異世界礼賛 上 その2
2ヶ月前のあの日、ゲームが現実になった日――「異世界移転された」と俺たちは称しているが、何度目が覚め直してもけして現実には戻れなかったあの日。戦闘を経験したとはいえ、それでもその後の俺たちは安全で、とりあえずとはいえ安定し不満無く過ごせた。
課金別荘は居心地良く住みやすかった。食料はもともと持っていた食材風アイテムもあったし、かつてただの観賞用オブジェクトだった庭にも食料庫にも豊富に存在していた。着るもの――衣装も、普通の服の上に装備を身につけるというゲームの仕様上、装備に合わせた色とりどりの服があった。インベントリに入れるかキャラチェンジをすれば洗濯の必要すらない。だから、衣食住、なにひとつ事欠かすことなどありはしなかった。
俺たちは恵まれていた。
あの日以降、この満たされた環境の中で、俺たちはこの異世界を穏便にやり過ごそうと生きていた。ただ当たり前の日常を送り、そしてただ平凡に暮らそうと努力している。
――そして。
"リアル"になっただけの"ゲーム"世界の停滞に、最初に退屈して爆発したのは、やはりヒヨさんの予想通りティーだった。
「――つまんない! つまんない! つまんないっ!!」
クッションを床に叩きつける。放置されて床に散らばるトランプが宙を舞い、鬱積で重ね上げられた本の山が崩れる。窓際に設置したソファを背もたれにしたティーが床にだらしなく座り込み、クッション振り回しながら盛大に喚き散らしていた。
「ティー! 少しぐらい我慢してよ。遊ぶのに飽きたのなら、アンタも鞘取りしなさいよ。なかなか手強いわよ、この作業」
部屋中央のソファまで飛んで来た上に、ボウルに入り込んだトランプをつまみ上げる。俺は取り除いたジョーカーの替りに、グリーンピースの鞘を放り込んだ。そのままバルサと2人、テーブルに乗せた大量のグリーンピースの鞘を剥きながら、窓際から放たれる癇癪を聞き流す。
俺の目の前では、バルサが眉を寄せ、ともすればマッチョすぎる体を縮めながら震える指先で筋を取っている。バルサは鞘を剥くと、慎重に鞘の内側を指の腹でなぞりながら翡翠色の種子をボウルに落とした。が、またボウルから外れてグリーンピースがテーブルの上を転がっていった。何度目だ?
たかが鞘取りに、なんだか手つきが危う過ぎる気がするのだが……。アバターが現実の姿とは正反対の、筋肉隆々な男性だからか?
俺やカイン、ほむとティーの所有するのは、全てリアル性別通りの男性アバターだけだ。だが逆に、里香ちゃんとトウセは本来とは異なる性のアバターしか持っていなかった。
だから、そんな2人の心情を考慮して、落ち着くまでのしばらくの間だけでもいいから、彼らの前では男性バルサのアバターを使ってくれないか。――2日目の朝、そう言ってヒヨさんが頼んだ結果、バルサは主に男性アバターの姿でいる。
バルサが所有する男性アバターも女性アバターも、レベル的にはどれも大差ない。勝手の分からない異世界で、ヘタに端正な顔立ちの女性アバターを使うよりは、男の方がより安全だろうという理由もあった。
それならホームに籠もる今のうちに、男性アバターの使用に慣れておくほうがいい。
「鞘取りやだ! それつまんないっ」
「ねぇ、ティー。まだ4日しか経ってないじゃないの。もう少しこの世界が安全か分かるまで、ホームでおとなしく遊んでなさいよ」
留守番に飽きたのだろう。昼食が終わった辺りから文句を垂れ始めたティーに、うんざりとした様子のバルサが、それでも堪えて宥めの言葉を選んでいる。
そう、まだあれから4日だ。里香ちゃんとトウセにいたっては、初日に部屋入ったきり、閉じこもったまま出て来ない。コールにはもちろん、送ったメッセージにも反応しない。
食事はギルドの共通タブでやり取りできるし、衣料品を洗濯する必要も無い。だから不便はないだろうし、ヒヨさんと時々ホームに戻ってくるカインが2人に声をかけているから、きっと大丈夫なのだろうが……。それでも心配だ。
もっとも異世界移転なんて状況じゃ、ひとりで色々考えたいことも多々あるのだろうが……。
「ティー。そろそろおやつの時間だし、果物でも食べるか? 洋ナシ切ってやるから、ちょっと待ってろ」
子供の機嫌を取るには食べ物が一番。そう思って俺が声をかけると、ブスくれたティーが「もうソレ飽きた」とそっぽを向く。取り敢えず目の前に置けば口に入れるだろうと、俺は鞘取りを止めて手を拭き、洋ナシの皮を剥き始めた。
よく熟れた洋ナシは柔く、実にナイフを入れたとたんに辺りに甘い香りが広がって漂う。抵抗無く刃が滑り削るように皮を落とす。窓際のティーにも匂いが感じられたのか、鼻をひくつかせている。
「いらないのっ! 俺、食べないの!」
「ティー、アンタが食べなくても私が食べるからね。これ最後の1個だからね。後で文句言わないでよ」
意地を張るティーに素っ気なくバルサが釘を刺した。惜しくなったのだろう、ティーが眉間に皺が寄り頬を膨らまして唸っている。
子供らしいティーの態度に、俺とバルサは共に苦い笑顔を見合わせた。
初日にヒヨさんが持ってきた果物は、この課金別荘にある物ではなく、他のホームで採って来たものだ。各フィールドの季節と気候を考慮し、地域に則してデザインされて点在するホーム。それらホーム間を移動して、マスター権限を持つヒヨさんが収穫したのだ。
2日目の夕方なってようやく、俺は裏庭にあるはずの果実の木が見当たらないことに気付いた。その時俺に別荘を案内してくれていたほむとティーが教えてくれたのだ。
「心配しなくても、後で補充してもらうから大丈夫だ。気が変わって食べたくなったら、夕食の後にまた切ってやるよ。それにヒヨさんとほむが土産を――」
「ほむばっか外出してズルいの!――つまんないの! つまんないッ! つまんないッ!!」
失敗した。またぶり返した。
ほむでもヒヨさんでも、どちらか早く帰って来ないものか。ヒヨさんとは話し合わなければならないことがいくつかあるし、正直、退屈して拗ねたティーは俺の手に余る。
溜息をこらえてかぶりを振り、取り敢えずの洋ナシを剥き続ける。が、いつまでも喚き立てるティーに、とうとう我慢の限界を超えたバルサが口を決壊させた。
「ティー、もうウルサイわねっ! しょうがないでしょ! ほむと違って、アンタ子供なんだから――」
「バルサ!」
思わず叱責した俺に、バルサが不満そうに睨んだ。頭が痛い。出来ることなら逃げ出したい。俺の背後でティーが派手に爆発した。
「お外行きたいのッ! 俺も外行くのっ! もうここ居てもつまんないっのッ!!」
「ティー! 我慢しろって言ってるでしょっ!」
「外外外そとッ!! お家つまんないッ!! 外に行くッ!!」
バルサの罵声を無視して、ティーが一層激しくクッションをぶん廻し、床に叩きつけ、何度も殴りつける。
どうにもならない年齢をまんまとバルサに指摘されて、完全にティーが切れている。
退屈だと不満を喚きつつも自分の立場を理解して、外出したいと口に出すことだけはなんとか我慢していたティーと、騒ぐティーの鬱陶しさに地雷を踏んだバルサ。俺からすればどちらも同じレベルのお子様ぶりだ。
バルサが苛立ち露わに鞘をボウルに投げ捨て、立ち上る。鉄拳制裁。普段バルサが弟に行っているらしい実力行使をするつもりだろう。
「バルサ。ティーはお前の弟じゃないだろう? 怒って一方的にやり込めようとするのはよせ」
「ティーの我慢が足りないのよ!」
「それとはまた別の話だ。ティーがどうにも出来ないことをあげつらって、暴力で口を閉じさせても意味がない。そんな事をしたところで、ティーがいつまでも納得できないだろ」
皮を剥き終わったので手を拭いた。取り分けた洋なしの皿を1枚バルサに渡し、俺はソファから立ち上がった。階段状の窪みを登り、窓際に独りで陣取るティーに近づく。
「ティー」
クッションをぺしゃんこに叩き伸すティーの傍に俺も座り込む。顔を背けたティーを見ながら、なるべく柔らかい口調になるように意識して話かける。
「今日は俺と一緒に留守番するって、ヒヨさんと約束したんだろ? だからお前、今日はホームの庭を探検して遊ぶって言ってたじゃないか。今度は絶対に約束を守るって、自分から言ってたな?」
ティーがクッションを叩く手を止めた。あさって方向を向いたティーが、唸りながらクッションを抱き潰した。
移転した次の日。朝食を済ませた後、カインはギルドマスターとして、ヒヨさんとほむがこの世界の情報をある程度集めるまで、ホームにこもって過ごし、こちらの生活に慣れること。そう俺たちギルメンにメッセージで通達した。
異世界移転というあり得ない事態に遭遇し、精神的に消耗した俺たちはその決定に賛成した。まずは安心して過ごせる居場所を確保し、それらが使用に問題がないか確認すべきなのは間違いないからだ。生活優先。外のことなど二の次だ。
ヒヨさんとほむが外出担当なのは、本人たちが志願したという事もあるし、気力をごっそり無くし休息することを最優先している俺たちとは違って、初日からまともに行動出来ていたからという理由もある。ティーも元気だが、まだ子供のティーに勝手の分らない世界で行動させるなど論外だ。
身内がこちらに移転した為に別のホームで過ごしているらしいカインも、こちらのホームと行き来すること以外の外出は極めて慎重に行っている。
そうして薄氷を渡るように行動する俺たちに、だが2日目の夕方、ティーは独りでホームから姿を消した。
姿を消した。とは言っても、ヒヨさんが持っている別の課金別荘に"跳ん"で、お気に入りの部屋で遊んでいただけだったらしいのだが。
それでも何も告げず姿を消したティーに俺たちは驚き慌てた。特に、この異世界に対して、そしてティーに対してひたすら慎重だったヒヨさんが、色を変えるくらいの出来事ではあった。
――ティーが、トイレに行ったきり戻ってこない。
慌てたバルサが駆け込んで報告してきた時、俺とヒヨさんは厨房で夕食の支度をしていた。
それまでティーには必ずほむかヒヨさんが付いていたが、その時はほむは外出、ヒヨさんは夕食の支度をするため傍に居なかった。外出したくてぐずり、ふて寝したティーから「けして目を離さないように、必ず傍に居てくれ。ティーが起きたら声をかけろ」と念を押して頼んだヒヨさんにバルサは気安く応じた。だから、「ティーにコールもメッセージも通じない」そう言ったバルサの声は震え、顔は真っ青だった。
驚き慌てる俺の横で、一瞬眉を寄せ、冷めた目つきのヒヨさんが鋭く舌打ちする。
バルサの顔色が完全に色を失った。俺の頭からも血の気が引き、背筋が凍った。
いつもの気安さの欠片もない冷淡な気配。初めて、そう初めてそんなヒヨさんを見た。
ゲーム時代、それこそβからの知り合いだが、プレイヤー同士の揉め事が起こっても――むしろ揉め事が起これば起こるほど、ヒヨさんは楽しそうにしていた。茶化すことは散々あったが、暴言という暴言は一度も聞いたことがない。真面目な態度を取ること自体が珍しいヒヨさんの、ましてや舌打ちなど初めてだ。
――いや、そうだ。ここはゲームじゃない。異世界という現実だ。俺たちはアバターとはいえ生身の人間なのだから、当然そういう面も見えてくるだろう。楽しいだけではない"リアル"な世界。しかし――。
「別の課金別荘に跳んでるな。ゼロス、悪いがちょっとティーにお説教してくるわ。手伝い出来なくてすまないな」
ヒヨさんは転移エフェクトを体にまとわり付かせ、いつもとは違う柔らかさのない声で告げる。――ああ違う。あの声は聞いたことがある。抑揚の乏しい低い声。……あの戦闘中に聞いた声だ。
ヒヨさんは手に持っていたトマトを作業台に置き、直後、"跳ん"だ。
「ゼロス、ティーが……」
俺を凝視し――泣かないようにだろう――僅かに涙で瞳を潤ませたバルサが声を掠れさせる。
「大丈夫だ。コールに反応が無いのは、ティーがいつものキャラじゃないからだ」
俺は包丁を台に置いて調理をする手を止め、血の気が引いて狼狽するバルサを励ますように、その二の腕を軽く叩いてやった。
「茶色の髪のあのティーは、うちのギルドのティーじゃないだろう? だからメッセージに気付かなかっただけで、ティーに何かあったわけじゃない。大丈夫だよ」
震える唇をきつく噛み締めて、バルサが俺を見つめたまま頷く。女性アバターにしては筋肉が過剰に盛られた逞しい体躯が、その時は酷く小さく見えた。
取り乱して泣いたりしないだけ精神的に強いのだろうが……、普段から強気のバルサも、なんだかんだ言ってもまだ二十歳そこそこの若い女性だ。
只でさえ焦るような事態に追加して、普段ちゃらけた所しか見せない人間に、ヒヨさんに、いきなりあの態度を受けたらショックだろう。そのうえヒヨさんは――わざとバルサを無視したわけでは無いのだろうが……、俺だけに声をかけて"跳んで"行った。ティーのことを頼まれて見失ったバルサには堪える態度だ。
"跳んで"すぐ、メッセージで《ティーを無事に保護。お説教開始》、と連絡があったきり、ヒヨさんは連絡を絶った。結局2人が帰ってきたのは、ほむがホームに戻り、俺とバルサとほむの3人だけで夕食を終えた後だった。
目を真っ赤に腫らして戻ってきたティーが、ヒヨさんに何を言われたのかは分からない。ただ、ティーは急に居なくなったことをバルサに頭を下げて謝った。
見た目は青年姿のティーが膝を抱えてうなだれ、筋肉隆々な大男姿のバルサがそっぽを向いて目を逸らす。どことなく奇妙な光景だった。
そして、「ごめんなさい」と小さな声で呟いたティーに、バルサは「もうしないでよ」と素っ気なく答えて、2人の間であの出来事はそれなりに決着がついた。
その2人の様子を横で見ていたヒヨさんは、もういつもの調子のヒヨさんだったが、バルサにはとうとう声を掛けなかった。懸念した俺が後でバルサに対するフォローを求めても、ヒヨさんはけして是と言わなかった。
一旦ケリが着いたとはいえ、あれ以来、こと外出に関しては、バルサとヒヨさん、それにティーはまだ微妙な関係にある。
「……庭、もう飽きた」
零れたティーの声がクッションの中でくぐもって聞こえた。
「そうか。じゃ、夕食の仕込みの手伝いしてくれるか? ティーは包丁使えるって、ヒヨさん言ってたぞ。ほむより料理上手いんだってな?」
「……ん」
抱き締めたクッションに顔を埋めたまま動かない。固まったままのティーに俺は苦笑した。これ以上はどうにもならないと判断して、「洋ナシ切っといたぞ」と言って背中を軽く叩いてからソファに戻る。
ヒヨさんならここでティーの頭を撫でるのだろうが、生憎俺にはそこまでの真似は出来ない。ゲーム攻略をティーの知識に頼っていた俺は、年上だとしても、多分ティーの中で順位があまり高くない筈だ。いくらまだ子供だとはいえ、頭を撫でられるのはプライド的にも許せないだろう。下手な慰めは逆効果だ。
洋ナシを食べるバルサが俺に不満そうな目を向ける。それを横目に自分の為のおやつ――グレープフルーツだ。これはまだ沢山ある――を食べながら、ギルメン同士の思わぬ人間関係の難しさに内心ため息を吐いた。
ギルマスのカインは身内に係り切りで、日に1度、短時間しか顔を出さない。サブマスの里香ちゃんは部屋に篭もりっぱなし。トウセもそうだ。ティーはリアルに子供だし、所詮学生のバルサもこの通り子供じみている。ほむとヒヨさんはいつもの調子である意味頼もしいが、情報収集の為に外出が多い。それは適任だから仕方ないとは言え、留守番中は残った俺が必然的にホーム内を取り仕切ることになっている。正直荷が重い。
いや、わざわざ担ぎ持つような荷でもないのだろうし、多分俺が難解に考え過ぎているのだろうが、それでも気が滅入る。
――正直、飯だけ作っていればいいと思っていたからな……。
もちろん日に3度、カインの身内の分を含めて9人分――実質にはほむの所為で12人分だが――の食事を作るのは結構な重労働だ。だとしても俺は、リアルな共同生活を甘く見ていた。
そりゃヒヨさんが見知らぬ他人――カインの身内ですら連れてくるのをあれだけ嫌がったわけだ。"ゲーム"から離れてしまえば気心知れたギルメンですらこの有様だ。いくらカインの身内でも、初対面の人間と1からコミュニケーションを構築するなんてストレスマッハだ。面倒過ぎる。
実家が料亭だった俺は、他人との共同生活は慣れたものだからと軽く思っていたが、あくまで俺は雇い主の息子だった。そもそも店とは別棟の母屋で暮らしていたし、日光アレルギーの件もある。
おまけに俺は末っ子だ。姉たちはよく俺をかまってくれたし、年が離れているせいもあって、ただただ優しかった想い出しかない。自分で思っていたよりも遙かに遠慮されて、甘やかされていたのか。そう言えば、よく母が仲居との人間関係に頭を悩ませていたな。……一体実家で俺は何を見て暮らしていたんだ?
ああ、そうだ。日陰に閉じこもって暮らしてたか。
いまさら気づいた事実に、グレープフルーツの酸味と苦味がやたらと沁みる。
28にもなって、いい大人のくせになにやっているんだか、俺は……。
よく考えなくても、ギルメンの中で俺はヒヨさんに続いて2番目に年長だ。おさんどんだけやってりゃいいって、どんな甘えた考えだ。馬鹿だろう、俺は。
自分自身の馬鹿さ加減に思わず大きなため息を吐く。とたん、思いっきり眉を寄せたバルサに、慌てて手を上げて手のひらを向けて釈明を示す。
「すまんバルサ。今のは自分に対する溜め息だ。どうにも俺は考えが甘く抜けたところがあってな、俺は馬鹿だなと気づいたから溜め息がでたんだ」
誤魔化して誤解されるより、正直に内心を吐露した方がいい。そう判断して説明した。苦笑しながらも再び溜め息をこぼした俺に、バルサがばつの悪そうに視線を逸らした。
「……さっきのはごめん。私が少し言い過ぎたわ。ティー、怒鳴ってごめんね。ちょっとイライラしてて……。私もまだこの世界に慣れないから、覚悟もないし……不安で落ち着かないのよ。ごめん……」
尻つぼみ気味ながらも謝ったバルサの言葉に、ティーがクッションからようやく顔を上げて「ん」と頷いた。
ティーは落ち着かなそうにクッションを揉んでしばらく無言でいじり倒すと、小脇に抱えたまま窓際のソファから離れて、ようやく俺たちの居る場所まで移動してきた。
「洋ナシ、食べる」
俺の隣に座って、積まれたクッションを背中や脇に積んで体を囲ませていた。
壁か。いや、盾かな。
むっつりとした顔のまま手を出して言ったティーに、俺は半分取り分けていた洋ナシの皿を渡してやる。ティーはフォークに洋ナシを突き刺し、もしょもしょと、いつもより小さな口で時間をかけて果実をかじりだした。
昔は俺もこんな風に子供の時があったのだろうな。いや、こんなんだったかな? どうかな、覚えて……よし、忘れておこう。
自分の駄目な過去とティーにノスタルジーを感じて、急に老けた気分を味わう。そんな俺の憂鬱を吹き飛ばすように、唐突に広間の扉が開かれた。
「ただいもー。あら、おやつの時間だわ。いいとこ帰ってきたわぁ。ゼロス、俺にも洋ナシ貰える?」
――待ち人来たり。
ようやくのヒヨさんが帰宅だ。目深に被っていたフードを落としてヒヨさんは愉しげな笑みを披露した。そして体を覆う長いローブを外すと、小さな白い花が付いた小枝を掲げて披露した。
「ああ……お帰りなさい。お疲れさまでした。残念ながら洋ナシはこれが最後なので、補充をお願いします。――蜜でもあるんですか、その花」
小枝からもぎ採った花をひとつ、唇に挟んで吸っている。オフィーリアの艶やかな唇が白い小花を咥える図はなんとも絵画的だ。だが、いくら美女でも中身は残念ながらあのヒヨさんだ。見惚れるより前に猜疑に身構える。
「それ美味しいの?」
ティーの目が花に釘付になった。疎かになった手元で、フォークから柔らかな洋ナシが抜け落ちた。俺は慌てて、ソファに落ちた洋ナシの欠片を救って皿に戻す。いかん。絹浮き織り(ブロッカート)の張られたソファに染みが。
「そ。庭に咲いているこの花、食用出来るのよ。蜜たっぷりで甘くてな。う~ん美味い、もうひとつ! ってな感じよ?」
「俺も食べたい!」
濡れ布巾でソファを叩く俺の横で、物欲しそうにティーがソファから身を乗り出した。ヒヨさんが小首をかしげて不思議そうな顔を作り、さも無念そうに溜息を吐いた。
「おやん? ティー今日は庭で探検するって言ってたろ。この花見つけられなかったの? 残念、他にも色々あったのになー。いくら庭が広いからって、ティーザラスさんにしてはちょっと攻略の仕方が甘いんじゃない?」
とたんにティーが頬を膨らませる。
「違うよ! 庭はこれから探検すんの! ――バルサ、一緒に行こ!」
「……しょうがないわね」
一瞬ティーが俺とバルサを見比べて、バルサを選んだ。渋るふりで肩を竦めたバルサがソファから立ち上がった。
「あんまりつまみ食ばかりして、夕飯食べられなくならないようにな」
声をかけるヒヨさんにおざなりに返事をしながら、ティーとバルサが広間を出ていった。
手を振って楽しげに2人を見送り、ヒヨさんが俺の斜め前に腰を下す。ティーの使っていたフォークで、残した洋ナシを口に入れた。
「あ! それ欠片の奴はソファに落としたものですよ」
「んぉ……、飲み込んじゃいました……」
口元に手を当てた微妙な顔でヒヨさんが自分を納得させるように呟く。
「……ま、この家は綺麗だから、大丈夫でしょ、……多分。……土足だけど。……大丈夫だといいな……」
そう言えばヒヨさんは潔癖だったか。その割にティーの食べ欠けや、庭に咲いている花を平気で口に出来るのは何でだろう? 判断の基準が謎だ。
「ゼロスもお花、おひとつ如何?」
「せっかくなので頂きます」
差し出された枝から花をひとつむしる。ガクに歯を立てて吸えあば、花の香りごと甘い蜜が口の中に充満した。
「懐かしいですね。昔ツツジとかこうして食べましたよ。ツツジの花弁には酸味がありましたし、小さい頃は蜜しか食べられないのが残念だと思ってました」
「その花は丸ごといけるよ。ツツジね、俺は藤の花とか好きだなー。天ぷらにすると美味いのよね、あれ」
「確かに。藤の花は柔らかくて香りもいいし、仄かな甘さが天ぷらにして食べると引き立ちますね。……これなんて名前の花ですか?」
8枚の花弁が小さくまとまった白い花は花弁は肉厚で、雄しべに花粉が僅かに付いている。小さな4枚ガクを外してから口に入れて食べる。
強い花の香りが鼻から抜ける。花弁は柔らかくて瑞々しいが味はあまりなく、代わりに吸いきれなかった蜜の甘みが広がって美味い。
前庭で咲いているものだろうか? 課金別荘の表側は、屋敷を飾るように春らしく様々な花が満開になっている。ミモザらしい黄色い花が頭上から降り、薔薇のアーチが咲き乱れて、閉ざした玄関にまで甘い香りが立ち込めていた筈だ。
「さぁ? 名前はわからん。ゲームの時は課金別荘専用のオブジェクトの一種だったから、固有名詞の設定がないのかもな。インベントリに入れたときの説明で食べられるってあったから、ちょっと試してみただけだ」
「正直、ヒヨさんの潔癖の基準が解りませんよ」
「これインベントリに入れて、ある意味完璧に洗浄された状態なのよ? そうじゃなくてもフツーに現代日本の衛生観で充分大丈夫なの、俺」
「そうなんですか?」
言葉通りなら俺と変わらない衛生的価値観だ。だがそれなら何故潔癖と自称するんだ?
「しかしインベントリの収納法則は、なかなか難儀ですね」
「そうねぇ。でも継続して使えるだけ有難いな」
「確かにそうでしたね。ここはもうゲームではないから、インベントリが使えるだけマシか……」
インベントリの収納法則の変化。ゲーム時代と変わらず使用でき、物を洗浄することにも使える。しかし色々試した結果、制限も見つかった。
例えばアイテムの個数認識。
基本的に、ゲームで装備やアイテム設定されていた物は、同じ物をいくつ収納しようとも[アイテム*個数]の1項目で表示される。エリクサーを5個入れれば、[エリクサー*5]だ。
ところがゲーム時代ではオブジェクト扱いされていた物、例えば庭に生っているグリーンピースなどをインベントリに入れようとすると、その収納法則から外れる。
もぎたてのグリーンピースを3鞘収納した場合、[グリーンピース(課金別荘裏庭産)*1]という表示が3列並び、インベントリの容量を3項目消費する。また、グリーンピースが9つ実った枝ごと収納すれば、[グリーンピース9鞘の枝(課金別荘裏庭産)*1]になる。
しかし課金別荘のマスター権限を持つヒヨさんが、システムから[グリーンピースを収穫する]を選んだ場合は、インベントリではないが、別荘専用のアイテムボックスに[グリーンピース(課金別荘裏庭産)*収穫した数]、の1項目だけ消費して収納できる。――庭の手入れの一環として扱われるらしい。
ちなみに料理スキルの存在しないゲーム内において、グリーンピースはアイテムではない。課金別荘専用のインテリアに分類されている。
他にもいくつかのドロップアイテムの問題がある。
初日にほむとティーが狩ったグランゾ鶏。本来なら[グランゾ鶏の尾羽]とか[肉]とかが自動でドロップされ、[尾羽*2]とか[肉*2]と表示されていたものが、今ではグリーンピースと同じように、個数分だけ項目が増えるようになった。
ティーは「ドロップではなく、自分たちで解体した行為」が、ゲームの収納法則から外される原因ではないか、と推測していた。
「プログラムで同じ数値のアイテムとしてコピーされ表現されているのでは無く、手動で取り分けてアナログ化がかかったもの」の差になるのか? だが、それもまた例外が存在していた。
初日にヒヨさんが作ったスープだ。
課金別荘やゲーム時代のホーム用インテリアとして作られたカップに鍋からスープを注ぐ。
8個のカップをインベントリ――ギルド共通タブに入れた時の表示は[スープ(オフィーリア作)*8]だった。ところが、ほむが外出した先の店で調達してきたカップに注いだ場合は[スープ(オフィーリア作)*1]が8項目で表示されてしまった。
もともとインテリア設定された"ゲーム時代に購入可能だったアイテム"でないと、中に入れる物が同じでも複数の項目を消費するらしい。
だがやっかいなことに、中身が同じスープでも、時間の経過で温度や状態が変わった物は同一品として判断されない。
同じ鍋のスープでも、注いだばかりの暖かいものと、放置して冷えたものとは別扱いだ。たとえ暖め直したとしても違う物だと判断される。
極端な話になるが、同じ鍋のスープをインテリア設定されたカップ50個に注いだとしても、最初にスープを入れたものと最後に入れたものでは温度が違ってしまう。だがそれでも[スープ*50]だった。
この温度差――なのか、時間差なのかの許容範囲はまだよく分からない。
他にも色々煩雑な法則があるが、ひとつひとつ例外を確かめていくしかないようだ。実に面倒臭い。
ソファに背を預けて唸った俺にヒヨさんは笑って、「ところで」と切り出した。
「ティーとバルサは仲直りしたのね」
「……ええ、まぁ」
ソファの席選びで俺の隣を選んだティーは、それでもバルサと庭に一緒に行った。ティーもタイミングを計っていたのだろう。
「ヒヨさん。この間の件ですけど、バルサとも……」
「そうね。あとで俺もバルサと話すさ」
この2日間、何度言っても流された俺の進言をヒヨさんが受け止めた。
話し合い――と言うか、人間関係を懸念した俺の一方的なお願いになるのか?――それを今回も躱されるのかと思っていたが……。
俺が驚いて目を瞬かせると、「ティーとバルサの間にケリが着いたからな」とヒヨさんが答える。
「……ヒヨさんが先にバルサにフォローした方が、こじれずに話が早いと思ったんですが」
「それじゃぁ意味ないな。ティーが勝手な行動をとったのは事実だが、バルサも自分に手落ちがあると思ったから、ああも反応したのだろうしな」
「しかし――」
「死んだ人間は生き返らない。考えナシに行動したティーが何事もなく無事に生きていたから、そこれにて問題なし、ってのは所詮結果論だ」
何も言えずに黙った俺に、ヒヨさんは片眉だけを上げて笑顔に苦みを乗せる。
「俺は保護者代理として、一時的にバルサにティーのお守を頼んだ。バルサが成人していて、短時間のお守りぐらいなら責任を持って全う出来る大人だと判断したからだ。そしてバルサも俺の依頼を了承した。――この辺のことは後でバルサと直接話すけどな。俺は、本来ならとっくに成人している人間に対していちいち説明する必要はないと思っている」
俺はバルサの親でも上司でも何でもないしな。そうヒヨさんが付け足す。
「流石にあの仕打ちは……。バルサだって、責任を真っ正面から追求されなければ反省のしようもないでしょうに」
「その前に、バルサからの謝罪を俺はまだ聞いてないんだが。――ま、それはどうでもいい。ただ、言葉で責任を問われるより、舌打ちひとつくれてやった方が、心底身に沁みるんじゃないかと俺は思うがな」
俺にそう答えて肩をすくめると、ヒヨさんはもいだ花をさも美味そうに食べる。
言っていることは解る。しかし少々苛烈なヒヨさんの意見に、俺は胸に篭もるものを覚えて溜め息と共に吐き出した。
「俺も料理人ですから、口頭で諭されるより怒鳴られた方がすぐに身につく、なんてこともありましたけど、それはあくまでそういう現場だと最初から覚悟した場合の話ですよ。……バルサは単なるギルド仲間で、リアルでは学生でしょう。ヒヨさんの考えはバルサに理解できるとは思えませんよ」
「あらそうなん? それならそれでバルサとは話してみるさ」
ヒヨさんが首をかしげて、そして憂鬱そうに「あーやだやだ」と溜め息を吐いた。
「価値観の相違かジェネレーションギャップか。それもこれも俺が心底おっさんになったってことだね。俺のフレッシュさったらどこに旅立っちゃったのか――ムバック浅慮! つっぱしれ情熱っ! たぎりほとばしれ性欲ッ!!」
……最後の言葉にやたら感情を込めてヒヨさんが叫んだ。
呆れた顔で見る俺に笑いかけて、ヒヨさんがソファから立ち上がる。
「じゃ、そろそろ夕食の支度でも手伝うよ。――その前に果物補充しといたほうがいいかね」
「え、ああ、お願いします」
唐突な話の変更に俺はなんとか頷いて、使用した皿をまとめトレイに乗せる。皿はインベントリには入れずまとめるだけだ。うかつにインベントリに収納すると、汚れが全部床に落ちてしまう。
そうだ。午前中に同じ異世界移転組のメグさんからコールが来たので、それもヒヨさんと話さなければならない。
「ヒヨさん、メグさんから午前中に連絡が来たんですよ。お願いというか、相談事をされました」
へぇ、4日か。意外に我慢したな。とヒヨさんが笑う。――その笑みが、どことなく質の良くないものに見えた。
「流石。ギルマスじゃなくてゼロスに最初に連絡してきたか」
「あ、いや。メグさんカインより俺の方が親しいですし、カインには俺から伝えるって言ったので。……何考えているんです?」
「そらもう色々と。ま、その話は夕食の支度でもしながらしようかね」
剥いていたグリーンピースのボウルとガラ入れを持つと、鼻歌を歌いながらヒヨさんが広間を出ていく。……穿ちすぎか? いや、しかし……。
後ろ姿にバルサとの問題以上に厄介なもの感じる。だが何とも口にできず、仕方なく俺も厨房へと向うことにした。