第百二十一話 母の残り香
その昔、ある呪術師は言った。
この世で一番強い思いというのは『愛』と呼ばれるものであると。
それは時に利害の関係無く純粋に人を動かす。
強い原動力になる。
心というものがある生物において、『愛』は揺るぎないものになる。
恐らく『愛』の強さを否定する者は少ない。
多くの人は『愛』を尊いものだと感じ取る。
『愛』は他者に分け与え幸福を感じ取る。
『愛』は他者から貰い満たされる。
だから、もし我が子を守りたいという深い『愛』があるとするならば――。
逆にその『愛』が牙を剥くならば――。
それはとても恐ろしい『呪い』となるのだと。
優しく温かい『愛』は――どす黒く冷酷な『呪い』に成り得てしまう。
状況によって『愛』の性質は変化する。
反転した『愛』は実に恐ろしく作用する。
深い愛情は、深い攻撃性にそのまま変わる。
『愛』は――容赦なく殺しに来る。
『愛』は――執念深くずっと見ている。
『愛』は――『愛』の害となる存在に冷徹になる。
だから、竜は思い知ることになる。
子を守りたいという母の『愛』は、容赦なく襲いかかってくるのだと。
『愛』は――『愛』であり。
『愛』は――『呪い』なのだ。
***
女性の声が聞こえた気がした。
だが、タルスはすぐにそれを否定した。
それは女性ではなく、母親の声だったからだ。
『お母さんは二人のことが、この世界で一番大切なんだよ』
その声はタルスに再び聞こえた気がした。
それは本当に聞こえているのか、幻聴なのかわからない。
ただ、我が子のことを思う声だというのはわかった。
その声質から本当にこの母親は我が子のことを愛しているのがわかった。
優しく、温かい声から、深い愛情を感じる。
母が子を本当に思っているのがよくわかる。
愛情が感じられる。
愛がある。
柔らかく温かい感覚がある。
人間の善性というものがそこに詰まっている気さえした。
だが――そんな人がうらやむような愛を感じて、タルスは恐怖した。
愛と同時に寒気を感じた。
一切の悪意を持たない母親の声で、体が震えだした。
タルスの心が怯えている。
理解不可能なおぞましさが、全身を包んで警告する。
タルスは相棒の竜に叫ぼうとする。
竜が殺そうとしているのは、竜殺しケイゴ。
そして、その男を守ろうとするエレナという女だ。
エレナという何の力も持たず、無謀にも竜のいる戦場にやってきた女。
母親と同じように、何もできないのに竜の前に立っている。
ケイゴの前に立つことしかできないのにそこにいる。
瞳の竜パープリーアテントに母親と同じように殺されようとしている。
竜の体中にある目玉が赤く光る。
それぞれの目玉から魔力閃光が放たれれば、エレナはケイゴごと焼け死ぬことになるだろう。
ただ、それだけのことなのだ。
だが、タルスの直感は思った。
これはなんとしても――止めなければいけないと。
「パープリー、止めろっ!」
叫んだ直後だった。
だが、タルスが止める必要はなかった。
魔力閃光を放とうとしたパープリーアテントの目玉が、ことごとく炸裂した。
竜の体に幾つもあった眼球が、一斉に使い物にならなくなる。
同時にパープリーアテントは頭が割れるような頭痛に襲われ、呼吸が困難になり、体中が痙攣した。
最強と呼ばれる竜は突如として、動けなくなりその場に倒れるしかない。
だがその状態でも、竜の体は蝕まれ続ける。
パープリーアテントは起き上がろうとしているようだが、力が入らない。
口から血の混じった泡を流しながら、藻掻いている。
元々深手を負っている状態とはいえ、瞳の竜パープリーアテントが地面の上で情けない姿を晒している。
タルスは思わず頭の中に浮かんでいる者の名を呼んだ。
死者の名を呼んだ。
「シルファ――なのか?」
先ほどの声には聞き覚えがあった。
十年前、パープリーアテントに挑んで死んだ竜殺し。
ここにいるエレナの義理の母親。
シルファのもので間違いと――。
「一体何だ――?」
エレナは突然苦しみだした竜を目の前にして、訳がわからず呆然としている。
ケイゴはその後で未だ死んだように動いていない。
少なくとも、あの二人ではないのだ。
そして、この辺りを見渡しても誰もいない。
そもそも誰かいたら、体中に目玉を持つパープリーアテントが気付いているはずなのだ。
だが、そんなことを考えなくても、既にタルスは結論付いていた。
十年前に死んだ、シルファという亡霊。
その置き土産が今になって発動したのだと。
エレナへの殺意によって、今頃になって姿を現した。
「だ、だとしても、十年前だぞ!」
十年前、パープリーアテントは死に際のシルファから精神干渉による攻撃を受けている。
その時、竜は少しばかりの頭痛がしただけで、普通にシルファを殺したのだ。
だが、パープリーアテントは勘違いしていた。
タルスも考えが及ばなかった。
そのシルファの攻撃は自分を守る為のものでなければ、国を守るためのものでもない――我が子を守る為の攻撃なのだ。
攻撃という――呪いなのだと。
シルファによる呪いの発動条件は、無意識に決まっていた。
竜が二人の我が子に害を成そうとした時だ。
つまり、シルファの愛している子供――エレナとミリア。
パープリーアテントがこの二人を攻撃しようとすると、呪いが動き出す。
それもただの呪いではない。
死に際の竜殺しが放つ、命と引き替えに作りだした――最大級の呪い。
窮地にいた竜殺しの恐ろしさは先ほどまでのケイゴで既に証明されている。
今現在、目の前で起こっているのは、尋常でない魔力量から生み出された重度の戒めだ。
そして何より、計り知れない母親の愛が詰まっている。
その愛はもしも我が子を殺されたなら――竜はもちろん、例え相手が神であろうとも殺し尽くそうとする意志がある。
竜は――我が子を思う母親の愛に殺されそうになっている。
「そんな、ふざけたことがあっていいのか!」
タルスは確信した。
殺意だけでこの威力なのだ。
殺そうとしただけで、この有様なのだ。
もしパープリーアテントがエレナを殺してしまったら――確実に呪い殺されるだろう。
下手をすると、契約者としてパープリーアテントと繋がっているタルスも、一緒に殺される予感さえした。
だが、エレナを殺すために、パープリーアテントが死ぬのは――あまりにも割に合わない。
そんなことはタルスの中では絶対的に許されることではなかった。
しかし、そうなるとパープリーアテントは――エレナの背後にいるケイゴを殺せない。
「ふざけるな! 竜殺しはここで殺す! 俺たちは何も成し得ていないんだ! 邪竜の配下も殺せていないのに、ここでおまえまで逃がしてたまるものか! 竜殺し! おまえは絶対に俺たちの邪魔になる! 今まで準備してきたものが全部おまえに崩された! せめておまえは殺さないと――俺は一体何なんだ!」
タルスは何かに怒っていた。
何に怒っているのかはわからないが、怒りが収まらない。
だから感情のまま、エレナへと近づき始めた。
動けない竜の代わりに、竜殺しを殺そうとする。
「シルファの娘が邪魔で殺せないなら、強引にでもどかしてやる! それで竜殺しを殺して――!」
タルスはズカズカと歩きながら、ケイゴを守るエレナへと近づこうとした。
エレナはパープリーアテントに割いていた意識を今度はタルスに向け、敵意ある目で見てくる。
だが――それがどうした? とタルスは進み続ける。
所詮おまえは無力な小娘だ――そう思いながらタルスはエレナを見た。
『――ミ・ル・ナ』
タルスの脳内に言葉にならない言葉が流れてきた気がした。
その直後、強制的にタルスの右目が魔力で過剰強化され――炸裂した。
「ああああああああああああああああああああああああっ!」
右目が弾け飛んだタルスは、顔面から血を流しながらうずくまる。
目玉の激痛に耐えているだけではない。
急に体が重くなり、その場から動けなくなったのだ。
「ああっ、くそっ! 契約の繋がりを通じて、呪いが俺にも作用しているのか? パープリー! 今だけ俺との繋がりを遮断しろ! そうすれば俺はあの娘を排除できる。それであの竜殺しを殺せる。パープリー、パープリー! 意識はあるか! パープリー、頼む!」
タルスはもはや懇願するように叫んでいた。
自力でもなんとか動こうとしているが、やはり思い通りに体が動かないらしい。
「おまえの言う通りならケイゴの奴はまだ強くなるのだろう。このまま生かしていたら更なる脅威になるのだろう。例え無理をしてでも絶対殺すべきだ! こんなのは単に偶然が重なっただけなんだ! シルファの奴は娘を殺されたくないだけだ! それなのにケイゴを殺せないとか、どうかしている! おかしいだろう! 無力な小娘がたまたま運良く来ただけだ! 本来だったら、あの竜殺しは死んでいるはずなのに! こんなことがあっていいはずがない!」
竜の契約者はまるで発狂しているようにも見えた。
ありとあらゆる物に怒りを向けているように見えた。
まるでこのままケイゴを殺せなかったら気が狂いそうになるぐらいの、緊迫した表情でタルスは喚き続ける。
「ああ、くそっ! シルファの奴、今更余計なことをしやがって! だから俺は、何もできない小娘に――俺を否定されてたまるかぁ!」
***
「はぁ、はぁ、はぁ――」
――何が起こっているの?
エレナは落ち着かない呼吸を続けるまま、体を硬直させることしかできない。
彼女はもう駄目だと思っていたのだ。
このまま瞳の竜パープリーアテントに殺されて自分は終わるのだと――。
だが、この選択は自分で選んだ。
この結末は全力で生きようとした自分の結果だと。
死に際だけでも母親に近づけたと、彼女は思っていたのだ。
しかし、どういう訳か竜は突然様子がおかしくなったかと思うと、地面に倒れ、苦しみだした。
その後、タルスが動き出し、エレナの元へ向かってこようとしたようだが、パープリーアテントと同じように突然地面に倒れたのだ。
最初はケイゴが復活して助けてくれたのかと思ったが、どうやら違うようだ。
誰かが助けてくれているのか、それともタルスたちに何か事故のようなことが起こっているのかわからない。
また、タルスが突然エレナの母親である――シルファの名前を叫び始めたのもわからなかった。
エレナの母であるシルファは、十年前に死んだのだ。
死者は生き返らない。
エレナは死体も確認している。
死んだ母親が助けてくれるはずがないのだ。
だからエレナは今現在、何が起こっているのかわからない。
ただ、だからといってケイゴを運んで逃げることはできないし、パープリーアテントやタルスを倒すこともできない。
結局はこの場で、ことの成り行きを傍観していることしかできない。
エレナができることは、もう何もないのだから――。
「パープリー!」
すると、突然タルスが叫んだ。
気がつくと、瞳の竜パープリーアテントが体を震わせながらも起き上がる。
そして竜の喉から――黒い瞳が現れた。
「――っ!」
エレナの呼吸が詰まった。
今度こそ殺されると思った。
だが、そこでタルスが驚いたように大声を出す。
「どういうことだ、パープリー! ケイゴを殺さないのか? 奴は瀕死で、目の前にいるのに止めをささないのか! あの小娘さえ、動かせば殺せるんだ! パープリー! パープリー! なんでだ! なんでケイゴを殺さない!」
タルスが必死で叫んでいるが、パープリーアテントはヨタヨタと歩き始める。
竜はもうエレナとケイゴに興味を示していないようだった。
なんでか知らないが助かった――。
そう思い始めたエレナだったが、次第に竜の真意に気付いてその顔は青ざめていった。
パープリーアテントの口にくわえている黒い瞳が赤く輝く。
そして竜が見るその視線の先には――大勢の人間が集まっている王都。
王都には妹のミリアを始め、ファリスやリリス、その他にも知り合いたちがいるのだ。
竜はその場所に強力な魔力閃光を放とうとしている。
エレナたちを殺すことを諦めた代わりに、王都を攻撃することを選んだのだ。
「――駄目っ!」
エレナは思わず叫んだ。
だが、彼女が叫んだところで竜が止まるはずがない。
元々無力なのだから。
例え大事な人たちが殺されようとしても、やはりエレナは見ていることしかできないのだ。
――黒い瞳から真っ赤な死の閃光が発射された。
薄暗い夜空を真っ赤に染めて、光が飛ぶ。
少し離れているはずのエレナも熱いと感じる魔力閃光の熱量。
それは王都の人々を狙って真っ直ぐに空気中を突き進む。
建物を焼き払い、人々を殺すその閃光を――。
「バギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
一体の――規格外な竜がその道を阻んだ。
それは突如として姿を現した。
パープリーアテントより、数段巨大な体をした竜が現れる。
羽を持たず、太った体をしており二足歩行をしている。
短い二本の腕をヒョコヒョコと動かしている。
その竜の名は――喰らう竜ハイナセクサン。
すると、その竜は異常な程、大きく口を開けた。
下手をすると自分の体を同じくらい口を開けている。
もはや肉体を変形させたと言った方が正しいぐらいの変わり様だった。
そんなハイナセクサンの大きな口に、瞳の竜の魔力閃光が直撃する。
本来の道理だったら、魔力閃光は竜の体を突き破り、その背後に向かう王都に届くはずだ。
だが、相手は世界の終末に到達せんとする特別な竜。
この世の常識など、当たり前のように覆す。
喰らう竜は――瞳の竜の魔力閃光を呑み込んだ。
あれだけ辺りを赤く照らしていた閃光を、全て漏らさず体内に入れてしまった。
「――ウッ、ゲエッ!」
喰らう竜ハイナセクサンは大きく開けていた口を閉じ、元の姿に戻ると汚らしいげっぷを出した。
瞳の竜の魔力閃光は王都まで届かない。
「なん、なの――」
エレナはわからないこと続きで頭が回らない。
タルスもあの竜のことはよく知らないようで思考が止まっている。
瞳の竜パープリーアテントだけが特に反応もせず、ただあの太った巨竜を静観しているようだった。
「ゲェ――アアッ?」
そして、その直後だ。
ハイナセクサンの体はまるで、体内に空気の玉がいくつも入ったかのように、ボコボコと膨れあがる。
体の表面という表面が、大小問わず膨れ、まるで病気のようだった。
しかし、実際は体内の取り込んだパープリーアテントの魔力閃光に耐えられなくなっただけのこと。
異食にしても度が過ぎたのだ。
竜の体は一瞬にして膨れあがり――爆散した。
巨大な竜の肉片と血が、汚らしく飛び散る。
喰らう竜ハイナセクサンは死亡した。




