二章(2)
「最後に、白居易の『長恨歌』についても紹介しておこう。この漢詩は『比翼連理』のフレーズでも有名だから聞いたことがあるというやつも多いだろうが、長恨歌は史実を背景に、唐の皇帝玄宗と絶世の美女楊貴妃との恋を題材としている」
残り五分という、もう終わってくれてもいいじゃないかという間を使って、古典の先生のくせに白衣を着たへの口先生(本名:小野口)は『長恨歌』について語った。
ザザーン……。ザッブーーン……。
「では、今日の補習はここまでとする」
「ありがとうございました」
五分後、気難しいと評判の先生は穏やかな波のチャイムとともに教室を出て行った。
「あー! 腹減ったー!」
先生が出て行った瞬間、奉助が机に突っ伏した。
「もう十二時回っとるしなあ」
「あの先生話長いよー」
ラッキーと桐生が弁当を持ってこちらに椅子を寄せてきた。入学式以来、オレたちはよく一緒に弁当を食べる。今日、奉助は弁当袋とはべつに、クーラーバックも持っていた。
「なあなあ。おれ、今日アイス持ってきてんだ。あとでみんなで食おーぜ」
「マジか!」
「すごーい」
全員の感嘆の眼差しを受けて、奉助は得意そうに鼻の頭をこすってみせた。
「なるほど、だから今日はランチョンマットではなく、そのタオルなんですね」
「おう。このアイスが入った重箱弁当って周りの水すごいから、普通のじゃべちゃべちゃになるだけだし」
我らが担任・机大好きコタツさんの指導のおかげで、オレたちは高一にもなって昼飯を食うときはランチョンマットを敷いている。
サンドイッチを食べながら、ラッキーが今の授業を振り返った。
「けど楊貴妃かー。確か、世界三大美女の一人だよね?」
「そうですよ。クレオパトラ、小野小町、楊貴妃の三人だと一般には言われていますね。中でも楊貴妃は、時の皇帝が国政を疎かにするほど夢中になったわけですから、まさに『傾国の美姫』の代表と言えるでしょう」
「いっぺんでいいから、そんな人と会うてみたいわ。さらに恋人にできたら、男冥利に尽きるやろなあ」
嵐よ。冷凍食品のたこ焼きを食べながら言うセリフか、それが。
「破滅への道だとしてもか? だいたい美女ってのは、男をたぶらかして滅ぼすものだって相場が決まってるだろ」
「ええやん、ええやん。美人のお姉さまのためならば、たとえ火の中水の中。茨の道でも喜んで歩きましょう」
「げー……。マジかよ……」
すっかり自分の妄想にはまっている嵐から、遠慮の欠片もなく、オレは椅子をひいて距離をとった。
「けどよー。美女と恋するのってどっちかっつーと、嵐じゃなくて和泉のほうじゃね? 組み合わせ的に」
「……んあ?」
奉助のありえない発言のせいで、卵焼きが一個台無しになった。
「い、いきなり何を言い出すんだよ。お前は」
悲しいかな。オレだって思春期真っ盛りの男子高校生。そういう話にはやっぱり動揺してしまう。
「ていうか、組み合わせってどんな組み合わせ?」
ラッキーの素朴な疑問に、奉助は悪意の欠片もない顔で答えた。そしてオレは、気持ちを落ち着かせるためにお茶を飲んだことを心底後悔した。
「ほら、『比翼連理』に和泉と桐生の名前が入ってるだろ? 桐生美人だし、和泉と桐生が付き合うとぴったりな感じしね?」
「ブッフーーーーー!」
飲んでいた茶が奉助とラッキーの間をきれいにすり抜けていった。それに対して文句は誰からも出ず、一瞬の沈黙の後、
「わー!本当だねー!」
ラッキーのロマンチックセンサーに引っかかったのか、一気に彼女の声のトーンが上がった。
「『翼』と『連』かあ。言われてみればそうだよね。いいなあ……。すごく羨ましい! 私もそんな風な、遥か昔から繋がる縁の彼氏が欲しい!」
なんかもう……なんかもうな発言につっこみたいことは山ほどあるが、残念ながら、今オレは逆流して鼻に入ってきた茶に苦しめられていた。
ちくしょう。お前ら、人が話せないのをいいことに好き放題言いやがって。
そしてもう一人の当事者である桐生はというと、
「昔から繋がる縁ですか……。素敵な発想ですね」
すっかり別のことに心が奪われている様子。それでいいのか、お前は。
「ちくしょー! 羨ましすぎるわー!」
既に桐生に「恋愛対象外」を言い渡されていた嵐は、泣きながら机を叩いていた。
オレだって泣きてえよ、バカ。
男二人が傷心で泣いているってのに、傷つけた当の本人はケロッとして別の話題を出していた。
「そういや去年、嵐んとこの家族と一緒にキャンプしたんだけどよ」
「また唐突ですね」
「というか、去年って私たち受験生じゃん」
「思い立ったが吉日ってのが我が家の方針やし、奉助はそもそも受験生なんて気にしとらんかったしな」
女子二人にも構ってもらえなかった嵐は、早々に立ち直り、会話に混ざることで傷心を癒すことにしたらしい。
「へー。んで?」
「そうそう。そんときテントのそばに隠れて脅かしたらさ、こいつなんて言ったと思う? キャーだぜ、キャー! 女子かよ!」
その光景が容易に想像できたもんだから、思わず吹き出してしまった。奉助なんてゲラゲラと大口開けて笑っている。クーラーが効いた教室のなかでは、すっかり元の奉助だ。
「うっさいわ! てか、それが言いたかったんかい!」
「おう!」
「あんときのお前はホンマ、上から下まで迷彩の服着て、マシンガンのエアガンまで用意しよって。自衛隊かっちゅうねん! ただでさえあのテントのそば真っ暗やったのに……!」
ぎりぎりと歯ぎしりをする嵐。イケメンを売りとしてるこいつとしては、あんまカッコ悪い所なんて知られたくないんだろうな。
「お前らにも聞かせてやりたかったぜ。あれ絶対ソフランまで出てたから!」
「はははっ……は? ソフラン?」
「え、柔軟剤?」
「ほら、女子の声のやつだって!」
「……ソプラノですか?」
「そう、それ!」
「そこまで出てへんわ!」