表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界移転者の凡常  作者: 北澤
第3話 異世界移転者の平凡な日常
40/49

異世界礼賛 下 その1

 落ちた朝露が霧雨のような小さな水の粒をとり、太陽を浴びるトマトの葉を白く輝かせている。


 真っ赤に熟した実は心持ち平たく、ヘタのところから筋走ったような凹凸がある。甘みが強く水気の多いこの種のトマトは、課金別荘に住むギルメン達みんなが好んでいた。許可されている事もあって、おやつ代わりに食べている者も多い。

 もいだばかりの実は畑の土の香りと相まって青臭さが少しばかり鼻につく。だが、一旦かじり付いてしまえば青臭さなど消えて、甘いジュースのような豊満な味わいだけが口の中いっぱいに広がる。むっちりとした肉厚の果肉は野菜より"くだもの"と称しても間違いではなく、そしてゼリー状のものに包まれた種子は、滑らかにとろけた感触で、舌触りがまた違って楽しい。

 太陽光でじんわりと温められたトマトを口にすれば、水のようにしみじみと沁み込んでゆき、起き抜けの身体を端々まで潤してくれた。


 木に実ったまま熟したこのトマトは、野菜嫌いだと主張するティーも好きなようで、狩りに出かける時におやつとして、果実とはまた別に、いくつかもいでいっては食べているようだ。――ほむは言わずもがな、だが。


 厨房の片隅で常に水をたたえている洗い場に、もいだばかりのトマトを落とす。井戸水を汲み上げてはかけ流している洗い場は、畑から収穫したばかりの野菜を冷やすのにも都合が良い。――インベントリ洗浄を利用する俺たちにとって、ここで洗うのは泥を落とした後の野菜ぐらいだから、清潔さは十二分に保たれていた。


「おはようございます」

「ああ、おはよう。――無事、起きられたみたいだな」


 厨房に入ってきたライアンに、俺が片手を上げて挨拶を返す。同じように片手を上げたライアンがポーション――初期の1番安価な物だ――の瓶を披露してきた。空になった中身を強調するように、ライアンは瓶を左右に振っている。さらに目頭を揉む仕草で、解消しなかった眠気を主張していた。


「幸い寝坊だけは何とか免れました。あ、ひとつ頂きます」


 空瓶の代わりに、冷やし始めたばかりのトマトを取り上げて、一口かじる。「本当に美味いな……」と感慨深そうに呟いていた。あまりにも実感のこもりまくったライアンのその姿に、俺は思わず笑いをこぼした。


「やけにしみじみしているなぁ」

「現実で食べていたトマトは、これほど美味しくは感じたことは無かったので。――畑からのもぎたてが食べられる日が来るなんて、思いもしませんでしたよ」

「まぁ確かに。異世界と違って、日本では人工生産の水栽培野菜が主流だしな……」


 工場内で人工太陽に照らされ育てられる野菜は、これ以上ないくらいに清潔で、画一された品質の安価な物だ。だが、味わいはやはり天然物には負ける。

 もちろん、天然物が必ず美味いかと言うと、そうではないのだが……。


「味が濃いと言うべきか、力強いと賞するべきか……地面に生えて育った物は、やはりきちんとした、野菜本来の味わいがあるものですね」

「それもあるが、もともと日本の野菜は、水墨画的な細かな味わいが特徴なんだ。だからこそ、その繊細さを研ぎ澄ますかのような"日本料理"に成り得たんじゃないか?」

「なるほど」


 俺の勝手な推察に相槌を打ちつつ、ライアンはトマトを食べ尽くした。


「異世界に来て唯一心の底から喜べたのは、ゼロスさんの作る食事と、本物の食材がこんなに美味いものだと体験出来たことだけですね」

「漁師をされていたお祖父さんのおかげで、良い海産物を食べていたのだろう?」


 憂鬱さを隠さずにかぶりを振ったライアンが「そろそろ裏門を開けましょう」とため息をつき、ヘタを畑へと投げ入れた。


「味音痴の母親に唯一料理させずに済ませられたのが、祖父が作ってくれる魚料理だけでしたから……」


 他は全滅でした。と沈んだ声で告白した。


「一家の食を預かる人間の舌に、自覚の無い致命的な欠陥が存在する場合、迎合できなかったそれ以外の人間は、悲惨な目に遭います。1人暮らしをして、"男子厨房に入れた"時は、どんなに嬉しかったことか……」


 子供の頃は、たまの祖父の料理と買い食いだけが俺の味覚の支えでした……! と、ライアンが怒りをぶつけるかのように力を込め、思い切り門を引いた。悲鳴のような、叫びのような、なんとも恨みがましく聞こえるような軋んだ音を立てて、裏門がゆっくりと開いていく。


「心の底から異世界食生活万歳と言えますよ……っ!」


 どう見てもヤケ気味にライアンが呻く。呻いたライアンの頭越しに、荷馬車を操るイノヴェアさんの姿が見えた。


「異世界万歳ね……」


 歪な賛美に仕方なく同意して、俺はやるせない気持ちで肩をすくめた。

 ――今日もまた、異世界での1日が始まるのだ。




「さて、明日は"安息日"でカフェ以外の店は休みだ」


 調理メンバーの顔をぐるっと見回して、俺は頷いてみせた。


「今日明日の2日間は、テイクアウト商品の比重が増えると考えられる。いつも以上に気合いを入れていこう」


 はい。と声を合わせて返ってきた言葉を頼もしく受け取って、俺はさっそく腕まくりをして、調理を始めた。


 "安息日"とは、この異世界でも存在している宗教によって押し進められた、いわゆる便宜上の休日だ。ここメッツァーニャや、店を開いている王都などのイタリア、それにフランスモチーフの都市はもちろん、リアルでの宗教圏を反映したように、フィールドをまたがって、様々な地域で行われていた。

 "安息日"を無視して商売をしている人間もごく普通に存在して居る。だが、極力地元地域に風並を立てたくない俺たちにとって"安息日"とは、異世界住民に倣い馴染むべき行事であり、店を休む為の格好の口実になっていた。

 

 しかし、プレイヤー向けのカフェだけはその成り立ち上、年中無休24時間営業を推進している。アンケート&いつでも楽しく殺伐掲示板。そしてテイクアウトの交流広場ことカフェ、だ。

 さらに、カフェ用のテイクアウト商品と、何より俺たちギルメン全員の食事を作る必要もある。

 それら2つの理由から、調理メンバーは例え安息日でも午後だけの半日しか休むことはできない。一応は調理担当全員が一度に休める日なので、貴重なことに代わりはないのだが。


 終日休暇としては、シフト上1週間に1度休みが回ってくる。だが俺はそのシフトに入っていない。いずれ彼らの腕が上がれば、俺も丸1日休みが取れる日が来るだろう。しかし現実世界でも、料理人はそうそう休暇なんて取れるものでもなかった。なので、俺は休日など、正直どうでも良かったりする。「他人が休んでいる時こそ働く」――サービス業なんてこんなものだ。



「ステーキを焼くにはバターの残りが心許ないな。先に切り出しておくか。さて今日のバター担当は誰だったか……?」


 ステーキを焼くにはバターを大量に必要としている。グレスドワ(ガチョウの脂)でも良いが、あいにく俺が納得できる品質の物が手に入らなかった。またここメッツァーニャはイタリア的都市なので、オリーブオイルも料理には使っているが、ステーキを焼くのには合わない。澄ましバターやグレスドワに比べて熱伝導が良すぎるからだ。


 とりあえず、バターを切り出そうと倉庫を確認してみたら、出来上がったばかりらしいバターが納めてあった。生バターと、それを溶かして作った澄ましバターが、カットし易いようにシート状に形成されている。いつもならブロック状の大きな塊で入れてあり、切り出すのに少々手間がかかったので、これは有り難い配慮だ。


「今日のバター班はコンさん達か……。仕事に隙がないな」

「あれ?! オフィーリアさん製のもある! しかもキューブカット済みで、バター容器の下に氷入りのバットをセットしてありますよ!」


 倉庫リストをスクロールしたら、榊の言う通りヒヨさんが作ったらしいバターが入っていた。表示画面をよく見ると、調理中にバターが溶けてしまわないように、バター入れを二重にし、バットの中に氷がひいてあるアイコン表示になっている。――俺たちがバターを厨房で使う時と、同じセット方法だ。

 さらにメモで、"生バターです。バターの切り出しは5Fキッチンにて作業。オフィーリアの自作料理用の余りです。ご自由に使用してください"とまで書いてある。


「……相変わらず芸コマだな、ヒヨさんは」

「流石オフィーリアさん! ああ……なんて気が利く人なんだ……!」


 榊がやたらにヒヨさん持ち上げて感動している。未だに榊はオフィーリアの中の人が男だと気付いていない。知らぬが仏だが、ある意味羨ましい。

 いずれにしても、俺はオフィーリア製のバターは無視して、コンさん達の作った物を取り出した。


 食材は衛生観念的に、不特定多数の人間が触ることを良しとしない。そのため、出来上がったバターは料理班の指定した容器に納められた後は、制作班だとはいえ手を触れることを許されていない。だからせめてもと、最初からシート状に成形したのだろう。

 張り合うコンさんの姿が目に浮かんだ。


 ヒヨさん演じるオフィーリアは、言動に嫌み無く穏やかな性質だ。貢がれ具合はさておき、性格自体は女性に忌避されるような要素は無いのだが、やはり相性というものはどこにでも存在する。

 コンさんはオフィーリアとは合わないらしく、あからさまに避けていた。しかし、ヒヨさんの方はまったく気にせず、むしろコンさんを"大変"気に入っている。――ヒヨさん曰く、カインと同じでコンさんを弄……構うのは、とても楽しいのだそうだ……。


 横目で榊を見れば、うっとりと目を細めてオフィーリアを賛美していた。想いを馳せつつも野菜を洗う手は動いているので、オフィーリアにうつつを抜かされても問題はない。

 コンさんにとっては二重苦だろうが……。まぁ、俺が口出しすべきことじゃないしな……。


「榊。オフィーリアさんを褒めるのは勝手だが、バター班の前では口にするなよ」

「え? ぁ、はい?!」


 俺が躊躇しているうちに、ライアンから指摘が飛んでいった。唐突な諫めの言葉に榊が目を白黒させている。


「バター班は成形以上の加工は禁止されている。カットして調理班を手伝いたくても出来ない。それを知っているにも関わらず、俺たち調理班が例外のオフィーリアさんのやり方を褒めたら、自分のやり遂げた仕事にケチが付いたと考える人間も出る」

「――確かにそうですね。気をつけます」


 リアル職場で先輩後輩の仲だけあってか、榊が「指導ありがとうございます」とごく自然に頭を下げていた。

 ……俺はヒヨさんが例外であることが当たり前だったので、ライアンの指摘は想定外だった。が、有り難い。確かにライアンの言う通りだ。仕事に対する志気が下がるような真似はするべきではない。


「ライアンありがとう。俺はその辺りの配慮が欠けていた」

「いえ。バターこのぐらいの大きさでいいですか?」


 さらりと話題を流して、ライアンは切り出したバターを見せてきた。丁寧に刻んだバターが1cmほどの小さなキューブになっている。


「ああ、そんなもんかな」

「意外とバターを大量に使いますよね。油を切ってから供するとはいえ、カロリーが高そうだ」

「冒険者やっているなら運動量も多いし、カロリーが高くてもいいだろう。……貴族は――女性にとっては、ちょっと気になるかもしれないが」


 基本的に、現実世界での油の使用量は、現代に向かうほど減ってきている。だがこの異世界はどちらかと言うと生活の仕様が近代――場所によっては中世に近い。魔法はあるが、機械の発達が未熟なのだ。機械のない不便な生活は、自分で動かざるを得ない場面が多い。肉食を基本とする地域で、さらに日々の運動量が多いなら、油を大量にとることに忌避感は無いはずだ。


 調理台に屈み込むようにしてナイフに力を込める。棒状に切り出したバターを、さらに細切れのキューブ状に切り落とした。

 切り分けたバターの大半を倉庫に入れ直した。全部出しておくと、かまどの熱で溶けてしまう。使う時分だけを容器に分ける。さらに氷の入ったボウルの中にセットした。

 同じようにバターを切り出していたライアンが、おもむろにインベントリからポーション取り出した。驚く俺の目の前で、上半身を仰け反らせ。ポーションをぐっと煽る。そして拳で腰を強く叩いて呻いていた。


「俺も腰に来るような年になったのか……」


 ふたつ年上のライアンの悲哀を背負うような仕草と台詞は、俺にとっても色々思うところがある。ので、あえて黙殺した。 

 ――いや。この世界ではアバターの体力と、持久力がとても素晴らしいではないか。つまり、異世界アバター万歳、だ。


 だから俺は、けしてオッサン化だけはすまい。


 心の内で堅く決意して、そ知らぬふりステーキを焼きにかかった。




「――ねぇゼロス。そう言えば、明日は新しく出来た日本料理のお店に視察に行くのでしょう?」

「ああ、はい。視察と言うか、家庭料理のようなので、個人的に是非食べに行きたい」


 いささか唐突にメグさんの話題に、俺は調理場清掃の最終チェックをしながら答えた。本日の調理ノルマよし。調理場の清掃よし。指さし確認をして、勝手口から畑に出る。

 畑からもいだトマトをかじる俺に、メグさんはにっこりと微笑みかけてきた。


「それなら私も一緒に行くわ。たまには人が作った家庭料理を食べたいものね」


 リアルでは働いていても主婦業がメインのメグさんは「否応無く毎食調理せざるを得ない主婦は、他の人が作る料理を、とても素敵なものだと思っているの」と主張する。


「そう言うものですか? そう言った気持ちで人の料理を食べたことは無かったな……。俺にはよく分からないが……まぁ、同行してくれるのは歓迎しますよ。頼める皿が増やせますから」


 せっかく行くなら、なるべくいろんな料理を食べておきたい。しかし俺の胃はほむほどデカくないので、無茶はできないのだ。

 夕食前の腹ごしらえ――食べ終わったトマトのヘタを畑に投げ込む。この程度の間食ならまだしも、一人前以上はどうやっても無理だろう。


「――ん? なんだアレ」

「小屋ですね。しかし変だな、扉が付いてない」


 ヘタを投げ込んだ遙か先、畑の向こうに小屋が見える。今朝見た時にはなかった筈だが、いつの間にか建っている。丸太で組まれた小屋は、入り口に扉が無く、変わりに柵でコ字の小道が作ってあった。


「日中、ほむさんたちが何やら作業していましたけど」

「ああそうか、ヒヨコ小屋だな」


 ライアンの言葉に思い出した。昨夜ヒヨさんがティーにそんな事を話していたんだったな。しかし1日で組み上げるとは……。ああ、いや、あの台詞だと以前も作ろうとして止めたのだったか。土台と材料が既に出来上がっていたのかもしれない。だとしても、それを組み上げられる体力は凄い。やはりアバターは偉大だな。クレーンなしでも、あれだけ太い丸太の小屋が造れるのか。


「それよりゼロスさん。料理食べに行くなら、俺もご一緒していいですか」


 小屋の出来にも感心する俺に、今朝から数えて何本めかのポーションを飲み干したライアンが手を挙げてきた。


「あらぁ。ライアン大丈夫なの? 今日は本当に疲れているみたいだし、明日は遠出せずに休んでいた方がいいんじゃないかしら?」

「確かにゆっくり休む方がいいような気がするが……」


 心配そうに眉を下げたメグさんに俺も同意した。

 一瞬ライアンが榊に視線を向けたが、


「すみません。明日の休みはコンさんの買い物につきあって、荷物持ちする約束させられてて……」


 と戸惑いながらボヤいている。


「なんか無理矢理捕まっちゃって……。コンさんいつも強引なんですよねぇ……」

「榊はだめか。なら他のメンバーは……」


 ライアンが他の調理メンバーの顔を見回している。せっかくの休みなのだし、俺に気を使う必要はないんだがな……。そう言った俺にライアンは「やはり俺が同行します」と主張した。


「元々営業職ですしね。ある程度体を動かしている方が、俺の性に合っているのですよ。――人数は多い方がいいでしょうし、ライバル店の偵察もしておきたい」

「食べに行くだけだからなぁ、そう疲れはしないと思うが……」

「……まぁそぅ? でもライアン、ここからそのお店までは距離もあるし、遠出すると思わぬ疲労になるものよ? 休む方が良いと思うの」


 メグさんの意見にも、確かに共感できる。

 ライアンはポーションの空瓶を持ち、立っているのがやっと、とばかりにぐったりとしている。しかし躊躇う俺に、ライアンはやけに真面目な顔を向けてきた。


「今日は残業なしで早く寝ますから。大丈夫ですよ」


 さらに主張を押してきた。頑ななライアンの態度に俺は少々首をひねったものの、「たまには普通の家庭料理も食べたいですしね」と、そう言われて、それもそうかとようやく腑に落ちた。


「そうだな。いくら旨く感じても、俺の料理は料理屋の味だしなぁ。……ああ、それにライアンにとっても"人の作った料理"になるのか。自分の手が入らない料理を食べたいと思うところは、メグさんと同じだな」

「でもねぇ……」


 納得して頷いた俺とは裏腹に、メグさんはまだ渋っているようだ。心配なのだろう。


「ねぇライアン、体調はその都度きちんと――」

「ギルマス。せっかくの機会ですから、ご一緒させてください。それに、食べに行ったついでに、どこか見て回るなんてことはないですよね? ゼロスさんは明日の午後しか休日がないわけですから、あまり無理も出来ない」

「ああ。食べたら直ぐに帰るつもりだ。どこか見て回ろうにも、そもそも安息日だし、大抵の店は閉まっているだろうからなぁ……」


 件の料理屋はこのメッツァーニャとは別のフィールドだったが、安息日の慣習が同じように存在している、フランスモチーフの田舎にあった。また、プレイヤー向け経営らしく、安息日でも開店していると掲示板で宣伝してあったのを確認した。


 実のところ、街中の店が閉まる安息日は、現実世界において24時間何処かしらの店が利用できた俺たちプレイヤーには、不便極まりない制度だ。そうした他の店の休みを喰らって、うちの店のカフェやテイクアウトの利用が倍増する日でもある。ビストロを開けておけば、さぞかし大量の人が呼び込めるのだろうが……。正直料理の在庫が心許ない。

 いつも同じ物を調理するだけなら、手際があがって作る量も増やせるのだろう。だが、常連客の為にも、定番コース以外のメニューを常に変えていく必要がある。調理メンバーに毎日違う調理を教えて作業させつつ、当然どの料理も同じクオリティを維持しなくてはならない。

 素人調理人の腕がエセプロぐらいに上がるまでは、調理量を今以上は増やせそうにもなかった。


「まぁ……近くの都市までワープゲートがあるし、そこからはテイムモンス使えばひとっ飛びで行けるからなぁ。体力的に消耗するような事は、確かにないな」

「助かります」

「それに昼食をその店で食べても、夕食はいつも通りホームで取るつもりだ」

「あらぁ……。たまに夕食を外でとって、気分を変えてみたいのにぃ……」


 メグさんが少し不満げに眉を寄せて、訴えるように俺を見た。

 ディナーを外食するのは魅力的な誘いだ。だとしても、安息日の夕食はいつもティーがヒヨさんと共に――俺ももちろん手を出すが――何かしら料理を作っては披露してくるのだ。とても微笑ましい習慣だったし、またティーの作ってくれた料理は、大人として何として食べねばならないものでもあった。


「残念ですが、それはまた別の機会にしてくださいよ」


 何故か俺の代わりにライアンが断った。


「ギル――メグさんも昨夜はオーバーワークしたのですから、ゆっくり休まれないと。いつもの習慣を崩して夜に外食すると、思った以上に疲れますよ」

「そうだな、確かにそうだな」

「はいはい、分かりました」


 昨夜を思い出して俺がしみじみ頷いたら、メグさんは不承不承とした様子で肩を竦めた。

 椅子から立ち上がったライアンが呻きながら腰を伸ばしている。……本当に大丈夫か? 


「あー……もしもし? ライアン先輩。もういいお年ですし? 調理担当よりも、仕入れと他店の偵察の方が向いているんじゃないですかね?」


 ちゃかした榊の言葉に、ようやく自分のみっともない姿に気づいたらしく、ライアンは慌てて姿勢を正した。今さら取り繕ってもなぁ。俺たちの微妙な空気をあえて無視しているのか、ライアンは、


「何言っているんだ。榊、お前だって経理で数字バツバツ切っている方が好きじゃないか。料理人より数字追いかけている方が向いているさ。今からでも簿記専任になったらどうだ?」

「いやいや、小林先輩ライアンは営業している時の方が楽しそうじゃないですかー。商人相手に生き生きと交渉してさ!」


 もう一生異世界に住んだら? と揶揄仕返した榊に、ライアンが肩を竦めてニヤリと笑った。 


「俺はな、このゲーム(異世界)から足を洗ったら、受付嬢のあの娘と結婚するからな……!」

「――あの娘、企画の奴と不倫しているけどな!」


 空気が凍った。そう言えばリアルにも瞬間冷凍の魔法はあったのだな、などとと俺はぼんやりと考えた。――逃避だ。逃避するに限る。


「は……ぁっ!? 嘘だろッ!!」

「異世界来たし遠慮なくぶっちゃけますけど、本当です」

「あの純朴な笑顔に騙された!?」


 本気でショックを受けたらしいライアンが、即時解凍されてその場に崩れ落ちる。

 同じく溶けたらしいメグさんが「あの2人、同じ会社に勤めているし家も近いから、普段から仲良いの。お互い遠慮ないのよねぇ」と、思考を凍結させたままだった俺に教えてくれた。……なるほど。


「だったら、なんで、俺とデート……彼女一体何のつもりだ……!?」


 大きく体を震わせて、かろうじて怒気を堪えたライアンが吐き捨てた。地面を掻いた5本線の跡が、心中の激情を感じさせて、なんとも……気の毒すぎた。


「結婚焦っていたみたいだしなー、彼女。実は出来ちゃっていたんじゃないのかなーと」

「安牌ATM扱いか、俺!」


 青ざめた顔のライアンに、あくまで真面目な表情のままの榊が深く頷いていた。


「俺も移転される前の日に知ったんですけどね、なかなか言い出すタイミングがなかったし、あの娘の事本気だと思わなかったんで」

「う、わ……。俺危なかったのか……? 恐ろしい……。既成事実と言質取られる前で本当に良かったが……あの女……迫られたら絶対鑑定しないと……。じいちゃんごめん。俺もう怖くて、じいちゃんが生きているうちに、嫁の顔見せに行けないかもしれない……」


 ぶつぶつと呟きつつ、膝を床に着いたまま拝むライアンの肩を、「気を確かにしてくださいよ」と榊が慰めるように優しく叩く。


「ライアン、この際もっと身近な現実に目を向けましょうか」

「現実……?」


 その女性にそれなりに本気だったのだろう。虚ろな目を向けるライアンを榊が励ましている。だが、この場でぶっちゃけたのはどうなんだ。俺たちの前で暴露しておきながらそれは、いささかマッチポンプすぎないか?


「つまり居るじゃないですか、身近な女性達がここに! 独身フリーな女性だとほら、さっぱりキビキビなヤマーダ史女とか、頼れるコン姐さんとか、元気系だとマッキーとか、ロリ気味だけど中身は三十路キャリアウーマン・ミルちゃんとか。オフ会で会ったこともあるし、近場の住まいかつ顔見知りですよ。――でも、天然おっとりのオフィーリアさんは俺が狙っていますから、手出し厳禁でひとつッ!」

「いや、それはもっと駄目だ」


 俺も流石に静観したままでいられず、思わず口を挟んだ。まさか。と一瞬衝撃を受けたらしい榊が恐る恐る伺ってきた。


「……ゼロスさん、まさか……まさかやっぱりオフィーリアさんと付き合――」

「やっぱりって何だッ?! 何度も言うが! ――ヒヨさんはネカマだ、中の人は立派な男性だ、ロールプレイヤーなんだよ。付き合うとかあり得んっ」


 口元を引き攣らせ本気で顔をしかめた俺に、それでも榊が疑り深い目で見つめている。――あり得ない!


「オフィーリアさんはどう見ても女性ですよ。そんなこと言っても俺は騙されませんよ~」

「あの手の厄介なタイプを選ぶ時点で、お前もどうかと思うがな……」

「すっかり女性に騙されていた小林先輩ライアンは黙っていてくださいね! だいたい、こんな異世界来てまで普通ロールプレイなんて続けないもんですよ」


 だから続けているんだよ。まともじゃないんだよ、ヒヨさんは……。

 やるせなく首を振る俺とは反対に、何かを加速させたらしい榊が熱を込めている。


「オフィーリアさん、アバター全部女性でしたよね。リアル外見は知らないけど――GMからリアルでストーカーされたぐらいの美女って噂ですけどっ。でも俺は容姿じゃなくて、あの性格が好きなのですよっ。あと仕草!」


 そう仕草っ! と力強く榊が頷いた。


「仕草ァ? その割に榊。お前、指名するのは毎回銀髪――」

「小林先輩は黙ってくださいっ!」


 やたらとヒートアップした榊が、もはや止めようなく、何かをダダ漏れさせている。


「いいですか。いくらなんでも本当に男だったら、身についた仕草が出ますよ。行動の端々で、女性の体に戸惑ったり、地が出たりするんですからフツー。毎日見てれば嫌でも分かります。あれは絶対男の仕草じゃないですよ」

「だから……ヒヨさんはその『普通』が全く当てはまらないんだよ……」


 ライアンどころでなく、完全に騙されている榊に、俺はどう説明していいのか分らず、頭を抱えた。

 地が出ている時のヒヨさんを見れば、一発で幻想が破壊されるのだろうが、あいにくヒヨさんは、メグさん達が同居してからこの方、共有スペースでは滅多に本性を出さない。オーナー権限で課金別荘のどこに誰が居るのか把握できるらしく、メグさん達に立ち入り権限が無い4階と5階でしかロールプレイを辞めなかった。

 物凄く、物凄く無駄な努力だ……。いや、トウセもそうだったか。あの2人、ああいう所が本当にもうどうしようもない……。


「うーん、でもねぇ……ヒヨコちゃん、本当に"女性"だしねぇ」

「ですよね! ですよねー、ギルマ――メグさんもそう思いますよねっ!」


 メグさんの言葉に力を得て、榊がますます意気込んでいる。メグさんも榊の背中を押す真似は辞めてくれ……。と、思ったがしかし、メグさんは煮え切らない様に首をひねって、断言を避けるかのように視線をあさっての方に向けていた。


「うーん、でもねぇ……。女形されている男性とか、本当に女らしい女を演じていらっしゃるし……」


 ああ、確かに女形っぽいな。メグさんの的確な表現に俺も共感できた。


「ヒヨさんは別に女形ではないですが、まぁ、そんな感じですよ。本当に……」

「いやいや! 絶っ対に! オフィーリアさんはリアルでも女性ですって!」


「――あの。私がなにか……?」


 力説する榊の肩が大きく跳ねる。声の上がった方向に目を向けて見れば、課金別荘の戸口に、困惑した表情を顔に"張り付けた"ヒヨさんが――オフィーリアが佇んでいた。


「なにか……またご迷惑をおかけしたのでしょうか? あれからは、プレイヤー向けのカフェとビストロに、お伺いはしていないのですが……。もしや……」

「大丈夫よ? ヒヨコちゃんが何かしたって話じゃないの。それにあれはヒヨコちゃんのせいではなくて、押し掛けてくる男のせいでしょう? ――ね?」


 メグさんの説明に「そうなのですか……。でもご迷惑をお掛けしたことに変わりありませんから……」と、トマトの入った籠を抱きしめ、物憂げに瞳を揺らしてオフィーリアが視線を落とした。いかにも頼りなげな風情だ。

 心配しなくて大丈夫ですから! と励ます榊たちにオフィーリアが小さく頷いた。それからこらえる様に瞼を何度か瞬かせ、事態を確認したいとでも言うように、俺の顔をじっと見つめてきた。

 ……なんと言うか、相変わらず酷い。どうせ俺たちが何を話していたのか、ヒヨさんは把握しているだろうに。やってられない。

 縋るオフィーリアを俺はそっけなくあしらう。


「さっきのは、単にヒヨさんがネカマだと言っていただけですよ」

「――まぁ!」


 オフィーリアが驚いて目を見張った。紫色の瞳がじわじわと大きく見開かれる。ショックを受けて狼狽える様――演技に、正体を分かっている俺ですら、あり得ないぐらいの庇護欲が煽られる。こういう時のヒヨさんは本当に厄介だ。

 茶番を冷ややかに見つめる俺の前で、オフィーリアが怯えたように言い訳を紡ぎだした。


「そうなのです。あの……ゼロスさんの言われるとおり、私はネカマなのです。ですので私、本当は男性なのです」


 私、男性です、ね。と俺を不安そうに伺い、小首をかしげた。


 ――最悪だ。

 俺は心の底から胸くそ悪さを覚えて天を仰いだ。ヒヨさんはけして嘘は言わない。いくら普段あんな性格でも、嘘だけは絶対に言わない。しかし今のは――。

 どう考えても、「本当は女なのだけど、男だということにしてくださいね?」と、俺に対して頼んでいるようにしか見えない態度だった。視界の端の榊達は案の定、俺が口止めされているだけで、やはり本当は女性なのかと納得したように頷いている。嘘を口にしないよりも、もっと酷いやり方だった。


「ヒヨさん。その言い方は最悪ですよ、本当に!」

「けれど私は本当に男性なのです。演じているだけで、けして女性ではないのです。皆さまどうか信じてください……!」


 嫌悪する俺に、ヒヨさんは縋るように声を震わせて言い募る。鈴を振るったような美しい声が怯えて震える様に、俺の胸へ否応なく憐憫が込み上ってくる。――だからそれを今すぐ辞めてくれ!


「ヒヨさん、いい加減――」

「大丈夫です! 分かりました。オフィーリアさん、俺は分かっています。オフィーリアさんは男性なのですね? 分かりましたからどうか安心してください!」


 そして案の定最悪なことに、榊が誓うように自分の胸を大きく叩いた。全く大丈夫じゃない。オフィーリアを見つめる目が完全に思い込みの世界に逝ってる。――もう駄目だ。

 説得しようもなくて、俺はとうとうメグさんに助けを求めた。


「メグさん、榊を止めてくださいっ! 恋愛とか本当にありえませんよ。あとヒヨさんは本当に男ですから!」

「ええゼロス、大丈夫。私もちゃんと分かっているわ」


 きっぱりとした言葉で、メグさんが頼もしく俺に了承する。


「榊が変なことしないように絶対止めるから安心してね。そうよねぇ、ヒヨコちゃん自己紹介する時には、必ず自分がネカマだって言っていたものねぇ……」


 助かった。流石メグさん、分かってくれたか。

 俺は心の底から安心して息を吐いた。しかし安堵の余韻を覚える前に、メグさんが複雑そうな顔でそっと囁いてきた。


「やっぱりヒヨコちゃんのリアルは、噂通りほむ君の女性版みたいな感じなのね? もう少し違う容姿のアバター使った方が良かったと思うのだけど、でもゲームぐらい好きにやりたいわよねぇ……」


 容姿がいいのも大変なのねぇ……。と呟く。


 ――もう駄目だ。俺は完全に孤立無援だった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ