記憶にない記憶
今年最後となります。ありがとうございました!
早朝から疲れました。
あの後、起きるのなら着替えを手伝うと言い出したローニを追い出したのは良いがリリンが起こしに来る前にまたやってきた。
それをまた叩き出そうとして失敗しリリンが慌てて参戦してくれて追い出し、着替えを何とか終わらせた。
朝から体力も気力も使い過ぎた私は今、ぐったりとソファーに身を預けている。
「執事長は本気なのでしょうか?」
お茶を用意してくれたリリンは心配そうにそう溢す。
「今朝いつもより早い朝礼だったから何かあったのかと心配していたのですが……執事長がとても良い笑顔で執事長を辞任しますと言った時の空気は本当に壮絶なものでした」
「そんなに凄かったの?」
聞いてはいけないような気がするのに好奇心の方が大きくなる。
「それはもう。強いて言葉にするとしたら…阿鼻叫喚?」
「そっそんなに酷かったの!?」
「執事長の信者は沢山いますから」
「鬼の執事長なのに?」
「このお屋敷にはきっとそういうのが好きな方が集まるのですね。怒られたり冷たくされる度にうっとりと頬を染めて喜んでいる人を何人か知っていますし、執事長目当てにここで働きたいと言ってくる人も多いとか。老若男女問わず」
「そんな事を喜ぶなんて…理解が追い付かない」
「お嬢様は理解なさらなくて良いのです。でも私初めてミルティス様にお会いした時、お嬢様もそういう方なのかと思っていました」
リリンはさらっと何とも凄い爆弾を落としてくる。
飲んでいた紅茶を吹き出しそうになりながらもなんとか堪える。
「ゲホッゴホッ…な、何でそんなとんでもない勘違いを?」
「執事長はお嬢様に付きっきりでしたし、お嬢様も離れたがらなかったのが一番ですね。普通の人は執事長が無言になるだけで震え上がります。それなのにお嬢様は全く離れる気配はないし、他の執事が近付く方が良しとしない感じでした」
「あ~…うんそうね」
「あ、でもすぐに気が付きましたよ!お嬢様の前では鬼でも氷でもない執事長だとか、離れたがらないのは執事長の方だとか、他の執事が近付くのを良しとしないのはお嬢様に男性が近付くのを嫌う執事長の機嫌が物凄く悪くなるからとか」
「…もう止めて」
改めて言葉に出されると恥ずかしくてどうしようもない。
出た声は思ったより小さくてリリンに届かない。
「ここにいると執事長関連の噂話が聞こえてくるんですよね。奥さまのお茶会にお嬢様を連れていった時の話なんか今でも時々耳にしますよ」
「お母様とお茶会?」
「お嬢様が10歳位の頃に奥さまと初めてお茶会に参加された時の事ですよ」
はっきり言って覚えていない。
お母様に連れられてお茶会には何度か行った記憶はあるけど、その全てにローニが側に居た。
でも変な噂になるような事は起こらなかったとは思うのだが。
「お嬢様の初めてのお茶会には執事長は一緒に行けなかったそうです。それなのにお茶会に参加されている方のご子息がお嬢様に求婚なされたとか」
ん?
そんな話は記憶にない。
「それは私の話ではないと思うわ」
「間違いなくお嬢様です。そしてそのご子息さまは少し強引な方だったそうですよ。その場で婚約式をしたいと我儘を申されたとか」
「あ…」
ふと頭の中で情景が弾けるように広がった。
ローニと同じ黒い髪の男の子だった気がする。
顔立ちもとても似ていた。
特に光の加減で赤に見えるような瞳が赤く輝いていた気もする。
でも誰なのかか全く分からない。
「どなたのご子息?」
「さぁ……その話が執事長の耳に入るだけで死人が出たとか。だから誰も噂を広める事がなくそのまま記憶から消えていったようですね」
「思い出そうにも黒髪と赤い目しか記憶にないのよね。どなたのお茶会かも分からないし」
母はもう既にこの世にいない。
私が子供の頃に事故で亡くなった。
微かな記憶ではとても綺麗で優しい人だった。
馬車に轢かれそうな子供を助けたと聞いている。
「ローニは知っていても絶対に話してくれなさそうね」
「そんな噂話をまたしておられるんですか」
その内戻って来るだろうとは分かっていた。
私の側から離れても長い時間は離れない。
「今日は気分転換に買い物へ参りましょう」
「急ね…」
このローニの笑顔は曲者だ。
もう話を続ける事はないだろう。
提案を飲まないという選択肢は用意されていない。
「馬車の用意は整っております」
うん。
私の意見はないらしい。
でもローニから誘われたデートに行かないということは私には出来ません。
来年もよろしくお願い申し上げます!