一章(1)
やあ、みなさん。初めまして。
オレは和泉翼。
生まれてこのかた『平凡』という言葉から外れたことは一度もない。
黒目、黒髪、胴長短足の典型的な日本人体型。
父は市役所勤めで母は専業主婦。姉は現在大学二年生。
オレの成績は中の中。中学の時は陸上部で走り幅跳びをやっていた。
そう、オレはまさに『普通』や『平凡』が代名詞のような人間だった。
今から始まるのは、漢詩でいうところの『起』に当たる部分だ。
みんなも授業で習ったことがあると思うが、漢詩には『絶句』という詩形がある。
四句から成っており、それぞれ起句・承句・転句・結句と呼ばれている。
転じて文章や物語の展開を示す言葉となり、まず始まりがあることを『起』と言う。
オレの、非日常の始まり。
一限目 入学式
風が歌う大地の上。目の前には戦乙女のような格好をした美女。
彼女は、まるでオレが愛しい彼でもあるかのように抱きしめて、誓いの言葉を紡いだ。
天に在りては比翼の鳥となり、地に在りては連理の枝となりましょう。
死が二人を別つまで、私は貴方のそばで生きると約束しましょう……。
* * *
ピピピピピッ……!
一気に意識が浮上した。釣り上げられた魚というのはこんな感じかもしれないと、ふと思った。
「ふあああ〜〜」
でっかいあくびを一つ。ベットから足を下ろして立つと、少し頭がふらふらした。
(しっかし、また妙な夢だったなぁ……)
携帯を充電器から取り上げながら、たった今まで見ていた夢を思い出す。とは言っても、急激な覚醒のせいでほとんど忘れかかっているが。
(まったく。今まで一度も彼女なんていたことないくせに。男子と遊んでたほうが楽しかったっつーのに。やっぱ浮かれてんのかなー)
「翼ー。朝よー!」
階下から母親が呼ぶ声がする。一つ伸びをしてから階段を下りる。
和泉翼、十五歳。今日から高校一年生となる。
よくマンガとかで満開の桜の下を入学式に向けて歩いているっていうシチュエーションがあるけど、アレって絶対に嘘だよな——
なんてことを、既に葉っぱのほうが多くなった桜の木の下を歩きながら思った。どこの誰のセリフだったか忘れたが、桜は卒業式の時にはまだ蕾で入学式の時には既に散っているものだと言う。まったくもってその通りだ。
母は一緒じゃない。この年にもなって親と一緒に歩くのはちょっと……。ということで、オレは時間にかなりの余裕をもって家を出た。
オレが入学したのは私立水ノ木学園高等部。正門をくぐって目の前にある四階建ての特別棟はなかなか年季の入った木造校舎だ。学校説明会では「リアルに七不思議体験ができちゃうかも⁉」と紹介されていた。ここの一階が靴箱だ。そして、二階と四階にある渡り廊下で繋がっている一般教室のある教室棟は、逆にびっくりするぐらいきれいな六階建ての円形校舎。しかも吹き抜けで、階段は螺旋階段。創立六十周年記念事業とかで、七年前に全面建て直しが行われた結果がこれらしい。ロビーと銘打たれてソファが並んでるって……どっかのホテルかよ!
若干緊張しながら正門をくぐる。自分のクラスなどが書かれた紙を見ながら慎重に廊下を進む。こういうとき何が一番イヤって教室間違えて恥かくことだよな。
三回ぐらい手元の紙と校舎案内図と目の前のプレートを確かめてから、ドアをスライドさせた。
教室の電気はついてなかったから、一瞬誰もいないのかと錯覚した。でも窓は開いていたし、すぐにそれが間違いだと気づいた。
教室の奥にひっそりと座る一つの影。
綺麗な花に見紛う顔立ちというのは、きっと彼女のようなことを言うのだろう。百合のように白い肌、小さな朱唇、そして糸杉のように滑らかな長い青色の髪。
彼女の黒曜石のような目が、レンズごしにオレを見る。
オレは呆然としたまま、首をすくめるような会釈をする。彼女も会釈を返し——いや、どっちかっつーと目礼だな——目線を持っていた本へ落とした。
オレはドギマギしながら黒板に貼られた座席表を見る。なぜか音を立ててはいけないような気がして、そろそろと歩く。オレの席は一番端の列の前から二番目。名字が「い」で始まる宿命だ。ついでに彼女の名前も盗み見る。
桐生連、とあった。スカートをはいていたから女には違いないが……。
(きりゅう……れん? 男みたいな名前だな)
自分の席に鞄をおいて、ようやく一息つく。何度か深呼吸すると、心も落ち着いたようだ。本など持ってきてないオレは、何をするでもなく教室の外を眺めた。ここは四階だから、眺めも悪くない。
しばらく教室は二人っきりだったが、ちらほら人が入り始める。団体様で入ってきたのは、同じ中学出身者たちか。
「だから言っただろ、ヨユーだって!」
「あと五分しかないやんけ、ゼェ。どこが余裕や。ハア」
ふいに騒々しく二人の男子が入ってきた。どっちも背が高い。クソっ、うらやましい。
「うわ、見ろよ嵐! この教室おもしれー! 机がまっすぐに並んでねーよ!」
「そら教室がまっすぐやないんやから当然やろ。けど、これはこれでええんかい」
一人は明るい茶髪に、男にしちゃあ大きい目。口と手は止まる気配がない。関西弁で話すもう一人は、男のオレから見てもイケメンだなと思った。
「お。あったぜ、お前の席。けっこう後ろのほうだなー。おれはいっちばん前〜♪」
「お前が後ろに来ることがあったらそりゃ異常ってもんやで。『あ』のくせに」
茶髪のほうがルンルンとこちらへ向かってくる。イケメンのほうはさっそく女子に囲まれていた。
「あー。この学校おもしれー。バナナ門にでかい鳩時計、曲がった教室!」
…………人が触れずにいたところを……!
オレの前に座った茶髪は楽しそうに独り言を漏らしている。
一応説明しとくと、バナナ門とは正門のことだ。普通のアーチが真ん中からぶった切られ、黄色に塗装されているせいでパッと見は完全にバナナだ。毎年茶色の斑点を落書きするやつがいるらしい。でかい鳩時計は、まんま正門横にある大きな鳩時計のことだろうな。この時報がまた……。学校説明会の時に突然「ヤッホッホー!」と言う音が聞こえた時には心底驚いた。機会音声で「ヤッホッホー!」はねえだろ。超怖えんだよ!
「なあ、お前もそう思うだろ?」
「あ⁉」
「だから、この学校っておもしれーよなってことだよ!」
いきなり話を振るなっ! つか、そもそもお前誰だよ!
なんてことを言う度胸はオレにはなかったが、言わせる気も向こうはなかったようだ。
「行事もなかなか楽しそうだよなー。ゴーゴーカー大会とか、えんよう合宿なんて中学まではなかっただろ?」
ゴーゴーカー? えんよう合宿? 遠洋漁業のことか?
たくさんのハテナを飛ばしながらオレは茶髪の話を右耳から左耳へと流していた。オレがこいつの話を理解できないのは、決してオレが悪いんじゃねえ。
すると、ブツッという音がして、スピーカーからやけに陽気な声がした。
『やあ、おはよう生徒諸君! 初登校日にお似合いのいい天気だねえ‼』
またブツッという音がして、切れた。
「……」
一瞬静まり返った教室だが、すぐににぎやかさを取り戻した。
「今の、校長の声やなかったか?」
さっきのイケメンがこっちへやってきた。
「おう、嵐。なんでお前がこーちょーの声知ってんだ?」
「学校説明会で何回か聞いたからな」
「ふーん。あ、そうだ! ほら、こいつ!」
茶髪がオレの肩を掴んで自分のほうへ引き寄せ、失礼にも顔の真ん中を指差した。
「いま友達になったんだけどよ、おもしれーの。何言っても喋らねえんだぜ!」
誰がいつ友達になったとか、おもしれーしか言えねえのかとか。……もう何をどっからつっこんでいいのやら。
「ヘー。で、名前は?」
「名前? 名前は……」
数秒の沈黙。
「お前、名前なんだっけ?」
オレは、それはそれは深いため息をついた。
「……そもそも言ってねえよ」
「あれ、そうだっけ?」
「ついでに、お前の名前も聞いてねえ」
「ああ、そっか? わりい、わりい!」
ワハハと笑いながら、茶髪はオレの肩やら背中を叩いた。ちょ、痛えよ!
イケメンのほうを見れば「やっぱりな」なんて言ってる。
「すまんなあ。こいつ、悪気はないんやけど根本的にアホやから……。堪忍な。最初は理解不能やと思うけど、慣れたら流せるようになるから。オレもかつては苦労した」
「そうなることを祈るよ……」
オレは苦笑混じりに言う。かんじんの茶髪はまだ笑顔のままだ。もしかしたら自分の話だと思ってないのかもしれない、なんて失礼なことを考えながら改めて自己紹介をする。
「オレは和泉翼。北中出身だ。よろしくな」
「おれは相川奉助ー。西ヶ丘中出身。好きな物は面白いことと、巨乳の女子!」
最後の一言に、思わず机についていた肘が滑った。……まあ、年頃男子的、か?
「オレ、本名は春野由宇やけど、嵐って呼んでな」
イケメンは付き合いが長いからか、さらりと相川の発言をスルーした。
「なんで嵐だよ。由宇じゃダメなのか?」
「女っぽいから気に入っとらんのや」
「いえーい。由宇ちゃーん。……ゲフッ!」
拳骨一発。相川は机に沈められた。
「まあ、そういうことやから、嵐でよろしく。こいつも奉助でええで。なんやったらアホでもええわ」
「おれはアホじゃねー!」
がばっと起き上がった相川……奉助が嵐につかみかかる。
「何言うてんねん。お前の名字と名前の一番最初をとったら『あほ』になるやろ」
『あ』いかわ『ほ』うすけ。……なるほど、上手くごまかしたな。
「あ、ほんとだ」
おいおい、信じんのかよ。
「やろ? ええあだ名やん」
「そうだなー。……って、なわけあるかーー‼」
うがーっと奉助が吠えたと同時に、着流を着た無精髭の若い男性が入ってきた。
「やあ皆さん、お早うございます。さあ、席について下さい。予鈴は鳴りましたよ!」
やけにうきうきと弾んだ声だった。あれがオレたちの担任か? なーんか、時代錯誤だな。明治とか大正にいそうだ。
みんな「え、アレが担任?」「うそー」「今日は普通スーツじゃねえの?」とか色々言いながら、自分の席に座る。
「つか、予鈴鳴ったか?」
「さあ? 気づかなかっただけじゃね?」
なんて奉助と言ってたら、またブツッという音がしてスピーカーのスイッチが入り、今度はけっこう年を重ねた渋いおじさんの声でアナウンスが入った。
『新入生諸君。合格、そして入学おめでとう。文武両道に励むことを期待する』
クラスはまたも沈黙。すると先生が手を叩いて、自分のほうへ注目を促した。
「皆さん、お早うございます。えー、僕はこのクラスの担任で、小松原辰之助と言います。他の人からはコタツさんと呼ばれているので、そう呼んでくれて構いませんよ」
時代錯誤なのは、その格好だけじゃなかった。
「すげー。時代劇みてー」
先生に気を遣って小声になる、ということは奉助の頭にはないらしい。オレもつられて普段と同じぐらいの大きさで話す。
「つか、なんでコタツ?」
「略したら、そうなるからだろ」
「略したら? ……ああ、お前の『あほ』みたいにか」
『こ』まつばら『たつ』のすけ。……なーんてな。
「おれはアホじゃねー!」
「あー、はいはい。分かってるよ」
オレが手を振って奉助をあしらうと、こっちを向いてさらに何か言おうとしたが、先生がもう一度手を叩いたので渋々前を向いた。コタツさん、グッジョブ。
「はいはい。にぎやかなのはあとにして下さい。さて、僕の詳しい自己紹介なんかは入学式後のHRの時にでもしましょう。君たちの自己紹介もね。では、本鈴も鳴ったことですし、そろそろ体育館へ移動しますよ。出席番号順に一列になってついてきて下さい」
「本鈴?」「え、本鈴?」「いつ鳴った?」「なんも聞こえなかったぞ?」
オレも聞こえてくるざわめきと同じ意見だったが、出席番号が二番だから早く行動しなきゃならねえ。すると、奉助がコタツさんの後ろにぴったりとついて、授業でよく見る挙手のポーズで質問した。
「センセー。センセーはなんでそんなにうれしそうなんですかー?」
くるっと振り返ったコタツさんは満面の笑みだった。
「なんでって、それは今年、新入生用に新しく机が購入されたからですよ! なにせ僕が受け持ったクラスは今まで全て、もう汚れて傷だらけになった見るも可哀想な机ばっかだったんですよ。もちろん、年を経た机にはそれなりの味がありますが、僕は学校の机は新品のほうが好きなのですよ。なぜなら、この先手入れをすることで、いくらでもきれいにできるからです! これが喜ばずにいられますか!」
…………今、なんかものすごくおかしなことを聞いた気がする。
「さあさあ。あとがつっかえてしまいますから、早く移動して下さい!」
先生の話を聞いていた生徒は、釈然としないような狐につままれたような、妙な顔つきで列を作って体育館まで急いだ。