斬る1
すいません。誤って短編として投稿していたので訂正いたしました。
中東のとある国のとある地域に風が強く吹きすさんでいる。その中を、一人の男が歩いていた。無精ひげの生えた顔をしかめ、右手を前にかざして砂埃を申し訳程度にふさいでいる。しばらくすると、眼前に小さな村が見えてきた。男は緊張させていた顔の筋肉を緩め、ほっと安堵のため息を吐いた。先程までは重かった足取りが不思議と軽くなる。男は小走りで村へと向かった。この時、男は夢にも思わなかった。この村に立ち寄ることが今後の男の運命に大きな影を落とすことになるのである。
村は荒れ果てていた。カラスが一羽、家の屋根に止まっている。また、放し飼いなのか、逃げ出したのか、痩せこけた雌鶏が一羽通りを渡っていた。強い風のせいで土煙が巻き起こり、埃っぽい。往来を歩いている人は誰もいない。雌鶏だけである。というより、人のいる気配が感じられなかった。家々は荒廃しており、今にも崩れそうなものもあった。男は落胆の色を浮かべた。肩をがっくりと落として、腰も大きく曲がった。期待外れだと思ったのである。漸く流れ着いた村がこのような場所では、はるばる歩いてきた努力が報われないと思った。
男が気落ちしていると腹の虫が悲鳴を上げた。きゅるきゅると腸が締り、さらに腰を曲げた。男は五日もろくに食べていなかった。口に含んだのはほとんどが水であった。一度そこらへんに生えている草の根っこを吸ってみたが、腹を壊しただけであった。男は首を左右にめぐらせて辺りを見渡してみた。するとドアが開いたままになっている家屋を一件見つけた。男は不審に思いながらも、一縷の望みをかけて恐る恐るその家に近ずいた。ドアノブに手をかけて、少し中を覗いてみた。照りつける太陽とは裏腹に、中は驚くほど暗かった。日の光を全く遮っている。男は眉根を添えて目を凝らしてみた。ゆっくりとした足取りで中に入ってゆく。
「誰かいますか?」
玄関で声を出してみてが、何の返事もなかった。ただ腹に力を込めたため、腹の虫が再びなっただけである。男は両手をおなかに添えつつ、部屋へと進んでいった。
「もしもしー?できればご飯を少し恵んでもらえたらなと……」
言い知れぬ無気味さを、声を出すことで紛らわし、男は部屋の扉を開けた。この時、薄暗い中で取っ手を確認するために男の顔はやや下を向いていた。だから、ドアを開けてまずはじめに視界に飛び込んできたのは埃をかぶった床であった。しかし、男はすぐに視界の上部に違和感を認めた。人間の足が宙に浮いていたのである。男は思わず首を上へと向けた。
「ひっ」
そこには首をつった老婆がいた。全体的に力が抜けてだらんとしていた。死後数日経っているのかハエが周りにたかっている。
男は腰が抜けて、その場にしゃがみ込んでしまった。そのまま四つん這いになって部屋を出た。再び外に出て男は息を乱しながらその家から遠ざかった。相変わらず風は強く吹いていた。ごうごうという風の音の中、きゅるきゅるという男の腹の音が響いた。
しばらくすると、また別の男がやってきた。襤褸を身にまとい、ふらふらと覚束ない足取りである。その襤褸の隙間から見えるのは骨が浮き出るほどやせ細った皮ばかりの皮膚である。一見すると、まるで乞食のようである。やがて襤褸の男は髭の男の近くで立ち止まり、口を開いた。
「お前さん、ここの人かい?」
男はしゃがんだまま、抱えていた頭を左右に振った。
「そうかい。…この村はいやに静かだねえ。何か知ってるかい?」
男は再び頭を左右に振った。
「お前さん、震えているじゃないか。なにかあったのかい?」
男はこれには答えず、先程の家を指差した。襤褸を身にまとった男も、つられて髭の男の指先へと頭を向けた。髭の男の指した家はおどろおどろしい雰囲気を出しているように感じられた。襤褸の男は視線を戻し髭の男に目をやった。ひどく怯えている。襤褸の男は唾をごくりと飲み込んだ。襤褸の男は恐る恐る家へと近づき、入って行った。やがてすぐに出てきた。走って髭の男のもとに戻ってゆく。髭の男は膝を抱えて、その隙間に顔をうずめていた。襤褸の男は膝に手をついて、たいした距離を走ったわけでもないのに肩で息をしながら髭の男に尋ねた。
「おいおい、ありゃなんだい」
髭の男は俯いたまま今にも消え入りそうな声でぼそぼそと呟いた。
「知らねえ」
「知らねえって…人が一人死んでるんだぜ」
「俺も今さっきここへ着いたばかりなんだ。それより、少し一人にしてくれ。もうかれこれ五日も何も食っちゃいないんだ」
髭の男の腹がまたなった。するとつられて襤褸の男の腹もなった。
「奇遇だな。俺もだ」
「そうかい」
「お前さん、名前は?」
髭の男の要望は聞こえなかったらしい。髭の男はため息交じりに力ない声で答えた。
「…馬酔木 陸だ」
襤褸の男は目を大きく見開いた。
「へえ、日本人かい。こりゃ驚いたね」
「そういうあんたは?」
「俺はアブマド・サルージャてんだ。見ての通り乞食だ」
髭の男、もとい陸ははようやく顔を上げた。サルージャに少し興味がわいてきたのだ。
「へえ、乞食が何でわざわざ知りもしない村なんかにやってくるんだ?」
「何、乞食だからよ。どうせいつくたばるかもわからねえ身だし、同じところにずっといて死ぬんなら、旅でもしようかなってね。決まった職も住所もねえから後ろ髪を引かれるものもねえしなあ」
「そういうものかね」
「陸だっけ?お前さんは何やってんだ?」
「俺か?俺は…、その、何だ……」
陸はサルージャから顔をそらして、言葉を濁した。対するサルージャはしゃがんでいる陸と会話するために前かがみになっていたのを改めて、背筋を伸ばし、腕を組んだ。その顔にはまるで不満と書いてあるようである。
「何だよ。俺は乞食だってことも明かしたんだぜ。はっきり言ってくれよ」
陸は猶も少しためらっていたが、やがて諦めたのか滔々と語り出した。
「わかったよ。俺は…戦場カメラマンに憧れてたんだ」
「へえ。それでこんな村にもねえ」
「いや、そうじゃないんだ」
「じゃ、何だい?」
「戦場カメラマンに憧れてこの国へ来たんだが…」
「おう」
「来て一週間もしないうちに追剥に身ぐるみ全部引っぺがされて命からがら逃げてきたら、こんな所に行きついちまったんだ」
陸が話し終わり数瞬の間があった後、やがてサルージャの大きな笑い声が響いた。その棒のような痩身のどこからそんな声量が出るのかと思うほどの大音量である。
「笑うなよ!ちくしょう、だから嫌だったんだ」
陸は膝を抱えていた腕を解いて砂をつかみ、呵々大笑しているサルージャに向かって投げた。しかし強い風のせいで、全部自分顔にかかってしまった。そんな陸を見てサルージャはさらに笑い声を大きくした。途端、二人の顔が真顔になり、きゅるきゅると二人の腹の音が重なった。
「あまり笑うな…。は、腹に響く」
「そ、そうだな。いやすまんかった。いや何、別に追剥にあった間抜けさを笑ったのではない」
「? じゃあ、何で笑った?」
「いやな、追剥なんてひどい目にあったのにもかかわらず、なおも村に入って施しを受けようとするお前さんの人のよさが気持ちよかったのだ」
「ふん、ほっとけ。たとえひどい目にあったとしても、こうでもしないとホントに死ぬだろうが」
「違いない」
会話が一段落つくと、二人の腹の音が再度なった。
「しかし…、本当に腹が……」
サルージャがそんなことを呟いている折、陸は往来を見つめていた。サルージャは不審に思い、陸の見つめている先に視点を合わせた。するとそこには先程の痩せこけた雌鶏があきもせずに首を前後に揺らしながら闊歩していた。二人は生唾をごくりと飲み込んだ。
「おい、あの鶏はお前さんのかい?」
「そんなわけないだろう」
「そうだな。するとここの村人のものだろうか」
「だとしても、一匹でいるのはおかしいな」
「それもそうだ。すると、あの鶏は脱走したのかねえ」
「だろうな」
「そうならば、あれを捕まえたらそれは自分のものだろうか」
「そうだな。普通なら飼い主に帰すだろうが、あんな痩せこけたもの、どうせいらないだろう。そもそも、この村には人がいねえ」
二人はそこまで話し合うと、まるで示し合わせたように痩せた雌鶏に忍び寄った。幸いにも雌鶏は今、二人と同じ方向に顔を向けており、敵に気付いてないようである。ゆっくり、ゆっくりと音を出さないように抜き足差し足で近づいた。漸く二人と雌鶏との距離が間近になり、いよいよ二人は捕らえようと身構えた。そんな折、一人の男が通りを歩いてくる。壮年で眉が濃く、双眸が鋭い。銃を肩に背負っているところを見ると軍人であるようだ。肌の黒さからして、ゲリラ兵であろう。向きとしては、二人と一羽と向き合うようである。つまり、段々と近づいてくる。かつかつと歩くその足が何かに触れたと思う間もなく、二人と一羽に向かって小石が飛んできた。それと同時に壮年の男はこけて、手に持っていた荷物が宙へと大きく弧を描いた。雌鶏はいきなり奇声を上げたかと思うと羽をばたつかせて家屋の屋根へ止まってしまった。その一連の流れを茫然と眺めていた二人のところへ、宙を舞っていた小さなカバンが飛び込んできた。サルージャが失意のうちに思わずキャッチした。
「あああ、あんたなんてことしてくれたんだ!」
叫んだのは陸である。彼にしてみれば、漸く五日ぶりの飯、しかも物資不足しているこのような地域で鶏肉などという豪華なものが食べられたかもしれないところを邪魔されたのである。しかしそんな怒りも長くは続かなかった。大きな声を出したものだから、またぞろ腹が鳴った。サルージャはサルージャで勝手に他人の荷物を物色している。
転んだ壮年の男はすぐさま立ち上がり、不測の事態に対処しようとあたふたしている。
「す、すまない。考え事をしていたものだから…」
「考え事ならよそでしやがれ!こちとら五日も飯食ってなくて気が立ってんだ!」
相手が下出に出ているのを見越して、陸は再び怒鳴り散らした。しかしそんな陸をなだめるかのように腹の虫が鳴り最後の方はしり切れトンボのように勢いがなかった。
「あ、め…飯だ!」
これらの一連のやり取りを無視して間の抜けた声を上げたのはサルージャである。
「何!?」
「あ、それは俺の…。うぅ、それをやるから見逃してくれ……」
最後の方はがっくりと肩を下ろして壮年の男は諦めたように言った。言うが早いか、その頃には弁当の中身は二人の腹の中に収まっていた。彼らは弁当を見るや否や許可も取らずに他人のものを食い始めたのである。だから壮年の男は諦めたというより、その光景を目の当たりにしてあきらめざるを得なかったのである。
「いや、すまなかったな。ありがとう。おかげで生きながらえたよ。あははは」
漸く飯にありつけて、機嫌が戻ったのは陸である。壮年の男は陸に肩を組まれて恐縮しつつ、彼の機嫌を損なわないために無理やり笑顔を作っていた。三人はいま、先程老婆が死んでいた家の中、椅子に腰かけている。机を挟んで壮年の男と二人が向き合っている。風が収まって、日差しが照ってきたので日のあたらない場所を探すことになり、先程の家屋の中に入ろうということになったのでだった。二人は散々怯えていたが思い返せば、こういった光景はこの辺りではごく当たり前の風景である。物資も不足し、日常的に大なり小なりの戦闘のあるここいらでは、死体というのは、ごくありふれたものであるのだ。
「しかし、お前さん、こんなところで何をしようっていうんだい?銃なんかしょっちゃってさあ」
「いや、そんなこと、お前らには関係ないだろう…」
「あははは、違いない」
「いや、しかしなあ、こうして飯まで食わしてもらって、乞食にも一宿一飯の恩義ってもんがある。見たところ、かなりやつれているし…」
「お前らが俺の飯を食ったからだろ!」
壮年の男は机に手をついて思わず立ち上がった。
「いや、そういうことじゃなくてな、そう、かなり深刻そうな顔をしていたということだ」
サルージャは両手を前にかざして壮年の男をなだめた。壮年の男はサルージャの一言に不意を突かれたというような顔をして、勢いをそがれたとでも言うように再び椅子に座った。
「別に…、そんな顔はしていない……」
気まずい雰囲気が流れ始める中、不意に外からたくさんの足音が聞こえ出した。
「ああ、まずい。あいつらもう来たのか…。おい、お前ら絶対ここから出るなよ」
壮年の男は慌てて外に出て行った。