二章(6)
「はい、もう大丈夫ですよ」
「ありがとうございました」
運び込まれた救急指定病院で、駆けつけてきた母親と一緒に退室した。パートを抜けてきたっていう母親を先に帰らせて、オレは奉助たちが待っている一階の待ち合いロビーへ向かった。
「和泉〜」
オレの姿を真っ先に見つけた奉助がまたなっさけねえツラで寄ってきた。
「大丈夫か? 死なねえよな? な、な?」
「今こうして立ってんだろうが……。たいしたことねえよ。三日もありゃあ包帯とれるって話だし。それより桐生だろ。あいつ頭怪我してたし……」
「私の方も異常はありませんでしたよ。それより白の君、お母様はどうしたのですか? 先ほどお見かけしましたが」
「ああ、いったん仕事場に戻ったよ。つーか、戻らせた。ほとんど何も言わずに飛び出してきたみたいだし。お前のほうは?」
「さあ……。連絡はいっていると思いますが、父はいま病気ですし、母の仕事場は少々離れたところにありますし」
「え! 桐生のお父さん病気なのか?」
「はい。昔無理をしたことがたたったみたいで、ほとんどベットの上です。時々近所を散歩していますが」
「そ、そうなんだ〜……」
なんとも言い難い雰囲気がオレたちの間を漂いかけたとき、「連っ!」と叫ぶ若い男の声が正面入り口のほうから聞こえてきた。
見れば、金髪にピアスやらネックレスやらなんかジャラジャラしたものを全身につけた二十代後半ぐらいの男と、緑の短髪にがっしりした体格の男が走ってきていた。
(兄キと……父親か……?)
さっきの話となんか食い違う気が……なんて思ってたら、その声に弾かれたように立ち上がった桐生のやつ、とんでもない爆弾を落としやがった。
「お、お母さん! お父さんまで⁉」
「え……」
オレたちは一瞬絶句し、ここが病院であることも忘れてありったけの声をあげた。
「「「「えええええ〜〜〜〜〜⁉」」」」
池の鯉みたいに口をパクパクさせることしかできないオレたちの前で、金髪が桐生を抱きしめた。その目頭には、うっすら涙が浮かんでいる。
「連! よかった、無事で!」
「お、お母さん……」
桐生が珍しくうろたえている。
「ああ! お前のきれいな顔に包帯が! なんてことだ……!」
桐生の細い体が折れるんじゃないかっていうぐらい力強く抱きしめていたかと思えば、ばっと体を離して今度は桐生の額に巻かれた包帯をそっと撫でる。
「だ、大丈夫ですよ。一週間もあればとれるし、痕も残らないって……」
「そうか? ならまだよかった。真から連絡があった時は心臓が止まるかと思ったぞ」
「そう……。それよりお母さん。どうやってこんなに早く病院に……?」
「それは昔取った杵柄というやつさ。バイクかっ飛ばしたら二十分弱で来れる」
「……私の記憶によれば、お母さんの職場はここから車で四十分ぐらいのところだったはずなんですが」
「『愛』故さ。それは」
「愛……」
「『愛』を馬鹿にしちゃいけない。連」
ようやく追いついてきた緑の髪の男は健康そうな体に反して、顔色が良くなかった。
「お父さん」
金髪の……『お母さん』の腕から離れ、苦しそうに胸を押さえる男、『お父さん』に駆け寄る。
「お前が火事に巻き込まれて怪我をしたという連絡が学校から来たとき、私の体は自然と動いていたよ。マンションの階段を駆け下りたぐらいだ」
「そんな……。どうしてそんな無茶なことを。お父さんは絶対安静だって……」
「無茶なことじゃない。当然のことだ。大事な愛娘が危険だというのに、のんびりコーヒーなんて飲めないさ。鍵を閉めてくるのが精一杯だった」
身長もあって、肩幅の広い奴は威圧感を与えかねない。けど、この人は(桐生の親だって分かってるからかもしれないけど)とても穏やかに見えた。声だけじゃなく、雰囲気自体が。悟りを開いたかのように静かで、落ち着いていて。
「確かに私は絶対安静だと言われているが、見ろ。お前への愛が勝って、私は途中で倒れることなくお前をこうして抱きしめてあげられているだろう?」
男は優しく桐生を抱きしめた。決して潰してしまわないように。でも、ここにいることを確かめるためにしっかりと。
……いい話だけどさ。こう、あんまり愛、愛って言わねえでくれねえかな。なんか聞いてるこっちがいたたまれないっつーか、逃げ出したいっつーかよー……。
ツッコミができるぐらいにはオレの脳みそも回復したけど、ちょーっと衝撃がでかすぎて、肝心の聞きたいことは聞けない。……いや、そもそも気軽に聞けることじゃねえか。
桐生と『お父さん』『お母さん』がまったく似てないこと。
男同士なのに『お父さん』『お母さん』と呼ばれていること。
デリケートすぎる。オレたちの『普通』とはかけ離れすぎたこの話題は、オレたちの口を閉ざすのには十分だった。桐生を蔑んだり気持ち悪いと思ったからじゃない。気になるし、説明して欲しい。けど、それをどうやって桐生を傷つけずに伝えたらいいのか。それが、たかだか十五年、十六年しか生きてないオレたちには分からなかった。
「君が白の君……和泉翼くんか?」
「……えっ?」
いつの間にか桐生の母親(もうそういうことにしとこう、うん)がオレを見ていた。
「あ、違ったか?」
「え、あ、いや、違わないっす。オレが和泉翼ですけど……え?」
フリーズしていた口が強制的に再起動されて、混乱している。桐生の母親はハハッと軽やかに笑った。
「そんなにどもることじゃないだろ。……改めて聞くけど、君が和泉翼くんだな?」
「はい、そうです……」
何を言われるのかどきどきしながら相手を見つめる。殴られはしないだろうけど……と思っていたら、いきなり目の前の人は腰をきっちり九十度に曲げて頭を下げてきた。
「ええっ⁉」
「ありがとう、娘を助けてくれて。君が命がけで火の海から連を助け出してくれたと聞いている。本当にありがとう。感謝してもしきれないくらいだ」
「い、いや。ちょっと待って下さい。つか、まず頭上げて下さい!」
人にここまで頭を下げられるとか、人生初だ。もう慌てるのなんのって……。
「だいたい、オレだけじゃなくて、こいつらもいたからこそっすよ!」
一番近くにいた奉助の腕を引っ張って自分のほうへ引き寄せる。ようやく桐生の母親は頭を上げてくれた。
「ああ、それも聞いている。もちろん、彼らにも感謝している。だが、なかでも君は自分の命も省みずに連を助け出してくれた」
そしてそっと桐生の頭を撫でる。桐生は照れたように口を少しだけ尖らせたが、手を払いのけようとはせず、されるがままだった。
「私たちにとって連は、かけがえのない大事な一人娘なんだ。その命を救ってくれた君には、厚くお礼を言いたい」
あとを継いだのは桐生の父親だ。彼はオレの前まで来て、オレの両腕に巻かれた包帯の上をなでた。
「こんな火傷までして。死ぬ可能性もあったというのに」
「い、いやいやいや。ホント、オレなんてたいしたことないんで。全っ然大丈夫っすよ。桐生の怪我に比べれば、オレの怪我なんてそんな……」
「民草を守るために訓練された兵士ならばともかく、まったくの一般人である君にはとても怖いことだっただろうに」
「いや、あの、だからですね」
……頼む、誰かこの特殊な空気をなんとかしてくれ。このままじゃなんかオレってとんでもなくすごい人のように祭り上げられそうな気がする。そんなことねえのに。オレなんてごく普通の平凡な高校生だし。英雄みたいなんじゃねえし。
オレの心からの声が聞こえたのか、それともたんに本人がこの清らかな空気に耐えられなかったのか、嵐が桐生に強引に話を振った。
「な、なあ連ちゃん。連ちゃんのご両親って若いねんな。いくつぐらいなん?」
「あ! それおれも思った。あと、なんでおと」
余計なことまで言いそうだった奉助の足(しかも小指)に嵐の踵落しが炸裂。
「いっでええええええ!」
「うわあああ! 大丈夫ー⁉」
痛みに呻いて転がってる奉助と、大げさに声をかけるラッキー。
「……ラッキー、ここ一応病院だからな」
「そ、そうだよ! お医者さんに診てもらったら? 骨折してたら大変じゃん!」
「ちげえって! やりたいことは分かるが、静かにしろってことだからな!」
「和泉の声もでかいで。オレみたいにもっと囁くようにしゃべらんと……」
「お前のはただの変態だろ」
「普段のお前そんなんじゃねーじゃん」
「これだけ人が多いところで囁くときみたいに小ちゃかったら聞こえないよ?」
「……そんな一気に冷静にならんといてえや。オレ、心が痛い」
とほほという顔でがっくりと嵐は肩を落とした。しょうがねえよ、お前はそんな役回りだからな。
こんなオレたちを見て、桐生の母親は普通に笑い、父親のほうは苦笑を浮かべていた。
「……まあ、賑やかそうでなによりだな」
「ああ。いい友達ができたな、連」
「はい」
オホンッという咳払いに、オレたちはぴたっと動きを止めて音がしたほう……つまり、桐生の両親のほうを向いた。
「とりあえず、皆さんに改めてお礼を言いたい。娘を助けてくれてありがとう。私は、この子の父親役をしている桐生真だ。こっちは母親役の桐生彼方」
「よろしく。ちなみにオレは三十二で、真は四十三な」
「え、マジで⁉」
「わっかー⁉」
ちょ、若すぎじゃね? だっていま桐生が十五だろ。つーことは……え?
「じゅ、十七? 十七ん時の……?」
思わず声に出してしまったら、母親の……彼方さんのほうがうーんと困った顔をした。
「まあ、計算上はそうなるんだけどな……」
?
「お母さんが十九の時に、二歳の私が拾われたんですよ」
へい?
「連……」
「だって私はお母さんともお父さんとも似てないから。隠すことでもないですし」
「そ、そらまあ……」
「そうなんだけど……」
「そんなあっさり言われっとな……」
「えーと、こっちこそ気を遣わせてしまったみたいですいません……?」
こっちが四人でお互い顔を見合わせながら言葉を選んでいるというのに、言っちまってすっきりしたのか、向こう三人は気楽な表情だ。
「気にすんなって。血がつながっていなくても、真はオレの大事な人生のパートナーで、連は大事な娘であることに代わりはねえんだから」
「謝ることもない。よく考えれば、君たちに知られた時点で秘密も隠し事もないんだ。ならばいっそちゃんと教えたほうが互いの間に溝を作らなくてすむ」
真さんがオレたちをじっと見る。値踏みというか見極めるというか……。そんな視線。
「まあ……なんかよく分かんねえけど、桐生がそれでいいならいいんじゃね?」
単純バカの奉助はそんな視線へでもないかのようにあっさりと言ってのけた。
「可愛い女の子はそれだけで存在する価値があるんや。連ちゃんがどうやとか両親がどうやとかは、ぜーんぶ後回しでええねん」
まあ、女好きの嵐らしいといえば、嵐らしい言い回しだけどよ〜……。
「拾われっ子が成長してすごい美人に……。かぐや姫みたいだねえ。どうする? 五人の貴公子が求婚してきちゃったりしたら!」
ラッキーのロマンチックセンサーはいつでもどこでも全開なようだな。
「みなさん……」
やっぱり桐生も不安だったみたいだな。声が喜びで微かに震えている。ま、こんな『普通』じゃないことを回りに知られたら、いじめられるんじゃないかとか避けられるんじゃないかって怖くなるのは当然だろう。
「お前が変なのって今更だからな。たしかにビックリしたけど、それだけだ」
「白の君」
「まあオレ、お前のその変さ嫌いじゃねえし。面白いから」
「褒め言葉として受け取っても」
「褒め言葉でしかねえよ」
そこでオレはそっぽを向いたから桐生がどんな顔をしてたのか分かんねえけど、桐生はたぶん微笑みを浮かべて「ありがとうございます、みなさん」と言っただろう。
「お礼なんていいよー。当然じゃん、友達なんだから!」
「そうそう! 気にすんなって。友達なんだし!」
ラッキーと奉助の屈託のない笑顔に、桐生の不安は完全に払拭されたに違いない。
「……はい、友達ですものね!」
返事は、出会ってから一番嬉しそうな声だったから。
そして、遠慮気味に小さく咳払いが聞こえた。
「いい雰囲気のところ悪いが、オレたちはそろそろ帰らしてもらうな。連も今日は早く休んだほうがいいだろうし」
「え、もう?」
不満そうな奉助に、真さんが困ったように首筋をかいて答えた。
「実は、私の乗ってきたタクシーを外で待たせているんだ……。さすがにそろそろ行かないと、な」
「あ、そうなんですか。それは急いだほうがええですね。もう十分以上話してましたし」
「ああ、悪いね」
「いえいえ。じゃあ連ちゃん、お大事に」
「はい。みなさん、ありがとうございました」
「気にすんなっつーの。早く怪我治すことだけ考えてろって」
そんなやり取りの中、ふと「あれ?」と思った。
(真さんが乗ってきたタクシー? 彼方さんがバイクで来て……。桐生の家は駅前だから、たしかにここまでタクシーを使っても不自然じゃないどころか、むしろ自然……)
ということは、真さんが走ったのは家からタクシーを載った場所までと、降りたところからこのロビーまでだ。
(タクシー降り場って正面玄関だろ? そっからここまで百メートルもねえよ。なのに、それだけを走っただけであんな苦しそうにするとか……もしかして、真さんの病気ってものすごく悪いんじゃね?)
「翼くん」
「ふおぁい⁉」
真さんのことを考えてたから、いきなり肩に手を置かれて真さんに話しかけられて思わず変な声が出てしまった。
「どうかしたかな?」
「い、いやなんでもないっす……。えっと、何か用ですか?」
真さんのきれいな鳶色の目がオレを覗き込んでくる。感情が読めないのがまたそこはかとない不安を掻き立てて、心臓が無駄に脈打っている。
「あの子はよほど君を信頼しているようだ」
「はい?」
「高校に入って、あの子は毎日学校であったことを話してくれるようになってね。特に君の名前はよく出る」
「はあ、そうですか……」
と、しか答えようないんだけど。え、何? なんなのこれ。
「君は他の人とは先天的に違う。私には分かる」
「な、なんのことです?」
一瞬ドキッとした。オレが「オレの背中には翼がある」って中二的なことを口走ったのがバレたのかと思った。
「いや……。とにかく、これからも連のことをよろしく頼む」
「え? あ、ああ。はい……」
「この先もずっと、連を支えてやってくれ。君になら、連を任せられる」
「……!」
そんな言い方やめてくれと、切実に思った。まるで、すぐに死ぬ人が言うような言い方じゃないか。
手を振りながら桐生一家は去って行った。オレは作り笑顔だとバレないことを願った。
「なあ和泉〜」
奉助が頭の後ろで両手を組みながら、なにやら神妙な顔つきでオレに近寄ってくる。
「今の桐生の父ちゃんのセリフだけどさ……」
「え?」
まさか、こいつもオレと同じく真さんの言葉が気になったのか……?
「『僕に娘さんを下さい』って言いに行ったときの返事みたいだったくね?」
その場でオレが芸人顔負けのズッコケを披露したことは言うまでもねえ。
なんでそうなるんだよ、バカかっ!