ハリス・レイン 市街地・東側大通り 午後七時十三分〇一秒
迫ってくる足音に、皮膚が粟立った。
「……っ」
「っっ――――」
背中で覆い隠すようにして、車と店舗の狭い隙間に燈を押し込み息を殺す。震える燈の体をしっかりと抱きしめ、泣き声にも似た声を漏らす口を手でしっかりと押さえ、目線は背後に、感覚は後方に、体はいつでも跳ね上げられるように緊張を満たし、二割り増しで鋭敏となった感覚の中、ひたすらに背後の足音へと注意を傾ける。
じっとりと全身が汗ばむ。ハンマーを握る手がこわばる。
燈の体の震えが増し、布の擦れるちいさな音を立てる。
表情が凍ったかもしれない。這いずるように歩く連中の足音のほか一切の音が立たないこの市街地において、布が地面に擦れる生命感のある音は非常に明確に響くのだ。たとえ神経が過敏になっているのだとしても、この音は恐怖を覚えるのには十分すぎる。
夜の迫った――いや、もうすでに周囲は半ば夜なのかもしれない。紫色の光が照らす町を控える背後、そこから迫ってくる……一人の人影。
「死刑名輔意義柄おかしめいぐめいうし、めいくえいか」
分けのわからない繰言が、明確に耳に届く。革靴と皮の擦れる異質な足音が背後に迫る。
背後に強引に回した視界の中、その影はゆっくりと、路肩に停止した車の元へと歩み寄ってくる。
………気付かれた…?
ぎゅっ、と、燈を抱きしめる。緊張のためか大荒れになった呼吸を抑えるため、口元に当てた手に自然と力が篭る。呼吸は苦しいかもしれないが、現状ではやむを得まい。
―――― ずり…ずり…
すり足の足音が、ゆっくりと背後へと迫る。
逃げ場は、ない。いざとなれば手持ちの武器でどうにかするしかないが、ここは市街地のど真ん中、リスクが高すぎる。
願うような一瞬一瞬、鼓動が、痛いほどの早鐘を打つ。
―――― ずり…ずり…
「はやくくくくどけどいあいぇいめいすぎきえいめいごかいし」
大きくなる繰言、近づいてくる気配。動くべきか…? いや、音に寄ってくるなら下手に動けばまさにそれは誘蛾灯、発見されたかどうかも不確かな現状では、余りにも危険すぎる。
だが、この現状が長く続いても、結局はばれるのではないか……?
―――― ずり…… ずり……
―――― はぁ、はぁ、はぁ、はぁ
迫ってくる足音と、燈の粗い息遣いが焦燥を煽る。日常生活ではまず間違いなく感覚することのない絶対的な『命に関わる恐怖』は人のホルモンに限界近い能力発揮を強要し、その結果乱れた血流は思考を低迷させ、疲労を加速させる。ある程度慣れた自分はいいとしても、めったにこんな状況に置かれることのない燈にとっては異常なまでの疲労だ。
早く消えろ……来るなら、来い……
長く続けばその分状況が悪化するだけ。それならばいっその事、早々に片が付いてくれた方が都合がいい。
―――― ずり…… ずり……
―――― はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ
背後、『奴ら』が車を回りこむ。
『奴ら』がまとったシャツの衣擦れも、腰から下げたチェーンの音も、すべてが明確に耳に届く。
そのままその『奴ら』は脚を止めず車を回り込むように歩を進め――――
―――― ガコッ……
たどたどしい手つきで、トランクを開け放ち首を突っ込んだ。
「っ」
「、。」
刹那、燈と目を見合わせる。こくり、と燈が頷き、音を立てぬように二人で同時に立ち上がった。
慎重に、可能な限り慎重に。
自らに言い聞かせるように、しかし自らの意思とは裏腹に挙動を逸る肉体を御すように、慎重に慎重に車から離れる。
行き先は考えない。とにかく、一度休める場所を――――
ちらり、と背後の店舗を一瞥する。
看板がなく、日常から余りにも乖離しているためよくわからなかったが、この店には覚えがある。確かここは、仲間内でもよく騒ぐときに利用したカラオケボックス。
「……、こっちへ」
「、うん」
風のささやくようなちいさな声音で言い交わし、そろそろと入り口のガラス戸を押す――――
軋みもなく滑らかに開いたガラス戸、その奥に広がる受付は無人、特に荒らされたようすも、人が死んだ様子もない。
「………」
緊張を保ったまま、受付横のちいさな部屋を目指す。閉ざされた入り口を開け、燈を先に部屋の中へ。受付ホールを警戒しながらドアを閉め、
「…………はぁ…」
「はぁ――――」
部屋の中のソファにもたれかかり、一気に安堵の吐息を付いた。
弛緩した皮膚が一気に汗を噴出し、予想外の疲労感にソファへ身を沈める。警戒を解くわけにはいかないが、この部屋は防音、かつ荒らされた様子もない。しばらくは大丈夫だろう。
それよりも問題なのは……
………時間、か。
もうすでに外はほぼ夜の色、いくらこの島の夜がほかと比べてやや遅くやってくるとは言っても、もうすでに時刻は七時を回っている。
遅かれ早かれ、闇の中を移動するつもりではいた。
だが、いくらなんでもここから鉈切さんの家まで移動するのにライト一本では、不安すぎる。
「燈……五分、いや、三分休むぞ……。その後にまた、市街へ出る」
「うん……でも、ハリス…。どうして市街なの?」
ソファから身をわずかに起こし、鉈をテーブルにおいて、燈が問いかける。その問いに、ハリスは、
「………ひとつは、距離だ。市街地の方が断然近い」
鉈切さんの家は学校から市街地をはさんで向かい側の丘の上、住宅街から思い切り外れた位置にある。普段であれば学生寮から市街地を突っ切り移動するため40分も歩けば到着できるが、そこが使えないとなると、必要となる時間は1時間を優に越える。
今が昼なら、その経路もあっただろう。
が、今は夜、しかも安全の保障された拠点もなく仲間も散り散りになり、満足な物資もない状況だ。
動くことは、懸命ではない。
だが留まるにしたところで、留まれる場所がないのだ。
ならば多少危険を冒してでも最短距離を突っ切り、体力と精神力の持つ間に安全な拠点へ移動することを念頭に置いたほうがいい。
「――――夜、か」
ポツリ、つぶやくように燈が言った。
「ああ、夜だ」
過去の経験からわかる。漆黒の満たされた町は得てして巨大な不安を孕み、襲い来る敵は魔性の恐怖を纏うもの。炎よりも執拗に沼よりも濃密に、闇は人の心を蝕むのだ。
今日ばかりは思う。夜なんて、来なければいいと。
だけど現実というのは得てして非情なもの、時間というものは容赦がなく、たとえそこをたゆたう者が何を考えていようと無関係に、海原へと押し流す。
「他には?」
「もうひとつは、事態を正確に把握しておきたかったのと……」
この騒ぎが島全体なのか、あるいは学校近隣だけなのか。避難は完了しているのか、それともいまだに避難はできていないのか。
「……あとは、住宅街を通りたくなかった」
「どうして?」
訝しむような目を向ける燈の疑問に、天井へ目線を向けたまま俺は、
「いつこの騒ぎが本格化したのか、わからないからだ」
「……?」
燈は無言で首を傾げた。
とりあえず身を起こし、燈と向き直り、問う。
「燈、『奴ら』の中で一番劣化が激しかったのって、何時間前の『死体』だ?」
「――え? え……と、でもあれって動いているし、皮膚の色とか死後硬直とかとも無縁だし、傷口の腐乱具合とかもいまいちはっきりしないから正確には……」
「それでいい」
言われて考え込むように顎にてをやる燈。目線がしばし、床の上をさまよい、
「………腐敗の遅い季節だし、常識が通じるかわからないから正確じゃないけど――――たぶん一日ちょっと。凝結の具合からだと、26時間以上、かな」
自信ないけど、と付け足す燈。
「十分だ。26時間前、今が大体――七時半、か。つまり前日の四時だ。この時間というと、俺達だと何してる時間だ?」
「え、この時間はいつも学校で、学校の人だと大体が部活動か帰ってるかで……あ」
はっ、と燈が目を見開いた。
そう、と俺は頷く。
「下手したら下校帰宅のラッシュで、住宅街が『奴ら』の大パレードになってたとこだ」
市街地は大抵わずかに混雑している程度で、道を選べばほとんど人口密度の差はない。が、住宅街となると話は違う。帰宅のために大勢の人間が集い、それでなくとも避難のために全員が一度は家を目指すのだ。
そして現状、自分たちの手元に武器はない。
ならば、通るのはAll or Nothingのギャンブルも同然。危険を冒してでも、それだけは避けたい。
「まあ、この辺も予想より多かったけどな」
「……うん」
わずかに笑みを浮かべる燈。表情には疲労がわずかににじんでいるが、それでもこの場で絶望しないだけマシだろう。
………よし。
立ち上がる。武器を再び手に取る。
「休憩は終わりだ。今はとにかく市街地をさっさと抜けるぞ。武器とか食料とかは鉈切さんとこにあるんだから、気にする必要もなし、急いだほうがいい」
「うん」
ついで燈も、少しふらついてから立ち上がり、血の色の付着した鉈を再び手にとる。
「ハリス、この先のルートは?」
言われて、少し考えた。
商業通り、駄目。時間によって混雑が大きく変わる。
娯楽通り、駄目。騒音が多く、ふらついた『奴ら』増大の可能性。
施設通り、難しい。現在地から遠すぎる。
となると、とるべきルートはわずかにひとつ。
「……飲食店の並びを抜ける。あそこなら、あんまり人の通りも変わらない」
主に観光客相手の店舗を展開する通りであれば人の波も余り変わらず、なおかつこの島は観光客は少ない傾向がある。
「とにかくそこから市街地を抜けて、それから鉈切さんとこだな」
「それだと……20分」
「30分だ。どうにか八時までに――――」
ドアノブに手をかけ、
「――――? 何の音だ?」
「え?」
ぴたり。動きが、硬直する。
静寂の満ちるカラオケのルーム内。防音という観点から作られた部屋は内側の音を外に漏らさず、結果内側にいるものは自らの音を増幅して聞くこととなる。
音は、電子音。ざらついたノイズ、錆びたような声。
おそらくは、英語だろうか。
音の出所は部屋の隅、隠れるように置かれた蓋つきの、ゴミ箱。
駆け寄って蓋を開ける。
そこに、無線機があった。
「…………」
思わず沈黙する。
ゴミ箱の中身は、ほぼ空だ。携帯栄養食の空き箱、タバコの空き箱に吸殻数本、9mmパラベラム弾の空箱。それだけでも普通ではない中身なのに、その上にさらに無線機だ。
無線機の電源は入っている。
音は、そこから吐き出されているようだ。
『――――ッ、Alistair! Alistar! Can you here me!? Reply!(アリステリア! アリステリア! 聞こえるか? 応答せよ!)』
言葉は英語、だが俺にとっては祖国語だ。理解は容易にできる。
無線、おそらくは警察のものだろう。手のひらサイズの小型の無線機を取り上げ、サイドのボタンを押す。
「Hello? I`m Halis=Rain,Student. Who is that? Grasp the Situation? (おい、俺はハリス=レイン、学生だ。そっちは何者だ? 状況は把握してるのか?)」
『What...? Why does a student appear? This should be police radio..... (何…? どうして学生が出る? これは警察無線のはずだ……)』
「I pick up the police radio from trash box in the Karaoke. Than such a thing...Is that one police? (その警察無線をカラオケのゴミ箱から拾った。そんなことより、そっちは警察なんだな?)」
しばし、無線が沈黙する。
そして、
『Yes. This is Island police. They hard to be said grasp the situation too. But......Were you able to be live?(ああ、こっちは島警察だ。こちらも事態を把握できているとは言いがたい。だけど……お前、生きてるのか?)』
「Can you listen my voice a Zombie? Of course I live, and not got caught. (俺の声がゾンビに聞こえるのか? もちろん生きてるし、噛まれてない)」
『It`s so. Sorry.(そうだよな。悪かった)』
「Don`t mind.(気にするな)」
互いに冗談めかしていい、笑いあう。が、この様子だと警察は権力機関としてはほとんど機能していないと見ていい。
が、それでもお互いに利用できることは確かだ。
「But I don`t want to stay long in worst place. Talking about the circumstances is postpone.OK? (だけど、俺もこんな最悪な場所に長居したいわけじゃない。事情を話すのは後回し、いいな?)」
『Of course. I don`t wanna hear it in such situation. Do you wanna know a safe date course? (もちろん。俺もこんな状況で聞きたいとは思わない。安全なデートコースを知りたいか?)』
「......Yes. (……頼む)」
『All right. Go to Central Park.There is the wreckage of the barricade which Special Force made. The Unit already raised,but there should be the motorcycle. You can drive,isn`t it?(了解。セントラルパークに池。そこに特殊部隊が作ったバリケードの残骸がある。部隊はもう引き上げたが、バイクぐらいあるはずだ。運転できるだろ?)』
「I don`t have license(免許はない)」
『What I knew. (知ったことか)』
警察が無免許運転を推奨するな。
思わず苦笑いが浮かぶ。
「OK......If I contact friends,I`ll calling. Circumstances is that time.(OK。仲間と合流したら連絡する。事情はそのときに)」
『Right.Good Luck!(了解。幸運を)』
―――― ザッ
最後にちいさなノイズを噴出し、無線機は沈黙した。
「………どうするの?」
無線機をウェストポーチに電源を切って収納してから、振り返る。
「……飲食店通りを通って、指示に従う。セントラルパークだ。そこにバイクぐらいは在るらしい」
そして下手をすれば武器も。
『奴ら』も。
確かにリスキーな行動には違いない。だけど、そのリスクを犯すのはもともと決まっていたことだ。それに時間は惜しい。セントラルパークなら、ここから鉈切さんの家までの道程からは外れるが、10分程度で到着できる。
「行くぞ、燈」
「うん……」
一度、警戒のため耳を澄ませ、安全を確認してからドアを開ける。
外の色は、群青。
夜が来るまでは、あとわずかだった。