異世界礼賛 下 その6
頭上から暖かな日差しが降り注いでいる。
頬をなでる風は羽毛のように柔らかく、ワイバーンの翼が切り進む空とは大違いだ。高熟練度テイムスキルの影響で、俺たちは空気の膜に包まれて風の影響から守られている。
俺のさざ波立つ内心を無視してしまえば、至って快適な空の旅を楽しめていた。
地平線の彼方に豆粒の黒点を見つける。見る間に広がっていく黒い粒を視認したのか、後衛のメグさんからの"コール"通知が視界に割り込む。
《そろそろ降りた方がいいかしら?》
《そうですね。あまり村に近いところで降りるのは止めましょう。あの丘陵を越えたら降りるとしましょうか。ちょうど拓けていますから》
眼下には白茶けた街道が真っ直ぐに伸びていた。大地がむき出しになった街道は、緑の絨毯を箒で掃き取ったように色が違う。ミニチュアとなった荷馬車が道をのんびりと走り、街道の両脇に若草色と深緑の木々が置かれる光景は、まるでブロッコリーかパセリかの寄せ植えめいて見えた。
《俺たちから先に降ります》
《メグさんは警戒と援護よろしく。高度を下げるぞ》
《OK。私が最後ね》
俺はコールで宣言してきたライアンに合わせて手綱を引いた。徐々に高度を落とし始めたワイバーンの背で、内蔵が持ち上がるような浮遊感を味わう。落ちたりはしないのだろうが、この感覚はなかなか不安な気持ちにさせられるな。ジェットコースターに乗っているような気分だ。
高度を急激に落としたワイバーンに驚いたのか、街道を進んでいた荷馬車が慌てたようにスピードを上げていた。強襲されると思われたか? 脅かすつもりはないので、荷馬車と併走しないように進路を右にそらす。そして充分な距離をとってから、さらに高度を落とした。
羽ばたきを止めたワイバーンが地面すれすれを滑空している。俺は手綱ごと持っていた杖を左手で握り直した。隣ではライアンが肩に担いだままだった弓を手に取っている。さらに念のため、攻撃してくるようなものがないかと辺りを見回す。
《――行くぞ》
《OKです》
了承したライアンを確認し、俺は脳裏でワイバーンの返還をコマンドした。とたん、それまで座っていた椅子がワイバーンごと消える。空の胃がせり上がる感覚、放り出された浮遊感の中、宙に浮かんだ返還陣を抜ける。光の円陣に頭を突っ込むと同時に俺の脚に衝撃が走った。
眩いエフェクトが消失して視界が確保できたものの――まずい、慣性に負けて転びそうだ。
つんのめっている身体をこらえ、進むがままに足をがむしゃらに動かす。均されていない草原をひた走る。何度も足に絡みついてくる草に背筋を冷える。それでも歯を食いしばって必死に地面を駆った。
最後にライアンと2人して靴で大地を抉るように踏ん張る。
危ない。なんとか転ばずに静止することができたが、アバターの運動性能を巧く発揮できなかった。次回要改善だな。うっかり転倒した日には、顔面からダイブして大地に摺り下ろされる。もっと上から落下すればスピードが緩和されたかも知れない。
《次はメグさんですよ。俺たちよりもう少し上空から落ちた方がより安全だと思います》
《はいはーい!》
ライアンと2人で武器を構え、辺りを警戒しながらメグさんを待つ。予想する以上の上空で返還陣が展開しつつ、メグさんが空から落ちてきた。地面に激突するまであと10M――というところで、ボンッと紙袋が破裂するような音とともに傘が開いた。
青空の下、黄色い花をかたどった傘がふわふわと降りてくる。迎える俺達の緊張感を台無しにするようなのん気さだ。ポピンズの傘。もとは高低差のあるエリアで遊ぶための課金ネタアイテムだが、ゲームではもとより、現実で見ても実にメルヘンチックな光景だ。
傘を片手に左右に揺れながら、のんびりとメグさんが地面に降り立つ。閉じた傘を目の前でくるりと回し、「はーい到着!」と、ステッキのごとく地を突いて俺たちにウィンク付きで披露した。
「ギルマス! ――メグさん。ポピンズの傘は着地まで装備解除できませんし、装備中は攻撃も出来ないのですから、安全の為にも使用しないでください。あれではいい的だ」
キメポーズまで上手くいったところでライアンから指摘を受けて、メグさんが不満そうに眉を寄せた。
残念ながらもっともな指摘だ。わざわざワイバーンから飛び降りたのは、不測の場面を想定した訓練なのだ。日頃から何かにつけて非常訓練しておくべき。そう思って危険を冒したのに、緊急時に身動き取れないポピンズの傘を使ってしまったのは駄目だろう。
メグさんへの注意はライアンに任せて、俺は街道から俺たちを伺うように静止した荷馬車に向かって手を振る。
御者の隣にいる荷馬車の持ち主らしき人物が、大きな動作で帽子を持ち上げたのを見て、さらに同じ仕草を返し、敵意が無かった事を強調しておく。
「商人っぽいですね。ワイバーンによほど驚いたようですね」
「どうだろうな? とりあえず街道に戻ろうか」
念のため武器をもったまま小走りで街道に近づく。荷馬車を目指すのではなく、村に向かいつつ街道に寄るよう走ったが、動き出した荷馬車とちょうど合流するような形になった。
年若の御者が、馬車と同じスピードで走る俺たちを興味深そうに見ている。冒険者が珍しいのか、あるいはワイバーンの主がわざわざ街道を走っていることが目を引くのか。しげしげとそそがれるその視線は今一つ判断し難い。
御者の隣で壮年の男性がもう一度帽子を持ち上げた。後ろから追いついてきた彼らに、俺はもう一度軽く手を挙げて挨拶を交わした。
「こんにちは。先ほどは驚かせてしまって失礼しました」
「これはどうもご丁寧に。英雄の後裔、脅威を狩る者――冒険者様方、お会いできて光栄です。先ほどは珍しい召還獣を見られまして、わたくしとしては良い記念になりましたな」
気にした風もなく、荷馬車の持ち主――商人だろう。40半ばほどか?――痩身の男が微笑みかけてきた。
「皆様方はトトの村にいかれるのですかな?」
「ええ。観光です」
街道の先には、トトの村がすぐ目の前に広がって見えている。商人が荷台に手のひらを向けて示した。
「よろしければ――荷台でよければお乗りになりますかな?」
「いやもうすぐ着きますし、大丈夫です。ありがとう」
単なる社交辞令だったのだろう。首を振って断った俺にそれ以上誘いかけることもなく、商人はただ頷いた。
荷台はスペースに多少余裕があったが、木箱と、何故か生きた豚も積まれていた。無理矢理乗れなくもないが、どうせ村はすぐそこだ。このスピードなら10分程だろう。乗る手間をかけるより走った方が早い。
「積み荷はトトの村で売るものですか?」
「さようです。ほとんどが日用品ですが、チーズなどの食品も扱っておりますよ」
「チーズですか。ルサンジェマの街で作っているものですか?」
「ええ。冒険者の方にはチーズやハム、ジャムなどが人気ですな。トトの店で卸しておりますので、ぜひ見に行ってください」
俺は荷馬車と併走しながら、さりげなく積み荷を観察した。乗っている豚が気になるのだ。藁が詰まった木箱は、木箱なりに悪くない見た目だ。だが、その隙間に押し込められた家畜が今一つ浮いている。
生後150日程だろうか? まだ顔つきの若い豚が2匹居る。日数だけ見れば潰して出荷可能な成長期間だった。だが、豚の口元には汚泥のような物がこびり付いていて、飼料の質が分かる。さらに片耳がかじられたように欠けてもいるし、臭いが感じられるほど身体が薄汚れていた、育った環境も良くはなさそうだ。成長具合はともかく、質がお察しだ。
しかし、街で育てていたものなら、異世界基準でこの程度の品質でも普通らしい。――俺はけして買わないが。
俺がトリアーノさんから納品して貰っている豚は、森に放して自生植物を餌に育てられたものだ。野菜くずも食べるが、出荷前のごくわずかな調整時期にしか飼料にさせていない。さらに生後250日から300日までの、それなりに成長した個体のみに限っている。現実で言うイベリコ豚のような種では、2年ほど育てた個体もあるが、それはかなり特殊な部類だ。
いずれにせよ現在は、そうして生きたまま丸ごと仕入れて屠畜し、課金別荘の氷室を利用して二ヶ月かかって成熟させていた。おかげでまだほとんど店に出せていない。
異世界では現代日本と違って、出産が出来なくなった老豚や老牛などを潰して食肉として売る行為も一般的にある。流石に一目で判別出来る低肉質だったが、うっかりしているとそんな肉しか手に入らなかったりするのだ。肉屋の軒先に吊されている良品を買うつもりで、会計時の薄暗い店内で粗悪品に化けたりもする。価値観の異なる土地は世知辛い。
魚の雄雌を混合された件もそうだ。油断しているとすかさず手を抜かれる。一定水準の材料を集めることがまず難しい。そしてそれを継続させることもまた難しい。
卸専門の商人からすれば、本来モンス討伐しかしない冒険者が料理屋を開くなど、片手間の遊びとしか取られないという偏見もあるのだろう。金払いが良くても――むしろ良いからこそ適度に相手をしてはくれる。しかしその実、本当に良い商品は、見る目も使い所も持ち合わせた人間に卸すのだ。
商売をするならば、こちらの本気を本気で返してくれる信頼できる仕入先を作ることが大切だ。だがさらに、信用に胡座をかかず常に自分の価値を示し、正しく信頼し返さなければならなかった。金さえ払えば後は何をどう扱おうと構わないなど、横柄な暴君だと判断される。損得勘定で動くのが商人だが、だからと言って金だけで割り切れる人間は意外に数少なかった。
もっとも、俺が相対するのが一次産業者から直で仕入れる、いわゆる卸しの商人ばかりのせいもあるかもしれない。商社的な大商人なら、また別の思惑で動くのだろう。
それにしても、ルサンジェマの街は先ほど俺たちが跳んできた街だ。それなりの都会である。あそこで育てていた家畜だと言うなら、トトには療養させようとしているのだろうか? しかしあの様子でも病気に掛かっているわけではなそうなのだが……。飼育環境を変えるにしても遅すぎるし、何より運ぶ手間が微妙な気もする。割に合うものなのだろうか?
《妙な積み荷ですね》
コールを繋げたままだったので、俺と同じ疑問を抱いたらしいライアンが話しかけてきた。
《トトで家畜を療養させるとかなのかもしれないが……。よく分からないな》
《そうですね……。しかし加工食品を街から村に卸すとは、普通逆かと思っていました》
《トトは一次生産だけして、加工は近郊のルサンジェマでやっているのかもなぁ》
「そう言えば、トトって何が名産の村なのかしら? お土産用に何かお勧めありますかしら?」
「おや? 皆様は観光しに来られたのではなかったのですか」
商人がわずかに目を細めてメグさんを見ている。田舎で商売している割には丁寧な言葉使いの男だったが、細められた眼差しは鋭かった。一見温厚な顔つきの中に、商人らしい油断の無さが垣間見えている。
「トトは食料品ではなく、花を栽培しているので有名ですな。今の季節は特に美しいですな」
「ああ! そう言えば以前行った時も、沢山お花が咲いていたわ」
「花ならトトではなく、ルサンジェマ北西のモンデルラや南西のアルンが有名ではなかったですか?」
俺の疑問に商人が「よくご存じですな」と頷く。
「どちらかと言えば、モンデルラは花ではなくハーブを栽培する村ですな。それとアルンは養蜂が有名でして、蜂蜜の産地として名高い土地です。ですので、売り物としての花の栽培産地ではトトになりますな」
「あらそうなのね。花だらけで綺麗だとは思っていたけど、トトは以前行った時には用が無くて――森に行く為に通りすぎただけだったから」
「トトはルサンジェマから一番近い田舎村でして。気候が穏やかで花あふれる風靡が素晴らしいので、古くから貴族様方の別荘地になっておりますな。確かに、冒険者様方はあまり立ち寄られない村でしたな」
「――以前は」
言外にほのめかされるまま問いかけると、商人が隙のない笑顔を向けてきた。
「今は冒険者様が開かれた料理屋がありまして、皆様もそこに行かれるのではありませんか?」
「あらぁ、もう有名になっているのね」
「さようですな。和の国の食事とか。この辺りでは珍しい料理を出す店ですな」
「美味しいのかしら?」
「さて、わたくしは食べたことがございませんので。しかし冒険者様の中には、熱心に通っていらっしゃる方もおられるようですよ」
「あらそうなのね。じゃあ期待できそうね!」
嬉しそうに笑うメグさんの後ろで、ライアンが微妙そうな顔を見せている。商人から死角になっているのを良いことに、ライアンは荷台をあからさまにのぞき込んで、そして俺に首を振った。
ゆるやかな丘陵の谷間を埋めるように、トトの村と色とりに咲き乱れる花が目の前に現れた。
丘陵の遙か彼方、西側には白く連なるジェラ山脈、東南には街道を貫かせた森が、そして北側には深い緑に沈むシュレールの森と火山もある。
どこまでも続く緑の牧草地に群をなすのは、のんびりと草をはむ羊や牛だ。その内側に広大なリンゴ畑と、貴族の別荘らしき堅牢豪華な屋敷が点在している。
屋敷の前にはブドウ畑の畝が取り巻いていた。緑の合間には、空を写し込んだような鮮やかな藍の小さな湖もあった。湖の端からは筆ではかれた小川が、密集する家々の隙間をぬって村に流れ込んでいた。かなり大きな村だ。村と言うよりは町のような印象がある。
小川の終点にある教会から、昼の終わりを告げる鐘が打ち響いていた。
村人だろうか? 教会から人々が吐き出され、ゆっくりとした歩みで村中に散らばってゆく。解散する人々とは反対に、教会に集まってきたのは身なりのやつれた人間だ。四肢の動きがぎこちない者も見受けられる。独特な服装をした教会の人間から小さなパンのようなものを受け取っていた。浮浪者? だろうか。老人から子供まで年齢は様々だ。10人も居ないが、この規模の田舎では多い方なのかもしれない。だが今一つ判断が付かない。バスケットを抱えた村人が食料らしきものを教会の人間に渡してもいる。笑顔で受け取られたそれが、さらに集まった人間に配られていた。
日差しに背中が暖まる。額に浮かんでくる汗を拭うように、穏やかな風が牧草の青々さと花の芳香を運んできた。足下にもその先にも色とりどりの花が植えられ、咲き乱れている。俺は牧歌的な村の風景に見とれた。素晴らしい景色だ。胸一杯に吸い込んだ呼吸が、自然と感嘆のため息に変わる。
メグさんの言うとおり、ゲーム時代はこれといったクエストのない土地だったが、現実になった今は大変美しい村だ。
「今日は思いがけず冒険者様方とお会いできたおかげで、楽しい時間が過ごせました。あちらがわたくしどもの品を卸している店なので、お時間が有ればぜひ」
なだらかな丘を下って村に入ったところで、小綺麗な建物を指し示された。ここが村のメインストリートなのだろうか。商人に指し示された大店の他にも、こぢんまりとした店がまばらに建ち並んでいた。商店の多さにも、村の人口数が感じられた。
そのなかでひときわ目立っていた商人の店は、刻印の押されたチーズやブランドらしい瓶に入ったジャムなどの食料、さらには高そうなレースや色とりどりのリボンなども置いてあった。
冒険者用のアイテムも混じっている。食料から衣料品まで並べられていたが、煩雑さはなかった。セレクトショップとか、いわゆる観光地にありがちな部類の店だと感じられた。
《安息日でも開店しているのですね。ゲーム時代でも使えたショップなのか。シュレールの犬狩りでレベリングする時は、わざわざトト村なんて寄りませんし、初めて入りました》
《そうね。お隣の店と比べるとディスプレイも整然としていて、如何にもプレイヤー向けって感じがするわ。でも品構えはいまひとつねぇ……。アクセサリは豊富だけど、レベリング用に使うMP回復アイテムが全然置いてないわ》
「うん、そうだな。今はとりあえずこの手のアイテムは必要ないかな」
店の裏に馬車を止め、御者をしていた青年が積み荷を降ろしていた。荷卸作業が終わったのを確認してからようやく俺はメグさん達を促した。
「このまま村を散策してから昼食に行こうか」
「そうね、こんなに素敵な村だもの。ぜひそうしましょう!」
「店は毎日開けておりますので、ぜひまたお越しください」
「ああ。何かあったら寄るよ」
降ろされた積み荷をチェックする商人に手を振って、俺は一応別れを告げた。
家畜を乗せたまま進む荷馬車の後を追うようにゆっくりと歩く。貴族の別荘はさておき、村の建物を見て回るだけならそれほど大きな範囲ではない。立ち並ぶ家の間を埋めるように、あちこちに花畑があった。歩いているだけでもなかなか楽しい。
「この辺りは花畑ばかりね。ラベンダーかしら? でもこれもハーブの一種よねぇ……」
「そもそも花があるなら、養蜂もできそうですが。別荘地にされるために養蜂を捨てたのでしょうかね」
「その可能性は高いな」
「ねぇゼロス。まだ見て回るの? 歩いていたら暑くなって来たし、なんだか喉が渇いちゃったわ。そろそろお店に行きましょうよ」
「昼になって太陽が上がったせいですかね。一気に気温が上がってきましたね」
「ね。それにこの先は牧場だけみたいだし。このままだと村の外に出ちゃいそうだもの」
「いや、あの家畜をどうするのかと思って」
「え?」
メグさんが眺める先で荷馬車から家畜が降ろされていた。家畜用の納屋だろう。少し離れた場所に石造りの家も建っている。家の裏手には、太陽に干された肉の固まりが見えた。屠畜場か?
俺はそれを横目に観察しながらも顔は花畑に向ける。花畑はラベンダーらしき青紫の花の他に、セージやタイムなどのハーブ類も植えられていた。顔を寄せて香りを嗅ぐと、畑の土とともに花の良い香りが立ち上っていた。
「今日は安息日だから、ああして商品を補充するだけかもしれませんよ」
「かもな。さて、お腹も減ったし先に食事しに行こうか」
首を捻るメグさんを促して、俺は件の店へと足を向けた。