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加奈子が死を覚悟したとき、目の前に迫った「それ」が、突如として消えた。
どがあああああん!
同時に、加奈子から見て左側にある大木が弾けた。
「あっ…ああ、あ」
呼吸さえままならない加奈子が、視線だけそちらに向けると、先ほどまで目の前にいた、あの化物が大木にへばりついていた。
そして、加奈子の前には、
「ぐうううう、ぐ、ああああ」
あの化物と同じ「それ」が、よだれを垂らしながら立っていたのだった。
加奈子の思考が追いつくより前に、大木にへばりついていた化物が、後から来た化物に飛びかかった。どうやら、加奈子に襲いかかるところを、邪魔されたようだった。
そして、加奈子はおいてきぼりのまま、二匹の決闘が始まった。
まるで映画を観ているようだ。
二匹の化物は、予測ができない動きで、ぶつかり合い、時には噛み付いて互いを傷つけ合っていた。恐らくは、獲物の取り合いなのだろう。きっと生き残ったものの賞品が、加奈子なのだ。
今すぐ逃げるべきだ。
しかし加奈子は動くことができなかった。圧倒的な力のぶつかり合いに、目が離せなくなっていた。
そして、後から来た化物から目が離せなかったのだ。
後から来た化物は、何かと加奈子を襲っていた化物とは違っていた。まずは、酷く苦しそうだ。戦いながらも、時折悲鳴をあげている。そして、不思議なことに頭の部分から背中にかけて髪の毛があった。金色の長い髪の毛が、ばさばさと揺れている。まるで馬のたてがみのようだ。
また、腕にはキラキラと光る腕輪が嵌められている。
ー化物にも、個性があるのかな
呑気なことを考える暇はないのに、加奈子は現実逃避をしてしまう。
戦いは、ほぼ互角と見えた。いや、金髪の化物の方が、不調からか劣勢になってきている。金髪の化物が、再度悲痛な悲鳴を上げてひるんだ隙に、禿げた化物が、勢いよく金髪の化物をつき飛ばした。さらに馬乗りとなって、首筋に噛み付く。
「ぎゃああああああ!」
耳を塞ぎたくなるような大きな悲鳴に、加奈子は震えた。弱肉強食の世界を見たようだった。必死になって暴れていた金髪の化物の動きが弱くなり、やがて止まる。
ゆっくりと、馬乗りとなっていた化物が起き上がり、咆哮を上げた。
うううううおおおおおおんんんん!!!
そして、こちらを見据えた。
「あ、あ…」
ー何をしていたんだ、のんびりと観戦してる場合じゃなかったのに!逃げないと、逃げないと!
思いとは裏腹に、身体は全く動かず、息すらままならない。
一瞬時が止まり、
そして、衝撃が身体を襲った。
ぐしゃああああ!
「あ、ああああああっ!」
背後の木に叩き付けられるように、腕に化物が喰い付いたのだ。鋭い牙が、二の腕に食い込んで、容赦なく抉った。
目の前に火花が散るような痛みが、加奈子を襲った。すすっている。私の血を!
喰いついて離さない化物に、加奈子は痛みとパニックで、右手に握っていたハサミを、滅茶苦茶に化物に突き立てた。
ううううっ
加奈子から化物が飛びのいた。
左腕の肉を一部引きちぎっていったのだろう。強烈な痛みと共に、腕から指先までが、血で溢れて濡れた。
痛みと出血で、どくどくと心臓の鼓動が激しく動くのを腕に感じる。
ーああ、
殺される。そう感じつつ、目の前の敵を見つめる。
化物はとても嬉しそうに、美味しそうに、加奈子の腕の肉を貪っていた。肉から血液を啜るようにむしゃぶりつき、手のひらについた血を必死に舐めている。人心地つけば、また襲ってくるのだろう。
加奈子の意識が遠のきそうになる。自分の血肉を貪り食べる様子を見れば、誰もが狂うか、意識を飛ばすだろう。
しかし、加奈子が意識をなくすことはなかった。陰惨な光景からの、驚愕な現象を目の当たりにしたからである。
最初、化物は歓喜に震えているのだと加奈子は思っていた。
ところが、徐々に化物の姿形が崩れていく。まるでアイスが急に沸騰して溶けていくように、化物の皮膚が沸騰して肉が弾けて飛んでいく。そこで加奈子は化物が異常を来していると知る。
ぐじゅぐじゅと蒸発していく様子は、ホラー映画で観るように必要以上に残酷で、かつ滑稽なほど現実離れした光景だった。
ぎゃあああああっ、ぎゃあああああ!
苦しそうに、身悶えしながら化物は、それでも加奈子ににじり寄ってくる。血を求めて。
加奈子の膝下まて来たとき、化物の頭がごきり、と鈍い音をたてて、直角に曲がった。
首元には、先ほど殺されたと思った金髪の化物だ。 背後から近づいて、首の骨をへし折ったようだ。ずうん、と横に倒れた化物は、そのままぐずぐずと溶けて土と一緒になっていった。
呆然としたまま、その光景を見ていた加奈子は、今度は加奈子の目の前に現れた金髪の化物を観察することとなった。
金髪の化物は、やはり、先ほどの化物とは全然違う様子だ。全身の皮膚は、腐っていないし、変な臭いもしない。皮膚は、深い紫色の鱗のように硬質化している。そして何より、目の中に、瞳があった。
鳶色の瞳は、何故か理性的な感情を感じさせた。まるで、加奈子と同じように、ものを考えているように。加奈子に対して、目を伏せて見せたのだ。
そうしているうちにも、加奈子の腕の出血は止まらず、腕から指先、地面へと血液が流れていった。ふと、加奈子はこのまま喰べられても、いいかもしれないと感じた。
どうせ死ぬのならば、痛くないほうがいい。このまま意識がなくなってから、喰べてくれないだろうか。そう思っていると、目の前に、ごわごわした感触と、視界一杯に金色が広がった。
間近に迫った化物と、視線を合わせる。
ふと、鳶色の瞳に、躊躇のような色が見えた。
先ほどの瞳から、理性や敬意を感じたのも、そう見えただけかもしれない。すぐに加奈子は考えを改めた。化物はそのまま、加奈子の腕に吸い寄せられるように顔を近づけたのだ。
ひくひくと鼻をひくつかせて、加奈子の傷をしげしげ見やると、化物は、加奈子の傷をほんの少しだけ舐めた。
何故か、加奈子の腕から痛みが引いた。すう、と潮が引くかのようだった。
舐めた後、すぐに加奈子のそばを離れた化物は、加奈子に深々と、頭を垂れた。そう見えた。まるでお辞儀をしているような様子に、こんな状況なのに笑えてくるのが不思議だ。
痛みが引いたのも、この妙な光景も、全て自分が死ぬ前に見ている幻覚なのだろうか。
そしてさらに化物の様子が変わっていくのを、加奈子は呆然と見続けることとなる。