異世界礼賛 下 その2
《ゼロス、今平気?》
俺は脳内に飛び込んできたコールに肩を跳ね上らせるほど驚いた。――コールは存外心臓に悪い。視界外からいきなり声をかけられるのと似ている。声をかけようとする人の気配が感じられないから、余計驚くのだろう。
一応、視界の端にコールアイコンが表示される。だが、許可をしたフレンドやギルメンはコール音の代わりに"声かけ(もしもし)"として、600フレーム分の音声をいきなり送れる。ギルメンのバルサはその"声かけ"を許可しているメンツの1人だ。
俺は脳裏に点滅したままのコールをオンにした。
《悪いんだけど明日の安息日、ちょっと時間貰える?》
《えーと、明日か? すまん。出かける予定が入っているんだが――一緒に出かけて済ませられる用事か? それか、今からはどうだ? 5階の広間で晩酌中なんだろう?》
ヤマーダさんの隣で客席を覗きながら返せば、《違うわよ。今日は、っあぁー……ぁ》と、バルサから答えともつかないため息が聞こえた。
悩んでいるらしいバルサの返事を待ちながら、客席が綺麗に埋められた店内を眺める。ギルメン達ギャルソンの動きを確認し、客の表情から料理の出来映えと室内の雰囲気を推し量る。……悪くない。これで今日も安心して寝ることが出来るな。
俺は安堵の息を大きく吐き出した。俺の顔を見て待つヤマーダさんに頷く。
「今日もいい感じだ。引き続き頼むよ」
「はい、承りました。本日も閉店まで私が担当します。ゼロスさん、今夜はもうお帰りになりますか?」
「ああ。今日はもう引き上げるよ。おつかれさま」
頷く俺に配膳室に居たスタッフからも声が返る。軽く手を挙げて答えてから、俺は先日ヒヨさんから位置変更してもらったばかりのポータルをくぐって、"跳んだ"。
《バルサ、そもそも用は何だ? 時間がかかるものか? 今が不味いなら、明日朝――早朝になるが、それじゃ駄目なのか?》
俺は課金別荘の階段を登りながら、繋げたままにしておいたコールを入れると、《不味くはなくて、今は――ちょっとッ!! これ私のっ!》
いきなりバルサが怒声を上げた。突き抜ける声に脳天を揺さぶられて、かけた筈のつま先が階段から滑り落ちる。倒れ込んだものの、俺は辛うじて階段の角を掴まえて、下へと転がり落ちそうになるのを堪えた。
「何だっおいッ!?」
《やめてよこのバキューム胃袋ッ! アンタさっき夕飯食べたばっかでしょ! ガッツかないでそっちの食べてなさいよ!! これは今から使うヤツなんだから――触んないでっ!》
俺の脳内を、バルサの叫び声が蹂躙し続けている。至近距離で大鐘を乱打されているかのようだ。これはキツイ。
《俺はゴミ処理場じゃねぇぞ!》《炭と生ゴミに加工する前の食材を寄越せよ!》
……相手はほむか。そしてバルサは俺に料理を作って――いや、教えて欲しいのか……。
移転した当初から不器用さをそこかしこで感じさせていたバルサは、やはり料理の腕も壊滅的だった。――が、今そんな事は些末な話だ。脳裏でひっきりなしに点滅するコールアイコンが、ひたすら鬱陶しい。
《うっさいわね! 協力するって言ったのアンタでしょッ!》
《俺は料理喰ってやるって言ったんだよ!》《この残飯以下の物体のどこが料理だよ!》《ティーの手本は無視かよ!》
《もう触んないでって言ってじゃないッ! あっちいってよっ! この暴食男!》
《手前ぇで喰えねぇモン人に渡してくんなよ、糞がッ!》
《ほむぅー》《性別女に糞ってゆぅーの駄目なのねー》《問題になんのねー》《おけつペンペンされちゃうーよぉ?》
《ちげぇよティー》《コレが糞って言ってんの!》
《食べものを糞ってゆーのも駄ぁ目ー》《怒られんの~》《俺、オヤツ抜きされんのヤーなんねー》《それにバルサはちゃんと料理がんばってるーよ?》《まだ巧く結果が付いてこないだけー》《だからほむ》《これも食べていーよ……》
《ちょっ、ティー!》《この炭のどこに口に入れる要素があんの!?》《こんな喰いモン無いよ!?》《いくら俺でも喰わねぇよッ!!》
「――コールで喚き立ててんじゃねぇぞッ! ガッ、お子様どもめッ!!」
勢いよく扉を開けて腹の底から一喝する。――一喝したはいいが、焦げの独特の臭いを胸一杯に吸い込んでしまった。咳を堪えて歯をくいしばる。それから怒気に固まって眼を丸くしているティーに構わず、俺はバルサとほむを睨みつけた。こめかみの血管が激しく痙攣していることを自覚したが、どうでもいい。知ったことか。
「……ほむ、ティーも。2人ともバルサとのギルドコール中に単発で何度も何度も何度も何度もコール発信すんじゃねぇ! 嫌がらせか!? あ?」
「ごめんなさいなんぉ……」
「ゼロス、地ぃ、出てる出てる。ティーがびっくりしてんじゃん。あとごめん」
「ほむ黙れ、この馬鹿ったれがッ!」
しょんぼりとした顔ですぐに謝ってきたティーにだけは鷹揚に頷いてやるが、ほむとバルサはさらにねめつけた。
最初にほむがコールに割り込んでこなかったら、ティーは便乗しなかったはずだ。自ら先陣切って、調子を煽らせたほむに責任がある。
「ほむ、わざわざコールで実況中継するな。そんな気遣いはいらんっ。バルサもだ。コールで喚くな、マナー違反だろうが!」
「……もうしないわよ……」
気まずそうに目をそらしたバルサへ
「バルサ、『もうしない』と言う言葉は謝罪にならない。前にヒヨさんにそう注意されたろ」
さらに追い打ちをかける。とたん、バルサがあからさまに気分を害したというように、眉間に深く皺を作っていた。
「だからもう――ごめんね! 悪かったわよっ」
「ああ、頼む。さっきはびっくりして階段を転げ落ちそうになったんだ」
いくらこの身がアバターでも、回復魔法があっても、怪我などしたくない。ましてや階段から転げ落ちるなど、命の危険すらある事態に陥りたくない。
「相手がどういった行動をしながらコールを受けているか分からないのだから、驚かせるような真似はしないでくれ。頼むよ。バルサだって戦闘中のコールやりとりで、あんな不意打ちされたら困るだろ?」
「……ごめん……」
さっきは吐き捨てるように口にした謝罪を、今度こそ本気でバルサが謝った。俺はなんともやるせなく肩で息を吐いて、そしてほむへ目を向けた。
「ほむ」
「だから悪かったって、ゼロス」
肩を竦めていかにも上っ面な軽さでほむが謝る。悪びれないその表情に、俺は天を仰いだ。――謝罪かそれが。まったく……クソが。
「とりあえず……」
広間に据えられたミニキッチンを確認する。不器用さと出来上がりのイメージが迷走したらしき料理――の、ようなものを見つけて、別の意味で再び天を仰いだ。現代機器である換気扇を稼働させてすら、この臭いか。夕食前でからっぽのままの俺の胃から、それでも何かが排出されそうだ。
本当に……何故バルサは1人で料理したがるんだ。適正が無いことを自覚しているのだから、最初から俺かヒヨさんを呼んで教えを乞いてくれ。
「ほむはバルサに協力するって言ったんだよな。なら、ここにある料理を責任もって全て――、炭化したもの以外は全部喰え」
マジかよ……。と、ほむが嫌そうに呻いている。
しかしこの炭になったのは肉か? 薄い板のようだが、もしやステーキだったのか? どうやったらここまで焦がせるんだ?
「一応、味付けは俺が変えてやる」
ボウルのフチまで満載された、得体の知れない合わせ調味料らしき物を見つけてしまった。味の調整が着かなくて、体積が延々と増えていったのだろう。凄まじい。
さらに中華鍋の中に、油でべしょべしょにぬかるんだ野菜炒めらしきもの。それから、粘度のありそうな油にまみれていた油淋鶏らしき皿に乗せられていた物体も発見した。
こちらは恐らく……調理の途中で油を足したのだろうな。せめて同じ温度に熱してから合わせればいいものを……。仕方ない。揚げ直してからアレンジするか。
「……ヒヨさんはどこに行ったんだ?」
「知らないわ。用事があるって言ってたし、出かけたみたい」
味見を恐れてさっさと非難したのか?――あり得るな。
以前バルサが料理を作った時も、ヒヨさんは一口だけ食べたものの、残りは全てインベントリに隠し、こっそり庭の肥料にしていたらしかった。あの時作ったバルサの料理は俺が強制分配したから、ヒヨさんも避けようがなかった。が、今日は予定が入っていたらしいから、バルサを野放しにしたことは一旦、保留にしておこう。場合によっては、ヒヨさんとお話し合いが必要になるが。――だとしても、
「ほむ。ヒヨさんにお前がコール使ってやったことは伝えとくからな」
言った瞬間ほむが土下座した。
「だからマジ悪かったって! ゼロス! ひっでぇっ、その脅し情けなくね!? ――っあっ、じゃなくてっ、ごめんって!」
「知るか馬鹿が。お前この間ヒヨさんの件を相当嫌がっていたよな。にもかかわらず、似たことを俺にやらかすなよ」
「全っ然ちげぇよ! 俺あんなゲロいのやってねーじゃん!」
「ゲロいとか言うな」
……確かにゲロかったが。
「第一あれも事の発端がお前で、自業自得の結果だろうが――そうだ。あれも俺が巻き込まれていたんだったな」
嫌なことを思い出した。よし、忘れよう。ただでさえおかしな臭いで吐きそうなのだ。あのことを思い出すのはやばい。一応謝罪は聞けたし、今は全て流して忘れてしまおう。
気を取り直して、リメイクを始めるべく油淋鶏取り上げる。だが、油淋鶏から微かにおかしな臭いがしている。……なんだこれは。
恐る恐る味見してみたものの、別に肉が腐っているわけではなかった。何か変な臭いの元が足されていると言うか、なんと言うか……。
「バルサ……もしかしてこれ、グランゾ鶏か? 自分で狩ったヤツ捌いたか? バルサ一人で捌いたのか?」
「そうだけど? でもこの間狩ってきたばかりのものだし、鮮度は問題ないわよ」
「……とりあえず材料を見せてくれないか?」
はいこれ。と、バルサがミニキッチンの奥壁にあたる棚の扉を開けて、置かれたままのグランゾ鶏を披露した。後ずさった俺の背後で、「……ぅげぇ」ほむが呻いる。ティーと共に退避する気配も感じた。今すぐ俺も逃げ出したい。
なにせ棚の中には――
頭を切り取られて死んだグランゾ鶏、そのままの死体があった。
胸元には、料理に使うためだろう、羽毛が毟られ、肉が切り取られた痕が辛うじてあったが、あとは何一つ手が入っていない。さらにグランゾ鶏からは、生肉と血の臭い以外の異臭が仄かに感じられる。これは絶対に狩ったばかりの物じゃない。
「バルサ、これ……狩ったあとすぐにインベントリに入れて、それから捌いたわけじゃないのか?」
「狩ってすぐに"跳んで"帰ってきたもの。インベントリになんかにいちいち入れないわよ。それに狩りたては体温もあるし、肉がぶにぶにして扱いにくいじゃない? 脂肪が冷えるまで放っておいた方が捌き易いって言うし――大きさも似てるし、人間と同じ時間でいいわよね?」
「いや何の猟奇的知識だそれは! まさか死後硬直のことか!?」
「そうそう、それ。あと鳥類って特に下処理必要ないって聞いたし。味だって熟成した方が美味しいものじゃない。だからここに入れて置いといたわ」
「マジかよ……。ありえねぇよ、バルサ……」
――ここに置いておいた?
ここって広間のことか……!?
棚に鎮座したグランゾ鶏の羽毛の隙間に、ちらちらと蠢く黒い粒状の何かがいるような……。いや、きっと幻視だ! この部屋は毎日インテリアリセットしているってヒヨさんが――だったら何故、グランゾ鶏を棚に置いたままに出来る!?
「――ほむ! この部屋今すぐインテリアリセットしてくれ!」
既にコマンド済みだったのだろう、俺の悲鳴に呼応するように一瞬部屋中が光に包まれ、浮遊感を味わった。
羽毛は体温を保つ為の暖房具だ。しかも今はもう初夏に差し掛かった"絶好の"気温だ。じっくりと保たれ続けた体温と、適正体温以下になるまで皮膚にしがみつき、うごめき続けるダニなどの虫……。
まとめてリセットされてくれっ! ――そう思った俺の思いも空しく、インテリアリセットが済んでなお、何故かグランゾ鶏はそのまま鎮座していた。
「嘘だろ!?」
叫んだほむが再びインテリアリセットをかけている。再度発光した周囲に目を焼かれた。眩んだ視界が治まった頃、ようやく慄く俺の目の前から肉塊が消滅した。どっと疲労が体を冒す。
「どうしてリセットが……」
「この棚は私が自由に使いたいから、しばらくリセット除外にしてもらっていたけど?」
不思議そうにバルサが頭を傾げている。俺はそんなバルサの様子に、背中からゆっくりと恐怖が這い上がってくるのを感じた。
「バルサ……。食材は俺が用意するから、今後は自分で狩った物は使ってくれるな。――頼むから。本当に心の底から頼むからっ」
「……私、捌き方、失敗してた?」
「ああ。むしろ肉を腐敗させたいと言うような完璧な手順だったな……」
「――なによそれ!?」
グランゾ鶏は普通の鶏が巨大になっただけのモンスだ。だが、巨大になったという事は、肉が沢山取れるというメリットだけでなく、下処理の煩雑さが増えると言うことだ。
体が小さかった時には気にしなくても良かった血抜き――それに血管や内蔵の処理に難易度が上がる。体格が大きい分だけ獲物の体温も残り続ける。温度イコール腐敗と劣化の活性時間だ。いくら狩りたてのものでも、素人がちんたら捌いた肉はヤバイ。不確定要素満載の物体にしかならない。
巨体を包む羽毛。温まったままのグランゾ鶏の内部では、さぞかし活発に駄目発酵が行われていたことだろう。本来ならすぐに取り出す内蔵を、そのまま放置して"熟成"させようとするとは……。
血抜きされておらず、さらには内蔵のせいで、接面している肉は相当冒されていたはずだ。なのに何故、捌いたバルサは気づかないんだ? 料理の才能が無いってこういう事か?
常なら質より量をとるほむも、流石に今回はおかしいと思ったのだろうな。コールで実況されていた文句の付け方が、以前バルサがやらかした時より激しかった。
「ほむ……回復魔法って、消化器官も回復させられるんだよな?」
「俺は今まで平気だったから、その手の理由で魔法は試せなかった――けど、そうは聞いてる。でもさ、それやると内容物全部強制排出させられて、出し切るまで死ぬほど苦しいって言うじゃん! ……なのにさっきティーが、焼き方の手本として調理した肉、自分で喰ってた……」
そう絶望的な声色で告白するほむに俺は青ざめた。ティーの料理の腕なら、バルサとは違ってまともな食べ物に仕上がった筈だ。夕食直後でさらに試食したなら、当然腹いっぱいになっているだろう。そして、ティーの胃袋はほむと同性能ではない。ごく普通の物だ。回復魔法で直せはしても、苦しむことに変わりないとは……。
「俺、この味、バルサの作った調味料のせいだと思ってたからさ……」
ほむがぐしゃりと顔を歪めてティーを見ている。まさかのほむの表情に、ようやく事の深刻さを感じられたのか、バルサが狼狽えていた。俺はもっと狼狽えたい。ティーは泣きそうな顔で、胃のあたりを押さえてさえいた。
「ティー……。お前、このお肉自分で調理して食べちゃったか……」
「……ん。……けど、変な臭いしたから一口で止めたん。でも飲み込んじゃったぉ……」
「――一口か。あぁ、なら良かった……。それなら多分大丈夫だ」
インベントリに入れておいたらしい皿を、ティーが取り出して見せてきた。美味しそうに焼かれた肉の端、ほんの一切れ分だけが欠けていた。ほむが安堵のあまり大きく肩を下ろしている。
食べたくなくて、しかし手本として調理した以上は、残しにくかったのだろう。バルサの目もある。ヒヨさんから日頃言われているだけあって、ティーはあれでなかなか女性に気を使うところもある。だからほむにも隠して、こっそり処分するつもりだったのだろう。
「そのぐらいの量なら問題ないさ。肉自体が腐っていたわけじゃないからな。とりあえず3人とも酒でも飲んでおけ。アルコールの消毒作用は馬鹿にならないんだ」
インテリアリセットされて、すっかり片づいたミニキッチンの棚からトレイを取り出す。常備されているワインを開ければ、甘い香りが感じられた。インテリアリセットの副作用なのか、おかしな臭いもすっかり消えたようだ。せっかくなので、俺も遅い夕食と共にワインを飲んで、一息つく事にした。
「しかし、ど……味見役が以前のようにカインでなくてよかったな……」
ティーのグラスにワインを注いでやりながら、俺はしみじみと安堵のため息をはいた。
カインは味音痴だ。異臭に気づかないまま全部食べて、取り返しのつかないことになってしまっていた可能性がある。ほむは悪食だが、味よりも量を優先するだけで、一応は味の善し悪し自体を理解している。味の許容範囲が広い、と言ってもいい。だがカインは完全なる味覚障害の持ち主だ。正直最初は信じられなかった。
始まりは確か……カイン達の食事としてギルド共通タブに、俺が調理したものの他に、ごくたまだが、ティーが作った微笑ましい出来の料理、それにバルサが作ったものを入れて食べてもらっていた。
そしてバルサの制作したものと言えば、何というか……この通り恐ろしくて全員分は作らせられない料理だった。だが、かといって1人分の料理を作らせるのはさらに難しい。だから仕方なく常に最小数の2人分だけ作らせて、強制で割り当て処分しているような状態だった。
しかし。カインは毎回、おいしかった。ありがとう。と感謝の言葉と、簡単ながら必ずポジティブな感想も付けて、個別にメッセージを送ってくれた。
ギルマスとして色々気を使っているのだな、若いのにカインは凄いものだ。と感心して、そして、そう言ってくれるとますます腕を振るいがいがあるし、上達も早いだろう。と単純に考えていた。
だがある日、その感想が実はカインの身内が言った言葉をまとめたもので、……いや、別にカインでなくても旨いと言ってもらえるのは嬉しいから構わないのだが、とにかくカイン本人の味覚が必ずしもそのメッセージ通りに感じて無いことに気付いた。――正確に言えば、バルサ以外の料理に関してだが。
「……あれ、カインもしかしてここにあったモノ、処分したか?」
ミニキッチンの作業テーブルに放置したままの小鉢を探して、俺はソファに座って水を飲むカインに声をかけた。
「ああ、すまん。小腹が空いていたもので、つい。……あれはゼロスが食べる為にとって置いた物か? だとしたら申し訳ない」
「えっ!? い、いや――……」
キッチンのシンクに空になった小鉢を発見して、俺は狼狽した。
この皿に入っていたバルサが作った料理――これでも俺の指導の元で出来上がった何か……食品だと思う。あえて、これでも食べ物だと主張しよう。そうでなければ夕食にこれを供することが出来ない。そして俺を含めた全員が口にし、消化しなければならないもの。それが綺麗に全部なくなっていたからだ。
「いつもゼロスの作る料理は美味しくて、毎食何が出るか楽しみにしているんだ」
「……いや、これを作ったのはバルサなんだが」
顔が強ばった俺を見て不思議そうにカインが、そうなのか。と呟いて、改めて笑顔を見せてきた。
「そうか、バルサのか。彼女の料理は毎回独創的で美味しいね」
――それはイヤミかッ!? と一瞬思った。が、
「弟はバルサの料理が苦手みたいで――多分、食べ慣れない異国料理風のせいだとは思うのだけど。でもそこが異世界レシピらしくて、俺は好きだな」
常の微笑を浮かべて本心から言っているらしいカインに、俺はぎこちなくもそれなりの笑顔で頷いた。
思うとことは色々とあったが、全部飲み込んだ。もう、あのバルサの制作した結果を胃に納めるぐらいなら、替わりになんでも飲み込める、そう思っていたからだ。
それ以降は大変申し訳なかったが、バルサの料理は――本人すら眉をしかめて噛まずに飲み込んだものだ――他のメンバー達の合意を獲て、唯一美味いと称したカインにすべて食べてもらっていた。
あの時は幸いなことに。俺の良心が本格的に痛み出す前に、バルサ本人が自分に料理の才能はないと見切りをつけて、調理に手を出すことを辞めた。
正直危ないところだった。カイン宛のアイテムとしてインベントリに収納する度に、必ず胃の辺りにキリキリと刺すような刺激があったからだ。もちろん、ごく少量とはいえ、それまでアレを食べ続けていた俺たちの胃は、それはそれで深刻なダメージを負ってはいたのだが。
てっきり、バルサはもう調理する事を諦めたのだと思って、俺は安心していたんだがなぁ……。
しかし、やりたいのならば致し方ない。バルサに学ぶ気があるなら、教えること自体はやぶさかでないのだ。
「それで――。今日バルサが作りたかった物は、油淋鶏と野菜炒めと……あとあの炭になっていたのはステーキか何かか?」
夕食を食べ終わったので、改めて尋ねてみる。ほむが「よく判んなぁ! すげぇよゼロス」と余計なちゃちゃを入れて、バルサに思いっきり睨まれていた。
「ステーキだけど……簡単に作れるなら別に何でもいいわ。油淋鶏はほむのリクエストだっただけ」
現実に帰ったら、家で作ってあげたいと思ったの。と、バルサは呟いてワインを飲み干した。この異世界で料理を身につけて、現実の家族に振る舞ってあげたかったのか……。何度も失敗しながら、それでも料理作りにこだわっていた理由はそれか。
「そうか……。なら今日はサラダでも作ってみるか」
「サラダとか切って盛り付けるだけじゃないっ。それならステーキがいいわよ!」
「ステーキは難しいんだぞ。『焼いただけの肉を皿に出来たら一流』って言われていてな」
「そんな玄人仕様はいらないわよっ。"ご家庭"レベルでいいから!」
ため息しかでない。
「鶏肉は……今日は辞めておくか。豚肉か? それとも牛肉のステーキか? 何が良いんだ」
「ステーキなんだから牛に決まってるでしょ」
「別に決まってはいないんだが……付け合わせは何にしたいんだ?」
「肉だけでいいわよ。面倒臭い」
俺は天を仰いだ。
……まぁでも作るのはバルサだ。そうだった。あのバルサに火を使わせるのだ。付け合わせに気を取られて炭を焼き上げるより、肉焼きだけに集中させた方がいいだろう。
「"ご家庭"な。霜降りなんてないし、赤身肉でいいよな? マーケットで売っている肉の厚みはこんなものか? もっと厚い?」
倉庫から取り出した赤身肉の塊にナイフを当ててみせる。家庭用なら1.5cmぐらいか? と思ったら、「もっと薄くて面積が広い」と言われてさらに厚みを減らした物を3枚切り出した。せいぜ1cmあるかないか程度なのか。なるほど、これはかえって焼きにくい。ついでに牛脂も切り落とす。
「一応聞いておくが、……一般的なステーキの焼き方は知っているよな? 炭になるまで焼く必要はないぞ」
「……知ってるわよ、あたりまえでしょ。ちょっと火加減に失敗しただけじゃない」
「バルサー。バルサの『ちょっと』ってどんな『ちょっと』だよ?」
「うっさいわね! ほむは黙ってよ!」
外野のほむが再び余計なひやかしを入れてくる。気持ちは分からなくもないが、黙って見学していてくれ。
「ティー、そんなに一生懸命飲まなくても大丈夫だ。ほどほどで充分だぞ。あんまり飲むとかえって体に良くないんだからな」
可哀想に。腹痛怖さにせっせとワインを飲むティーへ声をかけて、それから俺はバルサに向き直った。
「ほらバルサもほむに構うな。手順。ステーキを焼く手順を言ってみろ」
「油の引いたフライパンに強火で肉を焼く」
あまりに端的な言葉に一瞬絶句した。
「……まぁ合ってはいるが、なんだかな……」
「あと、肉は室温に戻しておくとか、フライパンは鉄とかのブ厚い物を使うとか。焼く時は塩胡椒を振るとか」
「ああ、なるほど。うん、いくつか勘違いしているな」
「違うの?」
俺は頷いてフライパンを取り出した。――先ほど炭を制作していた分厚い鉄の物ではなく、銅製の物だ。
「塩は焼く直前で、胡椒は焼いた後で挽いてくれ。火を通すと胡椒は苦みが出やすい」
料理人にもよるが、肉の状態によっては最初に塩を振らない場合すらある。――が、今回はバルサ向け……ご家庭向けなので、その辺りの講義は省略しよう。
「それからフライパンは――これもそこそこ厚みがあれば、ステンレスの物でいいぞ。厚みがあっても、重すぎて取り回し難い物では駄目だ。フライパンは火加減によってこまめに動かすからな」
「ふーん……」
リアルのバルサは、筋肉隆々のアバターとは違って、背も低く華奢な体型の女性だ。性格はこれだが、見た目だけなら儚げな美少女なのだ。ブ厚いフライパンは取り回しづらいだけなので、最初から別の物で練習した方がいいだろう。
「じゃぁまず肉の処理をしよう。肉の端に付いている脂身を切り取ってくれ」
「この脂身取るの? 面積が減ってショボくなるじゃない」
「火を入れるとな、脂身と赤身の焼け具合や縮み方が違ってくるんだ。焼くのに無駄に難易度上がるし、見た目も悪くなるぞ。どうしても脂身をつけたいなら、こうやって赤身まで切るように切れ目を入れてくれ」
脂身がのれんになるように切れ目を入れる。赤身との境を切断しておかないと、焼いた時、先に縮んだ脂身に引っ張られて、赤身がおかしな形になってしまう。
「ねえ、肉叩き使わないの?」
「店では筋のある肉を使わないから、そもそも必要ない。筋がある肉なら、白く走る筋のラインと赤身を断ち切るように、深くナイフを入れてくれ。ただ肉にナイフを入れると、焼いた時に肉汁が出るぞ。本当は何も手を加えない方がいい。それから叩くと繊維が壊れて台無しになる。その上ますます薄くなる」
「薄くない! ご家庭用なんだからこれで普通なのよっ」
「そうか……。ああ、そうだ。肉は必ずしも常温に戻す必要ないからな。むしろこのぐらいの厚みなら、調理の準備をする前に取り出しておけば、それで充分だ」
「うそっ。そうなの!?」
バルサが驚いて持っていたナイフを跳ね上げた。怖いだろうが! 気を付けてくれ!
「バルサ、ナイフを振り上げるなよ! ――あと肉な。薄すぎて火の通りが早すぎるんだ。店で出しているような厚みがある肉ならともかく、この薄さだとあっと言う間に焼き過ぎて、パサパサになるぞ。特に羊や豚肉なんかの、火が通り易い肉は最悪だ。牛でも10分程度でいい」
「そうなの……」
「そうなんだよ。さて次は――」
俺は切り落とした牛脂を指さした。
「マーケットで肉を買ったら、こういった脂身も貰えるんだよな?」
「ちゃんと貰えるわよ。でも使わないけど」
「なんでだ。貰えるなら使えばいいだろう?」
「サラダ油とかオリーブオイルとかあるから、それで――」
「オリーブオイルは止めてくれ!」
炭化するわけだ! カリカリの焼き加減にしたいなら別だが、ステーキにオリーブオイルは御法度だ。
「精製油は融点が低いし、熱伝導が急すぎて肉の表面が乾くんだよ。サラダ油なら牛脂と混ぜて使ってくれ。とにかく、牛脂を小さなブロック状に切って、あと生バターも。ほら」
「牛脂ってこのまま塗るように使うんじゃないの? フライパンに引くだけでしょ? バターとかクドいわ」
「引くだけじゃないんだよ。生バターは後で拭き取るし、そうくどくはならないさ――念のために確認しておくが、料理に使うバターは無塩のものだからな。有塩じゃないぞ」
「無塩バターなんて見たことないわよ」
「……どこのマーケットでも普通に売ってると思ってたが……。とにかく。有塩バターを使いたいなら、パンにでも塗ってくれ」
牛脂の代わりにグレスドワや澄ましバターを使う手もあるが……ご家庭向きではないだろう。
小さなサイコロになった牛脂とバターをそれぞれ容器にまとめる。ステーキ皿とバットを2枚、網を用意し、お湯に浸けて温める。それからコンロにフライパンと、その横にお湯で温めて水を切った後のバットと網を置いた。
「このバット何に使うの?」
「焼いた後の肉をしばらく置いて休ませるんだ。だいたい60度ぐらいの環境がいいんだが、ご家庭だと難しいだろうしな。それでもコンロの側だと暖かいだろうから、マシかと思ってな」
ただ肉に厚みがないからな……。これやっても意味あるかな……。どんなもんか。――まぁ一度やってみるしかないか。
コンロの火を付けて、バルサに火加減を確かめさせる。
「……意外に中火」
「ステーキは強火で焼くって言われているが、正確には強火でも弱い方の火加減だ。強火で一気に焼くんじゃなく、じっくり焼いてくれ」
「ふーん……。でも肉の表面は、強火で一気に焼き固めるのがセオリーなんでしょ? そうじゃないと綺麗に焦げないし」
「焦げ……。いや、綺麗な焼き色を付けることと、強火にするのとは全く違うぞ。それに煙が出るほど熱くすると、引いた油が劣化するしな」
「へー。そうなの?」
「ああ。ただ、肉を乗せた直後はフライパンの温度が下がるから、その時だけは火加減を強くして――」
説明に顔をしかめたバルサへ俺は苦笑して見せた。
「手本を見せるから、よく観察してくれ」
火にかけたフライパンの真ん中を避け、端に牛脂のブロックを置く。小さなブロック状に成型すれば、脂の量を調整し易い。じわじと溶けだして小さな気泡を生んでいた。牛肉のいい香りがさっそく漂ってくる。フライパンを回して脂を全体に行き渡らせ、それからコンロからフライパンをずらして、全体に火がかからない様に調節した。
「火加減はつまみで調節するのも良いが、こうして火から避けたり、持ち上げて遠ざけたりしてもいいぞ。あくまでフライパンを動かすんだ。肉を動かすことは厳禁だ」
今回は肉の端に脂身が付いたままなので、そこから焼いていく。塩を軽く挽いてから肉を両手で立たせて持ち、脂身だけをフライパンに押しつける。
「――なにそれ、面倒臭いわ!」
「だから脂身は切り取った方が良いって言ったろう? 薄いから縦てて持つのは大変だな。2枚重ねて焼いた方が良かもしれない」
脂身に一通り火が入ったところで、ようやく赤身を焼く。フライパンをコンロの中央にセットし直す。そして先ほど脂身を押しつけていた場所を避けて、肉をフライパンに置いた。
「フライパンの使った部分を避けて焼いてくれ。焼き色が綺麗に付かないんだ。裏返した時に置く場所を考えて、最初からフライパンのど真ん中に肉を置かないようにな」
「……うち、5人家族なんだけど。いちいちフライパン洗うの?」
「がんばっても一度に2枚しか焼けないと思うぞ。ただまぁ、そうだな……ご家庭用だし、焼き色は多少妥協しても仕方ないかもな……」
置いた肉の傍に牛脂と生バターを2カケずつ置いた。じゅわじゅわと細かいムース状の泡を出して、透明な色合いからカラメル色に変化していく。まろやかなバターが、焼ける肉の香ばしさと一体になって食欲を煽る。夕食直後の俺でも思わず生唾を飲み込むような香りだ。
「この泡はバターの水分だ。肉をふっくらさせて、かつ綺麗な焼き色を入れる。泡が無くならないように、1カケずつ足していってくれ。泡が消えて油が広がるようなら温度が高すぎる。急に泡が消えるようなら、フライパンを取り上げて、火から遠ざけてからバターを足してくれ」
肉を裏返し、スプーンでバタームースを肉にかけながら焼く。そして指で直接肉の表面を押し、緩い感触――生肉の感触だ――が、微かになったところで、素早く肉を取り出して網に置いた。もう一枚バットを取り出して、蓋をした。
「こんなもんかな。一応焼き時間の倍放置するのが目安だが、薄いから冷めるし、あんまり時間をおかない方が良いかも知れない。普通ならこの待ち時間の間にソースを作れるんだが……」
布巾でフライパンの中の脂を綺麗に拭き取る。さらにこびり付いていたカラメル状のもの――肉汁が焼き付いたものだ――に、水を少量入れて、フライパンを再加熱しながら木ベラでこそぎ取る。それから調味料を入れて軽く煮詰めた。
「ビネガー、バルサミコ酢、醤油、リキュールにワイン……。まぁ何でも良い、好みで味付けてかまわない、だがシンプルな味付けの方が肉の味が引き立つと思う」
皿をお湯から取り出し、水を拭き取る。ソースをスプーンで掬い取って皿の真ん中に塗り広げた。バットの中の肉を取り出し、肉を押さないように気を付けながら、布巾で表面の油分を丁寧に拭き取る。胡椒とそれから塩――かりかりとした軽い触感がある結晶状の塩が良い。それを選んで肉に振りかけた。そしてようやくソースの池の上に肉を置く。
「出来上がりだ。が、さて。火の通りはどうかな……」
ナイフを入れると、薄い肉の断面には白とピンクの層が出来ていた。辛うじてセニャン――レア。レアにしては少し火が通り過ぎた。やはり薄すぎて難しい。バターが溶けてから肉を置くべきだった。
バルサに皿を差し出せば、さっそく味見を始める。
「すまん。レアにしては今一つな出来だった」
「ん~。でも、柔らかくておいしいわよ。肉汁があるから赤身でも全然パサついてないわ。……すごく美味しい。バターの香りでコクがあって、でも全然しつこくない。これ意外に良いかも……」
「焼いた後で油をちゃんと拭き取れば、脂っこくはならないんだ」
肉に付いた油は、表面をしっとりと濡らす程度で、しつこさを感じさせるほどの量ではない。
「表面がしっとりしているだろ? オリーブオイルを使うともっと堅くて乾燥した感じになるんだ。焼いた後で煮込むなら別だが、ステーキとして食べるなら避けた方がいい」
解説してはみたが、辛うじてバルサは頷いたものの、目尻を下げて「んー、おいし」と堪能するように首を振っているだけだった。
「バルサ。味わうのも良いが、ちゃんと肉の状態を観察してくれ」
「わかってるわよ」
と言って、バルサようやくしげしげと確認している。
「ねーゼロス。私はもっと熱々のが好きなんだけど、無理なの?」
「これで適正温度だ。もっと熱くしたいなら、あまり奨めないが、もう一度表面だけをさっと焼くか……とろみをつけたソースを使うしかないな」
「店のは、割ととろみあるソースにしてあるわよね?」
「店だからな。あとは熱湯で温めた皿を2枚重ねて使ってる。とにかくこれで、表面に綺麗に焼き色が付きつつも、ふっくらジューシーに仕上がるわけだ」
「ふーん」
「俺も肉食べたい!」
そわそわと待ちきれなさそうな様子で体を揺って、ティーは肉を食べるバルサを見学していた。ティーの顔が真っ赤に染まっている。ワインを飲んで食欲と陽気が復活したのか? それにしてもほむは嫌に大人しいな――と思ったが、肉を凝視する目がやばいことになっていた。
「ほむ、涎。涎垂れそうだぞ」
「……ぅん? ああ、うん。ゼロス早く次の肉焼いてくれよ、早く」
「何言ってる。バルサが焼かないと意味ないだろう」
「そう、私が焼くの」
待ちきれず、肉を求めるゾンビの様な動きで近づくほむをバルサが追い払っている。俺は食べかけの皿を横から浚い、ティーに渡してやった。
「食べさせてあげるから、ほむ、アンタはそこで大人しく待ってなさいよ」
「……炭じゃなければ喰うけどさ、俺だって旨い方が喰いたい」
「ほむ、これ半分コするお!」
でもバルサのは全部あげるお! と赤い顔を綻ばせて、無邪気にティーが笑っている。そして早速自分の取り分を食べていた。色んな意味で泣ける台詞だ。
「あ、お湯が冷めてるわ」
「ああ、温め直すか。バットもだな。――バットは温めたオーブン内に置いてもいいぞ」
「うちにもオーブンあるし、使ってみようかな」
ミニキッチンの下部に設置されたオーブンの扉を、バルサが開けて確かめている。
「60度な。低温の設定がないオーブンを使うなら、片面だけ温めて、加熱面から離してバット置くか、それか扉を開けておけば――なぜ床にバットを置くんだよ!」
「扉を開けるのに邪魔だったから、ちょっと置いただけじゃないっ」
――『ちょっと置いただけ』だとッ!?
「腰より下に道具や食材を置くなっ。まして床に置くなんて以ての外だ! 食品衛生舐めてんじゃねぇぞッ!」
「洗えばいいんでしょ! 洗えばっ」
「床に道具を置いて、それでも違和感ない事を指摘しているんだよ俺はッ!」
叫んだバルサからバットを奪ってインベントリ洗浄をする。俺は綺麗になったバットを、睨むバルサに突きつけた。視界が赤い。怒りに腕が振るえているのが自覚できる。
「――言っておくがな。俺は、店はもちろん、ここで誰かが食中毒になったのなら、二度と調理はしない。店もいっさい辞めて引退する。――自分が死んだ方がなんぼかマシだ。ありえん。衛生観念はそれだけ大事なものだ。『ちょっと』なんて油断は一切許されないんだ」
食は人を満たすもので、害する物ではない。
「グランゾ鶏の件もそうだが、バルサ、他人の口に入る物を作るなら、大丈夫だろうとか、こんなもんだろうとか軽く考えて、自己判断で手を抜くのは止めろ。料理で人は殺せるんだよ。作って終わるだけの物じゃない。――それが理解できるまで、絶対に調理をするな」
俺を睨むバルサの目が潤んでいる。が、ここで引くわけにはいかない。
「俺が言っている事が分からないか? これが単に細かいことを気にしているだけだと思うか? バルサは、『ちょっとなら清潔でなくてもかまわない』――なんて考えで作られた料理を食べたいのか!」
見据えたバルサの視線が空をさまよって、そして床に落ちた。唇を噛みしめて引き結び、それからゆっくりとほどける。
バルサの口が躊躇うままに戦慄いて、小さく開いたのが見えた。
「もうしないわ――悪かったわよ。……ごめんなさい」
「――ああ」
俺はやるせなく肩を落として息を吐いた。
「今日は俺が料理するから、バルサはそこで見ていてくれ。調理するのはまた今度だ」
「分かった……」
萎んだまま意固地に堅くなったバルサの気配をあえて無視して、俺はまた肉を焼くことにした。
ソファに座ったほむが苦笑して肩を竦めている。その隣で、抱きしめたクッションに顔を押しつけたティーが、体を縮こませて丸まっていた。
――失敗したな。肉を食べたら元気になることを祈るしかない。
今度こそ完璧なレアを焼き上げようと、俺はフライパンを取り上げた。