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ハリス・レイン 国際学校 一階 午後五時五十七分二十二秒

 校舎の中は、静寂に包まれていた。

 一見すれば学校とは思えないほど開かれた、廊下。右側には開放的な雰囲気を持つ山を背景にした広場が広がり、左側には宿直室への入り口が存在する。

 いつもなら、賑やかな風景が存在するはずの裏庭。

 今はただ、静寂のみがそこに存在する。

 一切の音が途絶えた、耳がおかしくなりそうな静寂の感覚。それにさいなまれながらも、俺は脚を進めた。

「………どこ、いくの…?」

 後方から燈。ここまでくるのに多少無理をしたのか、その声音には疲労が色濃くにじみ、普段の燈であれば倒れていてもおかしくはないと思わせる。かく言う俺も、ここまでの道中はかなりこたえるものがあり、今すぐにでも座り込んでしまいたい欲求に駆られていた。

 が、そんなことをするわけにはいかない。

 今は一刻も早く、救助を見つけるべきだ。

「……校舎抜けて、体育館。有事の時は避難所になってたはずだから、間違いなくどっちかの救助隊がいると思う」

「……なら、早くいこう」

 言いながら俺の前に出る燈。

「……無理するな、燈」

 ここまで到着するのにかなりの距離を、しかも普段では考えられないほどの重量を背負ってきたのだ。仲間が目の前で崖下に落下するという風景を見た直後で精神的な疲労もあるはず。はやる気持ちはわからないでもないが、

「疲れてるんだろ、無理するな。ここまできて倒れられたら、元も子もない」

「でも、ここには救助隊の人もいるはずでしょ? だったら別にここで倒れたって、すぐに助かるんだから別に――――」

「まだどこにいるかもわからない、ここに救助隊が駐屯してくれているのかもわからないのに?」

「っ………それは……」

 言いよどんだ燈に畳み掛けるように、俺は更に言葉を連ねる。

「まだどうにかなるって決まったわけじゃない。その可能性が、あるだけ。それを忘れないでくれ」

「………っ…うん」

 納得してくれたのか、歩くペースを落とす燈。

「…………」

「…………」

 訪れたのは、ただひたすらな静寂。何も音がしないがゆえに歩を進める際に発生する小さな音は壁と天井によって形成された箱の中において久遠に反響し、ともすれば己の息遣い、心臓の鼓動、耳元を流れる血流の音さえも反響してしまいそうで、どことなく落ち着かない。

 一歩進むごとに背中で荷物がガチャついた音を立て、一歩進むごとに硬質な音が辺りに響き渡る。何もせずとも俺と燈の荒れた呼吸音やわずかな衣擦れの音まで響き渡るため、この場は正確に言えば『静寂』とは呼べないのかもしれない。

 だが、と俺は思う。

 少なくとも、ここは静寂だろう。

 普段では騒がしいはずの廊下なのに、普段では自分たちとは違う世界を見る人間たちによってそれなりに騒がしく、それなりに楽しい世界が形成されているはずなのに、

 今は、こんなにも『静』かだ。

 そして、普段あれだけ騒がしいのに、いきなりこんなに静かになってしまうと、

 それはそれで、とてつもなく『寂』しいものがある。

『静』かで、『寂』しい、この空間。

 これは、まさに『静寂』の空間と呼ぶにふさわしいのではないだろうか。

 思いながらも、俺は廊下の眼前、一階の渡り廊下への扉へ目をやる。

 ガラスの嵌ったステンレスの引き戸によって閉ざされた、体育館への最短ルート。

 その先には、恐らく避難所になっているであろう体育館が存在する。

「ハリス、急ごう」

「燈、だから落ち着け」

 ここまできて疲労も何もないだろうが、一応は気をつけたほうがいい。何しろ、この学校は校舎まで含めてかなり古いのだ。あれだけの規模で地震があったのだ、眼前の引き戸が――――

「………あれ?」

 開くという保障すら、ない。

 俺の懸念どおり、眼前の引き戸は燈の手によって引かれながらも、微動だにしなかった。

 全力で引こうともその戸は一切口を開けず、ましてや外れることもない。それは明らかに、この扉が扉としての役割を放棄した証でもある。

「………開かないか?」

「うん。引っかかってるみたいで、ぜんぜん………」

 とりあえず俺も早足で歩み寄り、引き戸を引く。

 確かに開かない。何かで引っかかってしまっているかのように、何かで止められてしまっているかのように、引っかかっているという次元を通り越して上から押さえつけられているかのごとく、引き戸は動かなかった。

「………地震の時に、フレームが歪んだか………?」

 ありえないことではない。一般住宅のドアや窓も、地震の際には枠が歪んでしまい、開かなくなることが多々あるらしい。

「開けられないの?」

「無理だ。サッシ自体が歪んでる。建物全体に押さえつけられ照るようなもんだから、絶対に開かない」

 いいながら俺は引き戸から離れ、さらに校舎の奥へと足を向けた。

「とりあえず、二階の渡り廊下から体育館だ。あそこ、ふだんから開きっぱなしだろ? 地震があっても、たぶん大丈夫なはずだ」

「うん………」

 しぶしぶ、といった風に燈も後ろに続く。

 校舎の構造上、階段はそう遠いところにない。

 開かなかった体育館への最短ルートの扉、その少し手前に、階段はある。

 日がおちた状態で照明もなく、また窓からも向きの関係でわずかばかり残っている陽光が届かない階段は暗かった。無灯火で昇降することも不可能ではないが、疲労が堆積している現状ではあまり利口な策とはいえないだろう。

「燈、ライト」

「あ……うん」

 すぐに背に担った荷物を降ろし、ごそごそと荷物を探り、

「………はい」

 手の中にやってきたのは使い慣れた金属の小さな棒の感触。握りの太さ、表面の感触、スイッチの位置、全てにおいて使い慣れた、マグライトの感触だった。

 即座に点灯し、前方の階段を照らし、

 そして赤い色によって光が帰って来た。

「!」

「ひっ………」

 思わず身が一歩、後退した。

 息を呑んだ燈をかばうように、俺はゆっくりと目を凝らす。

「…………血、だな」

 正面の階段、踊り場のすぐ直上でライトの燈を生々しく反射する赤い液体、それはインクや調味料の類でなければ間違いなく血液の持つ特有の照り返し。よくよく辺りに感覚を向けてみれば階段から数歩離れたこの位置でも血の残り香が漂ってきており、紛れもなく踊り場に存在するものが血液であると照明してくる。

「………行くぞ」

「……うん」

 おっかなびっくりとした様子ながらも、燈が後ろに続く。

 階段を一段一段、ライトで照らしながら上っていく。

 一段ごとに多くなる血液の飛沫。

 一段ごとに濃くなる血液の臭い。

 靴底で血液を踏まぬように上昇する事は一段上るごとに困難を極め、また俺もそうであるが故に踊り場の直前になれば血液を踏まぬように歩行することをあきらめる。

 目に入った踊り場は、酷い有様だった。

 階段から誰か転落したのだろうか、踊り場から更に上昇するための階段、その最初の一段の辺りから血液はど派手に円を描き血の池を広げ、表面に薄っすらと膜を作りながらも広がりを止める事はできず、結果踊り場より下の段へと紅を滴らせている。

 恐らくは、地震の際に転落した人間がいたのだろう。

 今ここにその屍がないのは幸いというべきだろうか、恐らくこの場にその屍が残っていたとしても、およそ人間とは認識できまい。

「…………誰か、死んだの……?」

 こわごわ、というように踊り場の一段下から血の池を覗き込む燈。

「………だろうな。まだ乾ききってないし、量も多い。多分地震で、誰か落ちたんだろう……」

 言いながら階段の上のほうへライトを向け、観察する。

「…………妙だな?」

 そこで、気付いた。

「……何が?」

 怪訝な表情でこちらを見る燈。俺はそのまま気になった場所、踊り場のやや上の階段の辺りへ移動し、それを照らして手招きする。

 血の池を飛び越え、燈が覗き込んだもの、それは、

「………血の、足跡……?」

「ああ、それも一人分だけな」

 上へと続く、それは血の足跡。スニーカー、男物と思われるサイズ、割と新しい、などが見て取れるそれは転々と血の池から上へと続き、廊下へ向かってどこかへ消えている。

「………これの、どこが変なの……?」

「血の足跡があること自体は変じゃない。問題なのは、血の足跡がこれ一つしかないってことだ」

「………?」

 疑問符を表情に浮かべる燈。

 しょうがない、一応、説明しておくか。

「人が死んだら、普通運び出すだろ?」

「うん。特に救助隊がいたら、担架とか使って……」

「そしたら、人は何人要る?」

「最低でも、二人」

「この出血量だ、血の跡を踏まずにいられると思うか?」

「………ううん」

 首を振る燈。

「でも、踊り場まで降りなかったってことも………」

「いや、ありえない。人の死体が思いのほか重いのは知ってるだろ? それこそ、二人ががりでもないと運べない程度には……」

 何度も持ち上げたことがあるから、実感を持っていえる。生命を、自らの身を自らで支える力を消失した『人間であったもの』は生きている人間を運ぶことに比べると考えられないほど、重い。

「……じゃあ、この足跡って…?」

「……さあな」

 普通に考えれば出血具合の少ないうちに運んだ、想像を飛躍させれば死体自ら歩いた、などが考えられるが、今はどうでもいい。

「とにかく、今は体育館だ。行くぞ」

「うん………」

 足跡から視線を切り、階段を再び上る。

 二階へ到着し、廊下へでて、左へ。

 体育館への渡り廊下は、目前である。

 と、その廊下のど真ん中。

 そこで、見た。

「早川!」

 廊下の真ん中、ふらふらとふわついた足取りで歩くどこかだらしない印象を漂わせる一人の少年、それは俺のクラスメイトであるところの、その人だった。

 俺の声に気付いたのか、体育館への渡り廊下、その入り口のドアの正面にいた早川が振り向く。

「お前がここにいるってことは、前方車両組は無事だな? 良かったよ、本当に………俺たち以外の後方組、全員崖から落ちて…残りの奴らは、どこだ?」

 早川は答えない。生気のない目でこちらを見つめ、よろよろと近寄るばかりだった。

 ………おかしい、な。

 早川龍美、その性格は単純であるが他人を不快にさせる事はない、はっきり言ってしまえば豪快な性格をしている。そいつに限って、あわや死に掛けてまで再会した奴に無反応って事はないはず。

 と、なると………

「お前、もしかして怪我でもしてるのか?」

 よく見ると目に生気がないばかりではなく、顔色も悪い。顔ばかりでなく、手足の血色もよくないし、それによくよく見れば服の右肩のあたりに血が滲んでいる。

「! おい早川………その怪我、大丈夫かよ? 前方組の奴らは救急か………とにかく、救急隊はどこだ? いるんだろ、ここに」

 早川は答えない。ただよろよろと接近するばかりで、俺の問いに答えないどころか、俺の言葉に反応すら示さない。

「………早川………………?」

 明らかに様子が変だ。

 ………悪ふざけ、か?

 いや、早川に限ってそんな事はしないはず。

 なら、なんだ?

 怪訝に思い、俺は早川の正面まで移動、その左肩に手を伸ばし、

「おい、早か――――」


「うぇあおあおあおあおあおおおお!」


 奇声と共に早川が俺にしなだれかかり、俺の両肩を万力のような力で掴んで押し倒してきた。

 その力は右肩に怪我を負っているとは思えないほど強く、そしてその声は人間が発声したとは思えぬほど奇怪。精神的に気圧されながら異常な力をかけられたことにより、俺の体は支えを失って後方に倒れ、床に叩きつけられる。

「あひひゃきらゆけめいあしはいぇうりえ」

「くっ………おい! 早川! 何のつもりだ!」

 混乱状態のまま大口を開け俺に喰らいつこうとせんばかりに両腕に力をこめる早川を引き離さんとする。

 が、

 ………強すぎる!

 その体に俺の体を引き寄せる力はまさに強力無双。肩を掴む手の強さも今までの早川のことを考えることもなく、人の領域の中に治めて置けるかさえもわからないほど強烈なものだった。

 当然、俺一人で引き剥がせるような力では、ない。

「燈!」

 少なくとも時間稼ぎが必要だ。全力で早川の体を遠ざけんと両肩を掴んで全力をこめる。

「何でもいい! とにかく、一撃で気絶させられるようなもんで早川をぶん殴れ!」

 俺のその指示、それに対する返答は、

「え………? そんなこと……」

「わからないのか! どう考えたって早川は普通じゃない! 引き剥がしてもまたこうなるだけだ! だからとにかくっ……なんでもいい! ぶん殴れ!」

「あ、うん!」

 俺の意図を理解したのだろう、足元のほう、階段のあたりから何かを探るような音が聞こえ、

「龍美君…………ごめん!」


 ―――― ごちゃっ ――――


「はへいぇ…………」

 奇声と何かを振り下ろすような風切り音、それに加えてスイカを割るような軽い音と肩を押し返していた手に伝わる衝撃と同時に………万力のごとき早川の力が一気に虚脱する。ずっしりとした重みを感じる肉体が俺の身体にもたれかかり、頭部から流れ出た僅かな血液が俺に降りかかる。

「…………すまん、助かった」

 言いながら身体の上の早川の身体をどかし、身を起こす。背を少し打ったのか、僅かに鈍痛が走るが、無視できないほどではない。

「……ねぇ、ハリス……」

 早川の背後、ネイルハンマーを手にした燈へ目を向ける。

 震えた体、わななく声音。顔に浮かぶは恐怖の色だろうか。

「龍美君………死んだの……?」

「………いや」

 立ち上がり、早川の後頭部を見下ろす。

「少なくとも……お前の一撃じゃ気絶しただけだろうな」

 見下ろした後頭部、そこにあるのは小さな陥没症。ネイルハンマーの一撃によるもの、だろうか。僅かにへこんでいるのが見て取れるが、致命傷ではないはず。出血もおとなしいし、脳を欠損させたようにも見えない。

 問題なのは、頭部ではなく………

「なあ、燈」

「何………?」

 早川の脇へしゃがみこみ、その胴体、正確には腕の左腕の付け根の辺りを見る。

「この位置にある『これ』、何だと思う?」

「……………え」

 俺の示す部位、そこにあるのは怪我である。大型の裂傷、になるのだろうか。とにかく左腕の付け根、脇の下と呼ばれてしかるべき部位が下側から何かに食いちぎられたかのように、なくなっているのだ。

 燈はしばし、俺の隣でその部位を見つめ、

「……何かに、食いちぎられた見たいに見える、けど……」

 俺の隣にしゃがみこみ、傷口を確認する燈。おっかなびっくり、と言った様子ではあるが、特に嫌悪などは浮かんでいない。

「………なんだろ…食いちぎられ方から見て肉食系の歯の付き方で間違いないと思うけど……大きさがあわない。野犬でもないし、猫系でもない……大きさから見て結構な顎のサイズだと思うんだけど………少なくともこんな風な歯の付き方で、こんな大きさの動物って、居なかったと思うんだけど………」

 おっかなびっくりの様子ながらも、冷静な分析を続ける燈に、俺は、

「……強いて、一番近い骨格の動物あげれば、なんになる……?」

「骨格モデルの写真見ただけだからなんともいえないけど……形だけ見ればオランウータンとかチンパンジーとか、類人猿系だと思う」

「……類人猿系、か」

 ………と、言うことは…

 いやな考えが、俺の脳裏をよぎる。

 類人猿とよく似た骨格を持ち、この傷口と同一のサイズを作り出せそうな生物。

 その存在に、俺は一つだけ心当たりがある。

 個体数約六十億体、生息域は地球全域、生活様式は生態系とは無縁の身勝手なもの。そう、その存在は、俺と同一種族で早川とも同一種族であるところの人間――――

 ………ありえない。

 その思考を、俺は頭を振って強引に脳から追い出す。そしてそのまま俺は立ち上がり、

「燈、ネイルハンマーよこせ」

「え?」

「もしなんか壊す必要があったとき、俺が持ってたほうがいいだろ」

「あ、うん……」

 立ち上がりながら起用にハンマーを一回転させ、ネイルハンマーの柄を俺に差し出す。そのまま受け取って血液を払うように軽く二回ほど振り、

「…………いくぞ。渡り廊下、このさきだったよな」

「ハリス……龍美君はどうするの?」

 進みかけていた身体をくるりと振り返らせ、

「…………おいてく。治療するにしたってわざわざ背負ってくより、俺たちが救助呼んできたほうが早い」

 言葉の後に再び前へと足を向ける。

「行くぞ。だいぶ時間食った」

「うん。わかった」

 言うが早いか、俺のペースよりもわずかに速いペースで歩き始める燈。

 その後ろで、俺は懸念材料を検証する。俺の持つ懸念材料、それは早川の怪我のこと。

 脇の下には上腕筋の腱が通っている。これがあるが故に人の筋肉は神経の命令に従って伸縮させることで骨格の稼動が、つまりは各部の行動が可能になるわけである。これが骨から外れていた場合、それはつまり歯車からクランクが外れたようなもの。命令が届き筋肉が収縮しようとも、骨が稼動しなくなる。

 だが、しかし。

 あれほど大きく左脇の下を食いちぎられていたのに、早川は動いた。

 左腕を普段の数倍の力で動かし、俺に襲い掛かってきた。

 しかも、脇の下は急所であるにも関らず。

 あれほど深く食いちぎられていれば、通常貧血で動くことすら儘ならないはずなのに。

 彼は、動いていた。

 ………一体、何が起こってるんだ?

 思いながらも足は進む。

 場所は、既に渡り廊下の存在する廊下の手前。

 考える間もなく、目的地は眼前である。

「ハリス! 急ごう!」

「おい待てよ燈………」

 俺の制止の声も届かず、燈は眼前の角を駆け足で曲がっていく。当然、俺もその後を追って急いで角を曲がることとなり…………


「………っ」

「なっ…………」


 そしてそうであったが故に、

 その声を上げるのも、同時だった。

 ありえない、理解できない、ありえてはならない、理解の仕様が無い。そんな思いが俺の中へと満ち満ちる。満ち満ちた思いは俺に現実を認識させるのを阻害し、結果として俺の意識は一瞬だけ白紙の中へ落ち込んだ。

 白紙に戻った意識、そこに書き込まれるのは音。


 ―――― ぐちぃ にちゃぁ ぶちっ くちゃくちゃ ――――


 生々しく生々しく血なまぐさく血なまぐさい、そんな『生肉の咀嚼』以外の何者でもない音。

 白紙に戻った意識、そこに書き込まれるのは臭い。

 鉄錆にわずかの腐肉の臭気を混ぜたような、それは死肉の臭い。

 白紙に戻った意識、そこに書き込まれるは光景。

 その光景とは、すなわち。

 スーツのような服を身に纏って床に横たわった人の上にのりかかる人。

 スーツを纏った人影は盛んに頭部を横たわった人の腹へうずめ、なにやらぐちゃぐちゃとやっており、

 床に横たわった人は微動だにせず、

 ただただ辺りに、赤い色を広げている。

 そう、それはつまり。


 人ガ、

 人ヲ喰ッテイル。


 それ以外の風景には、見えないような光景…………


 絶叫しなかったのはいかな偶然か、はたまた今までの経験が導き出した結果なのか。

 俺はゆっくりと、極限まで音を抑えた動作で完全に絶句している燈の手を取った。

「っ!」

 思わず息を呑んだ燈に、俺は手だけで指示をする。回れ右、遠回りして、体育館。

「…………」

 こくり、と燈が頷く。俺はその手を握ったまま、しかし右手の中のネイルハンマーをいつでも振り下ろせるような位置に構え、くるりと方向転換し――――


「やたいぢめいるづえいぃふぃえいげいあいじょおおあだだい」


「な……に……」

「うそ………」

 今度こそ、俺は絶句した。

 俺たちの、背後。俺たちが今まで歩いてきた廊下、そこから姿を見せたのは先程の早川と同じような姿形を持った人間。が、そのどれもが。

「めいかきえけぃめか。ぞかめんしづすへひょがしめにぶぐふさずしぃ」

 生きている人間の姿、ではない。

 先頭を歩く人間、そこには腸を護る皮膚が無い。

 その後ろを歩く人間、そこには世界を認識する眼球が無い。

 更にその隣をあるく人間、そこには首を支える筋肉が無い。

 生きているはずが、ない。

 歩いているはずが、ない。

 そんな、奇形たち。

 そんな、

 歩く、屍たち。

「………………くっ」

 意識が白紙と化さなかったのはいかなる偶然だろうか。

 俺は三体のそいつらがやってくる廊下へ燈の手を取ったまま背を向け、今まで背を向けていた先程の奴がいるほうへと一気に駆け出した。

 あの存在が何なのか、どうしてああなっているのか。

 そんなことはもはや問題ではない。

 重要なのは、あいつ等が人の道理で計れるような存在ではないということ。そして、

 ………つかまったら、食われる…!

 目の前で見せ付けられた、それは紛れも無い事実。早川の取った行動、今目の前の一体が食っていると言う現在進行形の証明、紛れも無くそれらは彼らが人食いであるということを示し、そしてつかまれば最後、あの強力から逃れることも出来ず、食われる。

 それだけは、避けねばならない。

 燈の付いてくれる速度まで全体的な速さを落とし、しかしそれでも十分な速度でもって廊下を走りぬけ、食事に夢中になっているそいつの脇を抜ける。

 そのまま体育館へは、行かない。もし行ったとしても引き戸が開くというう保証はないし、そもそも体育館へ到達したとしてもそこが安全であると言うことすらもわからないのだ。

 だからこそ、

 俺は体育館への渡り廊下の前を走り抜け、廊下を走り続けることを選ぶ。

 角を曲がり、廊下の奥、非常階段を目指――――

「ぐちゅヴぃかいあしふぇいだすしあさいあぃぢじゅかしくまなね」

「くっ」

 ――――そうとして、その先の廊下に居た三体のそいつらを回避するために後方へ方向転換、その先に存在してくれた階段を駆け上がり、三階へと逃げ込む。

 が、


「何!」

「こっちも?」


 階段を上った先、正面と左へ続く廊下にいるのは奴ら。ゆっくりと、しかし着実にこちらへの距離を詰め、俺たちを逃すまいと踊り場へ追い詰める。

 なら、階下へ。

 そう思って階段を引き返そうとして、

「くそっ!」

 階下から迫る、正面の廊下に居た奴らに気付く。

「ハリス! もう逃げ場が………」

「いや! 手すりから下へ!」

 言いながら、すでに階段直下まで迫る奴らへ目を遣りつつ踊り場の手すりへと飛びつく。

 手すりと手すりの隙間は結構大きいのだ。荷物を捨てれば、俺と燈の二人程度なら階下の踊り場へと逃げられる。

 そう、思ったのだが………

「畜生!」

 覗きこんだ階下の踊り場、そこに満ちるは四体の奴ら。夢遊病患者を思わせるふらついた動きで踊り場を動き回り、こちらの存在を認知することはしていないものの、それでも間違いなく、階下への逃走は不可能だ。

「燈! 下がれ!」

 眼前まで延びた奴らの腕をハンマーで殴りつけて回避、そのままじりじりと距離を保つために後退するも、やがて俺の背にひんやりとした壁の感触がやってくる。

 眼前には奴らが満ちて、

 後方には壁しかない。

 手の中に在るのは頼りないハンマーが一つきり。

 逃げる道は無く、

 戦うすべも無い。

 しかし、

 ………俺は、こいつを……

 今にも泣き出しそうな表情で俺の手を握り締める燈。

 ………連れ出さなきゃ、ならない。

 明るみの中へ。

 恐怖と暴力の無い、幸いの中へ。

 だからこそ、

 だからこそ俺は、この瞬間においても前へ進むことを選択し、

 一時的に燈の手を離してハンマーを振り上げ、僅かに五歩の距離を全力で移動して、

 正面の奴らの頭部にハンマーの一撃を、

 叩き込――――


 ―――― ドガン! ドガン! ドガン!


 む、その寸前。

 とどろいたのは三つの銃声。

 正確極まりない狙いで、俺のハンマーを今まさに受けようとしていたその一体以外の奴らが倒れ、階下からあわや踊り場へ到達しようとしていた一体の脳天へも鉛弾をお見舞いする。

 そして一瞬遅れで俺の手の中で人の脳髄をたたき砕くおなじみの感触。奇声とともに正面の一体が倒れ、開かれるのは三階への逃走ルート。

「ハリス! こっちだ!」

 声の主、階段を上ったその先の廊下に屹立する一人の少年が指し示すのは己の背後。落ち着いた雰囲気、女性的な顔立ち、すらりとした細い手足に特徴的な半端ポニーテイル。それらの示す特徴は紛れも無く俺たちの仲間の、

「すまん望! 燈! こっちだ!」

「え、うん!」

 燈の手を再び握り締め、俺は階上の少年、二坂にさかのぞむの後へと続いた。


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