エピローグ
騙されることは怖くないのか? つらくないのか? 全てを知っている訳でもないのに、どうして自分だけは真実を知っているだなんて思えるんだ? ……ハンドルネーム:『マコト』
海には水平線があるが、空の青色はどこまで見渡しても果てがない。まるで自分たちの未来のようだ、前園はるかは無限に続くような透き通った空を見上げた。
潮風が吹いて、はるかの黒い長髪がなびいていく。頭にかぶった白い生地の鍔長ぼうしを手で押さえ、沖縄の暖かい風を体全体に浴びる。その港は、ほんの数日前、修学旅行生が乗り込んだまま沈没した潜水艦が停まった場所だった。
「桑名くん」
はるかは自分のすぐ隣、車椅子で口と目を半開きにした桑名に声をかけた。
「気持ちがいいですね」
桑名は「あーっ」と答えた。赤子か、痴呆の老人のような声だった。それに心から満足したように、はるかは桑名の頭をなでる。愛しい恋人。もう二度と自分のもとを離れない恋人。彼がこの姿でいる限り、自分が抱いた幻想は壊れることがなく、自分の感じる恋心は途絶えることがない。
恋人は、言葉を理解することができなくなっていた。頭に血が上らない時間が長く続いたことで、彼が負った障害の一つがそれだった。言葉を喋れず、聞いても分からず、ただただ赤子のような奇声を発しながら、動物のようにはるかの施しを待ち続けるだけの存在。それが、今の桑名零時の姿だった。
「幸せです。きっとこんな時間が来ると思っていたんです。生きていて良かったと、心からそう思えます」
そう言って、はるかは桑名の半開きの口にキスをした。開きっぱなしの口内は汚れ、細菌塗れの口内はねばねばとしていたが、しかしはるかは一向に構わなかった。
「ねぇ桑名くん」
物言わぬ肉塊のような桑名に、はるかはやさしく声をかける。
「実はね。あの日、わたしにとって運命のあの日……確かにわたしは文鳥を殺してこそいませんでしたが、かといって無実でもなんでもなかったんですよ」
何度も何度も反復したあの日のこと。はるかは何度だって頭の中で再生することができる。
「朝ね。飼育当番だったわたしは文鳥のカゴを確認して……死んでいるのに気づいて。それで、このままだと自分が殺したって言われそうだから……だから、はさみで切ってばらばらにして、トイレに流して処分しようとしたんですよ。
けれどそんなものきちんと流れる訳がないです。わたしは困り果ててしまって……そこをクラスメイトたちに見られて。わたしは『たまたま発見しただけだ』と白を切りましたが、いじめられっこの『カエル』の言い訳なんか通じませんでした」
波が港に打ち付ける。桑名は何も言わない。ただ口を半開きにして、自分になにやら笑顔を向ける少女に視線を注ぐだけだ。つぶらな瞳は赤子のように胡乱でいて、しかし驚く程濁り切っていた。
「ばらばらになった文鳥のことを正確に表現する人はいませんでした。小学生のクラスメイトたちは、ただ『殺した』とだけわたしの行為を表現しました。先生もそれを勧めたんだと思います。だから、あの時わたしが糾弾されたのは、決して文鳥を『死なせた』ことではなかった。ばらばらに切り刻んで『殺した』ことだった。
だから桑名くんの告白は真実を明らかになんかしてなかったんです。ただ、わたしの代わりに罪をかぶって弾劾されたんです。桑名くん本人が、気づかないままで……」
そう言って、はるかはふぅと、気が抜けたように息を吐く。
「やっと、いえました」
胸に手を当てる。少し鼓動が早くなっている。ずっと胸の奥に抱え込んできたことをカミングアウトしたのだから、当然だろう。
こんな鼓動、早く収まって欲しい。この鼓動がゆっくりと鳴れば鳴るほど、恋人と過ごせる素敵な時間も同じようにゆっくりと長く流れるような気がした。いつまでもいつまでも、二人で寄り添っていたい、それがはるかの望みだった。
「本当は、あの時に言うべきでした。でもいえなかったんです、桑名くんに嫌われるのがいやで」
そう言ってからはるかは首を振るう。
「あは。でもいまさらこんなこと言ったって仕方がないですか。そんな昔のことなんて、ほんの些細に思えるくらい酷いこと、わたし、今の桑名くんにしているんだから……」
空はどこまでもどこまでも、雨を降らすことを忘れたかのように晴れ渡っている。はるかの表情も同じで、幸福な笑顔以外の顔を失ってしまったかのようだった。空の方は時間が立てばいずれ雨を降らすだろうが、はるかが涙を流すことは永遠に許されることはないだろうと思われた。
『死ね。クソ女。アタマおかしいんだよ』
「そうでしょうか」
はるかは自分が、何にたいしてそう答えているのか分からないまま言った。
「人は自分が見たいようにしか、何も見えません。真実なんて知りたくもない。
わたしはただ思い出の中のあなたの幻を見続けていただけ、いるだけ。だから……」
この時間は。この世界は。この幻は。
「全部。本当のことだよね。本当の幸せだよね」
桑名は答えない。痴呆の老人のようなうつろな顔で、狂ったように光る太陽を見続けていた。
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