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記憶

作者: 口羽龍

 一也かずやは孤独だった。家族はすでに住み慣れたマンションの部屋を出ていった。心のよりどころは会社だった。でも、今年の春、定年退職を迎えた。定年退職して間もなく、住み慣れたマンションを手放し、息子夫婦の家で余生を送ろうと思い、そこに引っ越した。心のよりどころを探すためだ。しかし、近所は知らない人ばかりで、なかなかなじむことができなかった。ほぼ毎日、周辺を散歩したり、家でゴロゴロしていた。


 一也は今朝のワイドショーを見ていた。水不足のことがニュースで取り上げられていた。水不足により、干上がった林沢はやしざわダムの様子が上空から映されていた。何日も夏日が続いていた。何日も雨が降っていなかった。ダムは干上がり、貯水率はほぼ0だった。


 その上を人が歩いていた。普通では歩けないところだからだ。その中には写真に収めたり、湖底に沈んだ橋を渡る人もいた。


 一也はその様子をじっと見ていた。何かを思い出しているようだった。


「お父さん、どうしたの?」


 化粧をしていた息子の妻、文子ふみこが聞いた。


「あの橋・・・」

「何かあったんですか?」


 文子は首をかしげた。


「いや、何でもない」


 そう言うと、一也は部屋に戻っていった。文子はそのニュースを見ていた。文子はそのニュースを見て、ミネラルウォーターを買ってこなければと思った。


「水不足か・・・、ミネラルウォーターを買っておかなくっちゃ」


 すぐに文子は車に乗って昼食と夕食を買いにスーパーに出かけた。息子の敦夫は仕事で家を出ていて、2人の息子は小学校に行ったので、家には一也1人だけだった。


 文子が部屋を出ると、一也はテレビを消して、隣の自分の部屋に向かった。


 5分ほどして、一也が出てきた。一也はリュックを背負っていた。リュックの中には携帯電話とそのACアダプタ、歯磨きセット、数日分の着替えだった。何日間か旅行に出かけるようだ。


 会社に行くのに使っていた白い軽自動車に乗って、一也は自分の車に乗ってどこかに出かけていった。今日、旅行に行くなど、誰にも言わなかった。




 昼近くになって、文子が帰ってきた。文子はレジ袋を両手に持っていた。いつもは片手だけだったが、今日はミネラルウォーターを買ったので両手にレジ袋を持っていた。


「ただいまー!」


 文子は玄関の前で言った。しかし、声がしない。いつもだったら、一也の声が聞こえるはずだった。


 文子はカギを回して開けようとした。しかし、閉まった。一也がいるので、空いているはずだった。文子は首をかしげた。いつもと違っていたからだ。


 文子は中に入った。家の電気は全部消えていた。テレビの音もしない。


「お父さん?」


 文子は首をかしげた。


「どこに行っちゃったのかしら?」


 文子は一也に電話をかけた。




 その頃一也は、住宅地を離れ、高速道路のパーキングエリアにいた。一也はかけそばをすすっていた。夏休みということもあってか、パーキングエリアには平日ながら多くの人が来ていた。


 かけそばをすすりながら、一也は、盆休みに遊んだ故郷のことを思い出していた。高校生になって、ダム湖に沈んで以来、故郷のことを考えたことは全くなかった。ただひたすら勉強のことだけを考えていた。社会人になると、仕事のことばかり考えていた。まるで思い出が沈んでしまったかのように。


 突然、携帯電話が鳴った。一也は電話に出た。


「はい」

「お父さん?」


 文子だった。文子から電話が来るとは思っていなかった。


「そうだけど」

「急に家を出ちゃってどうしたの?」

「いや、何でもない。急にいなくなってごめん。じきに帰るから」

「そう。待ってるわ」


 文子は受話器を置いた。文子は安心した。でも、1つ疑問に思った。一也はどこに行ったんだろう。テレビで情報番組を見ながら、文子は考えていた。


「あのニュース・・・」


 文子は今朝見たニュースを思い出していた。一也が反応していたからだ。ひょっとして、あそこに向かったんだろうか。


 文子は夫の会社に電話をかけた。


「もしもし、あなた?」

「うん」


 電話に出たのは偶然にも夫だった。


「しばらく出かけるから、炊事洗濯頼むね。ごめんね」

「いいよ」


 文子は受話器を置いた。


 文子は数日分の衣類等を持ってきた。これからあのダム湖に向かうからだ。あのダム湖に行くには最低でも1日はかかる。


 文子は戸締りを確認して、家を離れた。文子は車庫に停めてあった自分の軽自動車に乗った。

 文子は車を走らせた。文子はあのダム湖に向かった。




 一也はさらに先に進んでいった。高速道路を走り、田園地帯を離れ、山間の集落の中を走っていた。ここに車で1日はかかった。途中、パーキングエリアで車中泊をした。その向こうには、朝のワイドショーでやっていたダムが見えていた。低い民家ばかりの集落にあって、この集落ではよく目立っていた。


 しばらく走ると、山の中に入った。この先は無人の山林だ。何年も整備されてないらしく、道の状態は良くなかった。木々は生い茂り、晴れているのにそんなに明るくなく、涼しかった。車は全くと言っていいほど通らない。しかし、干上がったダムを見に来る人の車が多少いた。


 一也はダムの横の林道を走っていた。ダムには今朝も人がいた。昨日も今日も雨が降らず、ダムの水はさらに干上がっていた。沈んでいた地面を歩き、ダム湖に沈んだ橋を渡っていた。危ないからやめなさいと言われているにもかかわらず。


 ダムを見下ろす橋に、1台の軽自動車がやってきた。一也の車だった。今朝のワイドショーを見て、一也は湖底に沈んだ故郷を思い出し、ここに来ようと思った。ダム湖に沈んで以降、一也は故郷のことを考えたことが全くなかった。沈む前の年に亡くなった祖母も、引っ越した家も。


 一也は湖を渡る橋の近くに車を停めた。一也は車を出て、橋から干上がった湖を見ていた。干上がった部分には草木が生えていなかった。


 一也は今はなき故郷を見渡した。民家等の建物は1戸も残っていなかった。沈む前に全部解体されていた。でも一也にはどこに実家があったかわかった。


 ここには林沢と水鳥川みどりがわの2つの集落があって、今から半世紀近く前にダム建設のため湖底に沈んだ。水鳥川の名前の由来は、この集落の中心を流れる川の名前だという。しかし、ダムの建設で、集落は川も含めて湖底に沈んだ。一也はこの集落の出身で、6歳まで過ごした。小学生になる頃、父が東京に転勤になり、東京郊外のニュータウンに引っ越すことになったため、この集落を離れた。それでも盆休みや年末年始になるとここに遊びに来ていた。


 一也は盆休みになると訪れた少年時代のことを思い出していた。




 水鳥川は自然豊かなところだった。清らかな川が流れ、春は小学校の桜が美しくて、夏には蛍が飛び交い、秋は山の紅葉が美しくて、冬は雪が何メートルも積もるところだった。しかし、一也が生まれる頃にはすでにダムの建設が決まっており、小学校は閉校し、住民は徐々に移転していった。建設工事の車も行き交い始めていた。


 小学校3年の夏のことだった。一也と両親は実家に向かっていた。しかし、父は少し硬い表情だった。この時すでに水鳥川はダム湖に沈むことが決まっていたからだ。あと何回ここに里帰りできるかわからない。父は思い出をしっかり記憶しておこうと思っていた。


 しかしその時、一也はダム湖に沈むことを知らなかった。祖母に会えるのがただただ楽しかった。

 この集落をダム湖に沈める計画は20年程前からあった。この水鳥川のほかに、隣にある林沢の集落も水没する予定だった。も最初は反対したものの、川の下流が台風で増水し、氾濫がおこり、多くの犠牲者が出たうえに、電力不足の解決のために、ダムの建設が決まった。集落の人もこうなると止めることができなかった。


 今年も盆休みを利用して、実家に帰省することになった。最寄りの高速道路のインターチェンジから1時間ほど走ると、集落が見えた。水鳥川集落だ。


 集落に入ってしばらく走ると、実家に着いた。実家は水鳥川のほとりにあった。実家は茅葺き屋根で、明治時代に建てられたそうだ。庭は広く、物置には農耕具や田植え機、トラクター、コンバインが入っていた。この集落の民家のほとんどは、明治時代に建てられたもので、茅葺き屋根の民家が多かった。


 車が実家の前の庭に停まった。


「さぁ、着いたぞ」


 父が降りた。すると、待っていたかのように祖母が玄関を開けて出迎えた。


「一也、よく来たね」

「おばあちゃん、こんにちは」


 祖母は笑顔で迎えた。一也は嬉しかった。いつも祖母が笑顔で迎えてくれるからだ。祖母はまるでこの集落がダム湖に沈むことを知らないようだった。いつも笑顔だった。一也に会えることがとても嬉しかった。


 家に着いた一也は家でのんびりしていた。東京の家よりずっと居心地がよかった。夏休みの宿題をほとんど終えた。あとは自由研究だけだった。


 一也は窓から外を見た。いつものように穏やかだが、去年の夏に来た時と少し違っていた。民家が少なくなっていた。住民の移転が徐々に進み、取り壊されていた。農道を普段は走らない大きなトラックがよく通っていた。その理由が、ダム湖に沈むことによる引っ越しと工事車両だと、一也はわからなかった。


 そのころ、父と祖母が話をしていた。いつ引っ越すのか、いつ沈むのかだった。一也はその話のことを全く知らなかった。上の階でくつろいでいて、その声が聞こえなかった。


「お母さん、いつ引っ越すんだい?」

「3年後さ」


 祖母は少し残念そうな表情だった。一也の姿を見ることなく、10年前に死んだ祖父の生まれた家だった。


「そうか。ここに来られるのもあと3年か」

「しょうがないものさ。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」


 祖母は方丈記の一文を用いて、それも運命なのだと感じていた。


「沈むまであと何年だい?」

「あと6年よ」


 祖母は寂しそうに言った。祖母の目は少し潤んでいた。


「そうか。じゃあ、ここでの記憶をしっかりと残しておかないとな」


 父は写真を取り出した。父はダム湖に沈む水鳥川や林沢の風景を写真に残そうと、数年前から撮り続けていた。


 台所では母が夕食を作っていた。東京の自宅に比べて、台所が広かった。つい最近、コンロを買ったそうだが、この家でコンロを使うのもあと3年だった。


 一也は東京の自宅から持ち出した漫画の週刊誌を読んでいた。実家に向かう前の日に書店で買ったもので、暇つぶしに読もうと思っていた。実家のある集落には本屋がなく、隣の集落まで行かなければならなかった。


「一也ー、ごはんよー!」


 夕食の時間になった。一也は2階から降りてきた。


 一也は椅子に座った。テーブルにはいろんな料理が並んでいた。今日の夕食は地元で採れた野菜が中心だった。東京での食事と違って、野菜が多かった。おいしくはないものの、愛情がいっぱい詰まっていた。


「さぁ、お食べ」

「いただきまーす」


 一也は箸を持って、ご飯を食べ始めた。実家までの移動で、一也はとても疲れていた。そのためか、一也の食欲は旺盛だった。


「おいしい?」


 祖母は聞いた。


「うん!」


 一也は元気に言った。祖母は笑顔になった。一也がおいしそうに食べるのが何より幸せだった。


「やっぱお母さんの料理は最高だな。愛情が詰まっていて、やさしい気持ちになれるよ」


 父は笑っていた。父も年に何回かある里帰りを楽しみにしていた。


 夕食後、一也は外を見ていた。東京よりも涼しくて、虫の声が聞こえ、星空がきれいだった。人通りは少なく、街の明かりは少なかった。昼間に走っていたトラックは事務所に停められていた。事務所はすでに退勤時間を過ぎていた。


 そこに、父がやってきた。父はなぜか真剣な表情だった。


「とっても素敵なところだよな」

「うん」


 一也は笑顔で答えた。


「一也、ちょっと聞くんだけど、もし、故郷がなくなったら、悲しいか?」


 突然、父は聞いた。父は真剣に話していた。


「うん」


 一也は正直に答えた。


「そうか」


 父は小声で答えた。父は何かを考えているような表情だった。


「どうしてそういうこと聞いたの?」


 一也は父に聞いた。


「いや、なんとなく」


 父は何かを考えているようだった。一也はその意味がわからなかった。


「一也ー、もう寝る時間よー!」


 母の声だった。就寝の時間になった。


「はーい」


 一也は答えた。


 実家にはベッドがなく、布団で寝る。一也は布団を取り出し、敷いた。


「お父さん、おやすみ」

「おやすみ、一也」


 一也は部屋の電気を消した。東京では消しても少し明るかったが、実家は暗かった。実家の夜は静かで、ざわめきが全くと言っていいほど聞こえない。一也はいつもよりぐっすり眠ることができた。




 次の日の朝、一也は近所の小川で遊んでいた。東京の川と違って、幅は小さく、浅かった。でも、川の底が透けて見え、魚が泳いでるところがよく見えた。その中には、鮎や岩魚もいた。石の下には、ザリガニが潜んでいた。


 そこに、父親がやってきた。父親は釣竿と釣り道具を持っていた。


「一也、今日は林沢に行こうか?」


 父が声をかけた。今日は林沢で鮎釣りをする予定だった。


「うん!」


 林沢はこの集落より1つ上流にある集落で、夏になると鮎釣り目的で釣り客が来るところだった。

 父は釣り道具を持って、車で林沢に向かった。


 林沢は水鳥川の上流にある小さな集落だった。水鳥川よりも小さく、ほとんどが山林だった。人口は水鳥川よりも少なくて、ダムの建設が決定した今ではわずか10人だった。来年には全住民の移住が完了することが決まっていた。


 10分ほどして、林沢の手前の渓流に着いた。ドアを開けると鳥のさえずりが聞こえてきた。このあたりに生息するクマゲラだった。東京の広い川と違って、川のせせらぎが聞こえた。


 林沢の集落はここからさらに奥にある。この渓流もダム湖に沈む予定だった。渓流にはすでに数人の釣り人がいた。近くには彼らの車が停まっていた。


 父は車を川のほとりに停めた。


「着いたぞ」


 父は釣り道具を取り出し、釣竿を一也に渡した。


「さぁ、始めるぞ!」


 一也は父と一緒に釣りを始めた。鮎釣りは友釣りと呼ばれる手法だ。釣り針に養殖の鮎を付けて、養殖の鮎を追い払おうと体当たりしたところを引っかける。


「どうだ、一也。楽しいか?」

「うん!」


 一也は真剣に釣りをやっていた。たくさん釣ってやると心の中で思っていた。

 3分ほどして、父が釣り上げた。


「釣れた!」

「鮎だ!」


 父は喜んだ。鮎が釣れて嬉しかった。


「きれい。」


 一也は鮎の美しい体に見入った。


「塩焼きにするとおいしいんだぞ。」


 5分ほどたった。周りの釣り人は何匹か釣りあげていたが、一也と父はまだ釣り上げていなかった。


「釣れたか?」


「まだまだ」

 一也はなかなか連れず、退屈そうにしていた。

 その時、何かに引っ張られるような感覚がした。魚が針に引っかかった。


「おっ、きた!」


 一也はリールを巻き上げた。一也はわくわくしていた。何匹釣れたか楽しみだった。

 リールを巻き続けていると、鮎が見えた。釣り針にはおとりの養殖鮎の他に数匹の鮎が引っかかっていた。一也は釣竿を高く上げた。


「釣れた!」

「鮎だ! おいしそう!」


 父が声を上げた。


 一也は喜んだ。やっと釣れて嬉しかった。


「そろそろお昼だね」

「よーし、お昼は塩焼きだな」


 お昼が近くなり、父は釣りをやめて、昼食の支度を始めた。あまり釣れていない一也はその後も釣りを続けた。


 昼食の時間になった。今日の昼食はとれたばかりの鮎の塩焼きと鮎めしだった。


「さあ、焼けたぞ!」


 父は土鍋を開けた。土鍋の中には鮎が1尾丸ごと入った鮎めしがあった。


「おいしそう!」


 そこに、周太しゅうたがやってきた。周太はこの集落に住む少年で、一也と同い年だった。周太は林沢で唯一の小学生で、最年少だった。一也が東京に引っ越した後もこの集落に残り、地元の小学校に通っていた。小学校はここからスクールバスで1時間のところにある。去年まで水鳥川に分校があったが、ダム建設のために廃校になった。集落がダム湖に沈むことは気にしていたが、そんなに悲しんではいなかった。


「周太!」

「久しぶり! どうしたの?」


 周太は聞いた。周太は一也が来ていることを知らなかった。


「盆休みを利用して来てるんだ」

「そうか」

「最近、調子、どう?」

「まあまあだよ」


 突然、周太が言った。


「僕、思うんだ。都会って、いいとこだよな。いろんなのが食べれて、個々の何倍もにぎやかで、僕も住みたいよ」


 一也は真剣にその話を聞いていた。


「東京って、東京って。東京はいいところだよ。でも、人がいっぱいいてにぎやかなだけで、そんなに楽しいところじゃないよ。空気はそんなにきれいじゃないし、川なんか濁ってるし」


 一也は思っていた。東京って、どこがいいんだろう。人が多くて、にぎやかなだけで、川がきれいじゃないし、空気は汚れている。ちっともいいところが見当たらない。


「そうなのか」

「うん」


 一也と周太は考え込んでいた。本当に都会はいいところだろうか。ただ、豊かになれる、成長できるだけの場所だと思っていた。


「僕もそう思うんだ。僕も将来都会で働きたいなと思ってるんだけど、都会って、こんなんかな?」

「よくわからないけど、そうかもしれない。でも、いっぱい人がいて、働くところがたくさんある。それぐらいかな?」


 一也は都会がいいところだと思わなかった。でも、日本のためなら、豊かさのためなら仕方がないと思っていた。




 翌日のことだった。今日も快晴だったが、午後から雨が降る予報が出ていた。

 一也と両親は今日で東京に帰ることになっていた。


 父は昨日までに荷物をまとめていて、車に荷物を載せていた。一也もすでに荷物をまとめていて、あとは車に載せるだけだった。


「一也ー、準備できたー?」


 父が一也に聞いた。父は荷物を載せ終えて、車の中にいた。


「うん」


 一也が急いでやってきた。一也は荷物の入ったリュックを背負っていた。一也はリュックをトランクに入れた。


「お待たせ」


 一也は車に乗った。


「じゃあ、行こうか」


 3人と祖母が玄関に出てきた。祖母は東京に戻る3人を見送りにきた。


「それじゃあ」

「また冬に来るよ」

「バイバイ」


 一也は車の窓から顔を出して、手を振った。


 一也の乗った車は実家を離れた。祖母は笑顔で手を振っていた。


 車は集落を離れ、川沿いを走っていた。と、一也はあるものに気づいた。コンクリートの壁だった。それは少しずつではあるが、来るたびに大きくなっていた。一也はそれが何なのかわからなかった。




 一也は干上がったダム湖をじっと見ていた。いつの間にか、一也の目から涙があふれていた。故郷があまりにも変わり果てていたからだ。橋を残して建物が全てなくなっていた。


 そこに、文子がやってきた。文子は一也の後をつけるようにここまでやってきた。


 文子は一也の車の隣に車を停めた。文子は干上がったダム湖を見つめている一也を後ろから見ていた。


 文子は車から出た。車のドアを閉める音に反応して、一也は後ろを向いた。文子だった。一也は来ると思っていなかった。


「文子」

「やっぱりここに来てたのね」


 文子は一也の横に立ち、干上がったダム湖を見ていた。


「うん。どうしてわかったんだ?」

「お父さん、朝のニュースで気にしてたから」


 文子は驚いた。ここにかつて集落があったことが信じられなかった。


「どうしてここに来たの?」

「ここが僕の故郷だったんだ」


 文子はまた驚いた。一也の故郷がどこか聞いたことがなかった。


「えっ、本当なの?」

「うん。ダム湖に沈んで、もうなくなったけど。ダム湖に沈んだのは高校1年の時だったんだ。東京に住んで、仕事をしているうちに、故郷のこと、忘れてた。でも、干上がったダム湖を見て、思い出したんだよ。確かにここが故郷だったんだ」


 一也はちょっと寂しい気持ちになった。故郷が失われたからだ。


「そうなの。初めて知ったわ」

「自然が豊かなところだったんだよ。とても今の姿からは想像しづらいけど」


 文子は東京生まれで、旅行でしか田舎の暮らしを感じたことがなかった。


 2人は橋の前にある石碑を見ていた。そこには、「水鳥川、林沢、ここに眠る」と書かれていた。全住民が移転したときに住んでいた人々が建てた石碑だ。そこには、ここに人の暮らしがあったということをいつまでも忘れないでいてほしい住民の願いがあった。ここに住んだことのある人々はほとんど死んだ。でも、そこの記憶はいつまでも残り続ける。


「この近くに、沈んだ集落の資料などが保存されている資料館があるらしいから、行ってみるかい?」


 一也は文子に聞いた。ここからしばらく下流に行ったところにある道の駅に、水鳥川や林沢の資料等が保存されている。一也は行く途中に雑誌や携帯電話で調べていた。干上がったダム湖を見た後に立ち寄ろうと思っていた。


 文子は携帯電話を見た。もうすぐ正午だった。


「そうね。ちょうど昼時だし、そこで昼食をするついでに行こうよ」

「そうしよう」


 2人はそれぞれの車に乗り込み、干上がったダム湖を後にした。


 ここからしばらく下流に行ったところに、「道の駅鮎の里林沢」がある。この道の駅のある集落は富川とみかわで、当初の予定では、「道の駅富川」になる予定だったが、かつて林沢に住んでいた住民が鮎釣りの名所だった林沢の名前を残してほしいといったため、この名前になったという。ここでは地元の野菜などを使った料理を提供する喫茶店や、露天風呂、ロッジがある。決して客は多くないものの、ドライバーやライダーが休憩所として利用している。資料館へ行く人は少ないが、ダム湖に沈んだ集落に記憶を後世に残すべく活動している。


 しばらく走ると、道の駅鮎の里林沢が見えた。夏休みということもあって、道の駅には多くの人が来ていた。道の駅は水鳥川でよく見られた茅葺き屋根の民家をイメージした和風の外観だが、内装は近代的だった。


「ここだ」


 2人は駐車場に車を停めた。駐車場には多くの車が停められていたが、少し空きがあった。2人は空いていた駐車スペースに車を停めた。


 2人は車を出て、道の駅に入った。レストランには、多くの人が来ていた。


「ここも自然豊かなところね」


 文子は外の空気を大きく吸った。東京では味わえない澄んだ空気に文子は感動した。


「僕の故郷はもっと自然豊かなところだったんだよ」


 2人は道の駅の中に入った。道の駅の内装はまるで茅葺き屋根の民家のようで、地元で採れた木をふんだんに使っていた。


 2人はレストランの前にやってきた。店の前には接客係がいた。


「いらっしゃいませ。2名様ですか?」

「はい」

「どうぞ」


 接客係は席に案内した。その席は窓側の席で、道の駅の向かいにある渓谷がよく見えた。


「こちらでございます」


 2人は窓側の席に座った。一也はテーブルの上のお品書きを見た。この店のメニューは、ここで釣れる鮎や岩魚を使った料理が中心で、多くの人がこれらを注文していた。


「何にしようか。僕は鮎めし定食を頼むけど」


 そう言って、一也はお品書きの鮎めし定食を指さした。


「じゃあ、私もそれにしようか」

「すいません」


 一也は手をあげて、接客係を呼んだ。


「鮎めし定食2つお願いします」

「かしこまりました」


 接客係は厨房に向かった。


「林沢は夏になると鮎釣りをする人が多くいたんだって」

「そうなの。」

「うん。夏休みにお父さんと釣りをしたんだよ。お昼は釣った鮎の鮎めしや塩焼きだったんだ」


「お待たせしました。鮎めし定食でございます」


 テーブルに鮎めし定食が置かれた。鮎めしの他に、みそ汁、鮎の塩焼き、鮎の南蛮漬、おひたし、漬物が付いていた。


「いただきます」

「おいしい。いい香り」


 文子は鮎独特の香りに感動した。鮎のことは知っていたものの、文子は鮎を食べたことがなかった。


「そうだろう。林沢ではよく釣れたんだ」


 そういいながら、一也は林沢で鮎を釣った少年時代を思い出していた。


「こんなにおいしいのがよく釣れたのに・・・、もったいないわね」


 文子は鮎釣りの名所だった林沢がダム湖に沈めて本当良かったのかと思い始めた。


「仕方ないんだよ。豊かさのためなら」


 一也は残念そうに言った。豊かさのためなら仕方ないと言ったが、本当は沈んでほしくなかった。故郷が残ってほしかった。


 昼食を済ませた2人は、道の駅に併設した『水鳥川、林沢資料館』に行くことにした。ここには、水鳥川や林沢で使われていた工芸品が収蔵してある。その工芸品には使っていた人の名前があった。

 入口の前には受付があり、そこで入館料を払う。


 受付には、初老の男性がいた。その男は水鳥川小学校最後の卒業生の1人で、ダム湖に沈んだ集落のことを後世に残すために努力している。


「いらっしゃいませ。入館料は大人500円、子供は250円でございます」


 文子は千円札を出した。


「大人2人分お願いします」


 男は千円札を受け取った。


「ありがとうございます。ごゆっくりどうぞ」


 そう言って、男はお辞儀をした。


 2人は中に入った。入り口付近には、在りし日の集落の上空写真があった。それこそ、一也の故郷、水鳥川だった。昭和30年ごろの写真で、水鳥川が一番賑わっていたころだった。しかし、このころからダム建設の計画があった。


「これが、水鳥川。ここがお父さんの故郷なのね」


 文子は開いた口がふさがらなかった。のどかな山里の風景で、とてもここがダム湖になったと思えなかったからだ。川で遊ぶ子供、農作業をする女性、山里ののどかな小学校。全てもう見られない風景だった。


「本当にここが集落だったなんて」

「信じられないだろ。ここに集落があったんだ」


 祖母の家を探しながら、一也は言った。


「こんなに豊かだったのに」

「仕方ないんだよ。水害対策と電力のためなら」

「豊かさのために、こうなったのね」


 文子は橋の写真を見ていた。干上がったダム湖の橋だった。橋を1台の軽トラックが渡っていた。トラックには収穫された野菜が載っていた。


「橋さえ見なければ、ここに集落があったなんて、信じられない」

「とっても自然豊かなところだったんだよ」


 里帰りしたときのことを思い出しながら、一也は言った。


 ふと、ある写真を見て、一也は驚いた。それは自分だった。庭で遊んでいるところだった。そして、その写真の撮影者は、父だった。


「この写真、見てごらん」

「これ、誰かしら?」


 文子は聞いた。文子は別の写真を見ていた。


「9歳の時の僕だよ」

「えっ、これ、お父さんなの?」


 文子は驚いた。一也の写真があることを知らなかった。


「うん。それに、この写真の撮影者、見てごらん」


 そう言って、一也は撮影者の名前を指さした。文子は写真の下に書いてある撮影者の名前を見た。名字が同じだった。


「お父さん・・・」


 文子は一也を見た。


「これを撮ったのは父なんだよ。父が撮った僕の写真なんだよ」


 一也は10年前に死んだ父のことを思い出していた。


「お父さんの成長記録を残すために?」


「そうだよ。それに、やがて消えゆく故郷の姿を、昔はどこにもあった故郷の情景を後世に残すために撮ったんだよ」


 一也はダムが沈んだことを知った時のことを思い出した。沈んで以降、故郷の記憶ともどもその時のことを忘れていた。仕事に明け暮れ、東京に住み慣れてしまったからだ。




 高校1年の夏の朝のことだった。一也は去年、祖母を亡くし、里帰りする場所がなくなった。祖母は、ダム湖に沈んだ水鳥川と林沢のことをいつまでも気にしていた。そのころから、一也は水鳥川や林沢のことを忘れていった。学業や大学進学のことで頭がいっぱいだった。今年の夏はただただ東京の難関大学に進学するための勉強と夏休みの宿題をやるだけだった。朝から夜まで勉強漬けで、外で遊んでいる暇なんてなかった。


 一也は家族と朝食を食べながら朝のニュースを見ていた。


「本日から、林沢ダムの試験湛水が始まりました」


 一家はそのニュースを食い入るように見ていた。一家はその時、水鳥川集落が沈んだことを知った。その時一也は、中学校に進むころに祖母が引っ越した理由を知った。一也は驚きを隠せなかった。祖母だけではなく、故郷までもなくなってしまうなんて。一也は思い出がすべてなくなっていくような気がした。


「故郷が・・・」


 父がつぶやいた。


「沈んでいく・・・」


 母が驚いた。両親は開いた口がふさがらなかった。


「天国のおばあちゃん、どう思ってるんかな?」


 一也は祖母のことを思い出していた。


「きっと泣いているだろうな。住み慣れた故郷が沈むんだもん」


 3人は泣いていた。一也は祖母の家で遊んだことを思い出していた。もう故郷に戻れないと思うと、涙が出てきた。




 一也は誰かの気配に気づき、振り向いた。周太だった。


 周太と会ったのは中学校3年の冬以来だった。引っ越した祖母からは、家族そろって名古屋に引っ越したと聞いていた。周太は小学校を卒業後、引っ越した集落を離れ、名古屋で暮らしていた。卒業後も夏休みや冬休みには実家に戻り、一也と会っていた。周太も今年の春に定年退職をしていた。しかし、一也と違って、住み慣れたニュータウンのマンションに今でも暮らしていた。妻に先立たれ、子供たちは家を出ていき、一人暮らしだった。


 50年近く経ち、周太は髪が薄くなり、白髪やしわが目立ち始めていた。


「周太」

「久しぶりだな」


 周太は手をあげた。周太は久しぶりに一也に会えてうれしかった。


「何年ぶりだろう」


 一也は驚いた。周太に会えると思っていなかった。


「東京って、本当にいいとこなんかな? 1人で暮らすようになって、思い始めてきた」


 周太は真剣な表情だ。


「一人暮らしか。僕は息子夫婦と暮らしてる」


 周太は楽しそうだと思った。息子とは絶縁状態で、20年以上会っていなかった。


「都会に移り住んで、思ったことがあるんだ」

「何?」

「都会に移り住んで失ったものが、今わかった気がするんだ。人付き合いさ。農村って、周りがとても仲良しで、僕らの年になっても笑い声が絶えない。でも、東京って、人付き合いが少なくて、誰にも見てもらえず、死んでいく人もいる。親がいなくなって、子供たちが家を出ていき、一人暮らしになった。仕事が唯一の心のよりどころだったけど、定年を迎えて、どこにも心のよりどころがなくなった時、故郷の大切さがわかった」

「そうかもしれない」


 一也は考えた。確かにそうだと思った。農村はいつまでも孤独を感じない。でも都会は、仕事に就いている頃はそう感じないのに、定年を迎えると、孤独になる。それが田舎と都会の違いだろうか。

 3人は道の駅の外に出た。都会に戻るようだ。


 一也と文子と周太は車で道の駅を後にした。


 ふと、一也は思った。都会に移り住むと、何を得て、何を失うんだろう。周太の言った言葉が心に残っていた。


 一也はラジオで明日の天気を聴いていた。明日は雨模様らしい。故郷は再び湖の底に消えていく。でも、故郷の記憶を消してはならない。そして、人付き合いを少なくしてはならない。

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[良い点] 人物達の想い、葛藤、そして記憶に対しての感情がつぶさに表れている。 読むと胸を締め付けられるような感覚に襲われた。 感動しかない。 [一言] 素敵な作品読ませてもらいました。 こんな素敵な…
2020/09/09 12:44 退会済み
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