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8月14日
古びたアパートの前で、中年の女がコンクリを箒で掃いていた。特に落ち葉もゴミもない、同じ場所を掃いては頻繁に通りに目を向けて、まるで誰かの帰りを待っているかのようだった。
そんな中、中年の男が自転車を走らせてきて、アパート前に止まった。ブレーキが錆びて、きしんだ音をたてる。
「あんた、どうだった?」
男の顔を見てすぐに女が詰め寄る。男は首にかけたタオルで顔と禿げ上がった頭を拭いて、ため息を付きながら首を横にふった。
「一応、届けは出したが、あまり期待はできなさそうだ」
「そんな…」
二人でアパートの二階、一番奥の部屋を見上げる。
ベランダに置かれた小さなサボテン。
この部屋の住人である少女が、帰ってこなくなってからもう1週間が経とうとしていた。
「大貫!今日の3限出ないの?」
大学の構内を足早に歩く黒髪の女に、眼鏡をかけた真面目そうな男がはなしかけた。
黒髪の女は振り返る時間も惜しいように片手を挙げて、去っていく。
「さよ、講義出ないって?」
後から来た小柄な女が、眼鏡の男に話しかける。
「なんかさ、さよちゃん、友達が失踪しちゃったみたいなんだよね」
続いた言葉に、男は「へえ」と驚き、詳しく話を聞こうとしたが、予鈴が鳴ったためそれは叶わなかった。
大貫さよは、都内にある大学の、経済学部に通う大学生だ。
彼女には小学生の頃からの幼馴染がいる。
その幼馴染は、小さい頃から親が不在がちで苦労したが、それでも前向きに努力して、アルバイトで生活費をまかないながら、奨学金や周囲の援助で高校を卒業した。そのまま就職したため、社会人としては先輩だ。
さよは小さい頃から曲がったことが大嫌いだった。そんな性格だからか、よく同級生や、時には上級生とも喧嘩した。別段腕っぷしが強くないさよは、いつも喧嘩に負けてしまう。そんなさよといつも一緒にいたのが加奈子だった。一緒に戦って、負けて、泣いて、笑ってくれた。
さよにとって加奈子は明るく、真面目で優しい、かけがえのない親友なのだ。
加奈子と連絡がつかなくなったのは8月8日のことだ。その日は、加奈子の仕事終わりに食事に行く約束だった。だが、約束の時間になっても加奈子は現れず、連絡もとれないまま3日。心配になったさよは加奈子本人のアパートへ向かったが、自宅にも帰ってない様子だった。
大家も心配して警察に連絡すると言っていたが、きっとあてにならないだろう。
加奈子は、約束をすっぽかして自分勝手に消える女じゃない。
さよは、そのことをよくわかっていた。
幼馴染の身に、なにかあったのだ。
不安と心配で、鼓動が早まる。
-私が、助けないと。
昨日、加奈子の職場である工場に、話を聞きに行った。
社員の話では、失踪当日、交通事故を目撃し、子供が怪我をしているため付き添うため遅刻すると連絡があったそうだ。
病院名を聞いたさよは今日、その病院に向かっていたのだった。
「だから、1週間前に交通事故で運ばれた子供のところに行きたいんです!」
「ですから、第三者に個人情報をお伝えすることはできません!」
病院の受付で、さよは揉めていた。
もう何度目になるか、同じ内容を繰り返す問答で、受付の女は疲労困憊しているようだった。
大声の応酬に、受付ロビーでさよは注目の的だった。
「そのとき処置した先生とか、看護師さんとか、誰でもいいんで会わせてください!」
「ですから…!」
「はいはい、ちょっと失礼しますよ」
と、そこで警備員が到着した。たくましい手で、小夜の肩ががっしりと掴まれる。
「さあ、帰りましょう。他の患者さんの迷惑です」
「ちょ、まだ話は終わってない!はなしてよ!」
問答無用で病院から追い出されてしまった。
またリベンジしようにも、出入り口に警備員が立ってしまい、もう入ることはできなさそうだった。
さすがに無鉄砲すぎたかなと、さよは反省し、しかしまた明日来てやると闘志を燃やした。
ギッと正面玄関を抜けた受付を見ていると、
「あの、あなた…」
声をかけられた。
さよが振り向くと、そこには30代後半といった女が立っていた。細身で、小柄だ。
「もしかして、ですけど。『カナコ』さん、のご友人でしょうか?」
驚きに目を見開く。女は安心したように微笑んだ。
「よかった…、うちの陽介が本当にお世話になったんです。お礼が言いたくて。」
病室では、ベッドの上で退屈そうに少年が横たわっていた。
母親とさよの姿を見ると、飛び起きたが、さよが目当ての人物で無いと分ると、がっかりしたようにまたベッドに横たわった。
「陽介、こちら『カナコ』お姉さんのお友達。さよさんよ」
「お姉ちゃんの友達!?」
また少年は飛び起きた。落ち着きがない。
「ねえ、お姉ちゃんは元気?大丈夫?」
少年の言葉に、さよは母親を見る。
この少年に事情を話していいのか。すでに母親には、加奈子が失踪していること、できるかぎりの情報がほしいことを伝えてあった。
母親はうなずいた。
さよは、少年に向き直った。視線を合わせ、ゆっくりと話しかけた。
「あのね、陽介くん。加奈子…お姉ちゃんなんだけど。実はいなくなっちゃったんだ。私は今、あの子がどこにいるのか探したいと思っている。陽介くん、お姉ちゃんのこと、なにか知らないかな?」
その言葉に、陽介は泣きそうな顔で母親を見た。
「ほら、お母さん、やっぱりお姉ちゃんは連れてかれちゃったんだよ…!」
「え?」
「陽介が運び込まれたときに加奈子さんがそばに居てくれていたようなんですが、陽介は加奈子さんが何かから自分を守って消えてしまったと話していて…多分、失血状態であやふやになった記憶だろうと先生と話していたんですが…」
「僕、毎晩夢に見るんだ。あの『黒いやつ』が、お姉ちゃん、を…」
「陽介!」
急にぐったりした陽介を、母親がベッドに横にさせる。
先程まで血色がよかったのに、今度は真っ青だ。
「まだ体力が戻ってなくて。貧血になりやすいんです」
布団をかけて母親が陽介の髪を撫でる。その表情は優しく、不安そうでもあった。
「陽介を助けてくれた恩人です。できる限りのお手伝いはさせてください」
ですが今日は、お引取りください。その言葉を聞いて、さよはうなずいた。
『黒いやつ』『連れていかれた』
これが本当なら、対処できるかもしれない人物に心当たりがあったからだ。
-待っててね、加奈子。絶対に助けてあげるから。