(三)-3
午後八時か。すっかり日も暮れて窓の外は暗い。さーて、テレビを物珍しそうに観ているこいつには申し訳ないがそろそろ帰ってもらおうかな。
「なぁ、お前、今晩は本当にここに泊まって行くのか?」
「ん? うん」
さらりと答えやがる。
「それは弱ったなぁ」
「何がだ?」
「いやぁ。ほら、俺って男の子じゃん?」
「そうなのか? 人間はどれも一緒に見える」
「……。まぁ男の子なわけだ。するとだな。俺にもいやらしい欲望と言うのがあってだな。お前が眠っているうちに、なんて言うかさぁ、なぁ、わかるだろ?」
「欲情するとでも言いたいのか?」
「ハッキリ言えばそうだ」
ここで少女はテレビから俺へ目を移した。例のごとく金色の凛々しい眉毛の下で瞳が黒く燃えている。
「別に構わんよ。だけれどもその時は命を覚悟してもらうがな。ははははははは」
笑った時に見える白い犬歯は驚くほどに鋭く、その先では殺意が光っているように見えた。俺は弱気になりかけた気持ちを奮い立たせるために玄関脇のトイレへ逃げ込む。そこでなんとか気持ちを持ち直して、便座に座りながら次の一手を考えた。太郎に電話してももっと面倒になるしなぁ。警察に通報したら父さんに心配かけちゃうかもしんないし……。
「あー。どうすっかなぁ」
ため息を吐くなんていつぶりだ? 学校から出るまではのんびりとした日常を満喫してたのになぁ。よし。こうなったら金だ。認めたくはないが世の中、金で解決出来ないことはない。ビジネスホテルに泊まれるだけの金を渡して追い出そう。そして明日にまた戻って来ても鍵を開けなきゃ良いんだ。この手で行くっきゃねぇ。
「おーい、こうしようぜー」
相手の気分を逆なでしないような朗らかな声でトイレのドアを開けるとリビングの電気が消えている。
「なんで電気消したんだよ?」
居間に入るとテレビの電源も切れて……。
「うわぁぁぁあぁぁっ! な、何やってる!」
マジで何やってる! ベランダへ続く大窓のそば、月の光に輪郭を淡く光らせた少女は全裸だった。腰まで伸びたストレートのブロンドをなびかせ、小さくて白い丸い尻をこちらへ向けている。
「外の様子を覗いたら雲の合間から月が見えていたから魔力を回復させようと思ってな。この世界は魔素が薄く魔力は自然には回復しない。そこで夜の力が凝縮された月の光を浴びることで魔力を回復させるしかないんだ」
簡単に言えばソーラー電池の月バージョンみたいなもんか。
「つーか、服を着やがれ」
「バカを言うな。光のあたる総面積が減れば、それだけ回復が遅れると言う事になるのだぞ。たぶん。きっと。おそらく。そう本に書いてあったような無かったような」
言って肩越しに振り向いた少女の黒い瞳の奥に黄色い光が灯っている。光源はどこにもない。彼女が内から生み出した光だ。こ、こいつ、マジもんなのか?
「か、回復にはどれくらいの時間がかかるんだよ?」
「さぁ。こっちの世界へ来るのは初めてでな。私も実践するのは初めてなんだ。いったいどれほどの時間がかかるのやら見当もつかんよ。でもなぁ人間」
少女は不気味な笑みを浮かべて完全に振り返る。窓は閉じてるから風は無いはずなのに、少女の長いブロンドの髪の毛がさわさわと騒いで揺れている。いや、それ以前に全てが丸見えなんだけど……。
「魔力は少しずつ戻っておるようだ」
少女が人差し指をクイッと動かすとテーブルの上に乗っていたテレビのリモコンが不自然に跳ね、音を立てて床に落ちた。き、きっと手品だよな。俺がトイレに入っている間に何かしらの仕掛けをしたに決まってる。だけど、証拠がないのも事実。
「お前、何者なんだ?」
「私か? ははははははははは。私は魔界の九大貴族アシュタロス家の長女、ミズル・バルメオ・アシュタロス。本来なら人間ごときが口をきくのも叶わぬ大悪魔よ」
少女の瞳の奥の黄色い光は徐々に輝きを増す。ひょっとして、ひょっとするのか……? でも「とりあえず服は来てくれ。目のやり場に困る」
「お前は虫に裸を見られて恥ずかしがるのか?」
「虫にやましい気持ちがあったとしたら恥ずかしいだろうな」
「…………一理あるな。私のこの絶世のプロポーションを誇る裸体を人間ごときに披露するのは勿体ないか。はははははは」
「絶世のプロポーション? そのぺたんこの胸がか?」
言ってから手で口を塞いだ。時間が停止すること数秒。少女の、いやミズルの目が凶悪な怒りに満ちて全身がぶるぶると震えている。すると頭に生えた角からバチバチと黄色い光が散り、それに反応して輝く部屋に家具の影が乱舞した。角から散った光は角と角の間でぶつかり徐々に光の球となる。なんらかのエネルギーが圧縮されているのが俺にも分かった。そしてその後の展開もなんとなく読める。
“ドゴン!”
轟音と共に飛んでくる光球! それは飛びのく俺の脇を瞬時に通り過ぎて玄関のドアを突き破るとそのまま消えた! ほ、ほ、本物だ。こいつ本物だ!
「ほう。よく避けたものだ」
うつぶせに倒れていると頭を踏まれる感触。
「しかし今の一撃でせっかくたまったわずかの魔力がまた空になってしまったではないか。今度、ふざけた事を口にしたら確実に殺すぞ。はははははははははっ」
「お前、いったい何しに人間界へやってきたんだ」
踏まれながら訊く。情けないが相手は本物の悪魔だ。
「言っただろう? ペットを探しに来たのだよ。ちょっと目を離した隙に逃げられてしまってね」
「そのペットが見つかったらすぐに魔界へ帰るのか?」
「当たり前だ。何が楽しくて人間なんぞがでかい顔をしている世界にいなければならんのだ? 虫唾が走る」
だったら祈るしかない。一刻も早くこいつのペットが見つかるのを。
「あてはあるのか?」
「魔力が回復すればサーチ魔法を使える。ただ厄介な事が一つ、ヴァゴスは活動しない時に一切の魔力を発しないのだ。私のサーチ魔法は魔力を探知する物だから魔力を出さないことには捕まえようがない」
ミズルの気配が俺から離れて行く。顔を上げるとミズルは窓際に落ちた服を身につけ始めた。
「貴様が下らん邪魔をするから、月が隠れてしまったぞ」
「……悪い」
「まぁ良い。理解できたのならもう邪魔はしないことだ」
ミズルはベッドに腰掛けて腕組みしながら笑みを浮かべる。本物の悪魔。それが今、俺の部屋にいる。俺のベッドに座っている。こんな非現実的な現実はどこか夢のようであるけれど、これは夢じゃないんだと穴の空いた玄関のドアから吹きこんでくる風がそれを告げていた。