異世界礼賛 中 の 6
ことの始まりは、ジャッポンの朝市でほむが買い出してきた納豆から始まった。
今覚えば、俺はその時のほむの態度を少しは不審に思うべきだったのだ。
だが、「ティーとヒヨさんの好物だから土産に買ってきた」、とそう言ったほむの言葉を全く疑わなかった。
移転当初には外出禁止だったティーは、不貞腐れて課金別荘内を暴れ回っていた。外出するほむやヒヨさんが何かしらの土産を買って帰り、むくれたティーのご機嫌を取るのもいつものことだった。それとは別に、食欲魔人のほむが調理して欲しいと食材を購入してくることもままあった。
納豆自体も発酵食品で、市販品でも衛生的に文句はない。だから土産自体が久しぶりだったとは言え、その行為自体には不自然さは何も無かった。
こうして思い返して、あえて違和感を覚えたと言うならば、俺に納豆を披露したほむの顔が、如何にも「してやったり」と言った、どうにも堪え切れない喜色を滲ませていたことだ。
それでも、「喜ばせたいから、自分で盛りつけてバルサに託す。ゼロスも内緒にしていて欲しい」と言うほむの言葉を、俺は額面どおりに信じてしまったのだ。
ヒヨさんと共に厨房で朝食を作ってそのままギルド共通タブに入れ、そして5階にある広間のテーブルに、里香ちゃんとバルサが食事を並べて待つ。その間、ティーがほむをお供に俺たち2人を厨房に迎えに来て、そしてトウセも含めた7人で食事をとる。――これが移転した当初の習慣だ。
その日も迎えに来たティーが、待ち切れずに朝食のメニューを聞き、そして自分の大好物である肉じゃがに雄叫びを上げて喜んでいた。
野菜嫌いな癖に存外和食が好きなティーは、食事の並ぶテーブルに好物の肉じゃがだけではなく納豆を見つけて突進して行く。いつもならそれを笑いながら諌める筈のヒヨさんが、微妙な笑顔のままその場で固まった。
しかし、驚いた俺が顔色を見る頃には、ヒヨさんは何事もなかったかのように動きだして席に着いた。首を傾げる俺を促し、そして全員で食事を始めた。
さらに違和感を覚えたのは、いつもなら「これあげる」の一言で、ティーの避けた野菜を喜んで食べるほむが、その日に限って拒んだことだ。
食欲魔人のほむは隙あらば盗み食いを働き、ティーの残した物も余さず浚う様に食べ尽くす。そのほむが食料を拒絶した。違和感どころではない、有り得ない光景がそこにあった。
肉じゃがのインゲンの歯応えを嫌ったティーが、いつものように押し付けようとして、ほむに断られる。曰く、「アバターが成人の設定だから、ティーは自分がもう大人で、そう扱われるべきだと主張した。それならば、例え嫌いな物でも出された物は残さず食べる必要がある」との、至極真っ当な意見だった。俺はその言葉を聞いて少なくない感動を覚えた。――ほむの真意にまだ気付かなかったからだ。
どうやってもインゲンを口にしたくないティーが「大人も嫌いな物は食べない」と言い張り、そしてほむ曰く「納豆好き」のヒヨさんに対して、
「納豆大嫌いなんおね? 残すんぉ? 大人も嫌いな物は食べないんだおね!」
と聞いた。
話に聞いていたのとは間逆のヒヨさんの嗜好に驚いて思わずほむを見ると、成功した企みに頬を歪めた顔がそこにあった。
唖然とした俺の目の前で、しかしヒヨさんはにこやかに笑って「出された物は食べるのが大人」だと、何の事もないように言って納豆を口にした。
唸りながらもティーがしぶしぶインゲンを食べだした。嫌いな物を自主的に口にできたティーをヒヨさんはひとしきり褒め讃えると、じっと2人を――納豆を食べるヒヨさんを、固唾を飲んで見ていたほむへと壮絶な笑みを向けた。
――うっかり目撃した俺は鳥肌がたった。朝食の席ではあまりに場違いで、何より俺の生理的に拒否反応が出るようなあでやかな笑みだったからだ。
ヒヨさんの笑みを受けたほむは、ニヤニヤとした笑い顔からいきなり挙動不審に陥って、まだ2人前しか食べていないのにもかかわらず、怯えて広間から逃げ出した。
いきなりのほむの行動に驚いた俺たちを、笑いながらヒヨさんは宥める。一応、その場は無事に食事を終えた。
無事で終らなかったのは、ここからの話だ。
朝食後、これまたいつもの通りティーとバルサ、逃げ出したはずのほむは狩りへと出掛ける。俺と共にそれを見送ったヒヨさんは、ホームから3人が転移したとたんソファへと倒れ込んだ。
「ヒヨさん、どうしたんですか?! 大丈夫ですか?!」
「大丈夫だ。ちょいと疲れただけだ」
ぐったりとソファに寄りかかったヒヨさんが、駆け寄る俺に手の平を向けて押し止める。具合を見るために近寄ろうとしていた俺は、思わぬ拒絶にたたらを踏んだ。
「――悪い。ゼロス……歯、磨いた?」
「はいっ?!」
訳が分からないなりに肯いた俺に、ヒヨさんは力ない笑みを浮かべた。
「俺がへばったこと、他のみんなには内緒にしてね。頼むわー」
「いや、でもそんな……」
「ゼロス。俺ってば粘着質なの、超しつっこいの、ガッツリ後を引くタイプなの、紛れもない同属嫌悪なの」
「は?!」
ますます混乱する俺に、ヒヨさんはのどの奥から湧き出させたような低音でただ嗤っていた。
そして夕食後のことだ。
「――糞がッ!!」
押し開かれた扉が壁にぶつかり、重厚だがけたたましい音が響いて広間を満たす。――ほむだ。
ゼイゼイと、ソファに座る俺まで聞こえるほどの荒い息を吐いている。一体何があったのかは知らないが、俺は扉を殴りつける勢いで部屋に飛び込んできたほむに非難がましい目を向けた。
「ほむ、お前な――」
「糞じじい何所行ったッ!!」
俺の言葉を遮って、ほむはいきなり部屋中に響く怒声で吼えた。
刺し壊すようにくまなく広間を見渡す。顔はすさまじい怒りの形相を浮かべていた。さらに目は、激昂した顔と同じぐらい赤く染まり、完全に飛んで可笑しな目つきになっていた。
しかし「じじい」とは誰の事だ? 壮年の人間などこの課金別荘には一人も――。
「糞変態野郎が、絶対殴る! 糞がッ!! 死ね! すぐ死ねッ! マジ殺す……!!」
「そのクソじじいが変態ネカマのオフィーリアの事なら、さっきちょうど外に出かけるとこを見たわよ」
「バルサ、流石にそれはないだ――」
「じじいぶち殺すッ! 仕事させといて、いつまでもネチネチいびってんじゃねぇよッ! 糞野郎っ!! 死ねッ! 死ねッ! 糞がッ!!」
「おぃ?! じじいってヒヨさんの事か? じじいって……だってまだヒヨさんは30代だぞ?!」
「その変態じじいだよッ!! あの陰険糞野郎ッ! ぶっ殺す! 今すぐ死にやがれッ!!」
驚愕する俺を余所に、ほむはひたすら吐き捨てる様な勢いでヒヨさんに悪態をついている。……いや、本当に一体何があったんだ。
ほむ達3人は仲が良いが、それでもたまに喧嘩をするらしいのは知っている。だがそれはあくまでほむとティー、2人の間だけであって、そこにヒヨさんが混じることは無い。
普段から、ほむはヒヨさんに対して、目上に対するそれなりに丁寧な態度を取っている。そして、ヒヨさんから言われたことは基本的に全て受容れ従っていた。――もちろんヒヨさんの方も、承服し難い理不尽なことはけして言ったりはしなかったが……。
「ほむ、ちょっと落ち着け! なぁほむ、一体ヒヨさんに何されたんだ?」
「……コールで! 強制聴講させられた……ッ!!」
「何を?」
「――ナニをだよッ!! 糞野郎がッ!! 死ねっ! 死ねッ! 死ねッ! 死ねッ!!」
怒りを歯で噛み締めて、すり潰したような低音の罵声を吐き続けている。強制――と言うからには余程嫌な事を聞かせられたのだろう、堪え切れない怒りがほむの肩をせわしなく上下させていた。なんと言うか、あまりいい状態ではない。
怒髪天を衝いて沸騰し続けるほむをバルサが呆れたように見て、それから処置なしと肩を竦めた。
「だから何されたのって聞いてんじゃないの。それにコールなら切ればいいだけじゃ――ああ、切断出来なかったわね。今はGMコールもログアウトボタンもなかったわ……」
コールは電話のようなもので、本来ならやり取りしている人間の意思で何時でも切断できる。ところがコールを切らせず、聞きたくもない音を強制的に聞かせるという、かつてゲーム内ではとても有名になった方法が存在していた。一種システムの――正確にはUIデザインの問題を利用した嫌がらせだ。
コールは受信ボタンをコマンドした時から、今度はそれが切断ボタンに変化する。ところが、やり取りしているコールとは別のルートでアポイトメントがかかると、それまでアクティブだった切断用ボタンがパッシブに切り替わる。コールを切断するには一旦ボタンをアクティブにしてからコマンドしなければならない。
この現象を利用して他のアポイトメント、例えばギルド専用コールや文字チャット画面、あるいはメッセ―ジを引っ切り無しに送り付けることで、コール切断ボタンをパッシブに維持させたままコマンド選択させないようにするのだ。
もちろん、ゲームシステム的には強制切断方法が存在していた。
画面の端に常にパッシブ表示されているログアウト用ボタンと、GMコールボタンがそれだ。しかし、嫌がらせを受けるたびにログアウトしてはまともにゲームにならないので、基本的にはGMコールで通報し、それで問題は解決する。また、HMDとポッドでは難しいが、携帯機プレイをしているユーザーに限っては、アナログとして付いている音声出力ボタンをオフにすればそれで済む。
回避方法がありながらこの嫌がらせが有名なのは、GMの中の人にストーカーされ、一躍有名になったヒヨさん――つまりオフィーリアのおかげだ。脚光を浴びたこの嫌がらせ方法は、それ以降、いかにGMコールをかけさせないようにするかと、技巧を凝らされ、絶妙にアレンジされ、未だに有名かつ有効な迷惑行為の方法となっていた。
そして今この世界では、ログアウトもGMコールも存在しない。
コールでの通話は、脳内にやりとりする「原理は謎だが、はっきり聞こえる」音声だ。何よりコールは、例えどんな場所へ閉じこもって隠れても、コマンドして切断しない限り、けして途切れるような事はない。
「殺す! 絶対ぶっ殺すッ!!」
ほむは喰いしばった口から呪詛を吐き出し、握り締めた拳を怒りで震わせている。今にも壁を殴りつけそうだ。と言うより、既にきつく握られた拳に赤黒いものがこびり付いているのが見えた。
「ほむ、手をどうした? それまさか血――」
「部屋に強制移動させられて、閉じ込められてたんだよッ!! あの悪趣味じじいッ! 畜生ッ! 死ね糞野郎がッ!!」
「なんとも……。徹底されたなほむ……」
倉庫に収納した食料の盗み食い防止の為に、ほむは課金別荘のひとつからオーナー権限を外されている。そこに無理やり"跳ばされて"閉じ込められたのだろう。部屋に対して、扉の開閉とジャンプ禁止設定されてしまえば密室が出来上がる。さらにこの世界では、一部の建築物に対して"オブジェクトは破壊不可能"というゲームの仕様も継続して存在していた。課金別荘の壁を破壊して脱出する、なんて芸当は出来ない。
「糞……ッ!」
ほむが苛立たしげに床を蹴り飛ばし、呆れはてる俺を充血した目で睨み付けた。
「あの野郎にッ、明日帰ったらブチ殺すと伝えとけッ!!」
殺意に濁った目で俺を射殺し、唾をまき散らして吐き捨てる。ほむの体に白い光のエフェクトが纏わりついた。
「おい! ほむ今から外出か?! 行き先は?!」
「ショウカンッ!!」
召還?! ……ああ違う、娼館か、娼館ね。しかしまたか。何というか若いな、ほむは……。
宙に浮かぶ発光体が弾ける。部屋中を閃光で焼いてほむの姿が掻き消えた。
「――何アイツ! あの言い方、何様のつもり?!」
俺と共に罵声を浴びたバルサが憮然とした顔で毒づいた。――気持ちは分かる。
「まぁ、ほむも気が立ってるんだ、生暖かく見ておこう。抗議するなら明日落ち着いた頃にした方がいい」
鼻息荒く立腹しているバルサを宥めて、そして俺は最後まで判明しなかった強制受講の内容に首を捻った。
「……しかしヒヨさんはほむに何やったんだか……」
「無関係の人間に八つ当たりしないでほしいわっ。アイツらだけでやってなさいよ!」
「まぁそう言うなよ。誰だってこんな風に荒れる時もあるさ。そこは互い様だ。共同生活である以上、こればっかりはしょうがない」
宥める俺にバルサは「もう気分が台無しになったわっ。メグさん達と飲んでくる!」とほむの怒りを感染させて部屋から出て行った。
……本当に理不尽な……。
でもまぁたまにはこんな日もあるさ、仕方ない。本当に仕方ない……。
広い広間に1人残されて、俺はやるせなさを大きく吐きだした。
何もしていないのに酷く消耗した。もう酒を飲む気もすっかり失せたし、明日のためにもとっとと寝るか……。
部屋に戻ろうかと俺がソファから立ち上がりかけた瞬間、バルサが閉めていった扉が静かに開いては元凶が入り込んできた。
「ヒヨさん……」
「なぁに? ゼロス。――もしかしてお待たせしちゃってた? いやん、嬉しいわぁ。今宵もご指名ありがとさん」
絶妙なタイミングで戻ってきたヒヨさんは、ほむとのゴタゴタなど素知らぬふりで俺の前に腰を下ろす。
「今日は白ワインを試すか」
のんびりとした口調でヒヨさんは笑うと、いつも通りワインボトルとグラスをテーブルに置く。
ワインボトルのコルクを慣れた手つきで抜き、グラスにワインを注ぐ。その上お気に入りのツマミ――お手製らしい野菜の酢漬けとオリーブの塩漬け、それにチーズをいそいそと取り出してテーブルに並べた。呆れ果てて脱力する俺の分まで綺麗にセッティングし、ワインボトルを検分しながら解説を垂れだす。
「メモによると14年ほど前のものらしいのよ。酸味の少ないフルーティーな白。蜂蜜のように濃厚な熟しきった葡萄の強い甘さ、その風味の旨いことといったら! 本日の俺の一押しよ~。ほんっと、各地の課金別荘に酒蔵設置しといて良かったわぁ……! せっかくだし異世界にいる間、一通り試したいもの!」
ワインボトルには紐で結わえられた木の板がかかっている。この木の板が現実世界で言うワインラベルに該当し、木炭でワインの出自が細かく記されている。
ヒヨさんは量を飲まないが色々試すのが好きらしく、入念に選んだらしい酒を何種類か常備していた。俺の目の前にワインを注いだグラスをひとつ置く。自分はさっそくグラスを取り上げて、嬉しそうにワインを堪能している。
「ヒヨさん……。さっきほむが血相変えて探してましたよ」
俺は用意してもらったグラスに手を伸ばす気力もなく、溜息と一緒に吐き出した。
「もちろん知ってますとも。ほむが別荘から居なくなったのを確認して戻ってきたのよ? 俺、この課金別荘オーナーですもの、誰がどこに居るか分かるのよ」
ってことは、サブオーナーのほむも、ヒヨさんがここに居ることが判るわけか。……だったら何故。
「……ほむ、さっきここにヒヨさんを探して怒鳴り込んで来たんですが」
「単に八つ当たりたかったんだろう、それは」
「あの野郎……っ!」
一瞬ほむへの怒りが沸く。が、目の前に座るヒヨさんこそが元凶だったと事を何とか思い出して収めた。
「……ヒヨさん。何が原因で喧嘩してるんですか?」
「あらん、心外。喧嘩じゃないのよ? あいつが勝手に仕掛けて来ただけなの」
なんだそれは。
原因を説明して欲しい俺に、ヒヨさんは素知らぬ顔でワインを飲む。そのくせ「一仕事終えた後の酒は、ことのほか美味しいわぁ……!」とほむとやり合った感アリアリの感嘆をもらした。
「ほむは物凄く怒ってましたよ。あの様子だと、帰ってきたら大変な事になると思います。覚悟してくださいね。俺は一切関知しませんよ」
「心配ご無用! 俺がオーナーで最上位の権限保持者だから、当然ほむを立ち入り禁止にすることも出来るのよね~」
睨んだ俺をどこ吹く風で受け流して、ヒヨさんは軽く肩を竦めた。
「そんなわけで、ほむは明日の朝まで敷地内には一歩も入れません!」
……本当に徹底してやがる。
「それにしてもヒヨさん、監禁までしてほむに一体何を聞かせたんですか?」
「ナニしてみたの」
「――何ですって?」
意味が分らず眉を顰めた俺に、ヒヨさんはオフィーリアのしぐさで、両頬を揃えた指先でそっと押さえてみせた。そして可愛らしく小首をかしげ、さも恥ずかしげに微笑む。
「だから、オフィーリアの演技でナニしてイってみたの。じっくりたっぷりねっとりと、感情たっぷり擬音特盛りで実況中継してやったわ。――先人ことドンちゃんの教え、今改めて考えても超画期的っ。ほんと先駆者って偉大ね!」
ヒヨさんがソファに座ったまま体をよじらせて、恥じらったふりで楽しげに身悶えている。
「ついでにあいつの名前、さんっざんッぱら切なげーに呼んでやったわ!」
ザマァッ!! と、両手を突き上げて叫んだ。その上さらに如何にもドス黒い笑いを浮かべつつ「それでも本名だけは呼ばない俺ってば、ほんと優しーぃわーぁ!」と、ワイングラスを片手に悦に浸った。
……ドンちゃん? って、あの見抜きのドンちゃんのことか? ……何? ナニ……? あ? あ! あ――……。
俺は全身にたった鳥肌と寒気をこらえた。胃から何かがせり上がってくるのを必死に押し止める。
これは気のせいだ、気のせいに違いない。気のせいにしておこう、俺。堪えろ俺。深く考えるな、俺……。
えずきそうになる喉を必死に押し殺して、代わりに声を絞り出す努力に励んで悪寒を散らす。
「……ヒ……ヨさん。ほむは殺る気満々でした……。そして俺は止めません……。と言うより、むしろ俺はほむに味方します」
「おやん? 酷くない? それ酷くない? なんで両成敗じゃないの? 最初に仕掛けてきたのあいつよ? 俺、まんま仕返しただけよ?」
精神的苦痛には精神的苦痛で、吐き気には吐き気で! と、ヒヨさんは俺に向けた顔に心外の二文字を張り付け、グラスを掲げ高らかに言い放つ。
「イッツ・ハンムラビ法典ッ!!」
俺はその言いざまに本気で頭を抱えた。
「いい年して何言ってるんですか……。第一、俺たちにもその余波を被っているんですが」
「あらん、そいつはすまんね」
全く悪びれずに口先だけの謝罪をして、美味そうにワインを飲む。そしてわざとらしいため息を、さも深刻そうに吐きだしてみせた。
「……でもねぇ、好む奴は分からないのよねー……。卓上に置かれただけで燦然と醸し出す、あの絶妙な香気。引かれた糸による巧みな時差と余韻。そして舌触り。それを口にし、噛みしめ、飲み込み、得も知れぬ感覚に渾然となり、さらにはその吐息をため息と共にこぼす人間の気持ちは……」
――まさか原因は今朝の納豆なのかッ?!
今朝の納豆がそこまで後を引いているなんて信じられない。
唖然とする俺に、ヒヨさんはまるで好んで堪能したかのような美辞麗句を並べたて、「俺はあの時、体が裏表逆になるような素敵な気分を、延っ々と味わいました!」と訴えてきた。
「……あ、あのですね、吐くほど気持ちが悪くなるぐらいだったら、最初から残してくださいよ。無理に食べる必要はどこにもないんですから!」
己の正当性を語るヒヨさんに俺は顔を上げて睨みつける。すると表情を一転して嬉しそうに笑みを返された。
「まぁお父さんったら! そんなのウチのコの教育に悪いじゃないですか、やだー!」
「誰がお父さんですか……!」
何言ってるんだ、この人は。
「――ヒヨさん。確かに、教育的な話ではヒヨさんの懸念する通りですけども。ティーだって具合が悪くなるなら仕方ないって、判断するはずでしょうに」
「だってなんか負けた気がするんですもの!」
「いや、何言ってるか意味が全く分かりません。――とにかく、やり返し過ぎですよ。もう少し手段を選んでくださいよ、ヒヨさん」
えー。と、不満そうな顔を披露するヒヨさんに頭痛を感じる。いい年こいてなにやってんだ。
「あのですね、ほむは殴る気でしたからね。出会い頭に殴られても自業自得ですよ。くれぐれもこれ以上ハンムラビとか言って、仕返さないでくださいよ。――とんだとばっちりですよ。付き合ってられない」
俺がそう言って吐き捨てると、ヒヨさんの口元がきつい弧を描いた。そして「ま、ほむに関しては大丈夫だ。問題ない」と、喉の奥で転がすように笑う。
ほむの怒りを直接目にしてはいないその甘い考えに、俺は胡乱な視線をただ投げ返す。……ほむは間違えなく本気で殺る気だった。寒気がするような物凄い形相をしていた。それを大丈夫って、ヒヨさんは軽く考えて――。
「気晴らし終わるまで我慢できれば、ちっとはマシなのに。あの堪え性の無いバカ舌の大食らいめ、ほんと阿呆だな」
「え?」
軽い台詞に思わず虚を突かれる。「ほんと"待て"が出来ないんだからも~」と、自分が逃亡していたのにも関わらず、ほむが追跡を諦めた事に対して遺憾だと肩を竦めた。
「俺への糾弾あっさり放り投げて、結局娼館に逃避したんでしょ? ほむは」
「……ええ、まぁ……」
確かに「ショウカンッ!」とか言って、怒りのあまり何かを呼び出しそうな気配だった。が、やられた事がやられた事だ。いくら中身がヒヨさんだと分かっていても、オフィーリアの演技のままされたら……声も、紛う方なき女性声だし、頭でどれだけ理解しようとも――しかたない、それが男のサガだ。
それにほむも若いし……色々どうしようもないのだ、多分。どんなに嫌でも生物的本能として正常な反応の筈だ、恐らく。だから、せめて違うものとして気晴らしに走ったのだろう。きっと。
「ま。一回キメて賢者モードに入れば、"やる気"なんて根こそぎ消え失せるだろうさ。――何が切っ掛けで"発奮"して、挙げ句勢いに明かせて何をどう吐き散らしたか、それこそ身に沁みて思い知るだろうからな」
地の底で落ち込むがいい! と、ヒヨさんは絵に描いた様な朗らかな高笑いを部屋に響かせる。
「世の中の"俺たち"のために、EDにでもなってもいいのよ!」
リア充はマジ速やかにタヒぬがいいさっ! そうヒヨさんは晴れやかな顔で言い放って、満足そうに息を吐いた。
……何とも……。なんだか頭が酷く痛んできた……。
「……あのですねぇ、ヒヨさん。ヒヨさんが言えるセリフじゃないですよ、それは。ヒヨさんだって、あんな美人の恋人を取っ替え引っ替えしてるリア充じゃないですか」
俺が羨ましさを少々混じらせて揶揄したとたん、ヒヨさんの顔から笑みが抜け落ちた。
……おや?
違和感に首を捻った俺の目の前で、オフィーリアの美しくも細い指をわななかせ、虚ろな声で呻いた。
「アレはもう破局イタマシました……」
「え?! だって移転の2ヶ月前ですよ! オフ会は……」
「リア充とか……。何ソレ、美味しいの……? 味わったことないよ、俺。なんで出来たばっかりの恋人とイチャイチャしようとする前に、別れ話されるの? 俺……」
浮気とかしてないのに、速攻破綻すんのなんで? どうゆうことなの……? と、そう死んだ目で呟く。そして震える両手で顔を覆い隠し、そのままソファに倒れ込んで動かなくなった。
「あー……ヒヨさん……」
ソファに倒れたまま身動きひとつもしないヒヨさんの、哀愁漂う背中を見やる。異世界移転した時ですら落ち込む姿を見せなかったヒヨさんが、本気で心折れているらしい。さっきまでの悪乗り加減が一切感じられず、俺はどう声をかけるべきか分らずに狼狽えた。
どうなってるんだこの緩急劇は。ヘタな慰めをするわけにもいかないし……、どうしたものか。
悩む俺の脳裏に、以前聞いたヒヨさんの恋愛に対するほむの見識を思い出した。
「ヒヨさん。えー、俺は……ヒヨさんの恋愛事情は分からないので、その、何とも言えませんが――……。ほむの方がオフのヒヨさんのことよく知っていますし、それに以前なんかヒヨさんの恋人について何か言っていた気がしますから、……ほむに聞いてみては?」
「聞ける訳ないじゃない……」
……まぁ、それはそうだろうな。さっきあんな事をしたばかりだし、ばつが悪くて聞けないよな……。
「自業自得ですよ。いつもどおり普通の説教で済ますべきでしたね」
「だってイケメソは今すぐ死すべきなんだもの……」
「すみませんヒヨさん、日本語で返答お願いします」
自分を色々と棚に上げてほむを詰るヒヨさんに、俺は少し呆れた。
それにしても。性癖を告白した辺りから薄々理解しかけてはきたが、吐き気を堪えてまで納豆を食べたり、コールで自慰を実況中継したり、よくもまぁ、こう簡単に体を張る気になるな。どんだけドMなんだヒヨさんは。
本当に人の嗜好は様々だと思う。俺にはまるで理解できない。驚愕することしかりだ。……しかしマゾなのに、こと恋愛に関してはMじゃないのか……?
「ヒヨさん、いい大人なんですから。趣味に浸るのはちょっと控えて、自分を少しは労ってくださいよ」
ソファに倒れ込んで顔を覆ったままのヒヨさんが「やーだー」と子供のように頭を振ってだだをこねる。その上、言い訳がましくぼそぼそと、指の隙間から戯れ言を紡ぎだしてきた。
「……だって、対岸の火事とかつまらないじゃないの。耐火スーツと酸素ボンベ装備して火中で踊り愉しみたいのよ俺。やれやれと達観したフリで高みの見物すんのは、足腰たたねぇ老人になってからでイーのよ、俺!」
重症だ。
趣味を満喫するのは結構なことだが、いくらドMだとは言え、自分に跳ね返ってくるリスクが高すぎる気がするのだが、それでも良いのかヒヨさんは……。
「ヒヨさん。そうやって地雷踏んで喜ぶの、ほんともう辞めましょうよ」
「だって生きがいなんだもの……! 人生にはいつだってスリル・ショック・サスペンス必須なのね……!」
――それが好いんですね、分かりました。
処置なし。そう思って俺は、鬱々と管巻続けるヒヨさんを視界から外した。――瞬間に、またタイミングよく扉が開くのが見えた。
「ほむがまだ帰ってきてないぉ……」
つまんない。と呟いてティーが肩を落とす。そしていかにもとぼとぼとした足取りで広間に入ってきた。
風呂で使っていたらしいカエルマークの印された桶と水鉄砲、それに網に入れたアヒルのおもちゃ一小隊を小脇に抱えている。髪からは滴が垂れ、肩が濡れてシャツが色を変えていた。額に張り付く髪を鬱陶しげに払ったティーが、ヒヨさんを見つけて嬉しそうに笑った。
「ティー、髪がまだ濡れてるぞ。ほら来い」
いつの間にか復活していたヒヨさんが、タオルを両手に広げてティーを呼ぶ。駆け寄ったティーが満面の笑顔でヒヨさんの隣に座ると、ヒヨさんは濡れた髪をタオルで撫でるように拭ってやる。
「髪ぐらいちゃんと乾かせ。風邪引くだろ?」
「だって面倒臭いんだお!」
「――髪型セットをコマンドすれば、水が払われて初期状態に戻るだろ?」
俺も毎朝やってるぞ。と横から口を出すと、「それじゃぁ洗った気がしないんだもんねぇー」とティーが返してきた。……まぁ確かに。寝癖を直すのとは気持ち的にも異なるか。
髪をタオルで混ぜるように拭かれ、ティーが気持ちよさそうに目を閉じる。ヒヨさんはひとしきり髪を拭き終わると、今度は指先で撫でつけるように髪をとかしてあげている。小さく欠伸をこぼし、うっとりとした顔のティーがヒヨさんの体に抱きついた。そのまま柔らかそうな胸に顔を埋めて頬を擦り付ける。
一見カップルがイチャイチャしているように見えるが、実際は過保護気味の保護者と、それに甘ったれるお子様の図だ。
もっとも、思考が視覚に追いつくまで心臓の鼓動が乱れるという、何とも目に毒な光景に代わりはないが。
「眠くなったか?」
「んー……」
「ティーぃ? 寝るなら枕は俺じゃなく、クッションにしてくれ。このままじゃ流石に重くて支えられない」
「んー……」
ティーとの体の間にクッションを押し込みながら、ヒヨさんが笑う。ティーは少し不満げに言葉を返して、ソファの上で押しつぶしそうになっていたヒヨさんの――オフォーリアの体の上からずるずると頬を滑らせた。
押し込まれていたクッションの上に頭を乗せ、インベントリから取り出したクッションを抱えてソファの上に丸まった。ここで寝る気満々のティーにヒヨさんは笑い、毛布を掛けてあげている。それから仕上げとばかりに頭を撫でてやると、むずがるようにティーが抱えたクッションに頬を擦りつけていた。
「……ほむ、帰ってこないんだぉ……」
ティーがむにゃむにゃと口の中で文句を付ける。
「今日はもう諦めろ。明日の午後には一緒に遊べるさ」
「んー……ほむまた女の人んとこ……行ったんお……?」
「あいつのあれは病気だ。直す薬もないし放置するしかない。ま、その内に懲りるだろ」
むー……。と膨らませた頬から不満を吹き出させて、「つまんないの」と呟く。
しかし、ほむの娼館通いを病気と称するとは、ヒヨさんも自分を棚に上げて――いや、上げてないか。自称で変態だった、そうだった。――とは言え、俺から見れば2人とも大差無いのだが。それでもヒヨさんは随分とほむには辛辣だ。ティーには見ての通りの甘やかしっぷりなのに、そんなにほむ――畝村の顔面が気に入らないのか。
「ほむのあれ、病気扱いですか」
「あいつとっくに成人してんのよ? いい年こいて、始終理性を崩壊させちゃぁ、本能暴走させて。阿呆の所行でしょ、アレは」
「……ヒヨさんもあからさまに暴走気味だと思うんですが」
「俺のは理性で寸止め可能なの」
「いや、全く違いが判りません」
あらん? と、ヒヨさんがわざとらしく首を傾げた。俺も追随してわざと頭を傾ける。
片眉を跳ね上げたヒヨさんがさも面白そうに笑った。
「それなら俺のエロス・ドリィ~ムとほむの爆発性欲の違い、これから一晩かけてじっくりたっぷりネチネチと講義しちゃうわ!」
「いやもう俺寝る時間ですからもう寝ます! ――おやすみなさいヒヨさん、ティー」
早口で断り、ワインを一気に飲み干して慌ててソファから立ち上がる。逃げる俺の背中に如何にも愉しげなヒヨさんの声が追いかけてきた。
「睡眠学習って手もあったりするのよ~?」
「とんでもない! その必要は一切ありませんから、謹んで辞退しますよ!」
扉を閉る俺に「おやすみ、ゼロス。良い夢を」と笑うヒヨさんの声が聞こえる。
ほむの二の舞は御免だ。寝ぼけてうっかりヒヨさんからのコールを取らないよう、充分注意しなくてはいならない。どうか強制受講させられませんように。
そう祈りながら、俺は自室へと逃げ帰った。