初日 上 の うえ
第3話概要:「テンプレ物語、はっじまっるよ~!」
ヴァーチャルゲームをプレイする最中にそのゲームの世界に移転されるなんて、物語のお約束にしてもお粗末過ぎる。時代遅れにも程があって、王道ですらない。
あの時そう言ったのは誰だったか。
異世界移転なんて嘯いたところで、現実じゃ植物人間か心不全か、あるいは神隠しか。ゲームに熱中した挙句人生丸ごと現実から逸脱なんて、ネトゲ中毒のニートとどう違う。異世界移転なんて崇め奉って笑い話に出来るのは、ドロップアウトした本人ではなく、赤の他人だけだ。
そう笑って答えたのは誰だったのか。
――それは現実での会話。異世界で過ごす今は、もう誰も口にはしない話。
当たり前だが。異世界に移転した直後、俺たちは混乱した。
目の前には、レアドロップを求めて攻撃をしかけていたクエストボスの魔術師、ポリゴンで構成された石造りの地下室、ずらりと壁に掛けられ、部屋を照らすランプの光。本来ならHMDを介して見えるはずのその光景。だがそのありさまが、唐突に押し寄せてきた五感の解放で一瞬にして台無しにされた。
ディスプレイの向こう側。VRでは本来あり得ない感覚に、一瞬ギルメン全員が固まった。
俺たちはとんでもなく運が悪かった。
異世界転移なんて有り得ない事態に遭遇したこと。さらに、よりにもよって戦闘中に移転したこと。それらを不運ではなく何と表現できるのか。
もちろん。俺たちの境遇を単純に不幸だと悲観することは、結果として生き延れた俺たちにはできない。だが、運が悪かったと言うなら万人が認めてくれるだろう。……よほど変わった嗜好の持ち主以外は。
少なくとも最初から俺たちにはすがる糸が存在していた。
不幸中の幸いではない。はなから見えてる確かな脱出口。
俺たちがその時戦っていたのは、ギルメン全員分のアイテムを集める為に、それこそ何度も――正確な回数は覚えていない。空しさに溜息が止まらなくなるから――何度も溜息のように、あるいは単なる呼吸のように自然に反復し、戦闘した相手だったからだ。
不老の魔術師。不死を求めて人体実験を繰り返す狂った男。
最初に自らの家族を、恋人を、そしてあらゆる人間を浚い、残虐に殺した男。俺たちギルメンが何度となく戦って倒した男。――これがゲームのままであったならば。
――瞬間、視界に紗がかかる。
ラグか? 珍しいな、回線太いはずなのに。
そう思う間もなく地面を喪失し、慌てて足を踏みしめた。――踏みしめる? 足にコントローラーなんて付けていないのに?――踏みしめたまま、硬直した。
直後、発動した魔法が火花を散らし、俺の顔の直ぐ横を掠めて弾け飛ぶ。着弾。――発動から着弾に何フレーム分かの消費。
体が勝手に動き、いつもの手順で魔法をコマンドさせる。――コマンド? そうだ、確かにウィンドウが見える。ウィンドウは見えるのに、手に付けたコントローラーの感覚がしない。思わず自分の両の手を確かめる。
左手側には"魔法の本"が開いたまま空中に浮いている。淡く発光して浮くその本は、左手に持った杖、身に着けた装備と合わせて、再詠唱時間の短縮効果がある。いつもと変わらない装備、いつもと変わらないはずの戦闘。だから。ぼやけた思考を気にすることなく、頭の隅でツールが勝手にカウントする数字に合わせて、再びコマンドを準備する。
「次ッ! ゼロス・ティーGOッツ!!」
珍しいカインの怒声に、いつものように――何百回も繰り返した"作業"だ――ギルメンが剣技を発動する合間に魔法のコマンドを入れて――。
「ほむガードッ!」
叫び声とともに視界に銀色の糸が飛び散り、ようやく手元から顔を上げて前を見た。
「――ほむぅうッ!!」
「……え?」
ティーザラスの、――ティーの悲痛な声に一瞬呆ける。目に映ったのは赤く染まった銀色の髪、ちぎれ落ちそうな左腕。華奢な体に纏った服が引き裂かれて血が滲みだしている。身体の所々に突き刺さって貫通した石の棘が見えた。オフィーリアの身体から力が抜けて、その場に膝をつく。
オフィーリアが魔術師と俺の間に立って居る。何故だ? "フレンドリーファイア(味方討ち)"の概念があるこのゲームで、どうしてこんな場所にオフィーリアが居る? 味方討ちは、HPは減らなくても次の行動がキャンセルされるのは知っているはず。それにアバターが欠損するなんて、一体どんなバグが起こったんだ?
隣を見ると、ティーの前にほむほむらぶが立ってオフィーリア同様に怪我を負っていた。
範囲攻撃を喰らった……? ――そんな馬鹿な!
魔術師からの攻撃は、戦闘開始直後にパーティ全体にかけた"魔法バリア"と"遠隔物理バリア"の2種類で防いでいる。魔術師の範囲攻撃は物理攻撃に属している為、これを自動で防ぐには、当初の2種バリアと併用できない"物理バリア"を使用するしかない。
俺たちはこの戦闘で"物理バリア"を使っていなかった。その必要が無いからだ。
魔術師の攻撃モーションの始まった瞬間に、ある数値以上のダメージを与えることが出来れば、詠唱中断されて攻撃を強制的にキャンセルさせることが出来る。フレーム単位で計算して攻撃しているからこそ出来る芸当だ。
俺たちはいつもカウントに合わせて攻撃を繰り返すことで、最短時間かつ、ダメージを負うことなく戦闘を終えていた。
――終えていた筈だった。筈だったのに、何故!?
慌てて周囲を見渡す。
魔術師の繰り出す範囲攻撃は前方向に水平約160度、垂直75度の範囲だけだ。その範疇外、魔術師の斜め後ろにバルサが、ほぼ真横にカインが、そして俺の遥か後方に支援職の里香ちゃんとトウセが……トウセが――なぜ、そこに支援職のお前が居るんだッ!?
「――トウセッ! 早く回復をっ!!」
カインが焦った声で叫ぶ。
俺のすぐ後方でうずくまったトウセの身体に、その瞬間、纏わりつくように黄色のエフェクトがかかる。体のあちこちに刺さった石の棘がトウセのから抜け落ち、映像を早回しで巻き戻したかのように傷が塞がって回復していく――回復していく。トウセの身体だけがっ!
「トウセ違うッ!! 全体回復をかけるんだッ!!」
「――ゼロス次の魔法のコマンドを頼む。回復は俺が。次の攻撃まで時間が無い。早く」
絶叫したカインを余所に、目の前のオフィーリアが押し殺した声を発した。焦って目を向けると、膝を付いたオフィーリアの無事だった右手に回復用のクリスタルが握られ、発光し始めていた。青白いエフェクトが床を走り、ギルメンそれぞれの身体を包み込む。
突然右肩に痛みが走る。驚いて目を向けたはしで、肩に刺さっていた棘が抜けて床へ撥ね落ちた。――範囲攻撃の残骸。
「頼むゼロス、コマンドを」
血の気の引いた顔でうずくまったオフィーリアの声に従って、慌てて魔法攻撃をコマンドする。自分のすぐ前でも、しゃがみ込んだオフィーリアは攻撃範疇内ではない。コマンドされた魔法がエフェクト描く。目の前にスパークする蒼い光の球を作り、そこから蒼い稲妻が真っ直ぐ魔術師へと向かう。攻撃指定した上半身、胸部を狙って稲妻が弾けた。弾ける光の粒が消えた瞬間、バルサが背後から魔術師へと剣で切り付ける。
「次の範囲攻撃はほむがクリスタルで回復する。トウセに構うな。このままじゃジリ貪で追い詰められた俺たちが死ぬ羽目になる――もうすぐバフが全部切れるぞ」
そのオフィーリアの言葉に頭を殴られて、今までどこか傍観者めいていた視界が一気に晴れる。落ち着いていた筈の鼓動が早鐘を打ち始めた。動揺で震える手で頭を押さえる。額から滲んだ汗で手が濡れた。
血が滲んだままの服。左手に握る杖の感触。踏みしめた石畳の床。よどんだ土と微かなカビの匂い。被っていたはずのHMDが無い。ディスプレイの代わりに、眼鏡のレンズが鼻の先に見える――。
声が勝手に震えてくる。
「バフは、でも」
「ルーチンが崩れた。バリアのかけ直しは想定していない。バフが消えれば火力が足りなくなる。――その上、俺たち全員、火力極振り装備だ。全体攻撃を喰らえばHPの半分近くが一発で持って行かれる。HPが減るだけならまだしも、痛覚が邪魔をして戦闘が出来ん。MPにも限りがある。現状と立場が逆転すれば、一方的に嬲られて死ぬだけだ」
――死ぬ? 馬鹿な。ゲームで?
感情のない低い声、早口でそうオフィーリアが告げる。耳の奥で叩かれるように鳴る鼓動が煩くて、オフィーリアの言葉が半分も頭に入ってこない。呼吸が荒くなり、額から汗がしたたる。激しく目を瞬かせて、滲んだ汗の痛みを堪えた。左手で杖を握り締める。汗で滑って取り落としそうで怖い。乾いた口内で、無理やり唾を飲み込む。――恐ろしくて、魔術師から目を離すことが出来ない。
魔術師を凝視した視界の隅で、カウントされる数字がゆっくりと減っていく。
早く! 早く! 早くッ!! 早くゼロになってくれ! 早く魔法を発動させないと……ッ!!
魔術師の斜め後方で物理攻撃を必至に繰り返すバルサに、魔術師が視線を向ける。ヘイトの移動。常に正面でヘイトを取り続けたほむほむらぶ――ほむが倒れたせいで、対象がバルサに移ったことに気づいた。嫌な予感に鼓動が跳ねる。
魔術師が右手に持った杖を振り下ろす。――近距離からの物理攻撃。
「バルサ――ッ!!」
大きく顔を歪め歯を食いしばったバルサが、魔術師の攻撃タイミングに合わせてそのままカウンタースキルを発動させる。大剣で杖を弾くように切り上げて、弧を描くように刃を返す。自分の体重すべてを剣に乗せるように、バルサは魔術師の右肩へ刃を下ろした。
大剣で袈裟切りされて、上半身の断面が見えた。涙と鼻水、それに内圧から解き放たれて弾けた内臓をまき散らし、魔術師が凄まじい声で吼えた。
「――糞が! うっせんだよッ! モグラ野郎がッ!!」
回復が済んだほむが叫びながら剣技を叩き込む。直後にバックステップ。ティーの魔法の発動。光の柱が魔術師の身体を貫き、肉に穴を開け、表皮を焼きただれさせる。甲高い音を立てて、魔術師の杖が床に撥ね落ち転がった。
黒く焼けた唇を戦慄かせる。喘ぐ魔術師が、左右に分れたパーツ――右肩を、痛みに痙攣しているらしい左手で寄せ、傷口を合わせて押しつける。裂けた服の下の肉が泡立ち、混じり合い、癒着する。流れ落ちた腸を脈動する肉壁が飲み込んでゆく。――自動回復。
ゲーム内でもカウンター直後にあった謎の硬直はこれが理由か。そんなところまで、なんでこんなによく出来ているんだよ! 糞ったれッ!!
必死に肉体の修復を謀る魔術師を前に、俺もそうさせまいと魔法をコマンドする。オフィーリアの剣技、またバックステップ。さらにカインの魔法。
回復しようと動きを止めたままの魔術師に、カインが発動させた氷の矢が雪崩のように降り注いだ。
氷の矢に串刺しにされたままの魔術師の横で、床に取り落としていた杖が独りでに浮かび上がった。
「――全体攻撃ッ!!」
魔法を発動させたカインが警告を叫ぶ。
焦げた黒い顔に赤い目と白い歯だけが覗く。赤く血走った目を俺たちに向けて、魔術師が歪んだ笑みを見せた。指先から焼けた皮膚が元の肌色へと回復し、徐々に白く染まっていく。斑な左手で杖を掴んで、柄を地面に叩きつけた。
閃光が視界を焼く瞬間、ティーの前、そしてオフィーリアの後ろに陣取ったほむが回復クリスタルを発動させた。直後、赤い光が肌に刺さり皮膚を貫く。
そして痛みに思考を全て塗り潰された。
「かっ……――――ぁあアッ!!!」
喉の奥から声にならなかった何かが迸り、力が勝手に体から抜けて膝をつく。その傍から青い光が体に纏い付いて修復していく。
強烈な熱さと同時に凍える冷たさを感じて、体が震える。目から生理的な涙が流れだし、空気を求めて喘ぐ口からは涎がこぼれ地面に滴った。
荒い息を吐いて地面に這う。震える腕をつっぱって、なんとか倒れ込むのを避けた。傷ひとつない身体に受けた猛烈な痛みを堪え、きつく目をつぶる。足が震えて立ち上がることが出来ない。
「魔法のコマンドを、頼むッ!」
「あ、ああ……ッ」
絞り出したようなオフィーリアの声に、俺は閉じた目の奥で魔法をコマンドした。顎がガク付き、歯が噛みあわない。呼吸が勝手に嗚咽に変わり、粘度の低い体液が鼻から零れ落ちた。
涙に歪む視界でそれでも前を見据える。汗で濡れた指に砂が張付いた。ざらついて強張る指で杖を探り、なんとか握り直す。這いつくばった体を起こし、震える足を何度も地面に滑らせて立ち上がった。
「ほむ、頭をはね飛ばせッ!」
「イエッ、サーッイエッ!!」
肯きながら駆け寄ったほむが、魔術師の首元で剣技を発動させ――。
「――がッ!!」
詰め過ぎた距離を逆手に取られて、近距離から物理攻撃を喰らった腹部が弾け飛ぶ。だが、ほむへと攻撃した魔術師の頭部もまた切り取られて宙に舞った。
血と内臓をまき散らしながらほむが地面に叩きつけられる。口から大量の血を吐き出し、腹から臓腑がこぼれ出た。自分の内臓を片手でかき集め、痙攣した身体をそれでも無理やり起こそうともがく。
「ほむ! すぐ回復するっ! 回復するからっ!」
「ティー! 動くなッ!! ギルマス! 頭を潰せッ!」
必死に叫ぶティーがほむに駆け寄ろうと走り出す。その首の後ろを掴んで、オフィーリアが止めた。ほむほむらぶの身体に、回復エフェクトが纏わりつく。――青と黄色。
ティーが発動したエリクサーと、トウセがかけた回復魔法が発動し肉体が修復される。
「バルサ! 動けるならやれッ! ヘイトは俺とほむで取るから安心しろ! ティー、コマンド準備!」
ティーを自分の後方に引きずり倒し、オフィーリアが剣技を発動させる。その直後そのまま走り出して魔術師へと距離を詰める。
カインの魔法が発動して、床に転がる魔術師の頭へ氷の矢が突き刺さった。同時に俺が発動させた魔法が魔術師の身体へと降り注ぐ。青い稲妻。電撃を纏った魔術師めがけてオフィーリアが左手で持った剣をただ刺し込んで、身体ごと捻る。――空けた右手が魔術師の杖を掴んでいた。
目を見開いて、魔術師の頭部が吼えた。
そのままオフィーリアが魔術師もろとも稲妻に焼かれる。――フレンドリーファイア。
本来なら1ドットもHPは減らないはずの味方からの攻撃に、魔術師の杖にしがみついたオフィーリアが身体を大きく痙攣させた。その姿にティーが泣きながら絶叫する。
ただ特攻しただけに見えたオフィーリアに、俺も叫んだ。
「何故だっ!? ――ヒヨさんッ!!」
回復したほむほむらぶがエリクサー片手に跳ね起き上る。
「バルサッ! 回収するタイミングでよろっ!」
「分ったッ!!」
大剣にすがるように立っていたバルサがふらつく体を起こして、構えた。
ほむほむらぶが右手でエリクサーを発動させ、左手でオフィーリアの身体を魔術師の真横から攫う。その瞬間、バルサは真上から大剣を振り下ろして、焼けた魔術師の胴を真っ二つに割り斬った。
離すまいと握った魔術師の手から、力と、杖が抜けた。
「――もう死ねッ! もう死ねッ! お前なんかいらないっ! 早く死ねッッ!!!」
泣き叫ぶティーが魔法を発動させ、2つに裂かれた体がさらに光に貫かれて穴だらけになる。それでも、魔術師の身体からじわりと肉が盛り返し、自動修復がかかりだす。
「バルサ……剣が刺ささった。そこを狙え。あそこが急所だ。分かり……易いだろ」
「分りました。――カイン! 剣の刺さった場所を狙え!」
ほむに杖ごと回収されて地面に転がされたオフィーリアが、掠れた声で説明した。俺はオフィーリアへ肯いて、魔法をコマンドする。目の前から直線に発動するこの魔法は、大まかな攻撃位置の指定が出来る。分り易い目標があるなら、もっと細かく、正確に――ッ!
発動させた魔法の雷撃が剣ごと魔術師を焼く。
裂かれた肉体をさらに抉り、剣が刺さった位置を正確に焼切る。氷の矢が魔術師を床に縫い留める。それでも手を止めずに、ほむが剣技を重ねる。自動回復が掛かるに構わず肉を削り、えぐり飛ばす。吹き出す血が、肉が、臓腑が、折れた骨が、石の壁に叩きつけられて簡素な壁に張り付き飾る。回復したオフィーリアも追撃し、うごめく魔術師を細かく解体する。
そうして。
頭部を失ってなお激痛にもがき、のた打ち回る裂かれた肉の塊が只の肉片になるまで。――違う。設定されていたHPを余さず削り切るまで、俺達は攻撃し続けた。
「やれやれ。やっと終ったか」
マジ死ぬかと思ったわー。そう呑気な声でオフィーリア――いや、ロールプレイを完全に放棄したヒヨさんがぼやいた。
気の抜けた声に誘われて思わず脱力した。杖に縋るように膝をつく。同じように力が抜けたらしいカインとバルサが、血飛沫の染みた地面に構わずしゃがみ込んでいた。
ヒヨさんが片手でHP・MP全回復のアイテムを発動させる。緑のエフェクトがその華奢な肢体にまとわりつき――肢体にまとわり……。身に着けた装備の下、本来首元まできっちり着込んでいたはずの布の服が裂け、オフィーリアは裸同然の姿になっていた。
柔らかな脚線美、腰当からのぞくまろやかな尻。豊満な胸とは対象に腰は細く、そして髪の毛と同じ色の――。思わず状況を忘れて、目がその肢体に吸い寄せられる。
「ひ、ヒヨさん……」
「おーおー。辻ぃー元気だぁね。よかよか」
笑いかけるヒヨさんの目線の位置にぎょっとして、思わず自分の股間を確認した。慌てて右手で背中のローブを手繰り寄せて隠す。
「もう着替えたよ。安心しろ」
恐る恐る振り返ると、言葉通り新しい服を身に着けている。俺はため息を吐いた。
戦闘で興奮した所為もあって、やたらと顔が熱い。散らかった思考を整理する為に円周率でも数えようかと考えて、初っ端から失敗した。そう円周率、柔らかいもの。いや違う。思い出す――せない! はっきりって全く俺は頭が働いてない!
お気楽そうに俺に手を振りながら、ヒヨさんがトウセの傍まで歩いていく。
「トウセ。ほれ」
ヒヨさんが、歩きながら自分の指からはずしたアイテムをトウセに放った。地べたに座り込んでいたトウセが肩を跳ねさせ驚き、慌てて受け止める。――指輪だ。このクエストで手に入るレアドロップ。俺の指にも、ギルメンの指にもあるもの。
「トウセ、サブマスの様子がおかしい。頼む、瀬仍が支えてやってくれ」
サブマスの事、瀬仍に頼めるか? そう笑うヒヨさんに、トウセがなんとか頷いた。そしてよろけながらも立ち上って、頭を抱えたまましゃがみ込む里香ちゃんへと寄って行った。
「ティーぃ? 碓斗、大丈夫か?」
「ぅー……」
ほむの服の端を握りしめて泣くティーに、ヒヨさんが声をかけた。ほむが慰めるようにティーの背中を何度も撫でている。こぼれる涙を乱暴に袖で拭って、ティーが鼻を啜りながら唸った。
そのティーの様子に苦笑すると、ヒヨさんは躊躇することなく細切れた肉片の中に足を踏み入れた。屈み込んで何かを拾い上げる。指輪。俺たちが集めていた最後の1個分。
ヒヨさんは脂肪と血液にまみれた指輪を確認して、嵌っていた肉片を抜き捨てた。手の中で転がした指輪が消える。おそらく自分のインベントリに入れたのだろう。
舌打ちが聞こえて思わず目を向けると、眉を寄せたカインが居た。震える体に力を込めて立ち上がり、カインは厳しい顔でヒヨさんに向かって手を伸ばす。
「その指輪は俺が」
「おやそう? でももうこの指輪は持ってるだろう? なぁ、"ギルドマスター"?」
肉片の中で佇んで、楽しげにヒヨさんが笑う。一瞬唇を噛み締めてカインが肩でひとつ息を吐いた。そしてヒヨさんへとまっすぐに歩き出す。
肉片を踏みにじり、粘る血糊に足跡を残す。血溜まりに足を止め、カインがもう一度、今度は目の前に立つヒヨさんへ手を伸ばした。
「俺のと交換を」
手の平に自分の指輪を乗せて差し出す。何かをこらえるようなカインの表情に、ヒヨさんはただ肩をすくめて笑った。
「ま、ギルマスの好きにするといいさ」
そう言って、ヒヨさんは笑いながらカインの手の平に自分の指輪を置き、代わりにカインの指輪を受け取った。
一体、何の、話を……。
上手く働かないぼんやりとした頭で、その指輪交換劇を眺める。床に膝をついたままの俺に、大剣を杖代わりにしたバルサが覚束ない足取りで近づいてきた。顔色が酷く悪い。
「私本当に生きてる? ねぇ……、誰も死んでないわよね?」
「ああ。大丈夫だ、生きてる。……みんな生きているよ」
バルサに答えて、俺はようやく安堵のため息を吐いた。吐いたとたん、咽せるような血の臭いに気付いた。
えづきそうになって口元を手で押さえる。だが堪えきれずに喉の奥から何かがせり上がって、そのまま床に吐きこぼす――胃液のようなもの。
喉が酸で焼け、鼻に酸っぱい臭いが漂う。背中を波打たせるように何度もえづいて吐いた。バルサが背中を撫でてくれる。
「すまん……バルサ。すまん」
「大丈夫、ゼロス。……ああ、この血の臭い、私も結構キツいわ」
顔を真っ青にしたバルサがそれでも気丈に微笑んだ。だが微笑むその口元はひきつっている。
「バルサ、顔色が悪くなってる。俺に気を使うな。心配かけてすまん」
「あなたも顔真っ青よ。お互い様。――ねぇ! ギルマスもうここ出ましょうよ!」
「ああ、すみません。――みんな、隣の小部屋へ行こう!」
カインの号令に重い身体を引きずって、右手奥にある小部屋へと向かう。泣きじゃくる里香ちゃんに肩を貸すと、片側を支えるトウセに声をかけた。
「大丈夫か? トウセ」
「――悪い。俺。……俺、パニクってちゃんと支援できなかった」
白く血の気の引いた顔でトウセが呟く。青くなった唇が震えている。里香ちゃんの背中に腕をまわし、トウセと2人で支えて歩き出した。里香ちゃんのアバター"アレク"は体格が良い分、ひどく重い。身体をふらつかせて支えるトウセにバルサが代わろうと声をかける。
「アンタじゃ無理よ。代わるわ」
「いい。俺が支える。――俺がやる。ちゃんと支えてっから」
頑なに拒むトウセに、バルサが慰めるように言った。
「さっきのことは誰も気にしないわよ。あんなんじゃ仕方ないもの。私だってしばらく動けなかった。――アンタ、攻撃食らったんだからよけい混乱したんでしょ。凄く痛かったし、……仕方ないの。仕方ないことだったの」
「ぁあ……。……うん」
そう、自分にも言い聞かせるようにバルサが呟く。トウセはただ白い顔で肯いた。
小部屋の前で、カインが扉を開けて待っている。その小部屋の入り口とは反対側で立ち止まったまま、ほむがティーに何か話しかけた。ティーが頭を振って嫌がる。それを宥める様にティーの背中を撫でて、ほむがまた何か言った。渋々とした鈍い動作で、ティーが魔術師の肉片に向かって黙礼した。
ほむも深く頭を下げる。
「トウセ。――里香ちゃんも、ほら」
俺たちも倣う。
やるせない気分で黙礼すると、バルサが掠れた声で「最悪」と一言だけ呟いた。
扉を押させてくれるカインの横を通り小部屋に入ったとたん、血生臭さが消える。安心するあまりまた身体から力が抜けそうになって、あわてて里香ちゃんを支え直す。
20畳程度のこの部屋は、いわゆる安全地帯のようなものだ。ボス戦が終われば自動で鍵が解除されて、中に入ることが出来る。ダンジョン内における安全地帯。アイテムトレードもキャラチェンジも、そしてログアウトも出来る。――本来ならば。
頭の片隅に表示されるウィンドウからログアウトボタンと、GMコールボタンを探す。
――無い。
目をつぶってため息を吐く。無い。あるはずの場所にどちらも存在しない。もうどうしようもなく理解していた現実に、やはり打ちのめされる。
胃の中に重い何かが流れ込んでくる。
駄目だ。これ以上取り乱しても仕方ない。状況が変わるどころか、さっきのように悪化させるのだけは御免だ。だから。今はまだ何も考えるな。とても"リアル"な"ゲーム"だと思え。
大きく息を吸うと、気合いを込めて吐き出した。
攻撃で破損した自分の剣と、魔術師の杖――ドロップアイテムのひとつだ――を首尾良く回収したヒヨさんと、そして最後にカインが扉をくぐり小部屋へと入ってくる。
ヒヨさんが戦利品をインベントリへと収納し、ティーに歩み寄る。ほむの服の裾を握りしめたままぐずるティーの頭を、髪をかき混ぜるようにヒヨさんが撫でた。ティーに握られたほむの裾がすっかり延びている。
「目ぇトロけちゃうぜ、ティー。ほら、お前が掴んでるからほむが着替えられないだろ? もう大丈夫だから、ちょっと離してやれ。――で。これからどうするよ、ギルマス」
いつもの軽い口調でヒヨさんがカインに聞いた。
渋々とほむの服の端をティーが離すと、エフェクトがほむを包んで服が変わる。いや、服だけでなくアバターごとほむが変わった。――髪の色がさっきと違う。恐らくほむの最上位レベルのキャラ。俺たちギルメンのレベルに合わせたキャラではなく、ほむのアカウントの中でレベルが1番高いキャラだろう。
ほむやティー、それにヒヨさんは、"廃人"かつ、いわゆる攻略厨の気がある。カインの設立したギルドに所属した高位レベルキャラとはまた別に、ゲーム内でも正真正銘のトップクラスのレベルに達しているキャラを持っていた。
「いつもの通り、転移アイテムで地上に戻ろう。――ログアウト、やはりこの部屋でも出来なかったな」
「GMコールもな。しかし転移アイテムなんて、ちと無謀じゃないの? 転移したとたん岩に埋まって、アバターごとログがアウトしたりしてな」
笑って答えるヒヨさんに、転移アイテムのクリスタルを取り出したカインがかぶりを振る。
「ゲームの仕様通りなら、俺たちパーティの座標とアバターを物理的に固定して転移するから大丈夫だ。……それに、俺たちはこのダンジョンを遡って帰る為の用意がない」
VRゲームにおけるアバターとオブジェクトの接触認識は、特に気を使って制作されている部分だ。ゲーム中に壁や他のアバターにめり込むような事態は、今時どんなVRゲームでもあり得ない。
もし目の前の物体をアバターが貫通するのなら、それはバグではなく最初から設定されもの、――大抵はクエス関連の目くらましで設置されたもの――になる。
当然、どんなに混雑した場所に転移をしても、アバター同士がぶつかったりする事も無い。固定した座標のまま移動できる場所にのみ転移される。それ故に、混雑すると分かっている場所に転移する時には、なるべく固まっておかないと望んだ場所より遠くに飛ばされたりする。もちろん必ず地面の上だが。水面や空中に放り出されることは絶対になかった。
絶対に無かった。とは言え、ヒヨさんがためらう理由も分かる。しかしカインの主張もよく理解できる。
俺たちはレアアイテムの指輪をドロップするため、極限まで効率化した戦闘を行っていた。
モンス除けの鈴を大量に使って強引にダンジョンを走り抜け、ボス部屋では火力に極振りして魔術師を倒す。そしてドロップを確認しては即転移。またクエストの受注からやり直し。常に片道しか想定していない俺たちには、転移アイテムを使用する以外まとも帰還できる手段が無かった。
肩を抱いたままの里香ちゃんに目を向ける。大きな涙を目からこぼして泣きじゃくる里香ちゃんに戦闘は無理だろう。それどころか、こうして歩くことすら難しい。――いや、里香ちゃんだけでなくトウセも、バルサも、そして何より俺も。もう、戦闘は無理だろう。
例えここに留まって時間を置いたとしても、今よりもっと悪化しそうだ。ここがいくらゲームでセーフティーエリアに設定されているとしても……。
狭い小部屋を見渡す。
壁に掛けられた灯りがぼんやりと室内を照らしている。それだけだ。窓もない、ただ扉がひとつだけ。その唯一の扉から繋がる大部屋には細切れの肉片が散らばっている――筈だ。もう復活はしないとは思うが、俺は恐ろしくても確かめられない。扉を開いた瞬間に復活されたりしたら、俺たち全員の終わりだ。
さらにボス部屋の手前には、鈴で避けきれなかったモンスが大量に集まって居るだろう。ゲームの設定のままなら、俺たちがこのダンジョンから抜けない限りは――他の不幸なパーティがこのダンジョンに入り込んで居ない限りは――ターゲットが外れて、もとの位置に帰ってはいかないのだから。
この室内で、一体どのくらい正気で留まっていられるだろう。そもそも換気はどうなっている? 酸素はどのくらい持つのか。それとも"ここは"酸素という概念がないのか?
――考えれば考えるほど息が詰まってきた。
「俺がギルドマスターとして独断します。もう俺たちにこれ以上の戦闘は無理だ。――今すぐ地上へ転移する」
カインが宣言すると、転移アイテムを発動させた。カインの手の中で、徐々にクリスタルが明るく光り出す。
軽く肩をすくめたヒヨさんが、まるでウィンクするように片目をつぶり、装備し直した剣を構えた。攻撃を当てれば発動する前のコマンドが中断される。フレンドリーファイアの設定のひとつだ。
カインに何を? ――まさか、強制的に転移をキャンセルさせる気か!?
ヒヨさんの行動に驚いたカインが目を見開いて、一歩下がる。
「――ヒヨシさんっ!?」
叫んだカインを余所に、ヒヨさんは閉じた目に片手をあててそのまま動きを止めた。瞬間、カインの手の中、クリスタルから緑色のエフェクトが迸る。――転移。
視界が光に覆われる中、ほむも同じように手で片目隠し、もう片手で剣構えているのがかろうじて見えた。2人の真ん中に挟まれたティーだけが、不思議そうに小首をかしげていた。
目の前全てが緑の閃光に塗りつぶされて、体が浮遊し、――そして落ちた。