8
翌朝、加奈子は目覚めてすぐ、羞恥心でどうにかなりそうだった。
昨晩、シグの胸で大声で泣きちらしたあげく、そのまま眠ってしまったのだ。
「…っ!」
声にならない声を上げていると、「起きましたか」と優しい声がかかった。
シグは焚き火を消して、水筒を差し出してくれた。
「あ、ありがとう。おはようございます…」
「おはようございます。さあ、あともう少しで街に出ます。頑張りましょう」
シグの声は変わらず優しかったが、しばらく顔をまともに見れそうになかった。加奈子は冷えた革袋を火照る頬に押し当てた。
あれから、シグは変わりなく接してくれている。昨晩の加奈子の失態が、まるでなかったかのようだった。
「カナコ、この花には気をつけてください。キレイですが、毒がある。この花の葉の部分は、毒消しになるので知っておいてください」
シグが足を止め、黄色い可憐な花を指さして加奈子に教えてくれる。
一つ変わったことがあった。ほとんど黙って歩き続けた昨日と違い、今日は色々と教えてくれるようになっていた。道に咲く植物のことなどの他愛のない話。もしかしたら、昨晩の加奈子の様子を見て、気を使ってくれているのかもしれない。
-大人だよなぁ
昨日と同じように先を歩くシグの背中を見ながら、加奈子も歩く。たった2日ばかりの付き合いだが、シグは本当に大人だ。そしてそんな彼のことを、加奈子はまだ何も知らない。
-こういうのって、いつ聞くものなのかな。
今は、街にたどり着くことが先決だ。
加奈子は一人で頷いて、シグの後を追った。
木々の木漏れ日が赤くなって、夕暮れが近いことがわかった。
かなりの距離を歩いている。じんじんと痛む足をなんとか動かしながら、加奈子は歩き続けた。
それからしばらくして、シグの足がふと止まる。
加奈子を振り返ったその顔には、初めて見る安堵の笑みがあった。
「カナコ、見てください。街です」
「ほんとう!?」
慌ててシグの指す方向を見ると、森の木々の合間、遠くに幾つもの明かりが見えた。
明かりだ!
たった2日ばかりだったが、人の気配を感じて加奈子は安堵に足の力が抜けた。
へたり込む加奈子の向かいに、シグは跪き、加奈子に微笑みかける。
「よく、頑張りましたね」
その優しい言葉が、胸にしみて、加奈子は泣いた。
街へと続く街道へ出る頃にはとっぷりと日が暮れていた。
後少し。そう思うと、重くて痛む足もなんとか動く。加奈子は街だけを見て歩いていた。
ざざざざざざ
と、そのとき草を掻き分ける、聞き覚えのある音が聞こえた。風の音ではない。
先程まで感じなかった寒気に、全身の皮膚が粟立つのを加奈子は感じた。
-あいつだ!
加奈子がシグの方へと顔を向けるのと同時に、シグが腰の剣を抜いた。
剣と、シグの鳶色の瞳が、月の光で輝いていた。
「カナコ、走ってください」
シグがカナコの前方にある街を指さした。
「シグは…!?」
「奴を倒してから追います。さあ早く!」
終始穏やかで優しい口調の彼の、緊張感のある声。
加奈子の脳内に、あの凄惨な光景が甦った。
足がすくむ。死ぬかもしれない。
私も、シグも?
「カナコ!」
シグの声にはっとする。すでにあの化物は森を抜け出し、月明かりの下にその身をさらけ出していた。
赤黒い皮膚と、常に膨らんでは肉が弾け、萎む背中。妙に細い腰。奇妙なほどに膨れた頭。ぽかりと空いた、空洞の目。
四足には鋭い爪と、耳まで裂けた口には涎をまとった牙がぬらりと光っている。
-この前見た奴と違う、化物だ…!
その化物は、空中で匂いを嗅ぐように頭を上げて鼻をひくつかせた後、悦ぶようにその身を震わせた。
うううううううういいいい!
そして、近くにいたシグではなく、加奈子に向かって飛びかかってきたのだ。
ギイイン!
とっさに身をすくめた加奈子の眼の前で、シグが化物と対峙していた。あの一瞬で、加奈子のもとへと跳躍し、化物の長い爪を、シグが剣で受け止めていたのだ。
シグの剣と、化物の爪が競り合い、火花を散らす。
「うおおおお!」
シグは気合いと共に、足を一歩前に出した。そして両腕で化物を押しのけたのだ。
彼の体よりゆうに倍はある化物を押しのけて、シグは両手を振りかざした。
化物も、シグに飛びかかる。
ザンッ
刃の煌めきと共に、化物の身体が2つに分かれる。
地面に落ちた肉塊は、ぐしゃり、と熟れすぎた果実が潰れるような音を立てた。
-倒した?
加奈子はじっとその化物を見つめる。
「やはりだめか」
シグの厳しい声と同時に、化物の身体にも変化がみられた。
2つの身体が動いているのだ。ぶくぶくと泡立つように肉が弾けながら、分かれた身体が一つになっていく。
ものの十数秒で、何事もなかったかのように化物がまた2人の前に立ちふさがった。
「くそっ」
シグが焦ったように剣を振るうが、今度は化物が早かった。
体当たりするように勢いよくシグに突進した。その攻撃は単純だが、速度も強さも桁違いだった。
どがあああああん
シグが加奈子の後方に弾き飛ばされる。
街道沿いに生える木に背中から叩きつけられたシグは、反動で地面に投げ出されて倒れた。
「あ…ああ…!」
加奈子は恐怖で動けなかった。足が地面に縫い付けられたようで、身体が震えて、指1本動かせなかった。
-シグは走れと言ったのに
シグ一人なら、切り抜けられたかもしれない。
-逃げることすら、できない…!
恐怖で足手まといになった挙げ句、自分を守ろうとしてシグがやられてしまった。シグは生きてるだろうか。
眼の前には化物が、生臭い息を加奈子に吹きかけている。舌なめずりをして、がぱり、と大きく口を開けた。加奈子の身体半分は入ってしまいそうだ。
「カナコ!!」
-ああ、シグ、生きてたんだ
悲痛なシグの声を聞き、加奈子は彼が生きていることに安堵した。
-こいつが私を食べている間に、逃げることができるといいけれど。
結局、ここがどこなんだか、シグは一体何者なのか、何ひとつわからないままだった。
迫りくる牙に、加奈子は目をぎゅっと瞑った。