起~Ⅱ~
屋上に向かうにつれ、大神結衣からほのかに感じた獣の匂いが強くなってきた。
屋上の扉に手をかける。
静かに開けると、そこにはヘッドホンをつけた大神が立っていた。
急いで来たものの、どうすれば良いのかとっさの判断が出来ない。
「なに?」
僕に息が上がりながら見つめられていることに気付き、無視を決めきれなくなったのだろうか、暫く黙っていた大神が眉を顰めながら口を開く。
落ち着くために自己紹介をすることにする。
「僕は、藤城冬夜って言うんだけど…」
「知ってる、転校生でしょ。」
会話をバッサリと切断させられる。
これは逆効果だったか、と思いながら
「さっき何聞いてたんだ?」
と聞いてみた。いや、今思えば唐突に屋上まで来て、息を切らせながらする質問じゃないだろ、と自分に突っ込みたくなるような会話だったが、それでも大神は答えてくれた。
「夜想曲」
これは…コーヒーの豆を聞かれた時にエスプレッソと答えるようなものではないか……
これも失敗か、と唖然としかけた僕の耳にボソッと、本当に小さな声で「ショパンの第2番 変ホ長調」と聞こえてきた。
取り敢えず返答してくれたことに安堵する。
「あぁ、ショパンの一番有名な夜想曲だね、CMでもよく聞くし。」
傍から見れば髪を銀色に染めているような男がそんなクラシックを知っていた事がよっぽど驚いたのか…表情が固まる。
「あなた、何者?さっきも目が合ったでしょ。」
と警戒するような素振りを見せる。どう返せばいいのだろう。ここは正直に言ってみる。
「実は、僕も自分のことはよく分からない。ただ、自分のことを知りたいと思う…その…君みたいな人と初めて会ったから、少し興奮してた。」
彼女は目を若干細めて、顎に手を添えて考え込む。
「初めて…どうして、いやでも嘘はついていない…」
とブツブツ言った後、
「あなた…藤城君は、さっき私の耳を見たのよね?」
ここでも正直に言った方がいいと思ったので頷く。
「あぁ…見えた、あれは…」
「あれは狼の耳よ、信じなくてもいいけど…」
「狼…?やっぱり…でも、どうして?」
「そういう一族なの。」
サラッとした口調が、何か諦めのような感情から出たみたいで、なんと言うか、ストンと心に落ちてきた。
ちょっと待て
「狼以外にも、そういう一族がいるのか?」
僕が気になったのはそこだった。僕は僕の正体に近づけるかもしれない。
「そうね…」
この後、躊躇いながらも彼女が話したコトを要約すると、こんな内容だった。
この地では神様と鬼との抗争が周期的に行われていて、神様と鬼がいつからか、その力を宿す人間に置き換わっていったらしい。
そのせいで、特定の一族は神様や鬼の力を宿しているのだそうだ。
ただ、神の力はほぼ例外なく、獣のカタチをとるのでそれらの人は獣人族と言われているそうだ。
「で、その獣人族の筆頭が狼の力を宿した大神家、というわけよ。笑っちゃうでしょ。」
その視線と表情が…自虐とか、卑下とか、それ以外にも様々な感情が見えてしまって、僕は何も言えなくなってしまう。
呆然としていた僕を見て我に帰ったのか、ボソッとまたあの小さな声で「なんでこんな話しちゃったんだろ。」と言った。
「今の話は忘れて。」
と出会った時のような無表情に戻って、屋上から降りていった。
…帰り際に、「私のバカ」と聞こえたのは気のせいだろうか。
※※※※※※※※※※
屋上の扉を静かに閉め、少し下った所にある階段の踊り場で、思わずしゃがみ込んでしまう。
久しぶりに人とあんなに喋ってしまった……彼の持つ独特の雰囲気のせいかもしれない。
考えてみれば、朝一目見た時から衝撃を受けた。
一体幾つの死線を乗り越えればそんな表情が出来るんだ、と思わず見入ってしまうほどに。
でも、人と簡単に打ち解けてしまうのは、彼の心が穴だらけで…そこに入っていきやすいからなのだろう。
授業中、ずっと彼の視線を受けていてのは気付いていた。一目でバレてしまうほどに、自分は周囲から浮いてしまっていたのか、なんて思ってしまう。
いつからだろう、人を傷付けても何も感じなくなってしまったのは……
いつからだろう、あんなに楽しいと思っていた学校がこれ程までにつまらなくなってしまったのは…
さっきはそんなことを考えながら、屋上で街の様子を観察していた。
少し気になって100m離れた向かいの校舎を見た…というよりさっきからチラチラと見てはいたのだ。
視線の先には、学級委員の結崎彩夏と、例の転校生が並んで歩いていた。
2人は仲が良さそうに笑いあっていて、少し羨ましいなんて思ってしまうが、それよりも誰にも近づかれないことに慣れてしまった自分がそんな気持ちを押さえ込む。
いつもそうだ、気づいたら自分の過去の罪に苛まれて人に笑顔を向けられなくなっていた。
突然、転入生の目がこちらを向いた。
だが慌てることは無い。どうせ100mの距離を隔てると、薄ぼんやりとした人影にしか見えないだろうから……え?
突然、彼は目を見開いた。そして目線はアタマに…見られた?気づいた瞬間には、耳を引っ込めていた。
柄にもなく慌ててしまう。久々に心臓が早鐘を打っていた。
…だが待て、冷静になって考えてみると、普通の人間に見えるはずが無いではないか。
きっと他の物に気を取られていたに違いない…と思い込んだ矢先だった、彼が唐突に走り出したのは。
今度こそ確信する。
自分は見られていたんだ。
きっとあいつは人間じゃない、最悪、鬼人族の可能性もある。
ならば、ここは狼人族の跡取りムスメとして立ち会うべきか…
思考が加速していく。身体が戦闘モードに切り替わったのを感じた。
足音が近づいて来てやがて、さっきの転入生が息を切らして扉を開いた。
一目見て思ったのは、無防備だ、ということ。
「なに?」
てっきり、戦闘になるものだとばかり思っていたから、少し拍子抜けする。
「僕は、東城冬夜って言うんだけど…」
何故か自己紹介をしている。さっき教室で言っていたではないか…バカにしているのか?
「知ってる、転校生でしょ。」
話を進めるために、返答する。
アドレナリンが出ているせいか、返答が速くなってしまった。
「さっき何の曲聞いてたんだ?」
何を言っているんだ……コレはこちらを油断せようとしているのか?とりあえず応えてみる。
「夜想曲」
これは、コーヒーの豆を聞かれた時に、エスプレッソと答えるが如く滑稽な返答だが、高校生の男子でそれを指摘するのはごくわずかだろう。
あれ…呆然としている?
コレは…少し恥ずかしい、罪悪感を感じて自分だけに聞こえる声で呟いてみる。
聞き返したら、答えてやろう。
「あぁ、ショパンの一番有名な夜想曲だね、CMでもよく聞くし。」
どういうことだ?この声が聞かれたことは今までになかった。狼人族の私でさえ何を言っているのか知らないと、聞き取れないのに……あぁ、なんだ、やはり戦闘に来たのか…つい長く喋ってしまったが、再び警戒した。少し名残惜しいがそれが宿命だ。
「あなた、何者?さっきも目が合ったでしょ。」
確認をとる。私は相手のウソを見破れる。どんな人間でも身体の何処かにサインが表れるからだ。
「実は、僕も自分のことはよく分からない。ただ、自分のことを知りたいと思う…その…君みたいな人と初めて会ったから、少し興奮してた。」
は…?一瞬頭の中に空白ができた。
「初めて…どうして、いやでも嘘はついていない…」
初めて、と言うのは有り得ない、いや、まさかあったことの無い鬼人族か…?
いや有り得ない。
自分の正体を知らない?
思考が加速していくか、理解が追いつかない。
「あなた…藤城君は、さっき私の耳を見たのよね?」
念の為、確認をとるとやはり頷く。となると、ただの視力がいい人間か?いやあれは人間の視力ではない。
「あぁ…見えた、あれは…」
気付くと説明していた。
「あれは狼の耳よ、信じなくてもいいけど…」
何故だ…こんなこと言っても信じるわけがないし、自分を危険に晒すことになるのに…
「狼…?やっぱり…でも、どうして?」
「そういう一族なの。」
サラッと言葉が出てくる、コレは何なんだ彼の無防備さが私を無防備にしているのか?
「………で、その獣人族の筆頭が狼の力を宿した大神家、というわけよ。笑っちゃうでしょ。」
話終えると、彼は呆然としていた。我に返ると、後悔のような気持ちが湧き上がってきて「なんでこんな話しちゃったんだろ。」心の声が思わず出てしまう。
「今の話は忘れて。」
と、出来るだけのポーカーフェイスで屋上を前にした。
結局、戦闘ではなかった。ただ、情報戦は圧敗だ。
マズイことは喋っていないが、彼の雰囲気は危険だ。
…あれ?誰かと、こんなに喋ったの久しぶりだ。少し楽しかったかも…
いや何を考えているんだ…
思わず「私のバカ」とつぶやいてしまう。
……どうやら心の声が思わず口からこぼれてしまうクセは未だに治っていないらしい。
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慌ててたな…何かあったんだろうか?
冬夜君、突然走っていっちゃうんだもの。
結崎彩夏としての顔でいるのも、まあまあ気に入っているんだから。
あんまり私に仕事させないでよ、と藤城冬夜が走っていく方向を見てつぶやく。
それから表情を消して、通信機に向かって呟いた。
「……………………………………」
……今夜は少し荒れそうだ。
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藤城咲特別派遣研究員からの報告書に目を通す。
『被検体αが研究対象の大神結衣と接触』の文字を見て、思わず笑みが漏れる。
そちら側につくか、それもまた面白い。
さぁて、この街がこれからどうなるのか見物させてもらおうじゃないか。
今回は、様々な気持ちや思惑が絡まり合う回となっています。コレから主人公達はどうなって行くのか…少し長めになるかもしれませんが、お付き合いいただければ幸いです。