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『昭和スケッチ』

作者: 嵐 北風

昭和ってどんな時代だったのだろう?


私的に、軽く淡彩に、文章でスケッチしてみた。 パンチコから天皇陛下までアラカルト。

昭和スケッチ・1『パチンコ』


『開けチュウリップ』


軍艦マーチに誘われて

35個の小さな球に

望みをたくして、きょうもまた

親指体操ひとはじき

オーッ、ひらけ、ひらけ

パットひらけチューリップ♪


あの、パットひらいた時の嬉しさ…

「お姉ちゃーん、玉でーへんでぇ」と言った懐かしさ。

長く遊べて、たまに景品持ち帰れた。

あの台はもうないのだろうか?


学生時代、学生部長先生に出る台を譲って、なんとか単位を貰ったっけ。

「お兄ちゃん、その台出へーんでぇ」と言った隣の女、どっかで見たか?

たまに行くスナックのママだった。スッピンだから判別不能。


攻略本を読んで、初めて台を空けた時は、

なんだかジーンとして涙が出てきたっけ。


親に逆らって東京で苦労、生活がかかった時は強かった。

切り上げ時もよく、新婚妻にお土産をプレゼント。


ひらけ、ひらけチューリップ。

幸せひらくチューリップ。


注釈

出来たのは戦前らしいが、庶民の娯楽として花開いたのは戦後である。このチューリップが登場したのが1960年、現在のデジパチの基本である「フィバー」の登場が1980年。1995年が最盛期で31兆円(貸し玉金額)の規模を誇ったが、それ以降衰退を辿っている。

パチンコ営業は風営法の元にある。


昭和スケッチ・2『三億円事件』


その日は、一日、1000円のアルバイトだった。


鉄道の枕木敷、木製をコンクリート製にかえるのだ。


結構きつい肉体労働。



ニュースは、そのアルバイトに行く軽トラの上で聞いた。


3億円事件、前の運転台のラジオから流れて来た。


「3億を千で割るとなんぼになる?」と誰かが言った。


えーと・・30万、日数にして30万日。



「兄ちゃんら、普段よう働くのに・・今日はなんや?」と、本雇の人夫さんに言われた。


色んな事件があったけど、〈世間があっと驚いた〉事件であった。



注釈

3億円は保険金により補填され(事件の翌日には従業員にボーナスが支給された)、その保険会社もまた再保険(日本以外の保険会社)を掛けていてので、直接的に国内で金銭的損失を被った者がいなかったことや、殺人もなかったので、被害金額2億9430万7500円の語呂から、“憎しみのない強盗”のあだ名がつけられた。捕まらなかったことで、色々と推測を呼び、小説、映画、ドラマにもなった。


昭和スケッチ・3『大学は全国的にストー!』だった。


でも、皆普段より学校によく来てたなぁ。立看板作る奴、ビラ配る奴、クラス討議、サークル活動、生協食堂で駄弁る奴、図書館で勉強する奴、木陰で肩を寄せ合う憎い奴etc。ノンポリの僕らは近くの喫茶店で漫画本。イザーという時に備えてる。白土三平の『カムイ伝』を皆読んでいた。でも、あれは劇画。僕は一筆で描くマンガが好きだった。谷岡ヤスジ、この名前はなぜか、あの気怠い学生時代とダブル。


 不条理なストーリー展開やドライな印象のギャグが特徴だった。『全国的にアサー!』や『鼻血ブー』は流行語にもなった。


〈ムジ鳥〉〈しゃぶねこ〉〈ベタし〉等のハチャメチャなキャラクターを作った。赤塚不二雄とはまた違う天才肌だった。

代表作は『アギャキャーマン』『ヤスジのメッタメタガキ道講座』を挙げておく。


昭和スケッチ・4『ミニスカート旋風』


ファッションの流行は数あれど、その衝撃と圧巻においてこれを凌ぐ物はなかった。

パリではクレージュが1965年(昭和40年)パリコレでミニスカートを発表した。初めて女性が膝上を見せたのである。これは画期的な出来事であった。昭和42年、スーパーモデル、ツイッギーの来日で、ミニスカートブームに火が付いた。


その時、私は流行の先端にいた。神戸でも3本の指に入る婦人服飾店に勤めたばかりだった。そこがいち早くミニスカートを仕掛けた。とある大物女優が店に来て、短いスカートをさらに短くと言った。私の手は震え、太股をピンで刺さないかと心配したものだった。走りの娘がまず飛びついた。負けじと、足に自信があるOL、自信がなくても若ければと、職場でも穿きだした。若い娘達を電車の中で見て、30ミセスも「私だって」と・・40ミセスも、美脚基準も年齢制限もとっぱわれた。ミニはマイクロミニになった。「これ、お尻見えるわね」とお客。流石に違いますとは言えない。「ですね」と答えたら、「じゃー、貰います」。エスカレーターで、バッグを後ろにした姿を見るようになった。見られたくない、見せたい。涙ぐましい女心。

 たちまちに、「全国的にミニー!」になった。「男が婦人服なんか」「ファッションなんか」と軽く見ていたが、女性の圧倒的パワーを見せつけられて〈世の中を変えるのはオンナ〉と思った。ファッションの世界の摩訶不思議さに魅了されたのであった。


注釈と説明

アンドレ・クレージュ:若い頃に土木建築学を学び、1961年にクレベール通りにサロンを開設して独立。

マリー・クヮント:ロンドンに店を持つデザイナー、スカート丈を短くして『ミニスカート』として売り出したところ、大ヒットする。ミニとは、クヮント自身が大好きな英国車『Mini』から採用した。彼女のミニはロンドンのタウンファッションの中から出てきた。同時期、同じミニではあるが、パンチのクヮント、洗練されたクレージュと言われている。


昭和スケッチ・5『ニュータウン』


僕の通っていた高校の裏は竹藪であった。その竹藪にブルドーザーが2台入って〈こいこい〉と土を掻いていた。運転している人に「何を造るんですかぁ?」と訊いた。 「人口十万の街を作るんや」と答えが帰って来た。「まさか、それはないやろう」と信じなかった。大学は関東に行った。卒業して関西に帰って来たら、街は出来上がっていた。 日本で最初のニュータウン『千里ニュータウン』(豊中、吹田両市に跨る)であった。 1966年(昭和41年)年、佐藤首相や昭和天皇が視察に来ているから、かなり出来上がっていて、相当、全国的に注目される存在であったのだろう。   1970年(昭和45年)この千里丘陵で万博が行われた。これに合わせて、ニュータウンの中央部に阪急百貨店を中心としたショッピングセンターが出来た。そこに、私が勤めた会社が店を出した。まさか、私がニュータウンで仕事するとは思わなかった。万博が終わって、会場に入っていた北大阪急行が千里中央駅に入って来て、大阪の都心梅田と結ばれた。これを持ってニュータウンは完結した。路地があって、しもた屋や商店があって、古い家、モダンな家が混在しているのが街ではないのか?緑地が適当に配置されているとはいえ、コンクリートの人工の街は何だか不思議の国に来たみたいだった。 ニュータウンは団地地区と一戸建て区域とで構成されている。公園でのんびり子供と遊んでいる主婦は団地族で、一戸建てはローンがあるので、共稼ぎで公園なんかでのんびり出来ないとか、団地で家賃の滞納率が一番高いのが千里ニュータウンとか、ニュータウンならではの話があった。千里ミセスは新しいもの好き、派手好きで、購買意欲もお旺盛で、お陰で私が任された婦人服店は繁盛した。 その後、大阪南部に泉北ニュータウンが出来た。後年、そのニュータウンに住むという運転手君のタクシーに乗ることがあった。オールドタウンだと言う。来るときはみなニューファミリーで、みな一緒に年を取って、今では老人比率が超高いのだという。 「最初は幼稚園、小学校でっしゃろ、次に中学、高校と造らなあきまへん。みないっぺんですわ。あとはそんなに数がいりまへん。ニュータウンゆうのはえらい不経済なもんですなぁー」とその運転手は言った。 注釈 最初のニュータウンはこの千里であったが(計画人口15万)、日本で最大のニュータウンは多摩ニュータウン、人口30万である。今は人口減とかで、このような大規模ニュータウンの開発は必要なくなった。喜んでいいのか、悲しんでいいのか…


昭和スケッチ・6『万博に行こう』


「せまい日本、そんなに急いでどこに行く?」

「ヘーィ!ちょっとみなで万博に…」

あれは〈日本民族の大移動〉だったに違いない。1970年(昭和45年)の183日の宴と喧騒。総入場者数は約6,421万人。あれほど、日本人が日本列島を移動したことはかつてなかったし、そして今後もないだろう。


僕は、大学は関東の田舎大学だった。その万博会場に隣接するニュータウンの中央に出来たショピングセンターが僕の職場だった。

「おい、久しぶり。これからみなで行くよって」、大学時代の悪友たちである。オンボロ車で5人が夕方にはやって来た。

「新大阪に来てるのん。どうやって行くの?悪いけど迎えに来てくれへん」、お前とはたしか別れたはず。2ヶ月同棲した彼女。

「あんたの店どこにあるの?」「今どこ?」「電車の入ってない駅、千里中央って書いてある」、アアー、すぐ傍や。バーのホステスだった娘(ツケは残ってないはず)。

関西に住む人は、遠くの親戚を始め、珍客万来であったはずだ。


同じ年、山田洋次監督の『家族』という映画があった。長崎県の小さな島の炭鉱生活を見切って、北海道での農業を夢見て、開拓村まで旅する一家の姿を描いた名作である(その年のキネマ旬報1位)。高度経済成長期の日本の社会状況の中でも、生活のため、日本列島の端から端までの鉄道での旅。途中、折角だからと万博を見に行くところがある。主人公の倍賞千恵子がとってもいい。短いシーンではあるが、万博の〈光と影〉、それは〈日本の光と影〉でもあるのだが、万博の様子を印象的に撮っている。


面白い数字がある。こんなけ入れば迷い子(人)も沢山だろう。大人 12万7453人、子供 4万8190人。どうして大人なのと思ってしまう?落し物金額は4,780万円(下向いて歩けば1日27万円か)。


私のお店(婦人服店)の近くにコンパニオンの宿舎があって、万国の美女が山盛りだった。国際交流の様子と、万博に関するエトセトラはこちら⇒ https://i.crunchers.jp/w/5792

映画『家族』予告編4分 

https://www.youtube.com/watch?v=1mfhrpRcaOk


この大移動には、1964年(昭和39年)の東京オリンピックに合わせて開通した新幹線、万博の前年に全線開通した東名~名神の高速道路の存在が大きかったと思う。私はこの間が、日本人の生活、スタイルが一変した時期ではないかと・・ある意味、一番元気してた時期かも知れないと思ている。


昭和スケッチ・7『高度成長経済』


戦後昭和を語るとき、このキーワードは避けて通れない。経済白書がもはや戦後ではないと言ったS31年を起点として、オイルショックのS48年までの17年間を言うようである。特にオリンピックから万博までの7年間の平均成長率は10%であった。

 いくら二桁成長と言われても、生活の実感を持って国民はそれを判断する。三種の神器と言われた洗濯機・テレビ・電気冷蔵庫は既に普及し、3Cと言われたカー、カラーTV、クーラーに移行して行っていた。長距離の移動は夜行列車などではなく、新幹線、高速道路と安楽になった。


 私が大学を卒業したのはS44年、東大安田講堂が陥落した春だった。初任給3万円。それから3年後、給料は16万円になっていた。社長は今のブラックなんとかではなく、きちっと、残業手当、休日出勤手当を付けてくれた。店を終えて事務所に荷を置くと、社長夫婦が製品の値段付けに忙しい。「では、飲みに行きますからお先に」とは行かない。手伝って暫くしたら、「君ぃー、後を任せたよ」と、御夫婦はご帰還。毎日10時、11時まで働けば、それぐらいの金額にはなる。それ程、商品が売れたということである。ミニスカートにパンタロン、ラコステやパーマーのワンポイント物、売るものに事欠かなかった。


 大学は宇都宮大学(農学部)であった。上野から電車で2時間半掛かった。地元商店と東京の会社の地方営業所で成り立っているようなローカル都市だった。在学中に工業団地が周辺に出来た。電気、自動車の組立工場であった。農学部は民間企業の就職には有利でなかった。しかし、3年生で就職先が決まり、企業からお小遣いが貰える結構な人気研究室があった。農学科『雑草防除研究室』である。

 内陸組立工業は兼業農家の安い労働力を頼りにした。稲作の重労働といえばこの草取りである。労働時間と重労働を取り去るもの、除草剤である。除草剤は後に環境汚染として社会問題になる。学園紛争に明け暮れていたが、静かに周辺に目をやれば学ばねばならないことは沢山あったのである。


「東洋の奇跡」と言われた、高度成長経済の要因とは?易しくわかるように、私はこのように理解している。


1、安くて良質の労働力、それも大量に。所帯持ちよりは独身労働者の方が安い。大学の進学率も30%を占めるようになっていた。勤勉で真面目、向上心に溢れる。まさに、私であった。


2、エネルギーコストが安かった。戦後、中近東で大量の安い石油が発見された。それまでアメリカは世界一の産油国であった。でも、消費量も多く、中東の石油を必要とした。高くても国内石油産業も守らねばならない。コストは足して2で割ることになる。守るべき石油産業なんてなく、買いまくる方が俄然有利になった。


3、アメリカで開発された『品質管理』という考えが、アメリカでは定着せず、日本がその優等生になった。中曽根がアメリカは黒人労働者が多く粗悪品と発言して、問題になったあれである。


4、それと1ドル360円という固定為替制度が国内市場を守ってくれたことを挙げておく。自動車産業の歴史を見れば自明であろう。その他、色々挙げられるが、農地改革や婦人の参政権や戦後の民主改革がベースにあったことは論を待たない。


写真は買い貯めに走る主婦、何だか楽しそう。

 

昭和48年、オイルショックで戦後初めてのマイナス成長を示した。それが何故、原油と直接関係ないトイレットペーパーの買いだめ騒動になったのか?それほど世間は動転したとしか言いようがない。戦中を知る私の母などは、生き生きとして行列に並んでいた。

私は当時、婦人服関係の仕事に就いていたのだが、百貨店や専門店の物販は意外にもよく売れた。折からの狂乱物価で買いだめに消費者は動いたのだった。製造分野は生産の縮小に向かったが、物販分野、特に婦人服は好調なだけにこの年のオイルショックを舐めた。

 

翌49年、生産を抑えたとはいえ、昨年比を下回って、仕入れ計画、生産計画を立てた専門店、アパレルは一社もなかったであろう。秋冬物の受注も順調についた。秋冬のシーズンに入ると共に、消費者は一転して買い控えに入った。生産現場では残業はなくなり、家計の収入は減った。そしてこれが一時的なものでなく、当分続くことがはっきりしたのだ。

専門店はアパレルへの返品で在庫調整をした。神戸のアパレルで一番優良会社だったW社の倒産が噂に上った。神戸のアパレルは一社残らず倒産の危機に直面した。


神戸の繁華街・三宮のネオンは消され、サラリーマンの帰りが早くなって、喜んだのは主婦だけという笑えない話がある。


日本はこのショックを教訓として、省エネ技術の開発に努めた。特に1979年の2回目の石油危機では「ガソリン価格が2倍になれば、走行距離を2倍にすればよいではないか」と、逆転の発想で日本の自動車を輸出の花形に変えた。こうして、日本は省エネの最先端国としてこの危機を乗り切った。


注釈

以降、脱石油依存が叫ばれ、原発比率が上げられた。福島第一原発(1971年営業開始)の事故で原発が全て止まり、節電が叫ばれているが、当時の取り組みは今の比ではなかった。

ネオンサインの早期消灯は言うに及ばず、デパートのエスカレーターの運転中止。ガソリンスタンドの日曜休業。野球の土日のデーゲイム化、テレビの深夜放送の休止等であった。

経済の停滞は勿論であったが、消費者物価指数で1974年は23%上昇し、「狂乱物価」といわれ、庶民の生活を直撃した。振り返って、脱原発の時ではないかと私は思うのである。

OPECの73年の値上げは1バーレル3ドルを5.12ドルへ、翌年これを11.65ドルへ、

79年は発表の値上げ幅はさほどではなかったが、各国の備蓄買いだめで高騰した。一時100ドルを越した価格も今は50ドル代で推移している。如何に、戦後の世界経済は中東の安い石油に依存してかが分かると思う。


昭和スケッチ・9『流行語・風俗』


時代を象徴する流行語や風俗がある。政治・経済の事象や世相を表すマスメディアの造語である場合が多い。TVのコマーシャルや漫画本から出て来る場合もある。

ヒッピー、サイケ、アングラこれらの言葉はある時代(1960年代)を表して関連している。


ヒッピーとは、伝統・制度などの既成の価値観に縛られた人間生活を否定することを信条とし、1960年代後半に、おもにアメリカの若者の間で生まれたムーブメントで、のちに世界中に広まった。彼らの多くは、自然と愛と平和とセックスと自由を愛していると主張した。日本ではフーテンとも呼称された。漢字で書くと瘋癲である。ちょっと頭が病をおこしている意味が本来である。定職を持たず街中などをふらつくこと、またはその人を言うようになった。セックスを除けば、全く寅さんである。


サイケとはサイケデリック、精神科医の造語で、幻覚剤の影響下にあるときに出現する幾何学的な視覚パターンを言うらしい。これがアートになると立派な芸術となり、日本では横尾忠則が知られ、神戸に美術館がある。


アングラとはアンダーグラウンドの略で、本来は地下抵抗組織を意味した。《1960年代のアメリカやヨーロッパを起点として西側社会に対する文化的な対抗、権威主義や主流派・保守階層、政治家、資本家への反発などの抵抗からヒッピーなどの若者を中心にした「カウンターカルチャー」として、政治的連帯感と共に大幅に発展することとなった( Wikipedia)》と大変なのである。アメリカでは特にポピュラー音楽や映画、現代美術を中心に影響を及ぼした。知っている名前ではジョン・レノン、ボブ・ディランながあげられる。日本ではアングラ演劇で、唐十郎率いる状況劇場、寺山修司らの天井桟敷の名前があがる。


共通するのは反権威であり、フリーであり、少しジメついたものであった。これらはファッションになり、男性は髪の毛を長くして優しくなった。ユニセックスという言葉も生まれた。これらがカッコイイとされた。僕には似合わなかった。


4文字漢字で流行った言葉、「軽薄短小」がある。自分の頭と下半身を言われているようで、あまり好きでなかった。反対語は「重厚長大」である。これからの産業は重厚長大ではなく、軽薄短小であるとか、製品も「軽くて、薄くて、小さい」モノが受けるという、いい意味で使われたのである。しかし、僕はいっこうにウケもせず、モテもしなかった。


昭和スケッチ・10『ファッションとメイクと女性』


戦後女性は綺麗になった。『ミニ旋風』でも書いたが、僕が婦人服と関わるようになったのは、万博が開催された前年からである。ミニスカート、パンタロンが街を圧巻した。別段ファッションに興味があったわけではない。思う就職先が全部落とされ、行くところがなかったのである。この仕事に就く前は、付き合っていた女性がどんな装いをしていたかすら記憶にない。それほど女性の着ているものには無関心であった。


昔、昭和が昔になったのだから仕方ない。女優岸恵子が言った「女のお化粧は武士の二本差」、女性の心構えを言ったのであるが、今時、そんな大層な気持ちで化粧する人はいない。メイキャップというのは、役者や俳優がする時に使われる言葉だった。素人がすると「厚化粧」と言われた。今や死語である。

結婚し、鏡に向かう妻を見て、顔は作られるものであり、メイクアップとはよく言った言葉だと感心した。


隣のお姉さんも、向かいのお姉さんも頭に何やら巻きつけていた。「真知子巻き」だという。巻けば、岸恵子になれるのだと思ていたのかなぁー。2枚目の写真はヘップパーンの「ティファニーで朝食を」の有名なシーンである。着ているのはジバンシーのドレスである。この時代、日本では女性が(淑女が)立ってモノを食べるなんてとんでもないことであった。写真、真知子さんと比べてなんという違いか。これがまさに、アメリカと日本の差であった。


1980年代DCブランドというのが流行った。私がいた梅田のファッションビルに、とんでもない(そう思ったのだ)売り場が出来た。コンクリートの打ちっぱなし、服は黒一色。販売員はハウスマヌカンと称して、その店の服を着ている。「カラスの行水」みたいな店だと思った。『コムデギャルソン』の服を見た最初だった。


まるで「お人形さん」みたいな服が流行った。DCブランド『ピンクハウス』。あの娘らがいい大人になったらどんな服を着るのだろうと、妻に尋ねると「そのままよ」と言った。初老になっても着る人は着るのである。


DCブランド時代、ビッグファッションが流行った。肩幅で着て(大きな肩パットが入っていた)、ウエストを太いベルトでギューと縛るのである。店の販売員の女性がいみじくも言った。「私でもデザイン出来そう」と・・この服は身長のある女性には似合ったが、そう身長がない日本の女性にはと思っていた。そこに出て来たのがボディコンシャスであった。私が扱ったブランドはキュートな可愛さがあって、神戸の女性には好評だった。


ボディコンシャスが「ボディコン」という言葉に略されるようになって、ディスコ服になった。インポートブームとかで、アルマーニ、ベルサーチ、1着20万、30万する服も売れた(当店では扱わなかった、と言うよりみな直営であった)。時あたかもバブル景気で世の中は浮かれていた。どこか「おかしい?」と私は店で思うようになっていた。


昭和スケッチ・11『バブル』


バブルと云えばお姐さん。お立ち台で浮かれたお姐さん。

バブルと云えば女将さん。へんな料理屋の女将さん。

銀行手玉に何百億円踏み倒したとか・・あれはなんていう時代だったのだろう?


浮かれたのは何も若い娘とは限らなかった。

「アメリカは日本に学ぶべきである」と、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の著者に褒められるとその気になって(確かに、電気、自動車をはじめとした輸出産業は絶好調であった)日本そのものが浮かれてしまったのだ。


あるDCアパレル(これもー死語だわ)服を売らないで、土地を買って大儲け。不動産屋の上を行った。東京から見れば、みな安く見えたのだ。何しろ山手線内の地価総額はアメリカの地価総額に匹敵すると言われた時代だ。


バブルと云えば銀行マン。

私の友人がある都市銀行に勤めていた。「俺とこの銀行、潰れるかもしれん」と言った。「お前の銀行が潰れるぐらいなら、他もいっぱいやな」と、まともに受け取らなかった。3年だか、再度会った時に「いっこうに、潰れやんか」と冷やかした。彼は両方の手の指を組んで、「これや、皆一斉に倒れかかって、もたれ合ってるだけや。今噂になっている信用金庫、潰したっていいのや。でも、上手に抜かんと皆倒れる」と語った。私は聞いて背筋が凍った。嘘ではなかった。2年ほどして銀行の名前は全部変わった。


「母さんあの帽子はどこに行ったのでしょうね」と云う、コマーシャルがあった。「あのお金はどこに行ったのでしょうね?」。バブル、多分、タコが自分の足を食べたのだと理解している。


昭和スケッチ・12『天皇崩御』


昭和64年1月7日、午前6時33分、昭和天皇はお亡くなりになられた。

昭和天皇は私より一つ若かった?人間宣言されたのが昭和21年1月1日だった。神様であられた期間を入れなければそうなる。


僕の小学校時代、クラスで、天皇陛下の巡行の真似をするのが上手い奴がいた。帽子をちょっと持って、ぎこちなく語りかける。「君のお父さんは元気?」「お父さんは戦争で亡くなりました」ちょっと困った顔をして「あっそー」と言うのである。


9月に病気になられてからは、自粛ムードで、日本シリーズに優勝したのにビールかけもなかった。もっと普通にしている方が自然だと思っていた。崩御された日、子供二人が「つまらん、なんで天皇の番組ばっかりなんや」と口を揃えて言ったので、「うるさい!二、三日テレビ見んでも死なんやろー」と叱っていた。テレビの番組を見ながら、大変な時代を生きて来られたのだと思い、昭和が終わる感をいよいよにした。


百貨店にショップを出していたので、ウチの女子社員が赤いスーツで出勤したら、こんな日にと叱られて、「なんで怒られんといかんのん?ニュース見てなかったから知らなんだのにィ」と、愚痴ていたのを覚えている。

天皇を巡っての世代間の違いを感じたものである。


注釈

在京民放5社の申し合わせで、「天皇崩御の記者会見」から各社とも2日間CM抜き。

各局そろって中止するのは、テレビ放送開始後、初めての措置。歌番組、ドラマ、クイズ番組はすべて姿を消す。レンタル・ビデオ店はどこも大繁盛。普段の4~5倍の貸し出しだったという。


昭和スケッチ・最終回『平静でない平成』


天皇の崩御を持ってこのスケッチの最終回とするはずであった。最後に平成にも触れたいと1回延ばしたのである。気がつけば平成もいつのまにか四半世紀が過ぎていたという実感しかない。その殆どは失われた20年の内にあった。


バブルの崩壊。早く対処をしていれば、4、5年で済んだのかも知れない。銀行のトップがどれだけの不良債権があるか分からない。当然大蔵省も把握出来ない。小出しに出てきて、対処も先送り、最終的に70兆円の国費が銀行の不良債権処理に注入された。


一度東京にいたとき、高速道路を走っていて大きな揺れを経験したことがあった。地震が起きるなら関東、まさか、神戸で地震なんて思ってもいなかった。その時京都に住んでいたのだが、ぼろ家が潰れるのかと思ったぐらい揺れた。神戸に店があったので、西宮まで電車で行き、悪いけど駅前でボロ自転車を拝借して神戸市街に入った。見慣れた三宮のビルが昼寝でもしているように道の真ん中で横たわっていた。店が入っていた建物は幸い倒壊していなかったが、周囲はとっても、当分商売が再開できるような環境にはなかった。もう、自分が生きているうちに見る最大の地震だろうと思っていた。


それから、14年、まさかもう一度あるとは思わなかった。津波の映像に驚愕した。そして翌日の原発の事故。大阪湾には原発は存在しないのだが、もしあったらと、神戸に重ねた。神戸の瓦礫になった街と、津波に攫われ何もなくなった街、人が住まず動物が公道を闊歩している異様な町中を重ねた。私の平成はこの二つの震災で尽きる。文章を書くきっかけにもなったのである。


原発は大阪湾・東京湾にはないように、大都会の繁栄は地方に押し付けてある。日本のあり方を変える時ではないかと多くの人は思ったと思う。それが、電気代の問題に歪曲されてある。


最後に、松本サリン事件をきちんと対応してさえいたら防げたであろう霞ヶ関サリン事件を思う。警察の情報を垂れ流しただけのマスメディア、今回の後藤さん人質事件でも政府見解を追認しただけの報道、マスメディアも何ら変わっていない。


戦後70年、『国民の安全と命を守る』この言葉が虚しく聞こえて仕方がない。





これは、フェイスブックで連載したものである。


書いた文章をFBで紹介することがある。またその逆にFBで連載したものをサイトに投稿することもある。

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