二章(5)
「今なー! 救助マット広げてるからなー! あと二、三分待っとけー!」
返事をする代わりに窓から手を大きく振っておいた。
「今の奉助の声、聞こえただろ? もうちょっとだから辛抱しとけよ」
「……ええ、分かりました」
壁にもたれかかり、傷口にハンカチを当てて押さえてる桐生は、けっこうつらそうだった。ここから地上まで、だいたい十五メートルぐらい。
「おい桐生。お前大丈夫か? ちゃんと降りれるか?」
「降りる、と言うよりは落ちる、と言ったほうがいいでしょうね」
「やべえんじゃねえのか、それは」
「マットの上にさえ落ちれば問題ありませんよ、きっと。……しかし、それよりも急いで解決すべき問題があるようですが」
「? なんだよ」
「紅蓮の死神がすぐそこまで迫ってきているということです」
「なっ⁉」
いつの間にか、火の手はすぐそばまで迫ってきていた。どーりで熱いはずだ。
「くっそ、マジかよ」
頭をかきむしったとき、狙ったかのように奉助と嵐の声が聞こえた。
「和泉ー! 桐生ー! 行けるぜー!」
「早よ降りてこーい!」
「白の君、先に行かれますか」
「バカ言ってんじゃねーよ。誰がどう考えたってお前が先だろ」
とはいえ、ケガ人の桐生が先に行って、次オレが行けるようになるまでいったいどのぐらいかかるのか分かんねーしな。それより先に火がきたらヤベエし……。
オレも桐生も安全かつ早急に助かる手段は……ないこともない、けど。
「おーい! 急げよーー!」
奉助たちの声がだんだん焦ったものになってきている。
「桐生」
オレは意を決して話しかけた。
「なんですか?」
「オレは死にたくねえし、お前も死にたくねえだろ? だから、ここはやっぱり二人同時に救助されるのがいいと思うわけだ」
「ええ、そうですね。死ぬにはまだこの世界は惜しいです。……が、『同時に救助』ということは、二人で一緒に飛び降りるということですか?」
「ああ、そうだ」
「それはそれで、さらにリスクが増すので「オレがお前を抱えて飛び降りる」……は」
チラッと桐生を見れば、珍しくぽかんと口を開けていた。
「オレがお前を抱えて飛び降りる。下の救助マットだって、二人分の体重ぐらいいけるようになってるだろ、ふつー」
「……発想が大胆かつ不敵ですね。どこからそんなことを思いつくのですか」
桐生の疑問はもっともだ。オレは躊躇いつつ、口を開いた。
「……なんか、頭おかしくなったように思われるかもしれねえけど、その、オレには、翼があるんだ。見えないけど、それでもオレには、オレの背中には翼があるんだ」
ここで言葉を切って、桐生の反応を見る。こんなことを他人に言うのは初めてだ。
「私のような人種は特にそうは思いませんが、この状況では現実的なことを要求しなければなりません。貴方が私を抱えて飛び降りて、二人とも無事にすむという根拠を教えて下さい。今のセリフは比喩とも受け取れます」
桐生は笑いも怒りもしなかった。真剣に、冷静に対応してくれた。それにホッとする。
そして、オレは中学時代を思い起こした。
助走、踏み切り、跳躍、着地。この走り幅跳びの一連の流れで、オレは自分の体が空中にある間、まるで自分がそこで静止しているような不思議な感覚を味わったことがある。
特に、モチベーションとか、天候とか、オレの体調とか。全ての歯車が合致したときなんて、オレはこのままマジで空に飛び立てるんじゃないかと思った。
だから、オレは跳ぶことに関して……いや、飛ぶことに関して、誰にも負けない自信がある。
「オレは、昔から空中で体勢をとるのが上手いんだ。だから絶対にお前を落としたりしない。ちゃんと足からマットの上に真っ直ぐ飛び降りてやるさ」
オレは窓から身を乗り出して、下の奉助に「今から降りる!」と叫んだ。
そして桐生に左手を差し出す。
「残念ながら根拠も保証もねえ。けどこのままじゃ、オレたちのどっちかが焼け死ぬことだってありえる。なら、オレにいっちょ賭けてみねえか?」
できるだけ不敵に見えるように笑ってみせる。桐生もふっと口元を緩めて、オレの手を取ってくれた。
「そこはやはり『オレが絶対に守ってやる』と言ってくれないと。あなたは、紅い獣にさらわれた姫を救いにきた王子様なのに」
……余計な一言も一緒だったけど。
「うるせえな。今はそんなこと言ってる場合じゃねえだろ」
桐生の背中と膝の裏に手を入れて抱きかかえる。いわゆるお姫様だっこというやつだ。……しょうがねえだろ。これが一番飛び降りやすいかっこなんだから!
「お前、軽すぎだろ。体重何キロだ?」
恥ずかしさをごまかそうと、オレは早口でけっこうとんでもないことを口走った。
つって、それがとんでもないことだったっていうのに気づいたのは、桐生が「それは女性にとって永遠の禁断の質問ですよ」と言ったからだけど。
「私も強風注意報ぐらいでは吹き飛ばされない程度の体重はありますよ」
「……どんな奴でも普通は風では飛ばされねえよ」
「そうでしょうか。オズの風のような破壊の権化の前では、人はとても小さく無力なものですよ」
「オズ? ああ、竜巻ね。まあそうだろうけどよ」
窓際に立って下を見る。鮮やかなオレンジの救助マットがさっきよりも小さく見えた。
……心臓がばくばく鳴っているのが分かる。桐生を抱える手が少し震えている。
あ、あれ。さっきまではホントに平気だったのに。なんでこんな、本番で
「白の君」
桐生がぷにっとオレの頬を突っついた。
「ッッッ⁉」
「落ち着いて下さい。貴方の背中には翼があるのでしょう?」
硝子の壁を通さない、黒くて大きな瞳に情けない顔のオレが映っていた。
「あ、ああ。そうだよな。大丈夫だ。オレはいけるオレはいける……」
呪文のように呟くオレを見上げ、またも珍しい微笑みを浮かべ、桐生は大きく頷いた。
「ええ、そうでしょうとも。貴方には、貴方自身の名に従って、大きな翼がある。貴方を支え、貴方を空中の支配者へと導く為の大いなる白き翼が」
…………。
「そいつはちょっとおおげさだぜ、桐生」
おかげでいい感じに力が抜けた気がする。別の場所に落ちたらだの、怪我するかもしれないだの、諸々の不安がぬぐい去られたわけじゃない。でも、いつまでもここでウジウジしてられねえしな。
「……うっし!」
気合いを入れて。
「いくぞっ!」
サッシを越えて、窓から飛び出した。
一瞬の静止。空がいつもより近くて、どくんと心の奥底が高鳴った。
そして地球上の生物の定めに従い、オレたちの体は重力に引かれて下へ落ちていった。
風の音しかしない。下ではきっとあいつらが騒いでいるんだろうけど、下を向くとバランスを崩しそうで、オレはずっと顔を上に向けていた。
あっという間に遠ざかっていく空。
冬の空と違って夏の空は色素が薄い。その分薄っぺらく見えるけど、オレはその薄っぺらさが好きだ。……同時に見えてる太陽は憎いぐらいだけど。
だって薄っぺらくて奥行きがないから、がんばれば手が届きそうじゃないか。
実際、オレは空に触れようと手を伸ばすところだった。それができなかったのは……いや、そうしなかったのは、オレのこの両腕にかかる重みのおかげだった。
もしオレが手を伸ばしていたら、オレは本当に空を飛んでどこかへ行ってしまったかもしれなかった。
……だけど。凄まじい勢いでオレから離れていく水色に、なんか泣きそうになった。
ボッフンッ!
「……へ?」
気がつけば、オレはなんかボフボフしたものの上だった。すぐさま嵐や奉助、ラッキーが乗ってきた。
「大丈夫か二人とも! 生きとるか⁉」
「いずみー!」
「連ちゃん! 大丈夫? って、きゃあー! ケガ! ケガしてるー!」
「お、落ち着けって、お前……らっ⁉」
ラッキーと嵐に両手を引かれて救助マットから降りた桐生の反動で、オレはバランスを崩して、みっともなくも頭から地面に転げ落ちた。
「いって〜」
「うわあああん! いずみー!」
「うおっ⁉」
打った頭や背中をさすっていると、涙やら鼻水やらで顔がでろでろのぐしゃぐしゃになった奉助が飛びついてきた。
「だああ! おい、ちょっと離れろ奉助! お前顔すっげえ汚ねえ!」
「無事でよかったあああ!」
「分かった、分かったから! お前も救助マットとか用意してくれてマジ助かった! ありがとう! だからちょっと離れてくれ!」
しがみついてくる奉助をなんとか引きはがそうと腕を突っ張るけど、むしろ、どんどん力が込められてる気がする。
「いでででで! ちょ、マジで痛え! ギブギブギブ! ギブだっつってんだろー!」
悲鳴を上げていると、今度は誰かに頭をグワッシと掴まれた。
「へっ⁉」
「よくやった、和泉翼」
「牧ノ宮先輩?」
「生徒会長として、また婦女子の安全を第一とする者として、礼を言う。だが!」
グッと力が入れられる。思わず「ぎゃっ!」と叫んでしまった。
「二度目はないと思え。今回はたまたま運がよかっただけだ。それを肝に命じろ。無謀な勇気は死への近道だぞ」
「は、はい!」
先輩が心からオレのことを心配してくれているのは、痛いほど分かった。だから素直に返事をする。
「それから!」
先輩は次に奉助をじろっと見下ろした。
「相川奉助。用務員室のドアを蹴り砕いたのはいただけないが、それは真の友情の為だろう。お前の心意気は立派だ。いい加減泣くのをやめろ」
一瞬ぽかんとしていた奉助だったけど、すぐに制服で顔を拭いて「はいっ!」と返事をした。
「分かればいい。……二人とも、救急車が来ている。怪我してなくても、一応診てもらえ」
「分かりました」
「あ、じゃ、じゃあ和泉。おぶってってやろうか?」
なんかいきなりそわそわし出した奉助の脳天にチョップをかましてやる。
「いらねえよ。そんな大事じゃねえから」
その場で救急隊員の人たちに手当てを受けていた桐生と、一緒に救急車に乗り込む。
「そういえば、先ほどは妬けましたね。白の君」
「は? べつに火傷とかしてねえだろ?」
救急車の中で向かい合った時、唐突に桐生が謎のセリフを零した。オレの返事に、桐生は苦笑のようなものを口元に浮かべた。
「その『焼ける』ではありませんよ。慕うあまり己も相手も焦がしてしまうような熾烈な炎のことです」
「……つまり、嫉妬するとかいう意味の『妬ける』か?」
「ええ。先ほどの貴方はまるで、高嶺の花に恋する純情青年みたいでした」
「意味分かんねえよ。なんの話だ?」
クスッと面白そうに桐生は笑った。
「私を抱えて飛び降りてくれた時、貴方の目は空しか見ていなかった。腕の中の姫よりも、手の届かない愛しい人のことを考えるなんて妬けますねって言いたかったんですよ」
桐生の言ったことを理解するまで、しばらく間があった。
「〜〜〜〜〜〜んなあ⁉」
喉の奥からひっくり返った声が出た。それは気恥ずかしさでもあったし、見破られた動揺でもあった。けど、とりあえず。
「コラ、動かないで!」
手当て中に立ち上がったオレは、救急隊員の人に怒られましたとさ。チェッ!