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加奈子は歩き続け、仕事場の工場が見えてきた所で横断歩道を渡った。チカチカと青いランプが点滅しはじめ、いつもどおり道路を横断し終わった加奈子は、向きを変えて工場へと向かった。
キイイイイイイイイ!
どんっ
金属が擦れるような甲高い音が響き、一拍後に鈍い音がした。
加奈子が振り返ると、横断歩道をまたぐように止まっている車と、ハンドルを握って硬直している運転手が見えた。さらに視線を先に向けると、黒いランドセルが転がっていた。
ランドセルだけが。
血の気が引くとはこのことだろうか。慌てて視線を彷徨わせると、自分が立っている道路の脇に子供が倒れているのを見つけた。ここからでもわかる。頭から、血が流れていた。加奈子の視線が、その一点に固定されたかのように、ぴたりと止まった。
どろり
「え?」
一瞬、妙なイメージが頭に浮かんだ。どす黒い、沼のような。「初めて」見た光景が、既視感を覚える。
ーなんだっけ。
不思議に感じたが、加奈子はその考えを振り払うように、子供の元へ走った。子供は白いシャツに、青い短パンを履いた、どこにでもいるような小学生だった。今は眉を寄せて唸っている。
「きみ、しっかりして!」
携帯電話で救急車を呼ぶ。
少年は、意識があるようで、うつろな視線を加奈子に向けた。
「いたいよ…」
「大丈夫、すぐに病院にいくからね。じっとしていて」
持っていたバックパックを少年の頭の下に差し込んだ。白い布地が赤く染まっていく。
頭を打ったときはあまり動かしてはいけないと聞いた。少年を落ち着かせようと、加奈子はできるだけ優しい声で少年をなだめて、手を繋いだ。ぐっと手をにぎると、手のひらにまで血が垂れているのがわかった。
気持ちが焦る。出血が多い。子供の血の量ってどれくらいなのだろう?こんなに出ていいのだろうか?
ポケットに入っていたハンカチで、気休めだが少年の頭を抑えた。
「血が、血がたくさん出てるよ…すごく痛い」
「大丈夫、大丈夫だよ。きみの名前は?」
励ますにも、名前を知らなかった。少年は加奈子から目をそらさずに口を動かした。
「よーすけ」
「よーすけくん、ね。私は加奈子。ずっと一緒にいるからね、安心してね」
励ます気持ちを込めて、血まみれの手を強く握った。誰でも1人になるのは怖い。それは加奈子が誰よりも一番良くわかっていた。傷を治すことも、痛みを取ることもできない。でもそばにはいてあげられる。
よーすけ、と名乗った少年は安心したように頷く。
やがて、救急車のサイレンが聞こえてきた。ほっとする。
到着した救急車から担架が出てきて、そっとよーすけを乗せた。加奈子は救急隊員に事情を説明して、病院まで付き添うと申し出た。
救急車に乗り込むと、不安そうにしていたよーすけの手をまた握った。
「おねえちゃん…」
「大丈夫だよ、一緒だからね」
放っておけない、その気持だけだった。
病院の待合室で、加奈子はじっとしていた。平日の病院の、救急処置室の廊下は、ひどく静かだ。壁とカーテン越しにくぐもった声が聞こえているが、状況は全くわからなかった。
仕事場への連絡も済み、後から来た警察へ事情を再度説明し、よーすけの両親と連絡がつかないため、連絡がとれるまでいることとなったのだ。
運び込まれてから、しばらく経っている。どんな状況なんだろうか、と不安になった加奈子は処置室へと近づいた。
同時に、処置室のドアが開き、看護師とばったり対面することとなった。
「あっ、あなた、いま運ばれてきた子と一緒の?」
「は、はい!」
やや訝しげに尋ねられ、加奈子が返事をすると、背後を振り返り、医師だろうか、白衣を着た男性に声をかけた。
「先生、どうします?」
「この子の両親と連絡がついていないらしいからね、いいだろう。どうぞ入ってください」
最後は加奈子に向けられた言葉だった。恐る恐る処置室へと入ると、ベッドによーすけが横たわっていた。顔色はひどく悪い。頭に包帯を巻かれているが、そこからは血が滲んでいる。
「ひどく出血しているから、輸血が必要です。しかし、検査の結果、よーすけくんの血液型はかなり特殊なものだとわかりました。日本にも100人といない血液型です。当院にも輸血のストックがないので、彼の両親から輸血用の血液を採取するか、ドクターヘリで、輸血がある病院まで向かわなくてはいけないんです。どちらにしてもご両親と連絡がとれるまで動けない状況です」
「そんな…」
「もちろん、あなたは第3者ですから、本来ならこんな状況を説明すべきではないんですが…、正直、かなり深刻な状況です。よーすけくんが先ほどまで意識があって、あなたを呼んでいましたから。そばにいてあげてください」
カーテンが閉められ、よーすけと2人きりになった加奈子は思わず、その小さい手を握った。さっきまでの暖かさが嘘のように、冷たい手だった。
命が消えようとしている。そのことを実感して、加奈子は両足から力が抜けるようだった。
加奈子にとって、孤独とは違い、死は身近なものではなかった。だが出会ったばかりとはいえ、こんな幼い子供の生命が、あっけなく終わりに向かっていることを、冷静に受け止めきれる人間がいるだろうか。
「…、」
「よーすけくん?」
ふと、眉を潜めた様子のよーすけを見て、加奈子はさらに強く手を握った。
すると、そろり、と彼の目が開いたのだった。よーすけは加奈子を見ると、安心したように、すこし笑った。
「おねーちゃん、いたんだね…」
「うん、いたよ。傍にいるって言ったものね」
ほっとしたのか、よーすけはまた目を閉じた。そして、そのまま口を動かす。
「なんだかね、両足が重いんだ」
「え?足?」
「うん、道路を渡るときからずっと」
ー道路を渡るときから?
その言葉に、ふと彼の両足を見て、加奈子は愕然とした。
「ありえない光景」を見たからだ。
「それ」は、よーすけの足元に絡みつくように「いた」。
どす黒く、やせ細って、嫌な臭いを放つ、小さい人間のような、「それ」だ!
「っ…!」
よーすけはもう意識が無いようだった。
「それ」は、彼の両足から、頭に向かって這いずるようにうごめいている。まるで何かを探しているように、何かを嗅いでいる。
「それ」を見て、加奈子は毎晩見ている夢を思い出していた。
ーこいつ、夢に出てきた…!
夢の中のように、鮮明な姿ではなく、黒い靄のようなものに覆われている。だが、間違いない。
なぜ「それ」がここにいるのか。何故よーすけにしがみついているのか。
加奈子は考えるよりも先に、感情が動いた。
夢のなかでは、あれほど恐怖した相手だったが、今の加奈子は、恐怖よりも怒りが勝っていた。加奈子には確信があった。
ーきっと、こいつのせいで、事故にあったんだ!
そして、夢の中の出来事を思い出す。「それ」がすすっていたのは。
ー血だ!きっと、よーすけの血を求めてる!
かっと、加奈子の頭に血がのぼった。許せない!
加奈子は右手を大きく振り上げて、「それ」を払いのけた。
ぐしょっ
嫌な音をたてて、「それ」は床に落ちた。
そして、また何かを探すように頭を持ち上げてゆらゆらと揺らす。
ーだめ、この子の傍に行かせてはいけない!
加奈子は素早く視線を彷徨わせる。ふと、ベッドサイドに、看護師の忘れ物だろうか、ハサミがおいてあることに気づき、それを手にとった。
そして、自分の腕にハサミの先端をあてがって、思い切り突き立てた。
「うっ…」
ぱた、ぱたぱた
加奈子の腕から一滴、二滴と大きな赤い雫が白い床に落ちた。そして、落ちると同時に、「それ」が加奈子に向かって、跳びかかってきた。
ううううううううううう!
その光景はまるで。
ーああ、夢の最後と一緒だな
そう思って、加奈子は目を閉じた。