ジェームズの長い一日
朝、僕の眼はもやのなかで動くものを捉えた。柵の近くでまるい塊が動いている。
「主人、こっちへ。」
玄関から銃を持った主人が出てくる。
この時期は狼が村に下りてくることがある。畑を荒らす野ウサギにも何度か痛い目に合わされている。僕は注意深く柵に近づき、ごそごそしているその塊めがけて突進した。
「マリー! 」
「あらジェームズ。」
「朝早くから見ないと思ったら! 君はまた脱走かい? 」
僕は呆れてマリーに言った。
「ダメだって、狼が出てきたら君をぺろりと食べちゃうよ。」
主人はマリーを掴むと手際よく小屋に連れて行く。
「まったく、お転婆羊め。」
マリーはがっかりしたような顔で連れて行かれる。彼女の楽しみである脱走は最近未然に防がれてきた。というのも、僕も段々と彼女の手口が見えてきたからだ。マリーはのんびりしていておしとやかに見えるのに、脱走するときといったら子ネズミよりもすばしっこく動くのだ。しかも彼女は、脱走する時を選ばない。気が向いたらするりと柵の隙間を抜けていくのだ。
ペーグリー家の夫人が箱とレタスを抱えてきたのは昼前だった。
「旅行に行くことになりまして、その間この子を預かっていただけないでしょうか。」
気のいい主人は箱と持参金代わりのレタスを受け取った。
ジェシーおばさんも主人も野菜が好きなので喜んだ。けれど一番喜んだのはマリーだった。
「甘くてとってもしゃきしゃき! 」
マリーは突然のご馳走にはしゃいでいた。
僕は生憎野菜を食べる主義ではないので、マリーが嬉しそうにしているのを見ているだけでなんだか嬉しかった。
「アルフレッドはどうだい? 」
この間の春うちに来たアルフレッドは大体むっつりしている。しばらくレタスを食べていたけれど、ふと言った。
「しんが渋い。」
けれどしゃくしゃく食べていた。彼もマリーと同じで野菜が好きなのだけど、根菜の方がいいと言っていたのを思い出した。
「ジェームズは食べないの? 」
「レタスは苦手だから。」
「そう、残念ね。」
マリーはちょっぴり悲しそうに笑った。
レタスを食べ終わり、マリーは柵の近くをうろうろしていた。僕は、マリーが脱走する機会をうかがっているのに気づいて彼女を見ていた。
主人は毎月一回はかならず柵の点検をしているのに、マリーはどこをどうやってか、目を離した隙に脱走する。うちにはマリー以外に脱走する元気のある人はいない。アルフレッドは元々社交的じゃないから、彼女と一緒に脱走する気はないらしい。今も水のみ場で喉をうるおしている。
柵の向こうの通りをホッパー家のお嬢さん二人が歩いていた。二人とも花畑にいった帰りみたいで、カゴに花を入れていた。
「あら、マリーじゃない。」
二人のお嬢さんはマリーに近づいた。
「こんにちは。とっても素敵な匂いね。」
マリーは花が好きなので、二人に近づく。すると二人はマリーの頭をなでて、くすくす笑いながら去った。
「ジェームズ、あのお嬢さんたち私の頭になにかしたようなの。どうなっているの? 」
ふりかえったマリーの頭には、ピンクや黄色の花がささっていた。
「とっても素敵なことになっているよ。君の巻き毛から花が生えているみたいだ。」
「まぁ本当に? 」
マリーは見れないのが残念だわ、と言う様に頭を動かして上を向いた。
「アルフレッド、どうかしら私の頭。」
マリーがアルフレッドに近づくと、彼は満腹で眠くて機嫌が悪かったのか、ぶすっとして言った。
「お前の頭に花が咲くのは今に始まったことじゃねぇ。」
そしてのそのそ歩く。マリーはなんとか自分の頭を見たいようで、水のみ場の水を覗き込んでいた。
小屋に向かって歩き始めたアルフレッドが主人の家の窓の下に来たときだった。何かが窓から飛び出し、アルフレッドのほほにべちゃっとぶつかった。
「か……彼女を、傷つけるな……! 」
それは主人が預かっていた魚だった。
アルフレッドはぎょっとしていた。僕も草の上に落ちた魚を見てぽかーんとした。魚は苦しそうにあえいでいた。
「どうしよう。」
「知るかよ。こいつが勝手に俺に頭突きしたんだ。」
アルフレッドは頬がぬれて不快そうな顔をし、去ってしまった。
「あの、君、大丈夫? 」
僕は魚に聞いたが、魚は僕を睨んだ。
彼が眼をむいてぜーぜー言っているのが怖かった。困った末、僕はそっと彼を咥え、水のみ場に向かった。
ぽちゃんと彼は水の中に沈んだ。
「ジェームズ、何を入れたの? オレンジ? 」
「いいや、主人が預かった魚だよ。」
マリーはそっと水面をのぞいていた。波打った水面が段々静まり、マリーの顔が映った。ふわふわの白い巻き毛にちょこんと咲いた花、つぶらなきらきらした目。マリーは嬉しそうに僕に言った。
「とっても素敵ね。私皆に見せてくるわ。」
と、マリーがくるりと向こうを向いた。その瞬間、水のみ場の底で何かがきらっと光った。
ぷかっと魚の頭がでてきた時には、マリーはもう畑の手前にいるミーシャやジョンじいさんのそばにいた。
「あの、君大丈夫? 」
僕の問いに、魚が呟いた。
「……サイアクだ。君の助けなんか欲しくなかったよ。」
「でも助けないと君死んでしまうし……。」
魚は水を飛ばして叫んだ。
「初めての口付けを犬に許してまで助かりたいなんて思わなかったさ! 」
僕は何もいえなかった。それは誤解だよ。事故だよ。けれど、本当に悔しそうに魚は言った。
「マリーのために戦った勇敢な男として死ねるなら、本望だったのに……。」
そしてもう一度水のみ場に沈んでいく。魚は主人に救出されるまで沈んでいた。魚のジョナサンは水槽の向こうから恨めしげに僕を睨みつけていた。マリーは花がしおしおに枯れてしまう前にジェシーおばさんが取り除いてしまったので、彼女の巻き毛には少し花粉が残っていた。
アルフレッドはやけにジョナサンが僕達を睨んでいるので、睨み返していた。
「やめなよ、彼はマリーが好きなんだよ。」
僕がそういうと、アルフレッドはげんなりした顔で言った。
「よりによってあの不思議ちゃんかよ。」
睨む気がうせたらしく、アルフレッドはジョナサンを睨むのをやめた。
僕は主人からジョナサンを助けた功績により、骨付き肉をもらった。日が沈む前にそれをもらうと、僕は納屋にまっすぐに向かった。リンダが大きめのかごの中で横になっている。その後ろにマリーがいて、ミーシャと話していた。一番すみにアルフレッドが横になり、眠そうな顔のジョンじいさんが食事をしていた。
「ただいまリンダ。どうだい調子は? 」
リンダは大きくなったお腹を冷やさないように、丸くなっていた。
「順調よ。どうしたの? その骨付き肉。」
「気の毒なジョナサンを助けたら主人がくれたんだよ。」
そして僕は今日一日あったことを妻に話した。