異世界礼賛 中 の 7
――あの日以来、俺にとって納豆は鬼門だ。
ヒヨさんの逆鱗に触れたくは無い。ほむと同じ目に合うくらいなら、その場で窓の外に飛び降りる。あんな事ありえない。無理だ。死んだ方がマシだ。
しかしとりあえず、今日は一応3人で店に食べに来たのだから、ヒヨさんは納豆と関わることはなく、あの最悪な事態は回避できたということだろう。――回避できたはずだ。きっと大丈夫だ。
ヒヨさんはいつもの通りオフィーリアだし、ティーは……さっきからティーが、盛んに話しかけてくるほむを無視している気がするが、多分これは鶏をペットにするしないの件が後を引いているだけだな。納豆さえ糸を引かなければ、俺的には安心できる。些細な問題だ。他はなんとでもなるのだ。
俺は深く安堵しながら、ボナパルトンの盛りつけるデギュスタシオン用の皿を見つめた。
仕上げた皿に目線を合わせ、検分して、そしてようやくボナパルトンが肩から力を抜く。
「できた! メグさん、直ぐに給仕お願いしますよー!」
「はいはい、任せてちょうだい」
ほむとティーの分だろう。他に2人前分倉庫から出現させて左手で持つと、最後にボナパルトンが盛り付けたばかりの皿を右手で持って、扉から出て行った。
窓の向こうには、笑顔でティーと話しているヒヨさんが見える。
座るのはホールに入って直ぐ左手側、ヒヨさんは丁度他の客に背を向ける位置になっている。生い茂る梢の隙間から庭が見下ろせる窓際席だが、他のテーブルからそちらの窓を見ても木の葉だけしか見えず、あまり面白い景色ではない。――つまり他の客は、オフィーリアの座る席の方向に目を向ける必要性が薄い。
あの席に案内したのはもちろんわざとだろう。
ホールの真ん中に案内した日には、オフィーリアのあの圧倒的な美貌に釘付けになった客――給仕する人間もだが――のお陰で本来のレストランの雰囲気が台無しになる。場合によっては目立つ人間をホールの中心に据えるが、華として飾るにはオフィーリアは猛毒だ。鑑賞するに値する美貌だが、愛でて楽しむと言うより、よからぬ企みを持って干渉したがる人間の方が多い。――トラブルは御免なのだ!
「ヒヨさん、もっと自重してくれ……」
「生活し辛そうな顔ですよね」
鏡をのぞき込んだライアンが気のなさそうな声で呟いた。おやっとした顔でライアンを見たヤマーダさんが、どこか伺うように上目遣いになる。……やはりオフィーリアの扱いは、女性としては気になるのだろうか?
「ライアンさん、オフィーリアさんに興味ないのですか……?」
「顔に関しては全く。性格的には……周りにフーリガンの付くタイプの女性は、俺は遠慮したい。個人的に女性としては苦手な部類になりますね」
「へぇー。珍しー。男って美人は須く口説くべき対象になると思ってたけど……違うのかー」
中身が女性のボナパルトンが再びディシャップテーブルを拭きあげながら口を挟むと、ライアンが俺に一瞬視線を向けて、そして苦笑した。
「榊はオフィーリアさんに夢中だよ。俺は……少し腰が引ける所があるというか……性格も大人しくて優しい人だとは思うのですが。感覚的な好みの問題でしょうね。俺にはどこか齟齬があるように感じる」
ライアン、当たりだ。
今すぐヒヨさんの正体をぶちまけてしまいたい気になったが、辛うじて自制した。――俺の気は済むが、対外的に色々問題が出ることが分かり切っているからだ。
「王様の耳はロバの耳……」
「え?」
「は? ――ああ……」
うっかりこぼれた俺の呟きにヤマーダさんとライアンが反応したが、努めて無視した。
そう言えばライアンの中の人は確か30だった筈だ。榊と同じ会社の人間で、榊からすると違う部署の先輩格にあたるらしい。俺とは年も近いし何かと話しもし易い。後で人目の無い場所でじっくり話すことにしよう。
俺は何も無かった風に装って、
「さて、カフェの方で少し休んでくるか。昼食とった時からずっと、立ちっぱなし歩きっぱなしで疲れたよ」
「……確かに。そうですね、行きましょうか」
俺の一言を何となく理解したらしいライアンが、同じく有無やむやにして促してくれた。
物言いたげなヤマーダさんを振り切りカフェへの扉へ足を向けると、慌てた様子のアッカムくんが2階から入ってきた。――あれから2階のシフトに入り直したのだろう。
「すみません。蒸し鶏の追加注文入りました。……俺まだ鶏上手く解体出来ないっす! ……すみません」
「もー。今デギュスタシオン入ってるし、皿シェアする客もいるから動けないよー。配膳室が混んでいる場合は別の料理勧めてよ。自分で捌けない注文取らないでー」
「蒸し鶏目当てに来たらしくて、これが良いからって言われて……」
「そーゆー事なら仕方ない。むしろリクエストありがたいね。――ゼロスさんお願いできます?」
アッカムくんにひとしきりの注意をすると、申し訳なさそうな顔でボナパルトンが俺に手を合わせて拝んだ。
「分かった。客は何人だ?」
「すみません! 4人客です、ほんとすみません……」
返事をしながらアッカムくんが手早くワゴンに大皿や取り皿、それに解体用のナイフをセットしている。
鶏一羽丸ごと使った料理の場合、ワゴンで客席まで運んで客の目の前で切り分け(デクパージュ)ている。目でも楽しめる料理なので、ちょっとした演出になるのだ。
「じゃぁライアンも頼む。アッカムくんは皿な」
「はい。分かりました」
「すみません、すみません。お願いします……」
客席に出るために装備替えエフェクトを配膳室内にまき散らす。扉の側にある姿見――正真正銘の鏡だ――で身だしなみを確認して、準備されたワゴンをアッカム君が押して行く後につづく。
ポータルに踏み込んだ瞬間、小声でライアンが囁いてきた。
「ゼロスさん。俺は藪蛇を遠慮しましょう」
……そこを俺の精神安定の為に協力して欲しいのだが。
やんわりと拒絶されつつ、俺は心底残念な気持ちでビストロへと"跳んだ"。
ポータルで跳び、客席からは衝立で遮られた控えスペースに来た瞬間、ワゴンの大皿に料理が出現してセットされる。足を止めることなく、そのままアッカムくんと共に客席に向かう。
2階のビストロは今日も満席らしい。
どこかモダンな雰囲気に仕立てた内装は、少しだけ控えめにされた間接照明が照らし、落ち着いてムードのある雰囲気を保っている。各テーブルにはワインなりビールなりの酒の瓶やグラスが置かれてはいるが、客も雰囲気に浸ってくれているのか、大声で会話したり、酔っぱらって醜態を晒したりするような人間は居なかった。――本当にありがたい。
「お待たせしました。ラジェ鶏のヴェッシー包みです」
アッカムくんがテーブルにワゴンを寄せて客に披露する。ワゴンには一見、茶色がかった紙風船のような物が弾けそうなほど膨らんで、大皿の上に鎮座していた。
「これかぁ……旨いんだ?」
「すんごく美味しかった!」
「へー」
興味深そうに風船状の物体を観察する客は、もちろん全員がプレイヤーだ。武器こそ帯びていないが、アクセサリー代わりにしているのだろうか? 防具が体の所々に装備されたままだった。グループ4人内の紅一点、女性アバターのプレイヤーはやたらと肌が露出していた。
中身も女性かどうかは分からないのだが、ヘソ出しどころか切れ込みの入った胸元から膨らみ――いわゆる下乳が見えている。ささや……控えめなサイズの膨らみとはいえ、人目が気にならないのだろうか? 俺はとても気になる。
こういった服装事情も見込んで、2階にプレイヤー専用のカフェとビストロは併設してある。
プレイヤーは望めば1階のレストランで食事も出来るが、あちらはドレスコードを厳格に設定してあるので、この手の格好のままでは入店は遠慮して頂いている。サロンも同様だ。
俺の目にも毒だが、この世界の住民――NPCの目にもまた毒だろう。彼らは欧州の、近代か中世かと言った時代をモチーフにしたごく一般的な、露出もそうない服装をしているのだから。
「それではお取り分けします」
見守るプレイヤーたちに告げて、一歩ワゴンから下がったアッカムくんの代わりにナイフを持った。
この鶏のヴェッシー包みは、グランゾ鶏のレギュラーサイズ――普通の鶏の倍ほどの大きさになるラジェ鶏を使った料理だ。
半透明の茶色い風船――ヴェッシー、つまり豚の膀胱の中に、もも肉を外した鶏一羽をブイヨンと共に入れる。膀胱は洗浄処理したのち一旦干したもので、それを水で戻して使っている。紐で入れ口を縛ったヴェッシーを鍋の中に入れ、上から何度もお湯をかけて湯煎するように蒸す。
古典料理であるこの"鶏のヴェッシー包み"は、フランス料理ではブレゼという"蒸気で火を入れる"料理のひとつだ。蒸籠などを使用して厳密に水蒸気だけで蒸し調理する訳ではないのだが、塩や豚の背脂などに包んで焼き蒸される料理とは系統がまた異なる。
ヴェッシーの中に入れたブイヨン――様々な野菜と何種類かの酒を煮詰めて作ったもの――と、鶏自身から出る水蒸気でゆっくりと蒸される。ブイヨンに浸かった部分からは煮汁が浸透して旨味のジュースが浸み渡り、ヴェッシー内に充満した風味は閉じ込められ、香りよく仕上がるのだ。
半透明の茶色膜に所々白い線が這っている。湯をかけられて飴色に塗れたヴェッシーにナイフを差し込んで、膨らみを一気に切り裂く。
袋の中で充満していた蒸気が一気に放たれ、風味と一緒に閉じこめられていた鶏とそのコンソメの香りが辺りに漂った。実に空腹に沁みる芳香だ。
「あ~超いい匂い……! いいねー。マジたまんねぇな!」
俺の空きっ腹にも直撃していった鶏の馥郁とした香りに煽られ――どうやら中身が男だったらしい――露出の激しい女性アバターのプレイヤーが、雄々しく唾を啜り飲み込んだ。そしてもう耐えられないと首を振り、足りない上背を補って、席から腰を浮かせて大皿の肉をのぞき込む。
「お? でも……丸ごと一羽じゃない……」
「もも肉はコンフィにして別添えにしてあります。ガリッと香ばしく焼き上げたコンフィと、ふっくら柔らかく蒸したヴェッシー包みの両方をお楽しみください」
「コンフィも凄く旨いんだぜ!」
前に食べたことがあるらしいプレイヤーに、俺は心の底からの礼を言った。それからひたすら期待の籠もった目を向けて見守る3人の前で、ふっくらと柔らかく蒸された鶏にナイフを入れる。
再びその3人から、あれ? と言う顔をされた。
「肉汁がねぇだす……」
「……ラジェ鶏、野生のモンスで肉堅めだかんな……」
「あー……。確かに丸焼きした時、超ぱっさぱさだったよ、ぱっさぱさ。すげー堅かったんだよな……」
少々失望したような顔で呟かれた。
確かに、切り分けた肉の断面は薄ピンク色でなめらかで照りこそあるが、ナイフを入れても、いかにもジューシーですよと言った肉汁のほとばしりは見えない。
「いやいや待て待て、これが凄いのよ。凄いんだから!」
経験者はかく語る、と言った風情で1人が必死に3人を宥めている。
ライアンと共にヴェッシーの中で素早く肉を骨から取り分け、皿に盛りつける。それをアッカムくんが補佐し、粛々と給仕する。
浅めのスープ皿に切り分けられた鶏を乗せ、細切れの野菜が沈むブイヨンを注ぐ。儚く立ち上る湯気とは裏腹に立つ、鶏の芳香。肉汁の代わりに皮目からとろりとした脂が流れだし、琥珀色に煮詰まったブイヨンの上で水玉模様を作った。
「お待たせいたしました」
4人の前に皿を並べて、早く食え、とばかりに挨拶した。
「いただきます! いただきます!」
「んー……じゃぁ」
もうたまらん。と言って、さっさと肉を口に運び、「んー!」と歓喜の声を上げて悶えた仲間を見て、興がそがれていたらしかった下乳アバターの男性がようやく、仕方ないかとでも言うように子供のような小さな手でフォークを取り上げた。
俺はその様子を内心固唾を飲んで見守る。
「んー……、ん? んっ!」
「なんじゃこりゃ! スゲェ! え? え? 何これ、何これ、超ジューシー!!」
「うわー……、柔らけぇ……!」
口に入れて噛んだ瞬間に歓喜の声が上がった。
よかった。手応えがあったか。
落ち着いた場の雰囲気を荒らさないようと押さえた声なりに静かに騒ぐ4人に、周りのテーブルの客が何事かと目を向けている。……こちらはちょっと不味い兆しかもしれない。
「え、これ超肉汁満載なんですけど! どうゆうこと?」
小声ながらも口々にまくし立てて旨さを伝えてきた3人に、俺は満面の笑みで礼をした。
「御賞味頂けて幸いです」
「うまい! 超! 柔らかくてジューシーで美味いっ!」
「え? だって何で? 全然肉汁なんて無いと思ってたのに」
テーブルの上に口休め用のさっぱりした野菜のソテーを添えたコンフィの皿を置きながら、ライアンとアッカムくんも4人の反応を見て微笑む。
「こう……噛んだら肉汁がドバァって感じじゃなくて、肉がもう全部肉汁って言うか! 口の中が全部肉汁って言うか……っ!」
「肉が凄くしっとりしてる。とにかく柔らかくて……でもとろける訳じゃなく、肉の噛み応えがちゃんとあるんですけど! スゲー柔らかい。超旨いっ!」
「あとスープもテラ濃くてウマー!」
ああ! 肉汁が! 肉汁が! 喉にっ! とか悶えている経験者を完全放置して、あっという間にスープまで飲み尽くした3人は、切り分けのお代わりを要求した。
このテーブルを観察していた他の客が給仕を呼んで、ヴェッシーを指さしメニューの説明を受けている。料理の在庫はまだ沢山あるのだが、困った事にデクパージュ出来る給仕担当が少ない。なにせまだ素人の、にわかギャルソンばかりなのだ。……嫌な予感ひしひしとしてくる。
「……俺の分が! お代わりが、無い……!!」
「お前、前に食べたことあるんだからいいじゃん」
「俺のお代わりが……!」
「大丈夫です、お客様。まだもう1人分あります」
ライアンが内輪揉めをし出した2人を取りなし、残して置いた分を皿に盛る。それを横目に、下乳男性――語弊があるがそうとしか言えない――が、堪能しきった顔で満足のため息を吐いた。
「やー、このコンフィってヤツも皮がガリッとしてウマイ。唐揚げっぽくもあって、肉がプリプリしてる。味付けのせいじゃなく、肉自体の味がぎゅっとして濃いなー。しかも柔らかいし、何より旨い!」
コンフィは脂で"煮る"料理だ。
約80度の脂の中で煮込まれる肉は、筋が多いもも肉をやわらかく食べるのに良い調理法だ。低温の脂で時間をかけて煮ることで、柔らかさが得られ、またしっとりとしてコクのある風味も出る。最後に皮目の脂をガリっと焼き切ることで触感の違いがでるので、より一層美味しく味わえる。
「これで同じ鶏とは思えんなー。――こっちもやっぱ、超ジューシーですね」
「恐れ入ります」
「蒸した方もそうだけど、切った時は全然肉汁無いように見えんのに、でも喰うと肉汁がジュワっとくる!」
ジュワっと、の所で手を喉元で扇ぎ上げるような仕草で表現する。余程美味しかったのだろう。目が輝いて頬が興奮にほんのりと上気している。アバターの外見も相まって、本心からの素直な感想だと実感できた。料理人としての喜びを俺はしみじみと噛みしめる。
下乳男性客は目を瞬かせ、「不思議だ」と呟いて、俺の顔を見上げる。
「凄ぇびっくりしましたよ。ラジェ鶏狩った時焼いて喰ってみたんですけど、こんな柔らかくなかったですよ? なんでこんな肉汁ジュワっとなんすかね、コレ?」
「そうですね。切った時に肉汁が出ないよう調理するからでしょうか」
「――はいぃ?」
意味が分からない、と目を瞬いた客に俺は微笑んで説明を続ける。
「ステーキは特に言われますが、肉の切り口から肉汁がしたたるのは意図してさせない限り、調理を失敗したという扱いになります」
「え? そうなんすか? だって、切ったらジュワっ……て、超美味そうだけど……」
「はい。もちろん切ったら肉汁がしたたる料理もございます。ですが、それは演出の部類になりますので、料理人がどう選択するかによりますね」
少なくとも俺が作る料理――主にフランス料理だが――においては、切ったら肉汁が出るような調理の仕方は失敗としている。
演出と称したように、切った時肉汁が滲み出るのは見た目が美味しそうなので、その場は盛り上がるだろう。特に大きな肉の塊を解体するような時にはより目を引くはずだ。――だが、それが必ずしも味として旨い訳ではない。
「肉から肉汁が出る」と言うことは、「肉の細胞から、美味しいエキスが抜けた」とイコールだ。純粋に味だけを考えれば、肉汁なんて出ない方が良いに決まっている。
それ故、料理人はあの手この手を駆使し、手間暇をかけ、科学的見地を含んだ歴史的手順に添って、肉汁を肉の細胞内に閉じ込めようと奮闘するのだ。
「なるほどぉ……」
「肉汁を閉じ込めたままの肉はこうして……ふっくらした状態です。そして当然固くならず柔らかいままになります」
「ほーぉへーぇ。なるへそですなぁ」
追加で取ったラジェ鶏のヴェッシー包みではなく、コース本来のメイン料理であるイリオ牛のステーキを見ながら、4人とも感心したように頷いた。
ステーキは香ばしく色付いている。焼き固められた表面は熱と肉汁をはらんでしっとりと濡れ、真っ平らでなくふっくりと膨らんでいた。切れば肉の断面はロゼ色で、肉汁は当然したったたりはしない。
下乳男性客が真っ二つに切った肉の断面をしげしげと観察し、ナイフの先で肉をそっとつついた。
「この火の通り方がレアね」
「はい。同じロゼ色でも生肉特有の透明感は一切無く、中まで火が通った状態です」
「んーむー……ん。うまい。そんで柔らかくてちゃんと中まで温かい」
片頬を膨らませ、もごもごと咀嚼しながら唸る。目尻が下がっている。美味しいと感じてくれているのだろう。
「今の季節ですと、レアの場合で中心の温度がだいたい55度ぐらいでしょうか?」
「へぇー、意外に低温度っすね」
「熱すぎると、舌の上に乗せて味わうことが難しいので」
「はー……。なるほどぉ……!」
熱い物をはふはふと息を吹きかけつつ食べるのも確かに美味い。俺も熱々の鍋やらラーメンやらは大好きだ。冬には特にいい。
だが、それもまた純粋に味だけを見て取ると、熱過ぎる場合は「じっくりと舌の上で味わう」に向かない。――要は、「料理によって適正温度が違う」と言う単純な話なのだが。
「んー……、これアレだ。鉄板ステーキとか、実は全然ダメダメなんすね?」
「いいえ? うちの店のようにサシが入らない赤身肉は固くなるので合わないのですが、霜降りで脂身が多い肉ならピッタリですよ。霜降り肉のステーキはそれほど固くなりませんし、むしろ冷えると脂身が重く感じますから」
「なるほどなるほどー。って、俺が喰えるような肉、霜降りじゃないんすよね……」
道理で最後の方はパサパサしてくるわけだ……。と、肩を落としてため息を吐かれた。
じゅうじゅうと肉を焼いて出てくる鉄板皿は、あれはあれで「ステーキを今から喰うぞ!」と言う演出が楽しくて俺は好きだ。
だが味わって食べるような肉が出てくる店は、あの手の演出をしない。俺の店ではお湯で温めた皿に肉を乗せているように、焼けない程度に温めた温度の鉄板で供する筈だ。結局、熱々鉄板皿の店は、味的にはガッカリする事の方が多い……。
「赤身肉は肉本来の旨味が味わえて大変美味しいですよ。――どうぞゆっくりご堪能ください」
「うす! どうも」
お辞儀をしてテーブルから離れる。
先ほどから頭の隅に頻繁に飛び込んでくる"コール"を合図に、ホール内とスタッフが沸き立っているのが分かった。
配膳室に戻ったら、どこかうんざりとした顔のボナパルトンが迎えてくれる。
「……ありがたいんですけどー。ほんと有り難いんですけど、1回誰かが頼むと、こぞってみんな頼み出すんですよねー。アレ」
配膳室で料理を盛りつけながらぼやく。その横で顔をこわばらせたヤマーダさんが俺を必死な眼差しで見つめて、いっそ静かに宣告した。
「テーブルが今夜も2回転目に入りました。そして、件の席を皮切りに"ラジェ鶏のヴェッシー包み"の大量オーダー来ました。……ゼロスさん、今夜は最初から手が足りなくてギリギリだったのです。もう他に人がないのです! だから観念して働いてください。お願いします……!」
「……もう既に諦めてるさ……」
俺が引き留められている内に、ライアンが隣のテーブルで鶏を切り分けているのが見えていた。そしてさらに、そのライアンの手元を気にしてメニューを検討する客が居ることもまた、気付いていた。
「早く売り切れてくれ……」
夕食を食いっぱぐれる。
鶏肉の香りに刺激されて、空きっ腹が背中に張り付いている。今にも悲鳴が腹から上がりそうだ。
美味しいと褒められ、味を堪能して悶えられるのは嬉しい。――嬉しいが、こういった事態は本当に切ない。だから俺は、流行するのは確かに嬉しくても、けして歓迎はしないのだ……。
「ゼロスさん! 早くお願いします!!」
へこんだ背中をヤマーダさんの無慈悲な叱咤がぶっ叩く。そして再び客席へと俺は追い立てられた。