田ノ里 由梨絵 国際学校 校舎裏 午後六時二十一分〇二秒
「――――ッ、――――ッ、ベネル……」
胸部から這い上がってくる痛みが耐えがたくなり、私は思わず足を止めた。
「……由梨絵」
私よりやや前、裏山近くのフェンスギリギリを走っていたベネルが足を止め、振り返ってくれる。片手にリボルバー、ベルトにオートマティック。撃つことはないだろうけど、臨戦態勢の構え。
左手のリボルバーを握ったまま、しゃがみこんだ私へ歩み寄る。
「……いけるか?」
「ちょっと………待ってくれたら」
嘘だ。ホントはちょっとじゃこの痛みは引かないだろうし、一応検査しておいたほうがいい程度の怪我というのも自覚している。
でも、今は足を止めるわけには行かないのだ。
もう空は夕焼けを通り過ぎて夜の前の群青色。空気のにおいも夜の湿り気を帯びていて、流れる空気も心なしか冷たい。
あと少しで、夜になる。
そんなことは、もう明白だ。
「…………休んだほうが、いいな」
「………っ、平気」
心配そうに私の顔を覗き込むベネル。その表情からして、間違いなく私が無理をしていることがバレている。いや、ひょっとすると無理だけでなく出血を隠していることまでバレているかも知れない。
「平気なわけないだろ。上がった呼吸、服に滲んだちょっとした血痕。山でのアレか」
「…………」
「とにかく、今は一度足を止めるべきだ。俺たちには武器も食糧も水も薬もないんだからな。それに山から下りてノンストップ、休まなきゃ、倒れるぞ」
「……………っ」
言われて現状を認識した。
山から下りたばかり、それも獣道ともいえないような藪の中を通って、だ。当然普通に下山するよりも体力は消費したし、ついでに言えば荷物の中に水はなかった。
秋とは言え無水、それも藪を通って下山し、その上緊張状態に置かれ続けている。緊張は得てして体力と水分を奪うもの。このまま行動し続ければ、最悪の場合体力低下中で夜を迎えることになる。
加えて、隠れる宛てはまだ遠い。
このあたりで一度休み、そして夜に入りきらないうちに鉈切さんの家を目指したほうが得策だ。
「………確かに、そうかも――――」
言いながらも考える。ここは学校、校舎裏。必要とする場所は最低条件で衛生的な水の手に入り、簡易的にでも治療の行える場所。理想としてはそこに携帯可能な医薬品と食糧が手に入る場所であれば文句はない。最大限の理想としては武器も手に入ってくれると心強いのだが、そこまで求めるわけにはなるまい。
考える。ここは校舎裏。見える限りの場所にあるのは物置と校舎の背中だけ。そこにあるのは窓、位置から考えて特殊用途室の並ぶあたり。そこの一階には確か………
「「保健室」か」
発案は同時、発声は同時。保健室なら間違いなく水は衛生的なものが通っているはずだし、仮に『奴ら』がらみの何かで水道がやられていたとしても蒸留水があったはず。薬品は申し分ないし、それに食糧も……わずかながら存在する。
治療、水、食糧。加えて緊急用キットもそろっている。
現状で求められる条件としては、申し分ない。
だが、懸念もある。
「……俺が先に行くから、後から――」
「だめ」
腰をわずかに浮かせかけたベネルの裾を握って引き戻す。
「せめて、武器。銃以外がいる」
そう、保健室は必要とするものがすべてそろうという状況ではあるが、同時にかなり危険な状況であることも意味する。
私達がキャンプに出ていたのが四日間。当然その間世間は平日で、当たり前ながら学校もちゃんと機能していた。
そして、保健室とはすなわち、学校で生じた病人怪我人などを運び込む部屋でもある。
この一件がいつからスタートしたのかは知らない。が、まず間違いなくその間に一人もけが人が運び込まれていないということはありえないのだ。
そしてその怪我人が『奴ら』になっていない保障はない。
つまり、最悪の場合保健室というかなり障害物の多い部屋で、多数の『奴ら』を相手取る必要が出てくるかもしれない、ということだ。
そんな中、今の手持ちでは不安が大きすぎる。私は手元に武器がなく、動くのもちょっと辛い状態。ベネルは銃があるけど校内で発砲すれば休むどころでなくなるのは目に見えているし、だからといって近接戦闘は『奴ら』に効果が薄い。
必要なのは武器、それも人間の頭骨を割れるようなもの。
目に見える範囲にそれがあればいい。だがもしそれが手近になかったとしたら、最悪は危険を冒さず逃げたほうが得策だ。
………でも……。
どうやら、危険を冒す必要は、なさそうだ。
「………ッ」
「おい……」
痛む胸部を抱えながら、立ち上がる。
向かう先は、校舎裏の林に隠れるように存在している物置小屋だ。
古び湿気った木で作られた、古い物置。古びてはいるがそれなりに丈夫なようで、内側に数多の道具を抱え込んでいるのが『視て』取れる。
「………」
そのドアを閉ざす、シリンダーロックに手を掛ける。
0~9の番号が刻まれた、四桁のシリンダーロック。助かった。南京錠ではどうにもならないだろうけど、シリンダーロックならば明日香でなくともどうにかなる。
何気なく、普段意識していない『もう一つの視界』へと目を向ける。
瞬間、脳裏に浮かんだのは薄い紫に彩色された奇妙な視界。ノイズがかかったかのように風景の中に音はなく、ただただ視界によって獲得された情報によってのみ世界が構成される。
視界の中、見えるのは『ごつごつとした手によって握られるシリンダーロック』。私の手では決してありえない大きさと経年と質感。その手はくるくるとシリンダーロックを回し、解錠のための番号を入力していく。
一番上、二つ回して『8』、
二番目、四つひねって『1』、
三番目、ひとつ隣へ『6』、
一番下、わざわざ一周『4』。
―――― かちり
手の中に生じるわずかな感触。それと同時にシリンダーロックの金属棒が穴から抜け、ロックはアンロックと化した。
……これが私の特異点。いや、そもそも『特異点』と呼べるかどうかも怪しいだろう。
Extra-sensory perseption。
どの特異点にも似た側面は存在するらしいが、私の保有するこれはそんな理屈は通用しない、問答無用の『超能力』だ。
いわゆる過去視、その場に染み付いた思念を視覚情報として読み取る、サイコメトリーの亜流に当たる能力らしい。でもこの力は使うタイミングを選ばせてはくれず、結果私の脳裏にはいつも過去の風景が渦巻いている。
小さいころは……酷いものだった。
日本人として生まれながらも外国で育ち、両親に見限られて育った場所。わけのわからない風景に翻弄され、それを知った周囲の人間から利用され、人なのか物なのかもわからなくなるような日々。感情が相当薄くなったのもそのせいらしいけど、それが本当なのかもう知る術はない。
私は、もうまともじゃない。
感情なんて、とっくに置いてきたから。
「これ」
「おう」
解錠した物置の中、雑多に置かれた工具の類の中でもひときわ目立つ大振りな金属――手斧を、投げて渡す。
「他には、何かあるか?」
「待って」
言われて軽く、脳裏に浮かんだ風景に目を走らせる。
物置の使用者、おそらく用務員であろう人間の動き。壁に立てかけられた手斧、壁につられた左官用の小手、ごちゃごちゃとある釘、桑……は、役に立たない。他にあるのといえば箱の中の水タンクと棚の上にある―――
草刈用の、鎌。
「………棚の…上」
「よし来た。何がある?」
「草刈用の鎌」
「了解」
正面、壁と半ば一体化する形で設置されている棚の上へ、ベネルが手を伸ばす。あのサイズでは私では大きすぎて、手が届かないのだ。
「………ほら」
「ん」
くるりと柄を回転させて鎌を差し出された鎌を受け取る。
……思ったよりも重くて、バランスが悪い。しっかり握らないと回転しそうだ。となると使うとしたら右手。両利きでよかったと、このときばかりは痛感する。
物置を音なく閉め、ゆっくりと校舎へと歩を進めた。
「…………」
「…………」
足元は芝生。多少の音を吸引すると同時、歩を進めるたびに多少の音を強制する足元。極々小さな物音が靴底のこすれる感触と同時にやってきて、否応がなしに感覚の高まった今ではそれが少しわずらわしい。
先行するベネルに二歩遅れる形で、後に続く。
見える先、校舎のほぼ端にある窓へゆっくりと、続く。
窓の中、薄闇の中見える影はない。が、私の身長だ。床下によって高さが少々上昇した床面、さらにその上に設置された窓。現在位置から室内を覗いたところで、窓際にいてくれなければ見えるわけもない。
じっとりと、未知への恐怖で汗が滲んだ。
薄く暗闇を称えた室内。ゆっくりと接近していくそれが、例えようもなく恐ろしい。いうなればそれは巣穴。恐怖という腐臭を称え害悪という怪物の住処となっているかも知れないという感覚を付きまとわせる、未知なる場所のモンスターホール。
一歩、一歩。
足音と呼吸音が奇妙なほどわずらわしい。
心音と筋肉の軋みが嫌になるほどやかましい。
頼りになるのは前方を歩くベネルと手の中の武器。胸部の痛みは緊張が高まるに連れてきりきりと増していき、進むにつれて歩く気力を減衰させられる。
それでも、ゆっくり、ゆっくりと私達の足は保健室の窓へと近づいていき、
「…………」
「………っ」
言いか、と聞くような指の動きに、小さくうなずきを返す。ベネルの位置は窓の際、私の位置はそれよりやや遠く。仮に内側に『奴ら』がいたとしても、十分に対応できる位置取りだ。
「……………」
ポケットからマグライトを取り出し、点灯させるベネル。そのまま斧を左手に、窓を右手に、ライトを右手に握り締め、窓脇に斧の先端をわずかに引っ掛けて…………
「―――――ッ!」
一呼吸後一気に開け放ち、中へライトと斧を向けた。
「………クリア」
「………―――」
張り詰めていた緊張が一気に弛緩し、
「――――ァッ……!」
胸部の苦痛が耐え切れないほど大きくなった。
思わずその場にしゃがみこみ、膝を突く。
「おい、由梨絵………」
「………ごめん」
歩くのは多分無理そうだ。仮に無理して歩いたとしても、窓を乗り越えられるかどうかは怪しい。
「………ったく」
呆れたように一言呟き、
「『奴ら』来たら、放り捨てるからな」
「………うん」
放り捨てて逃げるから、ではなく、放り捨てて戦うから、名のだろう。斧は片手に握ったまま、ライトを加えて私に背を向け――
「おっと」
て、からなぜか再び私に向き直る。膝を突いた私の横に周り、
「………よっと」
「ん……」
ひざ裏と首に手を掛け、持ち上げられた。
いわゆる、お姫様抱っこ。
確かにおんぶより私への負担は少ないけど、非常時への行動はむしろ取りづらいだろう。窓だって乗り越えづらいはず……
思ううちに私を持ち上げたまま軽がると立ち上がり、保健室へと移動、窓際で立ち止まり、
「………悪い、できるか」
「――――うん」
鳴き交わしのような会話の後、体がさらに高く浮いた。
腕だけが室内に差し入れられ、体が部屋の中へ。保健室特有の冷えた空気と薬品集、足元の感触はリノリウム、だろうか。空気からしても、まだ大丈夫そうである。
「非常用に」
差し出されたリボルバーを受け取る。確かに今の状況なら私の持つ鎌のじゃ『奴ら』に対抗するのは不可能といっていい。
窓を乗り越えてくる背後のベネルをよそに、苦痛をこらえて保健室の奥へと歩を進める。
事務机、カーテンで覆われたベッド。床にはわずかな血、薬品棚には何者かの血の手形、水道はちろちろと流れたままで、中央に据えられた机には人が倒れたかのような後。
「………………」
だが薬品の類は足りている、ベッドのカーテンは開かれていて、そこは清潔そのもの、棚の中の薬品も傷が付いていない。ドアが開いているのはマイナスだが、それは閉めればいいだけのこと。
足音を立てないようにして慎重にドアへと近寄り、ゆっくりとドアを閉め、内側からロックする。
「どうだ?」
「……いない」
そうか、と呟くように言い、大股で棚へと向かう。
「座ってろ。ベッド、使えるか?」
「………使えそう。でも、やめたほうがいい」
「……だな」
何が原因かもわからない現状、誰が使ったのかわからないベッドは清潔そうに見えてもやめておいたほうがいい。
とりあえず、中央の大机に据え付けられているベンチに座った。
一息。銃を机の上に置き、全身の力を抜く。
「………ッ」
筋肉の弛緩の代償は胸部の苦痛。ずきりと内側からやってくる、強烈なまでの痛み。間違いなく骨が折れていることを認識させるような、普段ではありえない苦痛。
「――――っ、」
汗のわずかに滲んだ服を持ち上げ、うっすらと血の滲む左胸のあたりへと目線を走らせた。
シンプルなデザインの下着に覆われた薄いふくらみの直下、ぱっくりと口を開ける刺し傷がある。傷口周辺の色は紫、つまりない出血も同時に起こしているということ。これだけ大きければ間違いなく骨折程度はしているだろう。そればかりか、傷口も縫合したほうがいい。
「………ベネル、縫合糸と麻酔、ある……?」
「……ああ」
その問いだけで全てを察したのだろう、棚の中から薬瓶を取り出して閉め、引き出しを開けて注射針と意図束のようなものを取り出す。
戻ってくる最中に医療マークの付いた鞄を引っ掛け、
「………量は控えるぞ。この先、何があるのかわからない」
「うん………」
Interlude:Day first 1
縫合にかかった時間は、二十分といったところだろうか。
「――――ッ!」
「………よし、」
言葉と共に薄く皮膚の引きつる感覚と、何かが切れたような官職がやってくる。
「あとは包帯巻いて、完了だ。ちょっと休むぞ」
「………っ、うん――――」
痛みでわずかに乱れた呼吸の中、それでも手元は包帯を探り当て、適当に胸部へ巻きつけていく。
麻酔の効果が薄いのか、今はまだ痛みがある。が、先ほどのことを考えればはるかに痛みは薄いほうだろう、十分に動けるはずだ。
「……………」
包帯を巻きつけて端を結び切断し、非常用鞄の中に応急処置用の治療器具を戻す。
と、
―――― ッ
脳裏に、わずかなノイズが走った。
何のとこはない、いつもの過去視。制御不能な力が見せる、過去の情景だ。
物だけではなく、例えそれが空気であろうとも過去を見せる力。物が曖昧であれば曖昧であるほど見えにくくはなるのだが、それでも見えることには変わりない。今回のような精神が少し弱っているときなどはいつものように無視もできないので、大抵は見えてしまう。
濃厚な紫色の風景――と、言うことはかなり前だ――の中、保健室が見える。校医がいる、つまりまだ始まっていない。男子生徒、顔は見えない、と何かを会話して……小さなケース、ケース?そう、ケースだ。手の平に収まるほどのサイズの何かを校医が受け取り……そのまま男子生徒は小瓶を………棚から持っていく。似たようなものが多い、ということはまだいくつかあるだろう。それを持ち出して………校医が手元のケースを開ける。アンプル――? ラベルのないアンプルが、三本。おそらく全部同じ薬品であろうそれを………
机に。
「……………」
終わってみればわずかに数秒の過去だった。
でも、あれは何なのだろうか。到底薬品に精通しているとは思えない一般的な少年がもっていたアンプル、それを受け取った校医、持ち出された薬品。
何か、妙だ。
「……………」
立ち上がって、薬品棚へ向かう。
過去で視たのは、このあたり。消毒用の比較的安全な薬品がおかれているあたりだ。持ち出された瓶のラベルの色は………緑。
となると、これだろうか。
緑のラインの引かれたラベルの瓶を取り出す。
………アセトン……。
揮発性の高い有機溶剤だ。ガラスなどの無機物、皮膚などの丈夫な有機物には反応性を特に示さないが、プラスチックやインクなどには溶解性を発揮する液体。その揮発性の高さから、主に水では落ちない薬品を落とすときや、器具の乾燥などによく使われる薬品。
持ち出されたのは、恐らくはこれ。
………でも、どうして一般生徒が……。
「………………」
考えても埒は明かない。次へ行こう。
血液の付着した事務机の引き出しを開ける。
………あった。
先ほどの過去で視た、黒色の丈夫なケース。手にとってみればずしりと思い。間違いなく金属製。簡易密閉式なのだろうか、端に小さなバレルのようなものが付いていた。
開いてみる。
中に入っていたのは何らかの薬品の入った小型のアンプルが二本。……二本? ということは何らかの目的ですでに一本は持ち出されている、ということ。現状で使う必要のあったもの、ということになる。
………何の……
薬品かは断定できない。過去にもめぼしい映像はない。そもそも映る光景が古すぎて紫が極端に濃く、判別すらできないのだ。
………でも、
必要になるような、気がする。
その予感に従い、ポケットの中に薬品ケースを滑り込ませた。
Date 1
「田ノ里 由梨絵の学生証」
『学籍番号 AB000132
学 科 普通科
氏 名 Yurie Tanozato
生年月日 年 月 26日
上記の者は本校の学生であることを証明する。
有効期限 2013年 9月 1日』
鋭利な刃物で生年月日が一部削り取られている。
裏側に直筆のメモ。
『Benell・Mastartore
Harice・Rain
田ノ里 由梨絵
三人の新しい生活と、過去との決別に
#### April 14』
年号は今から四年前だ………