らとだけ開いた焦点の合わぬ目をあたしに向けながら、もれたのはか細い声。
島の外の暗い記憶、その全てを振り払うような安堵を帯びつつ、あたしは答える。
「学校です。あたしたちの教室の中ですよ」
「え? でも、確かわたしたちキャンプに………」
焦点の合っていなかった目が、力を帯びる。ピントが定まり、そして、
「っ! そうだ、確かわたし崖に落ちて……!」
「大丈夫です。怪我はありません……よね? それに、今は学校です。無事といえるかは………わかりませんけど」
「??? どういうこと?」
状況の把握がうまくいかないらしく、困惑顔だった。
まあ、それもしょうがない。
気絶から立ち直った人間と言う物は状況把握が出来ず混乱するもの、それもあんな状況で意識を喪失したのだ。ここまで冷静なだけでも、たいした物だと言える。
まあ、もっとも。
『奴ら』を視認したあとでもその冷静さが長続きするかは、別物だが。
「桜、廊下の外、そっと見てください。ベネル、ハリス、先輩、何かあれば、よろしくお願いします」
あたしの一言に、窓際の三人が力強く頷いた。手の中の銃が握り締められるのを見、あたしは桜を窓際へと導いた。
そっと、廊下の窓から外をうかがう。
「わわわわわわわっ!」
「静かにっ」
「でも、でもあれってまるで映画に出てくるみたいな………」
ゾンビ、あるいはリビングデット。
その認識に間違いはない。だが、恐らくそれは正確でもないだろう。何しろ、恐らく龍美はあの瞬間も、そしてああなった後も恐らく――――
「に、逃げないと。ここに居たら、危ないんじゃない?」
「一応バリケードはありますし、しばらくは大丈夫ですよ。ここで姿を見られれば、どうなるかは解りませんけど」
廊下をうろつく『奴ら』の数は眼に見えて増えている。六体が八体に、八体が十四体に、十四体が二十体を超え――――それ以上を数えるのを、あたしは断念した。
多すぎる。これでは隣の教室へ逃れられたとして、廊下から脱出するのは困難だろう。
あたしは立ち上がり、皆のほうへと向き直る。
「さて、桜も目覚めましたし、この先どうするか、決めるとしましょうか」
言ってあたしは教室の隅へと移動した。
そこにあるのは、前方車両組の持ち込んだキャンプ用品。四つが山と重なったそれらの中から一つをつかみ出し、中央付近の机へと中身をぶちまけた。
「おい明日香何して――――」
「わかるでしょう碇さん。あたしたちに足りていないのは武器なんです。そしてここにはキャンプ用具とはいえ、使いようによっては武器になるものがいくつかあるでしょう?」
例えば、鉈だ。
今回のキャンプは人数が多くなる。人数が多くなればそれだけ必要になる物が多いと言う事であり、更に言えば薪などの現地調達物資などの加工にかける時間も多く必要になる。だからこそ作業時間短縮を図って、鉈は二三本、確かに持っていたはずなのだ。
一本は、既にある。
ならば残り一本は、あるいは他の武器として使える物は、
確かに、この中にあることになる。
がちゃがちゃと中身をひっくり返し、使えそうな物を机の上に並べていく。小型のアーミーナイフが四本、割と大降りの鉈が一丁、調理用の包丁が二本、ジッポライターが四つ。次の荷物からはネイルハンマーが一つと、かなり太目の釣り糸が一巻き。残りの二つの中身は食料品で、出てきた物と言えば人数分の携帯食料が一日分と、同じく人数分のマグライトだけだった。
「………とりあえず、使えそうなのは以上ですね。見てもらえばわかると思いますけど、武器が足りません」
ベネル、ハリス、先輩、由梨絵は除外するとしても、ここにいる人間は六人。ここにある武器は四つだが、そのうちの二つ、包丁はまず使い物にならないだろう。最大限に用いてせいぜいが感覚器官の破壊か肉を切り落とす程度にしか使えないはず。頭を破壊する事は、まず不可能と言っていい。
「ああ、僕の分の武器は結構ですよ。僕にはこの、両の拳がありますからね」
「でもツムラ、それだけであいつらに対抗できるのか?」
「おそらく、ですけどね。脊髄を破壊すれば、間違いなく動きは封じられるはずですから」
ハリスの言葉に、あたしは納得の意を込めて頷いた。
熟練された武道、人体を破壊する為の対術において、『首をへし折る』事はたいした難易度ではない。確かに隔ほどの腕ならば人間の首をへし折る事程度は簡単だろう。それなら、武器は必要ないといっていい。
「あと、注釈になるな。ベネルの持ってる銃、あれは弾がほとんどない。武器としての価値は弾を補給しない限り低いぞ」
「ああ、でしたらあの二挺はきっちりと使える人に使ってもらいましょう。下手に使い慣れていない人間に渡して無駄撃ちされても、弾が無駄になるだけだ」
隔のその一言に、教室の端で諦観を決め込んでいた碇さんが舌打ちする。狙っていた、のだろうか。が、彼の銃の腕前では素人に毛が生えた程度。渡すわけにはいかない。
「ならベネルが適任だな。俺にはハンマーもあるし、撲殺には慣れてる」
「あとちょっと聞きたいんだが、女性陣はどうする? 単独行動、ってわけじゃねぇんだろ?」
望の一言に、あたしはうなずきを返した。
「ええ。とりあえず、女性陣は男性陣の誰かと行動を共にする事にしましょう。とりあえずは全員での団体行動になりますけど、最小単位を決めておけば行動しやすくも成りますし」
「だったら俺は由梨絵とやらせてもらう。いいな」
「………ん」
ベネルの提案に、田ノ里さんが小さくうなずきを返す。
「だったら、私はハリスと」
「俺と?」
「うん。ここまで、一緒だったから」
「なら適役だな。俺はこれでいい」
いいながら、解りやすくするためだろう。ハリスが燈の隣に並ぶ。
「ああ、でしたら僕は久敷さんを担当させていただきます。お互い小柄なんで、通れる隙間も多いでしょうし」
「だったら、あたしは望とにしましょうか。かまいませんか?」
「オレでいいなら、喜んで」
よし、これで男女の問題も解決。残りは、
「武器は、どうしましょう?」
「とりあえずオレとしちゃ、二人組のどっちかは絶対に武装必須だな。でないと離別しちまったときに武器なしのペアが出来ちまう。そうなったら、そのペアは終わりだ」
だとすれば、あと絶対に武装が必要になるのは望と碇さんのみということになる。なら残った武器はペアのバランスを考えて渡すとして………
「で、だ。それに関してちょっと頼みがある」
「なんでしょう?」
望が指し示したのは、教室後方のロッカーだった。
「端のロッカー、教員用の物置ロッカーの鍵、開けてくれ」
「? どうして、ですか?」
「いいから」
ならもう聞くだけ無駄だろう。ポケットから『道具』一式を取り出し、ロッカーの前へと移動、鍵穴に『道具』を差し込む。
僅かに動かし、把握したのは『構造』。どこに何がありどうなっているのか、その構造が手の感触からありありと脳内へと転写される。下側に突起、それを押さえて――四本、上から押さえるバーが存在している。長さはまちまち、が、長さが把握できてしまえばこんな物、
開けられないほうが、どうかしている。
所要時間は、八秒あったかなかったか程度だろう。
それだけの時間を持って、端にすえつけられた鍵付きロッカーはその中身を晒していた。
『特異点』。そう呼ばれるのは好きではないが、これもある種の『特異点』であるのは確からしい。
あたしがもつ才能は『技能』、その中でも手先の感覚を必要とする『単純機械』に対して、あたしは強烈な才能を発揮している――――らしい。らしいと言うのは、あたしにとって手先の感覚から構造を把握できるのは、目で視て風景が見えるのと同じぐらい自然に出来る事、これといって誇る必要のない感覚だからだ。
が、世間にとって見ればそうではないらしい。
時間さえかければ、ピッキング不可能の鍵でさえ開けてしまえる。
それは、世間にとって見ればそれこそ『化け物』に等しい事だと。
そう認識したからこそ、あたしはここにいるのだ。
「………さすが」
小さな口笛と共に望が賞賛し、ロッカーの中身を手にする。
ロッカーの中身は、金属バットだ。
全長約一メートル、直径約六センチ。試合用なのか練習用なのかはわからないが、少なくとも全力で打撃すれば人間の頭部などひとたまりもないと思わせるような、そんな武器。
「アルの野球好きも普段は迷惑だが……今ぐらいはありがてぇ」
言いながら軽くバットを振るう。野球好きの担任との体格差だろう、若干振り回されるような形になってはいるが、それでも威力は――十分すぎる。
「オレの武器はこれでオッケー。あとは……碇だな」
「………ですね。碇さん、鉈とハンマー、どっちを取りますか?」
「――――なんでおれに聞く?」
不機嫌そうに、碇さん。感情的に成りすぎているため、だろう。普段の気さくな様子がまるで見えない。
そんな事は意に介さず、あたしは答える。
「いえ、単純に桜が武器慣れしていないんで、どちらをとっても同じになるだけです。なら、まず単独行動である碇さんに希望聞いたほうが合理的でしょう?」
「………そんなもん、いるわけねぇだろ?」
………何を言い出すかと思えば。
まだそんな下らない事を盲信しているのかと思うと、呆れるより前に賞賛してしまう。
「――一応聞くぞ、何故だ?」
「決まってんだろ。ここは少なくとも安全なんだ。見ろよ。廊下のバケモノどもをな」
言いながら気取った仕草で、教室の前方入り口、『奴ら』の腕が転がる場所へと移動する。
一応釘付けにされているとは言え、その向こう側には今なお『奴ら』がこちらへ侵入しようと動き回っているのだ。安全な事とは言いがたく、またいつ何時こちらの臭いを嗅ぎ取って殺到してこないとも限らない。
「見ろよ! はは――これだけぶつかってんのに、入ってくる気配もねぇ。このドアは頑丈なんだ。わかっただろ? 下手に外に出たりなんかするより、ここに居たほうがいいに決まってる!」
「愚作だ。少なくとも釘付けにした程度で完全な防備とは到底言えない。連中が蹴りの一撃でも入れれば、間違いなく壊れるだろうな」
「はは! 変わってるとは思ってたが、そんなおかしなこと言い出すとは思いませんでしたよ先輩! 見ての通り、連中は低脳だ! 窓から入ればいいのに、ドアにしかよってこない! 加速つけることも出来ないし、蹴ったり殴ったりなんかできようはずがないだろ!」
いや、それは違う。たとえ燈でなくとも、その程度は理解できるはずだ。
『ドアにしか寄ってこない』と言う事は、『その他の出入り口を知らない』のではなく、
『それが出入り口だと、理解している』ということ。
つまり、
生前の記憶が、ある程度存在していると言う事に他ならない。
早い話、連中がガラスを叩き割って入ってきても、全くおかしくはないということだ。
「………わかってませんねぇ…」
やれやれ、とでも言いたげに隔が首を振る。
「いいですか? 連中は確かに低脳でしょう。単純な話、行動は単一で動物的ですし――他人と同程度の知能を持っている、と考えるほうが馬鹿らしく思えます」
「だろ?」
「ですが、だからと言ってここが破られない事には直結しません」
その一言で、碇さんの顔色が一気に失望へと変じた。
意に介さず、隔は続ける。
「連中は低脳、いいでしょう。加速を付けようとはしない、それも問題ありません。ですが、僕の懸念材料は一つ。それは、『連中がどの程度低脳なのか』、この一点です」
「あ」
何かを理解したのか、桜花が声を漏らす。
「どうやら久敷さんは理解してくれたようですね。そして恐らく、その理解で正解です」
「何が言いたいんだよ!」
満足げに微笑む隔に、碇さんがとうとう激怒の一声を上げた。
冷静に、そして突き放すように、隔は言葉を続ける。
「単純な事ですよ。低脳、その言葉の示すものは『人よりも低級な知能を持つ存在』、その程度の意味しか存在しないと言う事です。例えば鶏。彼らは脳の大きさが極めて小さいため、その行動の中に見られる行動はきわめて原始的、つまりは本能的なものがほとんどです。
ですが、同じ『低脳』と言う言葉をあてがわれている生物には、オランウータンやチンパンジーといった、中型霊長類の存在もあります。そして、彼らの知能は人間で言うところの――――不知火さん、お願いします」
「え? え~と……通説じゃ、四歳程度……かな」
「――だ、そうです。事実、それらの実験VTRの最中において、彼らは学習活動を行い、錠前を開ける事さえもやってのけた。
つまり、彼らの低脳はどの程度の物なのかがわからない。今まさに学習活動を行っていて、突入の機会を虎視眈々とうかがっているのか、あるいはただただ獲物を求めて前進しているだけなのか……そのどちらかがわかりません。
安全の保障は、どこにもありませんよ」
「…………」
彼の解説に、碇さんは、沈黙した。
確かに、そうなってもおかしくはないと思う。盲信していた安全、その全ての前提条件が打ち破られ、今まさに連中が教室内へ侵入してきてもおかしくない、という現実を把握したのだ。今までどおりに自信満々の行動を取る事も出来なくなり、結果彼の中では二つの選択肢の中を揺れ動く。
このまま、ここが安全だと信じ続けるか、
それとも、自ら動いて安全を手にするか。
内容は違えど、その選択肢の結果は同じ。成功すれば『安全』、失敗すれば『死』だ。
それも、相当むごたらしく不完全で、尚且つ安眠すら許されないような。
強烈なまでの、死が待っている。
「どうしますか? 碇さん。この場に残るというのなら、僕たちは止めません。僕たちは僕たちで脱出を目指しますし、仮に救助がやってきたのだとしても恨むつもりはありません。逆に、ここから脱出する事を選択した場合でも僕たちは責めません。選択は、全てゆだねますよ」
いって、彼は曖昧に首を振った。
碇さんは、沈黙する。考えているのだろうか、あるいは、言い負かす為の言葉を捜しているのだろうか。まあ、どちらにしたところであたしたちには関係がない。今のうちから準備を始めておかなければ、いつ何時何が起こるのかもわからな――――
―――― バギャッ!
その瞬間が視認出来たのは、いかなる偶然だろうか。
そう、それはまさに一瞬の出来事。
教室のガラス、私の手で釘付けにし、臨時のバリケードとしたそのドアの向こう。『奴ら』で満ち満ちた廊下のドアを、『奴ら』が、
突然走り寄ってきて、そのまま全身全霊の力で突撃を敢行した『奴ら』の中の一体によって、いとも容易く打ち破られたのだ。
そして、『奴ら』は。
当然のことのように、そこに存在していた最も狙いやすい獲物を狙って、殺到する……!
「あ、あぁぁあああああぁぁああああああぁあ!」
「阿賀おふぁしすれいしえかまいっばけいしえ」
「赤いるしえねめしつけいさいちょしまい:」
「だ明日下おぎええぁおっさ、ざやうまいせ」
「単!」
碇さんの断末魔の叫び、『奴ら』の奇声、望の絶叫。
まるで、映像を見ているかのような気分だ。人の形を持った、ただし絶対に人ではありえないものがなだれ込んでくる、いつもの場所。
「ああああああああああぁぁぁぁぁぁ!」
そんな『奴ら』の中に引きずり込まれ、その体を引き摺られ、引き千切られ、噛み千切られ流血し分決し絶叫する、自分たちの仲間。その姿は彼らの渦中へと徐々に飲み込まれていき、その体はそれに伴い原型を喪失していく――――
誰もパニックを起こさなかっただけ、僥倖だと言えるのかもしれない。
だからこそ………
「由梨絵!」
「ん!」
「燈、窓だ!」
「え、うん!」
「久敷さん! いきましょう!」
「え、えぇ?」
「明日香! こっちだ! 後方出入り口!」
先程定められたペアを持つ者はその相方と共に行動すべく動き出し、
「くっ………窓、しかない、か」
唯一の相方持たぬ人間、すなわち礼先輩は己の判断に従い、即座に窓へと移動、その向こうへと姿を消す。
あたしは自らのペア、望の下へと移動するべく教室を横切って……
その、途中。
見覚えのある顔によって、その動きが、止まった。
とまって、しまった。
忘れもしない、日に焼け衝撃によって鍛えられ、精神によって引き締められた、特有の顔立ち。強さと芯を感じさせながらも見るものを決して威圧する事のないその顔は紛れもない、つい先程あたしたちの前から『人としての姿』を消し、そしてもう二度とその姿を現すことのなかったはずの人物、
早川龍美、その人だった。
「たつ――――」
「市明日加盟散りえうりちょしま、ぁいああいじせい」
その一声、怪物としての声によって、名を呼ぼうとしたその声が止まった。
ついでやってくるのは、逃走への意識。が、既に教室内の半分には『奴ら』が満ち満ちており、あたしの今ここ、この正面にいる『一体』までその侵入は広がっている。だったら今ここで一人を待たせるよりも、あたしの独力で………
「ふっ……!」
判断はまさしく一瞬。思考の直後、正面からあたしを捕食せんと迫った『一体』を正拳突きで姿勢を崩し、一蹴して転倒させる。日曜空手とはいえ、案外やれるものだ。本格的にやってみるのも、悪くないかもしれない。
思いながらも、『奴ら』の向こうへと目線をやる。
教室後方出口、そこに立ち尽くすのはあたしの相方である望の姿。手の中には金属バットと、いつの間に拾い上げたのかマグライト。表情は混乱で、どうするべきか決めあぐねているようだ。
「行ってください! そっちからは無理です!」
「だが、お前はどこから――――」
「窓! 下へ逃げます!」
机の上、散乱した荷物の中からロープを拾い上げる。長さは十分、太さも申し分ない。
………まあ、問題はくくりつける時間、だけど………
あたしのこの位置からでは隣の教室へ逃げる事は出来ない。残りのメンバーも、既に脱出した後だ。いい判断だと思う。とにもかくにも自助、守るのは先程決めた一人のみ。それ以上は、やらない。信用とも、あるいは冷徹とも取れる行動だが、あたしは前者を信じたい。
思いながらも接近してくる奴らを尻目に、窓の向こう側、そこに存在する梁へと身を躍らせる。
時間はない。この程度の障害、『奴ら』にとってはないも同然だ。急げ。自身を叱咤する。束ねられた縄を解き、伸ばし、端を手繰り、端を窓の境目、そこに存在する桟に結びつけ、強度を確認――――
足元の縄を、踏みつけた。
「あっ」
新調された縄は、その表面がかなり滑らかになっている。また使い込まれていないが故に、その強度はかなりのものだ。潰れて安定性を取る事も、表面の摩擦によって停止する事もなく、縄はあたしの足元で転がり結果……
浮遊感を全身が襲う。
下方からやってくる風が、体に心地よい。が、そんな感覚よりも今は重量から解放された違和感のほうが勝り、平衡感覚が消失する。
高速で景色が上へと流れていく。眼に入るのはいつもの校舎、中庭から見上げる校舎の壁そのもので、その足元には生垣が……
思い出したと、同時。
あたしの体は、普段からでは考えられぬほどの衝撃に襲われた。