ロングビルと忘れられた英雄(28話)
今回から2話続けて視点が変わります。
王都防衛戦におけるもう一人の英雄の話をしよう。
防衛戦の橋の上の戦いで負傷した井ノ口は、病室のベッドに横になっていた。
回復は順調の様で徐々に頭の中がすっきりとしてきた。
すると起きている時間が増え、一人でやる事もなく、暇と寂しさを感じる様になった。
部屋の外の廊下には、兵士が控えている。
水を頼めば水を、腹が減ったと言えば食事を届けてくれるが、愛想の一つも言わない無骨な男で、井ノ口をうんざりさせていた。
今日は、井ノ口の元に、王の使いとして侍従が金貨30枚を届けに来た。
井ノ口は、感激し、感謝した。
が、その気持ちも、数時間立つと退屈さと寂しさにかき消されてしまった。
(昨日は、颯真君と敦君が見舞いに来てくれたが、今日は来ないな。)
井ノ口は、廊下の方を時々見るが、そこに井ノ口を見舞う人は現れなかった。
おそらく二人は何かしら忙しいのだろうという事を、井ノ口はわかっていた。
しかし、この世界で知り合いらしい知り合いのいない井ノ口にとっては、同室だった二人が唯一の友人だった。
そこに少し、甘える気持ちや頼る気持ちがあったので、井ノ口はこの日二人が来ない事に不満を感じていた。
(二人とも冷たいな。)
先ほどから、近くの大道の病室から、大道と女性の楽しそうな声が聞こえてくる。
井ノ口は嫉妬を感じた。
同じ様に橋の上で戦い、同じ様に傷ついたのに、向こうの病室は賑やかで女性までいる。一方で自分の病室は静かで、時々不愛想な兵士が水を置きにくるだけである。
病室がやたら殺風景に見え、棚の上の金貨の袋が、妙にむなしく感じた。
「これはこれは!英雄!井ノ口殿でらっしゃいますな?お初にお目にかかります。わたくしは、ロングビル子爵と申します。英雄殿が入院なされたと聞いて見舞いに参上いたしました。」
突然廊下に人が現れて自分に話しかける事に、井ノ口は驚いた。
と、同時に自分を知っていてくれる人間がいる事に嬉しさを感じた。
「井ノ口殿は、先の王都防衛戦では大変なご活躍であったと伺っておりますぞ。」
ロングビルが高位の人間である事は、一目見て分かった。
柔らかそうな布地に金の装飾をあしらった服、宝石の入った指輪、相当財力のある人間なのだろうと井ノ口は思った。
高位の人間が自分の病室を訪ね、自分を多いに称えている。
その事に井ノ口は満足した。
「いや、それほどの事はありません。」
「何をおっしゃいますや!橋の上で獣人相手に一歩も引かなかったと言うではありませんか。その勇気!このロングビル感服いたしました。」
ロングビルの言葉を聞いて、井ノ口は自分の働きが伝わっている事に喜びを感じると同時に、黒く熱い感情が湧き起こった。
(そう!そうだ!私は腹を刺されるまで戦ったんだ!なのに、この仕打ちはなんだ!)
王都防衛戦の橋の上は、まさに地獄であった。
矢を射られ、味方の回復役は足りず、獣人に踏み込まれ、蹴散らされ、そして味方から見放され、門を閉じられた。
井ノ口は、その時の絶望感と恐怖を思い出した。
敵味方の雄叫び、悲鳴、血の臭い、炎で人が焼ける臭い、そして内門の閉じる音。
恐怖に耐え、戦い負傷した自分こそが真の英雄ではないのか?
それなのに、一人ベッドで寂しい思いをさせられている。
これは理不尽で、不当な扱いではないか?
井ノ口の中で不満が大きく膨らんでいった。
そんな井ノ口の気持ちにロングビルはつけ込んだ。
「ところで、井ノ口殿。召使はどちらにいらっしゃいますか?」
「いえ、私は召使はいません。」
「なんと!御身の回りを世話する人間がいないと?」
「ええ、まあ、食事は兵士の方が運んできてくれますので。」
「いやいや、いけません!救国の英雄たる井ノ口殿がお一人で病室におられ、身の回りの世話をする者もいないなどと!これは・・・!いや、いけませんぞ。」
井ノ口は嬉しかった。
自分の気持ち、不満、寂しさを理解してくれるロングビルが、とてもありがたい存在に思えた。
一方のロングビルは、井ノ口の気持ちを読み切っていた。
井ノ口の部屋に訪問する前に、ロングビルは大道の部屋を見舞っていた。
大道は自分の気持ち、不満、望む待遇を遠慮なしにロングビルにぶつけていた。
おかげでロングビルは、入院した異人の気持ち、不満や不安を理解することが出来た。
「そんなに気を使っていただかなくても・・・。」
「お背中を拭う人間は必要でしょう?」
「まあ、確かにそうですね。」
ロングビルが廊下の方へパンパンと手を叩いた。
一人の美しい女性が井ノ口の病室に入ってきた。
ふんわりとした女の良い匂いが病室にあふれかえった。
井ノ口は、その匂いに、宙に浮くような感覚を覚えた。
そのタイミングをロングビルは逃さなかった。
「井ノ口殿!この者はベアトリスと申しましてな。我が家の奴隷です。この者に御身のお世話をさせましょう。無論、費用はいただきません。」
「いや、そんな、悪いですよ。」
ここぞとロングビルは押した。
「ご遠慮なされるな。井ノ口殿は救国の英雄、その井ノ口殿のご不便を解消出来るのは、エクスピア貴族として、この上ない喜びです。それともベアトリスがお気に召しませんか?」
「いえ、そんな事は、きれいなお嬢さんです。」
「でしたら!お手元に置いてやっては下さいませぬか?このロングビルの好意をどうかお受けください。」
「わかりました。それではお言葉に甘えさせていただきます。」
井ノ口は俯いて、顔を赤くして、ロングビルに礼を述べた。
心から礼を述べた。
前の世界では井ノ口は家族とうまく行っていなかった。
妻との関係も冷え切り、もう何年も女性と会話すら碌にしていない。
ベアトリスが来たことで、無機質だった病室が急にカラフルになった気がした。
「おおお!そうですか!わたくしも大変嬉しいですぞ!では、ベアトリスをお側仕えさせましょう。ベアトリスしっかりお世話するのだぞ!」
ベアトリスはロングビルに一礼すると、井ノ口のベッドの横の椅子に腰かけた。
タライに水差しで水を入れ、タオルを絞ると、井ノ口の上着を脱がせ始めた。
井ノ口は、恥ずかしがりならも、素直にベアトリスに身を任せた。
先程までの不満がウソの様に消え、ロングビルへの感謝の気持ちだけが残った。
帰り際ロングビルは井ノ口に告げた。
「そうそう、ベアトリスは夜伽もいたします。今夜からお命じください。」
井ノ口はベアトリスの顔を見返した。
顔を赤らめて、嬉しそうに井ノ口に微笑むベアトリスが目に入った。
こうして井ノ口はロングビル子爵に絡め取られていった。