二坂 望 島警察署 地下一階 午後七時二十一分0一秒
とりあえず復活です。
ネタ詰まり+多忙化でかなーり遅くなりました。
頭上のハッチを連想させる蓋を押し上げ、周囲の音に耳を澄ます。
――――静寂、沈黙。
生きている者の緊張も、死んでいる者の繰言もない。
「………」
マグライトを加え、蓋をスライドさせて進路を確保、バットを背負ったまま梯子を上り、暗闇の中へと身を進める。ぬるりと這い出るような挙動で地下道から這い上がったそこは、古びた紙片特有の香りと埃が色濃く滲む広大な部屋だった。
背に担った金属バットを手中へ戻し、あたりをぐるりとライトで照らす。
ファイルがぎっしりと収められた棚の数々、点灯していない吊り下げ型の蛍光灯。並んだデスクは小さく古び、漂わせる雰囲気は明らかに未使用、少なくとも個々数週間は使用された形跡がない。
忘却の中に追いやられたかのような、古びた書庫0.
置かれたものは多く死角も多いが使われていないが故、人の痕跡も、音もない。
室内は、無人だった。
「…………ふぅ」
息をつく。少なくとも這い出た先が死体安置所、という最悪は避けられたらしい。この騒ぎが始まってからどころか、脱出路の傍であるというのに日頃の出入りもなかったのか、室内の空気は澱んでいる。澱んでいる、と言うことはすなわちここが安全であることの証左だが、それは暗に『脱出路を使う人間がいない』と言う光景すらも容易に想起させるもので――――
「…………」
最悪の光景が脳裏を掠める。非常事態警報が発令されていないという事実、脱出路が使われていない現状。それらが意味するところつまりこの警察署はすでに――――
「……………いや」
考えていても、仕方がない。
元々そうなっているのは覚悟の上、警察署が死んでいようが人間がどれだけの数死んでいようが、オレにとって必要なことは変わらない。
バットを手挟み、ベルトの隙間から金属塊を引き抜く。
ひやりとした金属の感触、ずっしりとした重み。レンコン状の弾装が取り付けられた小ぶりな拳銃は、暗闇の中でもその存在感を隠さない。
弾は五発、予備が二十発。非常用としては十二分。略奪品としては十五分、つまりは必要最上級。
武器は、大丈夫だ。
真っ暗な部屋の中をぐるりと睥睨し、周囲へとライトを向ける。
暗がりでも届く武器が手中にある実感が行動を大胆にさせる。慎重さをかなぐり捨てた動作で身を回し、周囲の状況を把握するための行動へと走った。
………何かの、資料室。それもさして重要度の高くないもの。
パッと見で判断できる情報としてはその程度。ここに脱出通路が置かれていた、ということは少なくとも有事の際に避難してくるはずだった箇所であることは間違いないはずで、となると一般人の目に触れて困るような資料の保管に使っているとは到底考えられない。
そして今が有事にもかかわらずここには誰もいない、と言うことはやはり警察署全体が機能として死んでいるか、あるいは、
………この部屋に入れなくなったか、だな。
棚の間を照らしながら、歩く。浮いた床板が思った以上に足音を響かせるが、周囲に動くものはない。どうやらこの部屋は、本当にこの騒ぎが始まった直後から開かれていないらしい。いや、それどころか埃の積もり具合から察するに、遥かそれ以前から開かれていないようだ。
密閉された部屋、開かれていない出入り口。
立てこもることも、できるかもしれない。
………冗談、だな。
オレが来た目的は緊急事態であるための警報を発令すること、使える限りの設備を使って仲間たちと合流することだ。確かにここにいれば安全ではあるが、それでは意味がないのだ。
他人任せには、しない。するつもりも、ない。
……閉ざされた日々を思い出す。この島に来る以前、自らの異常性を理解し、理解した上で選び取った閉塞の空気。身の振り方すら自身の思い通りにはできない不自由な、しかし安定だけは存在していた平和な日々。
――――自分でできることを他人に任せるのは好きじゃない。
いつだったか、そう友人たちに告げたことがある。自分の世界を作るのは自分の認識だ、自らの手の届く範囲は自らの手を伸ばし、世界を広げていくべきだと。
痛感した過去の事象が告げさせたその言葉。刻まれているのは記憶。自らの手でできることを他者の手に任せていた、その結果。
オレにとってはそれは日常だ。手に馴染んだ鈍器の重み、金属の冷たさ。幾重にも幾重にも塗り固めるように手の中に刷り込んだ、記憶と言う名の認識だ。
そして――今ではその認識がありがたい。
その認識のおかげで、今こうしてオレは一人でいられる。
一人の暗がりでも、一人の死地でも、可能な限り冷静な判断をもって選択肢を選び抜ける。
「…………おっ」
歩き回って少し、棚の隙間からみえた壁に、ドアを見つけた。
駆け寄ってノブに手を伸ばす。
……内鍵がかかっていてドアが開かない。ドアに耳を付けてみても、向こう側から音もしない。どうやら地下も安全と見てよさそうだ。
内鍵を外す。ドアノブをまわす。
「………なるほど」
思わず苦笑が浮かんだ。
まわしたドアノブに、手応えがない。それどころか内鍵も、壊れている。どこかに噛みあっている様子もなく、ただまわされるがままにくるくると動くばかり。納得だ、確かにこれでは、入りようがない。出ようがない。
さて、どうするか――――
地下道に戻る、と言う手もある。地下道には警官がいた、ということは地下道を探せば別の出入り口もあるということでもある。そちらから入れば、おそらくすぐに人に出会うこともできるだろう。
だが、その道は――――
「…………時間の無駄、だな」
現状優先するべきは身の安全、次いで時間だ。地下道が安全である保障はない、探す時間も無駄でしかない。
バットを手挟み、拳銃を抜き出す。
触れたドアの感触を確かめる。ひやりとした肌触り、がたがたと震えるばかりで開かない壁。閉ざしている原因は壁に刺さった二つの突起。
――――これなら、『毀せる』。
認識し、納得する。確実にやるための場所はノブの隣、そこを破壊すればいい。
銃口を突きつけ、劇鉄を起こす。一度だけグリップを確かめ、握るその手に力を込めなおし、
撃った。
一発、二発、三発、四発。
木っ端が飛び散り閃光が閃く。轟音が轟き部屋に反響する。機構が壊れ、もはや金属片だけで閉ざされているに等しくなったそのドアを、全力で蹴飛ばす。
―――― ゴキャッ!
木枠を抉る鈍い音と共に、ドアが猛烈な勢いで開いた。
木っ端が飛び散ったその後を踏みしめ、暗がりの部屋から非常灯の点った廊下へと歩を進める。
「………」
一発だけ弾が装填された拳銃を、廊下の左右に向けた。
――人影、なし。物音、なし。
強いて上げれば天井近くに取り付けられた監視カメラの首振り音、それ以外は自分の立てる物音だけがこの廊下の物音のすべて。
我ながら幸運だ。構えた銃をおろしながら思った。 一応物音は確認したとは言え、頭の切れる『奴ら』の待ち伏せも考えなかったわけではない。いなかったのは幸運、廊下の左右に並んだドアの向こうから物音がしないこの状況は、さらにありえないレベルでの幸運だ。
弾装から空薬莢を抜き出し、リロードしてベルトへ。喧し屋の出番は一時終了、この先しばしは物静かにいこう。
………さて。
非常灯の薄い明かりにマグライトの明かりを加え、廊下の奥へ。
左右のドアに目はくれない。基本的に警察で管理する武器は自分たちの目に止まりやすい箇所、つまり階上の部屋へ保管するのが常だ。地下に有用なものがあるとは、考えにくい。次いで考えるなら常用施設、特に通信関連の設備は順当に考えれば階上にあるのが普通で、それはつまり探すべき警報発令のための施設もまた……
「……上、だよな」
目標確定、探すべきは階段。常用非常用の種別は問わず。
灰色が充填されたような狭い通路を、彷徨うように。
反響する足音、監視カメラの発する虫の羽ばたくような奇妙な音、微風が奏でるわずかな擦れる音。その中で唯一の動的な音を立てるオレと言う人物は水溶液の澱のように浮かび上がっている。
―――― カッ…… カッ……
足元に移った陰影、じー、とこちらを見つめる監視カメラの無機質な瞳。空気は重く軽く、のしかかるように包み込む。
生き物の音はしない。
清潔なリノリウムの上、歩く音だけがどこまでも現実的で、そして同時にその音がオレの現実感をいやおうがなしに削り取っていく。
たちの悪い悪夢のようだ、と柄にもなく思った。夢から切り離された現実は夢の中ではただの異物、この場でのオレは間違いなく異物である以上、その認識は、間違いではないだろう。
やけに頑健なドアの前を通り過ぎる――。
――『犬舎』。音はしない。
両開きの扉の前を通り過ぎる――。
――『検死所』。音はしない。幸運だ、と素直に思った。内臓剥き出しの『奴ら』のパーティーにお邪魔はごめんだ。
そのまま、いくつかの部屋を通り過ぎる――。
――『倉庫C』。
――『留置所』。
――『第二犬舎』。
――『旧証拠品保管室』――――
どこもかしこも、音がない。
まるで、この施設の中で一人になったようだ。
人一人犬一匹見当たらない無音の灰色の中、階段を探し通路をさらに奥へと進む。
―――― カッ…ッ…… カッ……ッ…
おかしな通路だ。階段が見当たらない。地下だからそれほどの面積はないと思っていたが、なかなかどうして広かった。通路は一度L字に折れ、見えている先でもさらに折れている。と、言うことは階段は曲がった先あたり、だろうか。
―――― カッッ……… ッカッ………
「…………?」
足音が、変だ。
歩く音が違う響きを孕んでいる。靴底に何かが張り付いたときのような違和感、しかしそれとはベクトルのズレた感触。そう、例えるならそれは、自分の足音に合わせて誰かが歩いているような、二重になった足音に対する違和感。
「……………」
ぴたりと、足をとめる。
チャキチャキと床を硬質に掠めながら歩くような音が耳を打った。
「っ!」
全身の血が沸騰した。
この音は知っている。学院でも耳にしたことがある音だ、記憶が感覚より先に理解する。この硬質に床を掠めながら軽快に歩を進める音、この音と同じものを、オレは何度も耳にした。
動物好きの桜花に付き合って聞いたこの音、これは犬がリノリウムの上を歩くときに立てる音。
………なんてこった。
よりにもよって、犬。気付くべきだった。余裕のない現状、当然放置されているはずの警察犬が収容されているはずの犬舎の中から犬一匹動く音がしなかったというその事実に。
非常用通路が使われていなかったのも納得だ。地下にいまだ残されている『犬』がいるとなれば、いくら警察機関とは言えど入りたくはない。おそらくその事実に気付いた直後に地下をまるごと閉鎖したのだろう。犬舎のドアは、おそらく開いていたはずだ。
チャキチャキと、足音が迫る。
ぎりぎりと、手の中でグリップが擦れる。
どくどくと動悸、ふぅふぅと荒れた呼吸、滲んだ冷や汗が服を肌に張り付かせ、視界がわずかに閉塞する。
ライトに照らされた明るみの円。
通路の奥から足音が滲み出る。
チャキチャキチャキチャキチャキチャキチャキチャキチャキチャキチャキチャキチャキチャキ――――チャキ、
照らされた円の中に、鼻が。(――――チャキ)
頭が、胴が、脚が、(――チャキ)
腰が、尾が(――チャキ)
姿を、見せた。
ドーベルマン、至極一般的な警察犬。洗練された黒の痩躯、短い毛に覆われた全身。スマートなシルエットは不要なものをそぎ落とした機能美、凛々しい目は臆病さをひた隠すための牙を携えた獰猛な色。
通路の奥からその姿を現したのは、そんな姿だった。
――――そして、拍子抜けする。
普通だった。
『奴ら』と同じ姿となった犬を警戒していたが、その犬は余りにも、普通だった。
肝も出ていない、筋肉も見えていない、パーツも欠けていない、見える限りでの内臓の異常もない、至極普通な町でも見かけることのある、犬。
見ようによっては愛嬌すら感じる姿で臭いを探るその姿は、警戒に値しないと結論できるほど、脅威がなかった。
「………はぁ」
全身に凝り固まっていた緊張が溶けて、力が抜けた。
どうやら力を入れすぎていたらしく拳が痛い。全身の筋肉にも若干の凝り。余りに強烈な警戒の反動に、自分でも呆れる。確かに犬は脅威だが、何もここまで警戒することはないだろう。開けてびっくり玉手箱。眼前の明かりの中、壁に向かってふんふんと鼻を鳴らしながら歩いていく犬の姿は、どこからどう見ても普通の犬だ。
「そもそも、なんで犬なんだよ……」
ホラーの定石は猫だ。それも三毛猫のようなマイナーな色と相場が決まっている。それが犬、それも天下の警察犬、ドーベルマンだ。連中と再会した時の土産話は確定。状況としては、あまりにもシュールに過ぎる。
一歩二歩、警戒を解いた姿勢のまま犬へと近づいた。普通の犬なら害はない、少なくとも脱走しただけの犬なら攻撃してくることもない……は…ず…………
待て。
理性が警鐘をならす。落ち着け、冷静に考えろ、常識を思い出せ。オレはここへ来るまでに何をした? 発砲四発、ドア破壊一枚、空薬莢を四つ捨ててシリンダーを音を立てて開閉し、少なくとも結構な足音を響かせてここまで来て、犬の眼前を明かりで照らした。
なのになぜ、犬は気付いていない?
どれだけ鈍い人間でも何かがやってきたと理解できるはずの状況で、人間より高感度な感覚器官を持つはずの犬が、それも銃声に対して体制があるはずの警察犬が反応できない?
そして――――どうして今犬は壁の方へと歩を進めている?
明らかにおかしい。一件普通なこの犬も、考えてみれば普通ではない。
よくよく犬の姿に、目を凝らす。
耳の中から人間の指が生えていた。
「っ!」
一度は見逃した、ちいさな異常。目の前の犬、その大きな三角耳から小さく先端を覗かせている肌色。見間違えでもなんでもない、硬質に光を照り返す爪と丸みを帯びた先端とわずかな指紋までも認識できた、ソーセージのようなその肌色は、紛れもなく人間の指であった。
そして、気付く。その目、緊張の緩みから安堵すら感じた犬のその目は犬のものなどではなく、青の虹彩と開かれた瞳孔も生々しい、死んだ人間そのものの目である、と。
耳から生えた人の耳、成り代わった死人の目。
ふんふんと鼻を鳴らし狂人のように壁へと突き進むその犬は、間違いなく『奴ら』と同類の何かである、と。
脳が、ようやく理解した。
「…………っ」
再びの警戒、手中のバットを振り上げじりじりと距離を詰める、その寸前。
犬の顔が、こちらを向いた――――
「………?」
刹那に一つの疑問が浮かぶ。犬の目は間違いなくオレの顔をとらえた、人間であると認識できるはずの距離に接近した。にもかかわらず、どうして襲いかかってくるということをしないのだろう。
疑問が連鎖し、発見へと至る。発見その一、犬の目が白濁している。人間でいう白内障、だっただろうか。とかく、あの目では風景を見ることはままなるまい。
発見その二、耳から生えた指が完全に耳孔を塞いでいる。おそらくは鼓膜までまともに音が伝達されていまい。
そして、つまるところ。
眼前の獣は、視力聴力の両方において、世界を認識できていない。
「…………」
それならば、と思う。
じりじりと距離を詰める。振り上げたバットは振り上げたまま、照らしたライトは照らしたまま、その皮膚へと触れぬよう慎重に距離を詰める。
犬は、気づいていない。気づくための感覚が喪失している以上、それは当然。捕食のために獲物を探る犬は、その獲物の接近に気付かぬままその身を危険へと近づける。
そのまま一歩、二歩、三歩。
犬の真上。胴体を見下ろす位置。
ライトを咥え、バットを両手で握りこむ。
そしてそのまま、バッドを素早く振り上げ――――振り下ろす。
そのはずだった動作は、
―――― ッッ!
突然躍りかかった犬の前足によって、制止を余儀なくされた。
「くっ!」
身をひねり、襲いかかった犬の爪をかわす。ライトを口から左手に戻し、床を通路奥へと転がって犬と対峙、する暇もなく飛びかかられた。
位置は右腕、武器は牙。獲物を砕く獣の兵器。見えぬ聞こえぬはずの犬の顎は、しかしオレの腕の位置を違うことなく飛びかかる。
ぐるりと身を起こしながら身をひねった。
腰に掠る獣の体毛、脳裏に掠める疑問点。無数の疑問が浮かんでは消え、消えては浮かんでいく。飛びかかってきた、どうやって認識した、見えていない、聞こえていない、五感、視聴嗅触味、妥当なのは嗅覚、匂い、強烈なもの、なぜ右腕ばかり、右腕、手にした物体、バット、その表面。
べっとりと付着した血糊。
翻るように動いた、先ほどの一瞬。
『感覚っていうのは、脳の情報処理なわけでしょ? つまりコンピューターとかと一緒で、どこかの負荷が軽くなるとどこかの性能が向上するわけ。だから盲目の人は二次的な感覚である耳がよくなるし、立体音響で状況把握する能力にも長ける、触覚も鋭敏になって、普通の人には難しい点字も理解しやすくなる。見えないとか聞こえないっていうのは全体からみると欠損だけど、各感覚にとってはむしろプラスになる場合もあるの。高機能自閉症って聞いたことない? 原理的には、あれと同じかな』
わかりやすいようでわかりにくい、いつか燈に告げられた説明。見えていない聞こえていない犬。元来その嗅覚は人間の三十~四十倍ともいわれ、それがさらに鋭敏となっているのならこの状況も説明がつく。
犬は、こちらを認識しているわけではない。
ただ、こちらの発している血の匂いに飛びついているだけなのだ。
振りかざすバット、そのわずかな動作で空気中に飛散する匂い。それだけの情報で、犬は的確にこちらの場所を読み取って襲いかかってくる。入った瞬間襲われなかったのも納得だ。硝煙の匂いで攪乱され、埃の匂いが飛散した廊下では、血の匂いも遠くかすむ。
そして――――向こうがバット以外を狙わないというのなら、迎え撃つのは容易だ。
回避の足を止める。ひねった体のひねりをためる。
背中側から飛びかかる犬、狙いは右腕。見ることに長けていないオレでも、狙う場所が分かっていればカウンターは容易だ。
空中へと飛び上がった犬、その一瞬を、注視する。
全体、把握。直観する。頭ではなく胴。そこをつぶせば、一撃で終わる。
ひねりを解放し、全力で横殴りにした。
ごしゃっ、と。骨と肉をつぶした音がした。
びしゃっ、と。肉と血が飛び散る音がした。
壁にたたきつけられた犬、そこから漏れる血の量は杯。壁から滴り天井へ飛び散り、床に血だまりを作ってなお止まらぬ出血は、まぎれもなく死の気配。
――――特異点『弱点露見』。
構造、動き、雰囲気、そういった全体的な情報から、直観的にもっとも壊れやすい点を認識する、視覚認識能力の特化版。
『生命』として『殺害する』のではなく『物』として『破壊する』ために必要な大黒柱たる一点を全体から見抜く、物体に対する致命傷を見抜く特異点。
なぜだかは知らない。だがオレの目は昔から直観的に物を壊すということに関して異様なほどの才覚があった。
………いや、むしろそれ以外ができなかった、といったほうがいい。
物をいじると壊してしまう。何かを作ると壊れてしまう。
人とかかわると、壊してしまう。
幼少のオレにとって、世界というものはすべて壊すべきものだった。視界に入るすべての壊れやすい点がわかる、とは言っても、それがそういうものであると認識できるわけではない。今でこそそれをそれと認識できてはいるが、それは後天的な世界認識によって獲得した機能、初期から付随していたものではない。とにかくオレの目は、視界に入るすべての『物体』の弱所を直観的に認識し――――そして、それを壊すべきものであると認識してしまっていた。
その当時の認識を、少しだけ呼び戻す――――。
………いくら壊れにくかろうと、いくら速かろうと。
それが物体であり、認識の渦中にあるものであれば………
「………なんて、脆い……」
口から大量の血を吐き出し悶絶する犬を足元に、つぶやいた。
べっとりと血に濡れたバットを振るう。変異によって皮膚が脆くなったのか、あるいは骨が貫いたのか、バット表面は胴体を打撃しただけとは思えぬほどの血によって濡れていた。
背後、曲がり角の先の通路を覗き込む。
徘徊する犬が三体。見える限りでは足元のこれと同じ。これだけ血の匂いが充満した通路で、嗅覚はもはやオレを追うのに役には立つまい。奴らはもっとも単純に食せる獲物として、同胞の死肉を食らうだろう。
感慨は、わかなかった。
通路を通る犬に触れぬよう、音を気にすることなく脇をすり抜ける。
通路の先にあった階段を上り、上った先の階段から先をうかがう。
………音はない。となると、無人なのだろうか。
拍子抜けだ。緊急事態宣言が発令されていない今、内部は無数の『奴ら』で満ちていてもおかしくない。そう思っての来訪だったが、その心配は杞憂に終わりそうだ。
ゆっくりと、それでも慎重にドアを開ける。
瞬間、鋼の感触がこめかみに突き付けられた。