7
「君がいけないんだよ」
加奈子は暗闇の中にいた。どこからか、声が聞こえる。
幼い声だ。どこか、聞き覚えがある。
「君が邪魔しなければ、上手く『連れて来れた』んだ」
誰なんだろう。
-きみは?
「『僕』のことなんて放っておけばよかったのに」
-僕?
「まあせいぜい頑張ればいい」
声が遠のく。
-待って、きみは?
「忘れたの?」
「カナコ様、カナコ様!」
「う、うわっ」
強く揺さぶられ、目を覚ますと金髪の男が心配そうな顔で加奈子の顔を覗き込んでいた。加奈子は慌てて飛び起きると、あたりを見渡した。
鬱蒼とした森、目の前にはくすぶっている焚き火の跡と、まだ心配そうな金髪の男、シグの姿。
「何度呼んでも起きないので、心配しました」
「ごめんなさい、ぐっすり寝ちゃって」
シグが休めるように見張りを代わろうと考えていたのに、朝まで熟睡してしまった。寝汚い自分が恥ずかしくて、加奈子はうなだれた。
と、同時に、何か夢を見ていた気がしたが何だっただろう、と考えた。
すでに内容は忘れてしまったが、少しだけ気になった。
-まあ、今はいいか
気を取り直して、シグから革袋に入った水筒を受け取り、少し飲むと、加奈子は脱げていたビーチサンダルを履き直した。
「ではそろそろ行きましょうか、カナコ様」
「はい、っていうか、様つけるのやめてったら」
「…努力いたします」
それからは休憩をはさみながら、ふたりは歩き出した。
森の中は、あまり日が差さず、湿度が高い。半袖でいるとすこし肌寒い気温だが、動いている分には気にならない程度だった。
前を歩くシグの背中を見つめる。大きな背中だ。
シグはなるべく歩きやすい道を見つけ、加奈子を誘導してくれている。ちょこちょこ振り返っては、加奈子のペースをうかがっているようだった。
ひとりじゃない。
孤独ではないということが、現在の加奈子の気持ちと身体を大きく支えていた。
しかし、歩いても歩いても、なかなか景色は変わらない。
きちんと進んでいるのだろうか、という気持ちになってくる。加奈子は考えようとしている頭を横に振り、ひたすら歩き続けた。
さらにしばらく歩いたところで、ふとシグが加奈子を振り返った。また足元注意だろうか、と見ると、どうも違うようだ。加奈子をじっと見て、何か考えている。
「シグ?」
「…いえ、何でもありません」
何か言いたげにして、そして何も言わずにシグは前を見なおして歩き出した。
その様子に疑問を覚えつつも、加奈子もそれに続く。ふたりはそれからはあまり話さず、歩き続けた。
一日中歩き続けたが、森を出られることはなかった。シグいわく、「今は森の中腹あたり」だそうだ。明日の夜までには森を抜けられるだろう、というの予想を聞いて、迷っているわけではないことを知り、加奈子は安堵した。
昨日と同じ手順で焚き火の用意をしたシグを見つめながら、加奈子はストレッチを始めた。
一日中歩き続けることは、現代人である加奈子にとって、キツい運動だ。きちんと柔軟をしておかないと、明日も同じように歩くことがつらくなる。
加奈子が足を屈伸したり、身体を曲げているのを興味深そうに見ていたシグが、また加奈子を見て何か考えているようだった。
加奈子はシグを見て、声をかけた。
「どうしたの?」
「ああ、その…」
ふと、シグが躊躇しているのを感じたが、しかし昼間とは違ってシグは加奈子から視線を逸らせることはなかった。
「カナコ様は、落ち着いておられる、と思っておりました。様々な事があって、混乱しているでしょうに…貴女は怪しい私に対しても、安心してくださっている。ですが、今きっと思っている疑問や感情を私にぶつけて当然なのに、貴女は我慢している。」
シグの言葉に、加奈子はシグを見つめた。
落ち着いている、そう見えるのか自分は。
「私は貴女にもっと信頼してもらえるように努力しなければと思いました。」
焚き火の中で、木がぱちりと爆ぜる音がした。
同時に、今まで蓋をしていた感情がせきを切ったように溢れ出てくるのを加奈子は感じた。
「…落ち着いてなんか、ない。」
「カナコ様…カナコ?」
声が震える。身体も震える。
ガタガタと震えているうちに涙が出てきた。
どんどんと今までの出来事がフラッシュバックしてくる。
車と衝突した子供、道路に横たわって頭から血を流している少年。
病院でいきなり現れた黒い化物。
森のなかに飛ばされて、さ迷う自分。
化物に追いかけられ、襲われ、また化物が現れて。
腕を喰われ、血が出て、化物が死んで。化物が人間になって、その人は自分を守ると誓った。
「落ち着いてられないよ!考えだしたら止まらないよ!いきなりこんな場所に来ちゃって、誰もいないし、へんなやつに追われるし、腕、噛まれるし!」
「カナコ」
「噛んだやつは死んじゃって、舐めたあなたは姿が変わっていまここにいる!噛まれた腕はすぐに治っちゃうし、わたしは何なの?あなたは?あいつは?ここは?わたしはもう人間じゃないの?助けて、帰りたいよ、帰りたい、帰りたい帰りたい帰りたい…!」
「カナコ」
話しながらも大粒の涙が次から次へと湧いてくる。最後の方は叫ぶようになってしまった。シグは加奈子を見つめて、言葉になっていない言葉をひとつひとつ聞いてくれた。そして大声で泣く加奈子の肩にそっと手をおいた。
焚き火で温まった手から、確かにぬくもりを感じて、加奈子はシグに飛びついた。大きな身体に顔を押し付けると、そっと背中に腕が回される。
加奈子はさらに大きく泣いた。
涙が止まるまで、ぬくもりが離れることはなかった。