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異世界移転者の凡常  作者: 北澤
第3話 異世界移転者の平凡な日常
43/49

異世界礼賛 下 その4

「ゼロスただいまー」

「ああ、お帰り。温泉どうだった?」


 手洗いをすませてレストルームから出てきたところで、風呂帰りのティーとほむの2人と鉢合わせした。


「白くて塩っぱい。謎効能で温度高め」

「露天風呂なん。そんで海んトコに夜光虫うにょうにょしてたの見えるん。すごくキレーなんぉ! ゼロスも今度一緒に行こう!」

「それは凄いな。ぜひ一緒に連れっていってくれ」

「うん!」


 相変わらず適当に拭くだけなのか、ティーは髪から滴を垂らしていた。肩に掛けたタオルが濡れそぼっている。そして片手にはお気に入りのヒヨコ玩具を捕獲した網を、もう片方には――


「なぜ蛤が……」


 カエルのマークが刻印されているだろう黄色の桶に蛤が満載されていた。

 ティーが桶に入れた蛤を俺に見せてくる。ゆうに13cmはあろうかという立派な蛤だ。殻に刻まれた波打つような模様が大変美しい。現実ではおいそれとお目にかかることも出来ないような一品だ。

 感心する俺の前で蛤がぴゅーっと海水を吐き飛ばす。


「穫ってきてって頼まれたん。つまみに食べるんお?」

「盗穫は――」

「許可あるから。つか、これアイテムの一種だし、課金別荘の私的海岸プライベートビーチで撮ってきたもんだし」


 流石ゲーム内リアル別荘! 無駄に凝った設定だ。フルダイブでもないのにこの拘りよう。超が付くほどの高額ホームだってプライベートビーチなんてありえなかったぞ!? ホーム本体以外の土地なんてせいぜ猫の額程度の庭だ。運営は何故この分の労力をゲームバランスを操る方に回さない? 金か、そんなにリアルマネーが欲しいのかっ。


「……分かってはいるが、課金別荘は理不尽な存在だな。優遇されっぷりが凄まじい」

「1件でいいからオーナーになっておくとマジ便利だよ。ゲーム内銀行から別荘を担保にして低金利で巨額を借りられるから、急な金稼ぎに慌てる必要ないし。別荘が所在する国家でも色々優遇されるし」

「いくら便利とは言え、リアルマネーであの値段はなぁ……。それこそリアルで家を買った方がましだ。第一、金を借りるのはいいがそうそう返せないだろう? 金策のバランスがシビアすぎるんだよ、この――じゃなくて、かつてのゲームは」

「なんでさ? 市場に出回らないうちにレアアイテム売り抜けばいいじゃん? そんで市場が充実して値が落ちた時にまた買い直せばいいじゃん」

「だぁーねぇー!」


 ティーまで同意している。そう言った事が出来るのは、攻略で前線をトップでひた走るごく一部の人間だけだと思うんだが。……まぁ、そのごく一部で、さらに立派な廃人であるほむ達には当たり前のことか。ヒヨさん――オフィーリアもレアアイテムを大量に貢がれていたしなぁ……。


「それより早く貝喰おうよ」


 ティーの持つ蛤にほむが口の端を濡らしている。――またか。


「ほむ、お前まだ喰うのか? さっきさんざん肉喰っただろうが」

「海鮮はまた別腹じゃん」


 俺は呆れるあまり文句を言う気力が萎えた。

 別腹ってなんだ別腹って。肉と違うどんな別の要素があるんだ? 亜鉛か? タウリンか? ビタミンB12なのか!?


「ただいまー。ハマグリ穫ってきたんおー!」


 意気揚々とティーが扉を開けて広間に突入していく。鬱積は無事風呂で払えたようだ。良かったことだ。

 安堵する俺の目の前で、ティーに続いた筈のほむの姿がかき消えた。

 半端に開かれた扉の向こう側、広間を覗いてみても誰も居ない。先ほどまでソファテーブルに置かれていた筈の酒も、そしてヒヨさんの姿もなかった。一瞬不信を覚え、そして思い付いた。――ポータルか。課金別荘の扉を別の場所に繋げたようだ。

 納得した俺はようやく足を踏み出して、そして"跳ん"だ。


 空間の喪失と僅かな浮遊間。刹那の後。目の前に先ほどまで目にしていた広間とは違う景色を認める。畳敷きの大広間――和室だった。

 俺は慌てて足元を確認する。

 ポータル発現地点である三畳分だけ、畳が剥がされて板の間になっていた。誰の靴だろうか? サイズが大きい。板の間の端に派手なブーツが目立つように置いてあった。


「ここは……出島の課金別荘――ですか?」

「そう。日本酒に合わせてみました。たまには趣向を変えるのもいいだろう?」


 十重二十重と積み上げた座布団に、着物姿のヒヨさんがしどけなくストールをはだけ落として座っている。

 靴を脱ごうと屈んだ俺とは裏腹にティーが土足のまま駆け出した。驚く俺の前で、しかし畳が踏みつけられることはなく、唐突に消失した靴の代わりに靴下が畳の上を走っていく。

 なるほど。装備解除でインベントリ収納したのか。俺もティーに倣って靴をインベントリに入れることにした。


 青々とした一面の畳。重ねて置かれた正絹の座布団の固まり。部屋のあちこちに置かれた手あぶり火鉢と、仄明るい光を放つ灯籠。

 太い柱を重ねて堅牢に支えた天井と鴨居にも、凝り彫られた欄間と釣り灯籠が見えた。細い黒竹と正絹で編んだ簾が上がる窓。そして硝子代わりに張られた和紙の向こうに、長いひさしの影が覆っているのが分かった。


 今日は満月か。

 室内より外の方が明るい。それから外から水の流れるような音が聞こえていた。水が近いせいなのか少し肌寒い。


「出島の課金別荘も凝った作りですね」

「建物だけじゃなく眺めも実に素晴らしいのよ? 窓からジャッポンと出島から架かる大橋ゲートが一望できる」

「はー……。それは凄い」


 促されるがままに障子を開けて外を見ると、冷気と共に夜が流れ込んできた。深紺の空と漆黒の川の間に、満月に照らされた大橋ゲートのシルエットが浮かんでいる。

 僅かに弧を描く橋桁には等間隔で灯籠が掲げられていた。橋脚に添えられた灯籠から浮かぶ光で、橋脚を撫でるようにぬるめいた黒水がゆらゆらと流れているのがわかった。

 大橋の遙か先、空と川の境に小さな灯りがまき散らされている。おそらくあそこがジャッポンだろう。江戸を主なモチーフとした日本家屋が立ち並ぶ土地だ。


 陰影礼讃。

 闇に添うような朧気な光しか持たないあの土地の夜は深い。漆黒の帳と共に降りた露が、辺りに響く水の音すら影のように密かに寄りあい沈めている。ただただ静かだった。


 窓から見下ろす川までの距離が遠い。何階建てなのだろうか。顔を突きだして左右を見渡せば、同じように川に切り立たせた高楼建築が並んでいる。この部屋をみる限り一見数寄屋風だと思っていたが、遊郭様式色濃い温泉宿かなにかの様な古めかしい作りだ。


「朝になればあの大橋ゲートも人が行き交って活気が出る。ジャッポンもよく見えるし、昼もまたいい景色なのよ」

「ああ……。それもいい眺めでしょうね。今でもすごい光景だ」

「夜は確かに凄みがでるな。逆にジャッポンの課金別荘は小山に在ってな、ジャッポンの街並みと大橋ゲート、それに出島が見下ろせる」


 なるほど。課金別荘は景観も醍醐味のひとつか。しかしそれでもリアルマネーであの値段はなぁ……。


「あ! 火鉢! これ火鉢ってゆーんよね。俺知ってる!」

「へぇ、ティーは火鉢を知ってたのか。最近だとかなり珍しいものだから、見れて良かったな。なかなか良いものだぞ。何となく落ち着くんだ」


 はしゃぐティーに笑って、俺は部屋をこれ以上冷やさないように障子を閉めた。

 ヒヨさんの座っている座布団は一畳ほどの大きさで、幅広い。よく見れば黒檀のフレームが埋もれていた。どうやらこれはソファのようだ。

 そして前には、テーブルの代わりに大きな火鉢が置かれていた。


 黒柿の大きな火鉢はテーブルとして使えるように縁が幅広にとられている。また、金網が四つ角にかけられ、先ほどまで使っていた酒器一式と、湯気を吹き出す鉄瓶が置いてあった。

 炉の中は暖かみのある砂色の灰が敷かれ、大きな五徳が埋められている。カギ爪の様な五徳の真ん中に花模様の空洞が空くクヌギ炭が並んでいる。そして円上に並んだ花の中心には、漆黒の花心のように白い灰を被った備長炭が赤々と燃えていた。

 炉の端には優美な火箸と灰ならしが刺さり、もう反対側には銅製の酒燗器がある。すでに徳利が1本挿してあった。準備万端だ。


「……なんか臭ぇ」


 大きな火鉢をのぞき込むティーの横でほむが鼻を鳴らして顔をしかめる。俺も倣って臭いをかいでみたが、イ草の青い匂いと、それからクヌギ炭の香りしか感じなかった。


「臭いなんてするか?」

「畳? 炭――あと灰? からする匂いのことぉ?」

「……んー、たぶん炭の臭い。キナ臭ぇ。つか、微妙じゃん?」


 どうやらほむはクヌギ炭の匂いが駄目らしい。

 日本で育って来なかったほむには、この手の匂いに馴染みがないのだろう。畳もクヌギ炭も、俺にとっては日本そのものの匂いなのだが。


「ほむ、これが純日本の冬よ? どうよ、この溢れんばかりのノスタルジー。もう俺たまんないわー。超たまんないわぁ! 着物とかほら、もう色んなエロスな意味で琴線に触れまくりますし?」

「ヒヨさん。自分でわざわざ着替えておいてそんな発言しないでくださいよ。俺たちに優しくない」


 あらん。とヒヨさんが申し訳なさそうに肩を縮ませる。しらじらしい事この上ない。


「炭真っ赤っかなんぉー」


 火鉢を興味津々で観察するティーが、さっそく火箸でいじくりだした。

 灰を掻き廻して模様を描き、さらに炭をつつき崩している。火遊びが楽しいのは分かるが、案の定灰をまき散らしてしまっていた。火鉢の熱気に乗った灰が部屋中を粉雪のごとく漂っている。


「こらティー。灰は飛び散り易いんだ。あんまりいじるな、部屋が灰だらけになるぞ」

「うー……」


 俺に叱られて、渋々とだがティーは火箸を置いた。とたん、髪の毛からしたたる水が炭の上に落ちた。

 水滴に叩かれてぼふりと灰が舞飛んでいく。


「ティー、ほら来い」

「ぅんー……」


 未練がましそうに炭を見ていたが、ヒヨさんに呼ばれてようやくティーは火鉢から離れた。

 バスタオルを広げるヒヨさんの隣に座り、仕方なさそうに頭をたれている。相変わらずの甘えただ。

 タオルで髪を拭かれているティーの向かい側、座布団の層で形成されたソファに俺も腰をおろした。瞬間、部屋が発光した。

 俺は焼かれた目を瞬たかせた。

 仄暗く落ちた明かりを頼りに、どうなったのかと部屋を見渡して確認して見るが、特に何も変わっていなかった。――いや、ティーに弄られた火鉢の炭が元に戻っている。宙を漂っていた灰も消えて無くなっていた。


「インテリアリセットはほんと便利ですね」

「せっかく風呂入ってきたのに、灰だらけになるのは勿体ないからな。――ほらティー。寒いから上着を羽織れ」


 ヒヨさんがティーに半纏はんてんを着させる。「暑っついんー」と襟元を直してくれているヒヨさんに文句を言いながらも、ティーは嬉しそうだ。

 さらにヒヨさんは畳に置いたティーの足の下に座布団と懐炉らしき物を滑り込ませ、毛布を膝掛けにしてやっていた。なんたる過保護だ。呆れる俺の隣で、ほむは丹前どてらを着込んでいる。


「ゼロスも丹前着たら? このエリアはまだ冬で寒いから。あとこれも。焼いた石だから火傷に気を付けて」

「ああ、すまん。ありがとう、ほむ」


 焼いた平石を綿の入った厚手の布にくるみ、紐で縛る。俺はソファの上に胡座を組んで、足の間に懐炉を置いた。

 渡された丹前の少し指にかかるような太く縒られた正絹の織りは、触れる肌に冷たく感じさせない為の物なのだろう。ソファはもちろん、座布団も同じ織りになっている。そして中にみっちりと詰められているのは、当然のように真綿だった。


 丹前を着込む俺の横で、ほむは焼いてくれと言わんばかりに桶を差し出す。

 口の端に涎を滲ませるその姿に、俺は色んな意味で切ない気持ちになった。


「……ほむ、この蛤は砂抜きしてあるのか?」

「穫ってから風呂入ったから、1時間ちょいぐらいかな。ティーは基本、長風呂だし。ちょうどいいかと思って」


 1時間か。微妙だ。運が悪ければ砂にあたる。

 迷ったが、結局ほむに急かされて、不本意ながらも焼く事にした。

 生で喰っても美味いのだが、それを教えた瞬間に素手で貪りだしそうな気配が怖い。そして牡蠣同様に食中毒的にも怖いので生は却下だ。


 ナイフで蛤の蝶番を切り落とす。とたん、手の中で蛤ががぼりと海水を吐き出した。指の間から滴った海水が桶の中へと零れる。――と、海水とは別の違和感を手のひらで覚えた。

 不審で開けた手の中に、海水に濡れて輝く赤い珠があった。


「なんだこれ……」

「あ、コンク真珠じゃん。その色ウルトラレアだよ。ゼロスマジ運いいよね。毎回思うけど、その引きほんとスゲーよ」

「そうか? と言うか、そもそも蛤が真珠抱くのか」

「二枚貝だしありえるんじゃねぇの? つかさー、この世界さ、基本的にゲームじゃん? あ、一応アコヤ貝もあるよ。アコヤ貝で小数点2桁以下、蛤でさらに低確率。1個で指輪、7個で首飾り。見た目はすげぇいい装備に加工できる。糞性能だけど」

「ゲーム、ね……」


 火炎模様の走る深い薔薇色のコンク真珠に、俺はやるせなくなった。

 しかし腐ってもレアドロップだ。捨てるには惜しい。とりあえずほむに渡そうとしたが、「喰えないし」と切って捨てられた。ヒヨさんはヒヨさんで、指輪も首飾りも予備のコンク真珠のストックすら持っているそうだ。例によって貢がせたのだろう。

 仕方なく俺は自分のインベントリに仕舞う。それから五徳に網を乗せて、蛤を4つ並べて置いた。


「炭に花もようの穴ポコあんのねぇー? 備長炭と違うー……?」


 いつのまにかティーはソファに寝っ転がって、ヒヨさんに頭を撫でてもらっている。

 抱きしめたクッションに顔の半ばまで埋め、さらに、ふかふかした座布団と厚手の毛布に挟まっていた。とろけた目が今にも瞼がくっつきそうだ。そろそろ起きていられる限界の時間だな。


「それがクヌギ炭だな。こんな風に見目が良いから、茶の席で常用される炭だ。ただ白炭と違って火力が弱いから、料理に使う時にはこうして備長炭を間に置いて使った方がいい」


 ふー……ん。とかろうじて相槌を打ったティーだったが、我慢の限界に達したのか、語尾が寝息に変わり、そののち健やかに寝落ちした。あっけないものだ。

 ティーを静かに見守っていたほむが、「あー」と小声で頷く。


「燃焼率悪いから臭ぇのか」

「クヌギ炭は燃えるのも早い。匂いが苦手なら、次からは備長炭だけ使う方がいいかもな。――ちょっと火のあたりが強くて皮膚に痛いが」

「備長炭は見た目が素朴過ぎてなぁ。俺的には炉が美しく見えなくて嫌なのよねー」


 残念そうにヒヨさんが嘆息して、ほむに籠を渡す。優美な籃胎漆器の炭入れに詰まっているのは備長炭だけだ。


 網の上で貝殻の口が微かに開くのを見計らって、中の海水を捨てる。それからまた金網に置き直した。海水が再び滲み出てきたのだろう、炭の焼け割れるため息に交じって、弾ける泡の文句が聞こえた。


 火鉢からはあるかなきかの微かな声。広間に落ちる冬の沈黙。窓の外から漏れる水の囁き。


 ヒヨさんと酒を飲み交わす。

 蛤を返して焼き側の殻を外せば滴る汁が炭に落ちて、ちゅんっ、と鋭い叫びを発した。

 看取りながら交わす人肌の酒が舌の上を滑り、体の中からも柔らかな熱が加わる。蛤そのものから微かに湯気が立ちって、儚げに揺らぎながら昇っていった。

 ふつふつと蛤が沸き出して――


 じゅるっ。と、涎をすする音に一瞬で場が濁った。


「ね、ゼロス。もう喰えるよねこれ。ゼロスこれとかどう? ゼロスもうコレ喰っていいよな? いいよね? ――ねっ」

「花より団子かお前は。少しは風流を知れ、この阿呆が」


 ヒヨさんが実に嫌そうな顔で、ひたすら鼻の下だけを求めるほむをねめつけている。台無しだ。


「風流とかマジ霞以下。喰えねぇっす。何の足しにもならねぇですし」

「満たされる場所の違いを感じろと、そう言ってるんだ俺は」

「まぁ若いとどうしてもじつを――あ、これはもういいぞ」

「よっしゃ!」


 すかさずほむは、しかも素手で、蛤を皿に取った。

 押え切れていない荒い息を盛んに吐いて冷まそうとしている。だが我慢しきれなかったのだろう、沸いたままの蛤をものともせず、歯を立てて汁ごと一気に中身を浚いやがった。


「ほむ! 火傷するぞ!」

「ひゅめぇ!」


 多分、うめぇ、と言っているのだろう。――だが、ほむは完全に熱さが原因で身悶えしつつ、さらに自身に回復魔法を発動させていた。

 エフェクトをまとわり付ける姿に俺は天を仰いだ。駄目だこれは。とても喰わせられん。火傷上等とは流石にアホすぎる。


 俺は火元から蛤をずらして金網の端に置き直した。――ヒヨさん側に蛤を押しやる。そして、2個目を奪おうと伸ばすほむの手を叩き落とした。


「なんでっ!?」

「なんでって、ほむお前なぁ……」

「ほむステイ。ゼロスが皿に載せてくれるまで、大人しくお座りしてろ」

「なんでっすかッ!」


 公然と犬扱いするヒヨさんはさておき、内心俺も同意見なので黙った。

 閉じこめられた汁をこぼさないようにと、俺は自分の取り皿にトングで蛤をそっと乗せる。それから、歯を食いしばって拳を握りしめるほむの目の前に、落ち着いた蛤をひとつ寄せてやった。


「――ほら。これなら喰っても大丈夫だ」


 不満と飢餓に唸りながら喰うほむは本当に獣のようだ。少しは味わってくれ。そりゃこんな姿を常に見ていたら、ティーもほむの食欲『不信』になるだろう。


 俺は呆れながら蛤を手に取った。焼けた殻で指先が痛む。箸で慎重に身を押え、ゆっくりと汁だけをすすった。

 磯の香りが口内から抜けていく。舌の上いっぱいにうま味を感じて、喉の奥が知らずきゅっと絞まった。

 すかさず酒をふくむ。

 海の癖だけが拭われ、微かな野菜のような果物のようなそんな爽やかな甘みと、貝類特有の旨味が渾然となり余韻にひたる。ため息がでる。

 感嘆にこぼした息ですら味蕾を刺激して、この上なく美味に感じられた。


 仕上げに身を口に滑り込ませる。

 滑らかな身の感触が舌で踊り、歯に押されてぷつりと跳ねた。繊維質の微かな抵抗。歯触りを感じた後で染み出でる濃厚な甘み。どこまでもあふれ出てくる滋養のエキス。


「……ああ、旬の物は本当に旨い……。手をかけなくても素材ひとつで満足できます」

「確かにな。穫れたてのこの旨さったら――ほむ!」


 横を見れば、ほむが喰い終わった殻を咥えて未練がましくねぶっている。俺は無言で殻入れを差し出た。


「ほむ、それを二度とやるなよ、二度と。――次は無い」


 ヒヨさんが綺麗にそろえた指を3本下に向け、感情を押し殺した低い声で注意している。睥睨するヒヨさんの視線から逃げるように、ほむは顔を伏せていた。――本当に酷い。

 追加の蛤を金網に乗せながら、俺は何度目かのやるせなさにため息を吐いた。




「そういやさ、ライアンから聞いたんだけど、明日は料理喰いに出掛けんだよね?」


 幸せそうな顔つきで、蛤を皿に並べながらほむが聞いてきた。

 2個目を食べたところで、蛤も酒もギブアップした俺たちとは異なり、ほむはまだ余裕のようだ。夕食もステーキも食べたくせに凄まじい胃袋だ。健啖家と呼ぶにも程度という物がある。


「ああそうだ、この前ほむが行ったところだな。えーと、ウメもも桜亭?」

「ウメ桃さくらモッチ亭ね」


 じゅるっ……。と音を立てて、汁ごと蛤を吸い込んでいる。身まで飲むな、ちゃんと噛め。そして味わえ。

 俺が視線で刺すと、ようやくほむは取り繕ったように何度か顎を動かしてみせた。


「あの店の料理ねぇ……。ま、行きたいなら、近くの街にホームがある。そこにジャンプして、それからテイムモンス使うのがお勧めの最短ルートだな」


 料理自体はお勧めしないけども。と、ヒヨさんが肩を竦めて笑った。そんなに好みから外れたのか。まぁ今日の過去話からして、ヒヨさんは玄人の味が好みなのだろうと推測できたが。


「しかしあの辺りにあったホームは、ついこの間カインが売却し終わったと言っていませんでしたか?」

「あそこのホームはまだローンを完済してなかったからねぇ」



 異世界移転後、俺たちは分割ローンの支払いが済んでいなかった物を中心に、使用頻度の低いギルドホームを売却した。

 支払いが滞れば即日差し押さえられるし、生活するにも設備不足のホームばかりだったからだ。ギルドの財政整理をした結果、主要都市にあるローン完済した物件だけを手元に残すことにした。


 クエストだモンス狩りだと戦闘に明け暮れていたゲーム時代とは違って、今は"ホームジャンプ"の必要性も減っている。

 店の仕入れに使用している拠点さえ残っていれば、俺的にはなんら問題ない。それ以外の用途でなら、金はかかるがワープゲートを使えば済む。



「俺も持ってんのよ。カブってる場所を貸さなかったから、ゼロスは知らなかったのねー」

「ヒヨさん、もしかしなくても相当数の場所を被ってホーム買ってませんか?」

「そらそうよ? ゲーム的にそう言うもんでしょ」


 そう言って首を傾げたヒヨさんが、燃え崩れたクヌギ炭の上を灰ならしでそっと整えた。それから備長炭を置く。隣接して燃え続けている炭に炙られ、黒色の炭が微かに赤く染まって見えた。



 大都市には必ずワープゲート施設があったが、周辺都市への利便性を考えて"ジャンプ"用にホームを購入すると、おおかたが似た場所を選択することになる。当然局地的に需要が高まるので、価格も上がる。

 カインは割り切って、最低設備の一番安いホームを買っていたが、それでも相当な資金が必要になった。


 クエストで金を得ることが難しいこのゲームで効率的に金を手に入れたい場合、『稼ぎやすい』と言われる決まった行動をとる必要がある。――つまり、ひたすら同じモンスを狩って売るか、ひたすら掘って売るか、ひたすらマラソンして売るか、である。

 もちろん売るのはドロップアイテムだ。そして大抵この3つの行動は、セットで行う必要があった。


 当然飽きもくる。そしてゲームがつまらなく感じてしまう。誰しもがヒヨさんのように、貢物を売り抜いて効率よく大金を稼げるわけではないのだ。

 だからギルドへの上納金は、金稼ぎの面白さが飽きの境界線を越えないような額に常に調整されて、請求されていた。


「俺たちのメインはティーの作ったギルドだもの。ログイン時間中ギルマス達が居ない時間の方が多い。資金繰りにあれこれ悩む事もゲームの醍醐味のひとつだろ? だからギルマスに手持ちのホームを全部貸し出すことは止めたのさ」

「そうは言っても、ほとんど里香ちゃんが課金していましたけどね……」


 しかし、新規エリアの公開と共に販売開始された物件を手に入れるには、突発的な大金を必要とする事が度々あった。そして、その大半は定期積立資金である上納金以外での課金で賄うことになった。――つまり、里香ちゃんだ。

 里香ちゃんにとって趣味事に金をかけることは至極当たり前の感覚らしく、カインが資金不足に悩むたびに気軽に課金していた。だからこそ里香ちゃんはサブマスになったとも言える。



 燃え続けている炭の間に追加を差し込み終えて、ヒヨさんは火箸を揃えて端に戻している。花の無い炭だけが置かれた火鉢は実用さだけが目立ち、優美さが割り引かれて感じられた。


「サブマスはギルマスのお役に立てるならって、喜んで貢いでたからな。2人ともいい年の大人なんだから、他人の俺が横から口を挟むのは野暮でしょ?」

「まぁそうなんですが……」

「サブマス金持ちのお嬢だし、あんぐらいはした金じゃん」

「まぁそうかもなぁ……」


 貢ぐ、とヒヨさんが表現した通り、カインは分かっていて里香ちゃんに貢がせていた。もちろん里香ちゃんが「カインのお役に立てるなら」と言って自主的にやった事だし、結果的に里香ちゃんを含めたギルド全体の利益にもなる。

 そう考えれば、内情を知悉していたヒヨさんが野暮と称するのも分らなくはない。……ないが。本気で金が欲しいならギルドの人数を増やせばいいのだ。頭数が増えればその分金も貯まるのだから。

 ギルドの財政に関知していなかったバルサやトウセ、それにティーはともかく、結果的にそれに迎合していた俺が言える言葉ではないと重々承知してはいる。

 それでも、最初からこれしかないと分かり切った資金以上の物を、里香ちゃんから貢がせてまで手に入れようとするカインの行動は、俺には些か不可解なものに感じられた。



「ギルマス達はさておき、せっかくホームがあるんだから使ってちょうだいな。メグマス達との同行移転も許可しておくから」

「助かります。今の俺たちには1WGですら高額だ」


 店ではフルコース1回分で1WGかかる。これはかなり高級な食事だ。

 ギルメン達36人分の食費は定食に仕立てて、かつ原価計算だからまだマシな額だが、店の売り上げから考えればかなり厳しい。課金別荘の家賃だとして給与からさっ引いてはいるが、実質は食費だ。オーナーであるヒヨさんの取り分など無いに等しい。

 戦闘しない――出来ない人間ばかりの今、店を経営して、そこで働ける体制がなかったら、生活費だけで破産する人間がいたかもしれない。手持ちのアイテムや装備を売るにも限界があるのだから。


 もちろん下を見ればきりがないので、倹約しようと思えばいくらでも生活は切り詰められるだろう。だが、現代人である俺たちが、長期間それに耐えられるとはとても思えない。いずれは破綻するのだろう。

 その時破綻するものが資金なのか、あるいは精神なのかは俺には分からないが。


「そいじゃ、さっそく跳んで設定しておくか。――ほむ、ティーを連れてけ」

「アイサー」


 蛤を食べきったほむが、心おきない様子でソファから立ち上がった。ぐっすりと眠りこけるティーを毛布ごと肩に担ぎ上げる。座布団から引き剥がされたティーの手元からクッションがこぼれ落ちた。


「――おっと」


 火鉢に直撃する寸前、俺は慌ててクッションをつかみ取った。ほむに渡そうとしたが、「あ、破けてら」、と手を止められた。

 声につられて見てみると、確かに染み着いたばかりの涎とは別にクッションの角がほつれて内布が飛び出ている。


「俺、布とか縫ったことないっす」

「俺もないなー。ゼロス裁縫できたりする?」


 そろって首を傾ける2人に俺はちょっと笑った。


「一応は出来ますが、『一応』程度ですよ。ティーは裁縫出来ないんですか?」

「ティーが自分でやるんじゃなく、やってあげたいのネー」

「それなら俺より里香ちゃんとか――ああ、バルサは裁縫なら得意ですよ。この前ボタンを付けてもらいましたが、凄く上手かった」


 大変意外な話だが、バルサは裁縫だけは本当に巧かった。針に糸を通すまではいつもの通り危うい手つきだったが、一旦針を刺した後は別人の様な器用さを発揮した。「バカ兄貴達のせいでつくろい物が得意になった」のだそうだ。

 俺がバルサの裁縫技術を絶賛してみせたものの、ヒヨさんは「ゼロスにお願いしたいわぁ」と俺にクッションを渡してきた。


「じゃ、ゼロスそれ頼んだ。おやすみー」

「ああおやすみ。――って、本当に俺がやるんですか? 間違いなくバルサの方が巧いですよ」


 広間から出て行くほむ達を見送りながら、俺はヒヨさんに言い分けると、「バルサはどうかねぇ……」と悩まれた。

 まぁ信じきれない気持ちなのも分かる。しかしすぐに直したいと言うなら今回はバルサが適任だろう。いや、リアルでは2児の主婦であるメグさんも出来そうだが。


「と言うか、専門の職人に修理してもらっては如何ですか? お金はかかりますが、随分と中身がヘタっていますし」


 ティーに散々揉まれてくたびれてしまっている。この際だから直して使っていった方がいいだろう。

 絹織りのカバーがかかったクッションには真綿がぎっしりと詰まっている。少しずつ色味異なる布を縫い合わせ、まるでモザイクのようなデザインになっていた。天井の柄と合わせてあるのだろう。

 いずれにせよ。しっかりと丁寧に作られていて、物がいい。きちんと手入れすれば長く使える品だ。


 涎に触れないようためつすがめつ見ていた俺に、ヒヨさんは「涎――汚れはインベントリに入れれば綺麗になる」と首を振った。


「ティーが起きるまでに直しておきたいのよ」


 ヒヨさんが布巾を渡してきたので、涎部分に当ててインベントリ洗浄をした。布巾はバスタオルや桶と共にまとめておく。


「そう言うことなら俺がやりますけど、巧く出来なくても許してください」

「ありがとうゼロス。頼むわー。それが終わったらジャンプ登録しに行こう」


 倉庫から出した裁縫道具を受け取る。糸を選ぶ俺の横に手元を照らす為のランプが置かれた。和室に置くにはそぐわないデザインと明るさに、ヒヨさんの気遣いが感じられる。

 赤い屋根のようなランプシェードとそれを支える白いボディが相俟って、なんとなく思い出した。


「話は全く変わりますが、庭に出来上がってた小屋を見ましたよ。立派な小屋でした。ティーは鳥が好きみたいですが、犬は駄目なんですか?」

「皮肉屋のビーグル犬か?」


 間髪入れずに答えられて俺は苦笑った。


「犬も好きだが、ティーは黄色いヒヨコもどきの渡り鳥がより好きらしい。――そうそう、もうすぐ待望のヒヨコがくるぞ」


 慎重に針穴に糸を通す俺に、「さぞかしティーは興奮するだろうな」と、言って、ヒヨさんは楽しげに微笑んだ。


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