異世界礼賛 下 その3
少しだけ精彩を欠いたバルサが、それでも俺たちに顔を向けて笑った。
「バルサ、おやすみ」
「おやす――っ」
まさにバルサがノブに手をかけようとしたのと同じタイミングで、扉が開け放たれた。
「失礼。――大丈夫か?」
ヒヨさんだ。
急に解放された扉に煽られて一瞬体勢を崩したものの、バルサは「ん、平気っ」すぐに何事もなかったように立て直していた。流石のアバター性能だ。器用さはさておき、運動神経は現実と比べて大幅に上がっているのだ。
無事を告げるバルサへ、支えようと伸ばされたヒヨさんの手が行き場を無くしたようにひらひらと振られていた。だがすぐに指を揃えて頬にあて、オフィーリアのしぐさで俺たちに小首をかしげてみせた。
「あらん。俺ったら出遅れちゃったのねー」
ワイングラスを持つ俺たちを確認して、ヒヨさんは大事そうに抱えていた陶器の瓶に視線を落としている。今日のヒヨさんのお奨め品か。随分と無骨な瓶だが、中身は何の酒だ?
「たまに日本酒でもと思ったけど、味わうには遅すぎたかしらん。まだ舌は利きそう?」
「私パス。今日はもう寝るわ」
「あらそうなん? それじゃ、おやすみバルサ。良い夢を」
「おやすみ」
バルサは俺たちからの異口同音の挨拶に見送られながら広間を出ていった。気が付いた時には屈託無く手を振っているヒヨさんの腕から瓶が消えている。倉庫に入れたのだろう。
ヒヨさんは広間の中央、窪み状のソファに座る俺たち3人へ笑顔を見せた。
「おやまぁ、頬が真っ赤かだな、ティー」
「んー」
「酔っぱらってるな。楽しいお酒だったのか? 良かったな」
「んー!」
「どうした?」
さっきから待ちかまえていたティーが、ソファに座るヒヨさんを両手を広げて迎える。そのまま甘えたようにヒヨさんにしがみついた。そして柔らかそうなヒヨさん――オフィーリアの胸に顔を埋めて頬すり付ける。
ガっ、こど――お子様は本当に凄いッ。なんと、頬どころか豊かな胸の膨らみを鷲掴みにして、むにむにと揉んでいやがる! いや、子供と言うよりティーだからかっ? とにかく目の毒過ぎるっ。
分かっていても衝撃的なその光景に、俺は唖然としながらも釘付けにされた。視界の端でほむが嫌そうに目をそらしているのが分かった。俺も出来ることなら目を反らしたい。がッ、凄すぎるんだこの絵図等がっ。目を離しようがないんだっ!
ヒヨさんも興味深そうに胸元のティーを見下ろしていた。だがしかし制止させることはなく、じっとソファに座ってティーのしたいままにさせている。すさまじい精神力だ。よくまぁそんなことをされ――おいっティ、……うん、おおぅ……うん……。
顔を胸に埋めたままもにゅもにゅと揉みしだいて動くティーの手が一瞬止まる。いきなりその至宝のマショ――ではなくて、胸を無造作に叩きやがった。
戦慄した俺とは裏腹に、ヒヨさんは特に動じることもなくただ苦笑している。
「こらティー、痛いだろ」
「ぅー……邪魔ー……。寝にくぃー」
「こらこらこら、胸は叩いても潰れたりしないのよ? お前、このパーフェクトなバディに何してくれちゃってるの」
ソファで寝なさいな。そう言って、ヒヨさんがティーとの体の間にクッションを押し込んだ。だが不満そうなティーは、クッションを無視して、ちゃっかりとヒヨさん太股に頭を乗せている。さらにそのままオフィーリアの細腰に腕を回して、ぎゅっとしがみついていた。
「どうした、ティー?」
笑うヒヨさんが、ティーの頭からすっぽりと覆うように毛布を掛けた。足元でわずかにめくれ上がって乱れた毛布を、ほむが甲斐甲斐しく直してあげている。
ほむはその甲斐性を、少しはバルサにも見せてやってくれないものかな。――いや、ほむ的には充分誠意を見せているつもりか。元々の基準値が底辺だからな……。
「――ん?」
促すようなヒヨさんの再度の問いかけにも、ティーからは答えが返らなかった。黙ったままのティーに構わず、ヒヨさんはただゆっくりと毛布の下の頭を何度も撫でている。
「バルサが酔い潰れる前に自制して寝に帰るとはな。――さて」
どんな心境の変化やら。と、ヒヨさんは落とした視線を上げて俺の顔を見る。相変わらず鋭い。
「今日は深酒できる気分じゃなかったみたいですよ」
「おやん。料理に派手に失敗して落ち込んでるのかしらん」
俺は大げさにため息を吐いて、ヒヨさんに遺憾を示した。やはりヒヨさんは知っていて逃げたのか。
「ヒヨさん……。バルサが料理するのを知っていたなら、指導してあげてくださいよ。酷いことになってたんですから」
「あらそうなん? でも俺はお呼びじゃないって追い払われちゃったのよ。ゼロスと違ってプロじゃないしねぇ。教師には相応しくないってコトねー」
「……そう言う意味で、バルサは嫌がったわけじゃないと思いますよ」
あら、そ。と、ヒヨさんが他人事のように笑っている。――理由を分かっているだろうに。
だが口に出さないヒヨさんに倣って、俺もそれ以上追求するのは止めた。
「俺から見れば、ヒヨさんはプロと遜色ない腕前ですけどね。趣味の範疇を越えてる」
料理がシンプルであればあるほど、腕前の差がわかりやすい。
ヒヨさんが初日に振る舞ってくれたスープは、その腕前の良い証拠だ。ベースであるコンソメの出来もさることながら、当たり前にすべき事がきちんとなされている料理だった。
細切れなら問題ないと、違う種類の野菜を同じタイミングで鍋に入れてしまう。人によっては、どうせすぐに煮えるから構わないだろうと、切り方さえ適当になる。手を抜こうと思えばいくらで抜けるし、それで問題なく出来上がるのがスープだ。
だが、ヒヨさんの作ったスープは、そう言った状態ではなかった。野菜はどれもサイコロ状、素材に合わせた均一の大きさに切られていた。さらに、柔らか目に煮込まれてはいたが、複数の野菜がそれぞれベストな状態で火入れされていた。
「どこかで修行したことでもあるんですか? そうでなく単に才能の結果なら、俺は料理人としての看板を改める必要があります」
「俺が最初にヒモしてた相手が、欧州で派遣料理人している女性でな。いざと言う時にアシスタント出来るよう、スパルタ教育受けさせられちゃったのよ」
俺、断固働きたくないでごさる! が、信条のヒモだったのに。と、さも切なそうにヒヨさんが肩を竦めた。
ヒモはさておき、なるほど。欧州で派遣料理人だったのなら、その女性は相当の腕と、その腕に相応しい精神力の持ち主だったのだろう。あれは生半可な世界ではない。
「1年ちょいぐらいかしらん? 手に職ある方が後々俺のためになるからって、おケツぶっ叩かれちゃってねー。拾ってもらった手前もあって、俺ったら頑張ちゃったのよー」
ヒヨさんは「でもまぁ」と肩を竦める。
「最後は今すぐ出て行けって、着の身で蹴り出されちゃったんだけども」
「何かしたんですね、ヒヨさん……」
「いやだわぁ。ぴっちぴちの若造だっただけなの俺ー。下半身の理性も相応に若かっただけ~」
文無しだったし、あの時はほんと参ったわー。と、ヒヨさんがこれ見よがしにため息を吐いた。そして悩ましそうに眉を寄せて、俺に小首をかしげてみせる。
「でもねぇ、ヒモって浮気上等なモノよね? 正直俺、今でも納得いってないわ」
あ、流石に最近は年喰って紳士モードになったけども。そう嘯かれて俺は心底脱力した。
「にしても、俺ってば有頂天! 『料理に天賦の才能がある』ゼロスから、そんな風に褒められちゃったら、木に登ちゃうわー」
「天っ賦!?」
思わずワインを吹き出しそうになった。
「そんな凄い才能は俺にありませんよっ! アホなこと言わないでくださいよ」
「アホなんて酷いわー。ゼロスのお父上がそう言ってたのよ?」
俺は今度こそ鼻からワインを吹いた。粘膜が焼けて痛い。――と言うか、俺の親父だと!?
慌てて口元を押さえる。グラスをテーブルに置き、落ち着くように呼吸を確認した。それからようやく、俺は恐る恐るとヒヨさんに聞いた。
「……ヒヨさん、親父に会ったことあるんですか?」
「ゼロスが料理人なのを知って、碓斗が店に行きたがってな。ゼロスが働いていたフランス料理店の他に、東中央経済特区にある支店と、ご実家の店にも連れてったな」
なんで店の名前を知っている!? あ。いや、そうか。βの時のストーカー云々の絡みで、ヒヨさんの弁護士に一応、実家の連絡先も教えていたか? それにしても実家にも食べに行ったとは、誰かに紹介されたのか。俺の名前を出したのなら実家から確認があるだろうし。
内心で疑問が吹き荒れる俺とは逆に、ヒヨさんはさも楽しそうにしている。
「いやぁ、本当に美味しかったわぁ! 極めてる店は本当に良いものね~。ティーも気に入ったし、しばらく定期メンテの度に通ってみちゃったりしてたのよ」
きゃ! と、ヒヨさんが可愛い子ぶった声を上げている。さらに「お店、美味しかったの。俺好きーぉ!」と、ヒヨさんの膝の上の毛布からも声が聞こえた。
知らなかった……。しかし親父め、俺に連絡ひとつしてきやがらないのはどういうことだ!?
「それは気に入ってもらえて良かった。ありがとうございます。だだ、せっかく店に行ってくれたのに、俺は全く知らなかったですよ。すみません」
「おや、それはむしろ俺が謝ることだったのよ? ストーカー騒ぎの件では、ゼロスを矢面に立たせて身を危険に晒させたしな。あの病院はセキュリティ高い方だが、志藤はアグレッシブなストーカーだったし」
β時代、ヒヨさんを――オフィーリアのストーカーだったGMの志藤は、俺が光線過敏症で入院していることも、その入院先の病院も熟知していた。
志藤は俺がオフィーリアに、そしてオフィーリアが俺にも、恋愛的な感情が一切無いことを知ってはいた。だがオフィーリアの身近に居る男――邪魔者の1人であったと言うことは間違いない。その一方的な恋路で障害の筆頭がほむだったとは言え、状況があらぬ方に転んでいたのなら、志藤が俺を物理的に排除しようと考える危険性もあっただろう。
だからこそヒヨさんは全てが解決した後、俺に頭を下げて謝って――
「――まさか!? それでわざわざ親父に会ったんですか!」
「そりゃそうよ、命の危険に晒したんだもの。いくらゼロスが成人してるとは言え、ご家族にも謝罪する必要はあるだろう」
もちろん客として行った時ではなく、場を改めたけどもね。と、苦く笑うヒヨさんに俺は憤死しそうになった。
本当になぜそんな大切なことを俺に連絡しやがらないんだっ、あの阿呆親父めッ! あげく、言うに事欠いて俺に『料理に天賦の才能がある』だと!? どの口で言うんだよ、ヘンコがッ!
「まーあれだ。あの時はゼロスのお父上と、それはもうしんみり飲み交わしちゃってねぇ……。色々ゼロスの昔の事も、聞いちゃったりなんかして!」
『昔のこと』に目を剥いた俺に、ヒヨさんが「そうそう。そう言えば」と笑った。
「最後までネカマのロールプレイだけは理解されなかったな。そもそもMMORPG自体が理解し難かったようだ」
「……相変わらず……」
脳裏に浮かんだ姿に苦い思いがこみ上げる。ヒヨさんの件どころか、俺の入院中、親父は一度たりとも連絡を寄越してこなかった。
「うちの親父は昔かたぎの頑固者ですからね。煮ても焼いても喰えないような物は、そもそも理解できないんですよ。しかし……俺に修行を禁止させておいて、よくまぁ『料理に天賦の才能がある』なんて言いやがる」
「ゼロスの日光アレルギーは重度のものだったろ?」
親父のことを思い出して心中で大量の苦虫を潰した俺に、ヒヨさんが肩を竦めた。
「お父上曰く、体質改善するまでは余所に修行に出すことは出来なかったそうだ。その上、うかつに実家で甘やかして、才能を鼻にかけるような料理人になって欲しくなかったらしい。――恵まれた才能がある分、半端な料理人にさせたくなかったんだろう。調理は諦めさせて、その才能を別の道で開花させて欲しかったとも言っていたな」
――だから何故、そう当時の俺に言わないんだよッ!! あの阿呆親父ッ!!
俺は全てを堪えて、頭を抱えた。
物心付いた頃から、日本料理の道を邁進する父や兄たちを見てきた。だから当たり前のように、自分もその後に続くつもりだった。
まだアレルギーが軽度の頃は、父も俺が料理を学ぼうとする事を喜んでいた。厨房では父の弟子たちに交じって、ごく簡単な下拵えをさせてもらえていた。早朝の仕入れについて行くことすら、許してくれてもいた。
食材に触ることを許さなくなったのは、俺が日焼け止めを欠かせなくなってからだ。仕入れすら同行させてくれなくなったのは、俺が真夏でも長袖と首まで覆う服を必要としてからだ。
商売する以上は当たり前――仕方ないことだと、俺も理解していた。
当時ガキだった俺が、自分の境遇に我慢できたのはある意味奇跡と言っていい。厨房の片隅で見学することが出来たことと、母屋で自分の為に料理をすること。そのふたつが俺を支えていたのだ。
しかしある日、それすら禁止された。
実家での修行が無理ならば、せめて料理の専門学校に進もうと思った。けれど、高校卒業を控えた俺に、父は調理に関わること全てを禁止すると言い渡してきた。反論も、弁明も、何一つ受け付けられなかった。
あの当時の自分の荒れ様を思い出すと、顔から火が出るだけではすまない。体だけは成長してしまったガキの自暴自棄な反抗は、大人になった今振り返れば目を覆い尽くして足りないほどの惨状だった。
末っ子だった俺はもともと姉たちに甘やかされ慣れていた。何より店にいた仲居さん達も、俺によく構ってくれていた。それを良いことに、図体だけは一人前だった俺は、精神的にも肉体的にも甘やかされて満たされ、好き放題やらかして暮らしていた。ぬるんだ生活の中で俺はただぐずぐずに溶けて、目を背けるにも酷い有様だった。
俺の怠惰と反抗に最終的にけりをつけたのは、やはり親父だった。店の仲居だけに留まらず、客とも関係しようとした俺に、所行をみかねた親父が殴りつけてきた。
もっとも。俺にとって親父に殴られたことはそれなりに衝撃ではあったが、
――こんな体質に生んでしもぉて、どうか堪忍してなぁっ……!
殴る親父の後ろで泣いて土下座する母親に、俺は違う意味で心を折られた。
転機が訪れたのはその後すぐだ。俺の境遇を聞きつけた従兄弟が、自分の店で働く事を進めてくれたのだ。
従兄弟が経営するフランス料理店は半地下に厨房があった。俺の天敵である日の光が届かない。調理素材は現地から空輸された物か、契約農家から直接届けられていた。届いた物を検分するだけで、毎日仕入れに行く必要もない。
日中はフランス料理の専門学校で、夜から従兄弟の店で働くことで、俺は辛うじて料理人として生きてこられた。――そして。
光線過敏症、俺の体質を完治させる治療法が新たに認可された。
「……本当に恥ずかしい話ですが、それが原因で当時、俺は結構荒れたんですよ」
それでも、あの頃親父から説明されていたら、もう少しマシだったのだろうか? いや、もっと自棄になったかも知らない。しょせん結果論か。
「そんなゼロスの武勇伝も、ついでに聞いちゃったりしちゃったりー」
ヒヨさんが両頬に手をあてて恥じらっている。……どこまで話したんだ、親父。まさか……!?
「良いお父上で、俺ったら思わずもらい泣きしちゃったわぁ」
「たちの悪い泣き上戸で、そのうえ下戸なんですよ。だから普段は飲みたがらないんです」
「あらん。お酒勧めて悪いことしちゃったかしらん」
「二日酔いになって、死ぬほど苦しんだでしょう。いい気味だ。せいせいしますよ」
俺は自分のグラスを取り上げて、やけ気味にワインを呷った。
「お父さん、嫌ぃ?」
一瞬固まる。
それから俺はゆっくりと毛布に視線を落とした。
「……いや。アホほど頑固だと思ったが、それでも昔から親父を嫌った事はないな。そりゃまぁ当時は複雑な感情はあったが、……もう、喉元過ぎてるからな」
「……ん」
「なんだかんだ同じ性別で、同じ料理人だしな。年を取れば取るほど、親父の気持ちが理解できてくるんだ――それでも腹は立つが」
「ぅん」
ヒヨさんに絡み付いていた毛布が落ちて、ティーが身を起こした。顔を伏せて目を合わせてこない。表情の伺い知れないまま、いつの間にか抱き潰していたクッションをせわしくいじっている。
「お母さんは? 好き? ゲーム中、ゼロスにいっぱい連絡してきたの、お母さんぉ?」
「ああ……そうだな。あれは母だ」
「ぅん。ん……」
そして俺は親父より、母親に対しては未だにわだかまりを持っている。……多分、一生理解し得ないだろう。
連絡こそ頻繁に着たが、一方的に切断して終わることが多かった。あの時から、俺は母親に対してまともに対応したことは一度もない。
頷いた俺に、「俺、お風呂行く」と言って、ティーはソファから立ち上がった。
「ティー。せっかくだし、今日はちょっと遠出して、温泉いこうよ」
「ん。温泉いくぉ。俺、海のがいい」
「おっけ。海が見える方の温泉ね」
目元が微かに赤い。酒が抜け切れていないのだろか。ぼんやりとした表情のティーが、クッションを抱えたまま、ほむを伴って広間を出ていった。
今日はティーには色々重かったな。俺は内心で溜息を吐いて、手元のワイングラスをそっとテーブルに置いた。
「……ヒヨさん。せっかくだし日本酒に切り替えてもいいですか?」
「もちろん。大歓迎よ~」
毛布を畳むヒヨさんがこだわり無く笑い、テーブルの上に無骨な陶器の瓶を出現させた。続いて徳利とお猪口も置く。
「常温もしくは温燗で飲むのがお奨めかしらん。さらっとした軽い甘さと、嫌み無く後味が切れるお酒なのよ。香りは控えめ。でもって、つるつると舌の上を滑っていく飲み口も素晴らしくてね」
「へぇ」
「一応、どっしり系の日本酒も見つけたんだけども、それはまた今度のお楽しみにしてちょうだいな」
「ええ、楽しみにしてますよ」
とくとくとした軽快な音を立てて、徳利の中に酒が落ちていく。杯に注いだ日本酒が仄かに黄金を帯びて輝いていた。
倉庫からヒヨさんがつまみを取り出す。今日は……キュウリを叩いて金山寺味噌――らしいもの――を、添えた物。それから殻付きの生牡蠣。
「今の季節に生牡蠣とは……。別のエリアの物ですか?」
「そうよ~。時差も季節の差もあるからねぇ、ある意味便利だわー」
手の平ほどの大きさの身をまじまじと観察する。素晴らしい牡蠣だ。
「立派な牡蠣だ。この大きさなら15年は経ってそうですね」
「でしょでしょ。遠慮なく食べてちょうだい」
「いや。俺は明日の午前も仕事なので。今日は遠慮しておきます」
「あらん」
一瞬ヒヨさんが瞠目して、そしてテーブルから牡蠣が消えた。流石に俺も慌てる。
「あ、いや。ヒヨさんは気にせず食べてください」
「いんや、俺の思慮不足よ? 何があるか分からないし、ゼロスの前では止めとべきでしょ。代わりの物もあるし」
キュウリとオクラの梅あえが小鉢に盛られて出てきた。そして「キュウリばっかりだけどな」と、ヒヨさんが笑う。せっかくなので、勧められるがまま遠慮なく頂くことにした。
種も取り除いてあるのか。俺は感心して、少しだけしんなりとしたキュウリを箸で摘み、口に放り込んだ。噛みしめれば小気味よい音が口内から立ち響く。舌の上にじんわりと滲んできたのは、キュウリや梅の甘さだけでなく、八方出汁の繊細な味わいだ。
水気の強い野菜や魚などは、こうして出汁や塩水に浸けて下拵えをする。ほうれん草などの茹で野菜などにも使う。余計な水分が抜けて味にもふくらみが出るからだ。追加するタレも薄まりにくくなる。
キュウリばかりだと言われたが、同じキュウリでも梅の方はオクラと共に八方だしで、味噌の物は立て塩されていた。流石の料理の腕だ。当たり前だが、下拵えひとつとってもバルサとは比べものにならない。
……だが、そうだな。次回があるなら、バルサにも教えよう。ご家庭で調理するなら、キュウリの種は抜く必要はないかな。立て塩は野菜の栄養素が多少流れてしまうこともある。出汁を少量にすることと、味の再調節法、それから他の料理に転用させることも忘れずに教えなくていけないな。それにしても――
「それにしても。今日のバルサには参りました」
思い出して愚痴めいた俺に、ヒヨさんが、おやん。と頭を傾げて先を促した。
「おやまぁ……バルサの行動は俺にも予想外だわー……。潔癖の俺には実に耐え難い展開だったのねー」
予想はしていたのだろう。だが俺の説明したバルサの斜め上への爆走っぷりに、ヒヨさんは「すんごいわぁー」と、呆れとも、感嘆ともつかない言葉をこぼした。本当に、凄かった……。
「インテリアリセットからの対象外判定は、当分許可しないでおくわー。いや、ほんと予想外」
「お願いします。それから、俺が原因でティーを驚かせてしまいましたから……」
あらん。とヒヨさんがまた苦笑する。
「確かにティーは甘ったれだが、そんな繊細に扱う必要は全くないのよ?」
「いや、まぁそうなんですが……。俺の家族の話とかもしましたし」
ギルメン同士の不和とリアル家族の話題には、ティーはいささか過剰なナイーブさを見せる。この辺りの踏み込み具合の善し悪しが、俺には判断し難いのだ。
「あれは単にゼロスの家族の話を、自分の好奇心で聞いて良いものなのか分からなかっただけだ。躊躇でまごついただけさ」
「そうですか? だったら良かったんですが」
「良いのよー。第一、ティーは自分が愛した相手から無償の愛情を与えられていた子供だもの」
「……ああ、そうか。きちんとした家政婦さんが傍にいらっしゃったんですよね」
自然と安堵のため息がこぼれた。だとしても、人様の家庭の話とは言え内心思うところはあった。
「そうそう。光美さんのことね。ほんとにもう、惚れ惚れするほどいい女でねぇ……」
あれであと25才若かったらなぁ……。と、心底切なそうにため息をついている。ヒヨさんの戯れ言はともかく、光美刀自を素晴らしい女性だと感じるのは俺も同じだ。
「家族の話はいいとして、仲間内で亀裂が入る事態に嫌がるのは確かだな。碓斗の世界は1回ぶっ壊れたことがあるから、自分の環境を形作る人物間での確執に過敏なところがあるのさ」
「世界が壊れる?」
微笑むようなヒヨさんのその目が細められて、俺を試すかのような視線を向けてきた。
「碓斗の両親は自己愛が強い上に、自尊心もクソほど高くてねぇ。たかだか家政婦ごときに――さらに興味ない子供の事で御注進あそばされて、怒ったあげくに子供が唯一懐いていたその家政婦、解雇しちゃったのよ」
「――は」
予想外の事情に俺は絶句した。
ヒヨさんの説明によると、家政婦の手配は当時唯一ご存命だった父方の祖父の命でされたらしい。病床に臥されていた為に病状は常に一進一退で安定しておらず、ティーとはほとんど会えることはなかったそうだ。その祖父の死後、ティーの両親は後ろ盾が亡くなった家政婦の解雇に及んだ。
ネグレイトするなら、そのまま無視して構わなければいいものを! 余計なちょっかいだけは熱心にするのは、どこの親も一緒か。
「それまで自分が愛し、そして自分を慈しんでくれていた人間と、そんな人間が自分の為に作り上げていてくれた生活環境の、その両方を一遍に喪失してしまった。壊れてしまった自分の世界をもう一度構築できるだけの力がない。――寂しがりの子供は、一方的に与えられた物資を甘受して、自分のための新しい世界、つまりゲームにのめり込んだと言うわけだ」
物理的には十二分に満たされてはいるんだけどもネー。と、ヒヨさんは肩を竦めて苦笑している。俺はただ、ヒヨさんにしがみつくティーの姿を思い出した。
この異世界に移転してきて以来、ティーは外出したくてぐずったことはあっても、現実に帰りたいと嘆くことは一度もなかった。ティーにとっては、すでに現実に未練が無く、そして今はこちらが本当の世界になったのか。――いや。でも、
「確か、メンテの度に光美刀自にお会いしに伺っているはずでは? 一緒に暮らせないなら、寂しい事には変わりないと思いますが、会うこと自体は出来ているなら、失うと言うのとはちょっと違うのではないかと」
「今は俺とほむが保護者委任受けてるからな。当時8歳のティーには会いに行くどころか外出自体が困難だった」
「ああ、そうか……」
例え日中でも、14才以下の子供が単独で外出することは、法律上禁止されている。残念なことに世間の治安はそれほど良くはないのだ。安全神話日本などと謳われていた時代は、もう半世紀以上も前の話だ。経済大国と呼ばれ、アジアで唯一、国家単独で州認定されている日本。その日本州ですら、今では子供が独りで外に出かけことも出来ない。
「光美さんに会っている事を碓斗の両親は認識してない。保護者委任を受けている身として、俺も穂澄も報告書を出す義務があるが、光美さんのことはさらっと流しておいてんのよ」
「それ、ティーの両親にバレたら裁判沙汰になりませんか? 大丈夫なんですか、ヒヨさんもほむも」
「会いに行ってるわけではなく、外出先で出会うだけ――ってな体裁にしてるし、まぁ問題ないさ。念のため弁護士に相談したしな。何より報告書自体を彼らまともに読んでないでしょ。穂澄だけでなく、俺が保護者委任していることすら認識してないかもねぇ」
「流石にそれはないんじゃ……」
「碓斗を何時どこに連れて行こうが、同行者が誰だろうが、どう報告書に記載してみても一切リアクション無し。梨の礫なんだもの。事件にでも巻き込まれない限り、興味ない子供が誰と会っているかなんて気にもしないのさ」
だけどゼロス、念のため光美さんの事を他の人間には内緒にしといてネー。と、ヒヨさんは軽く言い放る。
秘密にしておくこと自体は俺もやぶさかでない。ティーの為にも喜んで協力しよう。だがそれにしても胸に悪い話だった。
「碓斗の事情以前に、そもそも異世界だしな。この生活を維持させる為の努力は忘れないでおいて欲しいのよ」
「もちろんです」
めずらしく真面目な顔を向けてきたヒヨさんに、俺も躊躇いなく言い切った。
「俺だってトラブルは御免ですよ。せっかく平和に暮らせているのに」
「ま、気負わずほどほどにね。こと人間関係は、気にしたところで成るようにしか成らないしねぇ。――特に、恋愛関係とか、ね」
「そうですね。確かに恋愛事は理性が利かない分、やっかいですね。残念ながら俺には縁がありませんが」
今日のライアンは本当に気の毒だった。そして榊は早く目が醒めることを祈りたい。――醒めるかどうかはヒヨさん次第のような気もするが、とにかく俺はコンさんを応援しよう。
「しかし、人間関係を円滑にしようと努力する気構えは常に持つべきですね。それはこれからも充分意識していきますよ」
好きで喧嘩や確執を起こしたいわけではないが、どう足掻いても止められない流れと言うものは存在する。だとしても、過ぎる静観は放棄と同意だ。考慮し思索する姿勢は大切だ。
今すぐ現実に帰りたい気持ちに変わりはない。だが、この異世界は紛れもない現実のひとつなのだ。今の生活を好んで壊すつもりも、また誰かに破壊されることも避けたい。俺は普通の人間のように太陽の下で生活したいのだ。料理屋を経営して、料理人として生きたい。そして当たり前の、ただ平穏な生活を送りたい。
だから、俺はヒヨさんに大きく肯いてみせた。
「俺も何かあったら協力しますので、ヒヨさんもよろしくお願いします」
「そりゃ良かった。頼もしいわぁ、ゼロス」
――だからどうかよろしくね。
そう言って、ヒヨさんは俺を見据えたまま、愉しそうに目を細めた。