下 の なか
「サブマス、額にシワ寄ってるぜ。カッコ悪ぅーい!」
「五月蠅い。変態は黙って。話しかけないで」
「わぁ、理不尽! ――ところで着いたよ、ここがホームね」
指し示された家を見る。大通り沿いにの突き当り、そこから少し小道に入った場所に建つギルドホームを私は初めて見た。
オアシスの繁華街に当たる大通りに建ってるだけあって、縦に長く横に狭い造りだ。
「なんか……凄く静かなんですけど」
「住居エリアの方がプライバシー保護の権限が高いからなぁ。外からじゃ室内の様子は分らんよ」
ギルドホームを見上げて言うと、変態男が答えた。
大通りから見る3階建てのギルドホームは、2階の窓に明かりが灯っていること以外に人影も見えない。変態男がギルドホーム入り口の扉を無造作に開けて、私の背中を軽く叩き入室を促す。暗い玄関が何だか怖くて、あたりを伺いながら恐る恐る足を進めた。
間接照明が薄暗く足元を照らす玄関へと入っても、ホームはしんとして、人の声がまるで聞こえなかった。微かに耳に届くのは街の喧騒だけで、それも後ろで閉められた分厚い扉に阻まれて、酷く遠い。薄暗さと音の少なさに不安に駆られて、思わず声を潜めて聞いた。
「あの……。皆どこに居るの?」
「うん、どこに居ると思うよ?」
にこりと笑う変態男が小首を傾げた。薄暗がりの中浮かび上がるその顔とあの瞳の色に、何だか不審さを感じて後ずさる。しぃっ、と変態男が指を自分の唇に当てて片目を瞑った。
「ほら、外の音はちゃんと聞こえるだろう?」
「え? え、ええ。うん……聞こえるけど、それで皆は――」
「つまり、外よりも中が。中も、1階よりも2階の方がエリアの優先度が上なのね。――そう、俺が設定したわけだ。だからね、室内でいくら叫んでも外の人間は気付かないよ」
愉しげに語るそのセリフに知らず肩がはねた。近づいてくる変態男が怖くて、さらに後ずさる。じりじりと距離を詰めてくる変態男から逃げようとした瞬間、後ろに引いた足が壁に当たった。びくりと全身が震えて、身体が自然と強張る。
――と、変態男が私を追い詰めるように壁に手を付いて、吐息がかかる位の距離で笑った。
「待……ッ!」
「で、これが上へ行くための扉なんだけども。……サブマス何やってんのよ? みんな3階に居るから、さっさと階段登ってくんない?」
壁に背を預けていたつもりで扉に寄りかかっていたらしい私を全く配意することなく、変態男が扉を押し開けた。――開けられたおかげで、さっき打ったばかりのお尻とついでに腰を階段の角にしたたかに打ちつけて、私は再び声も出せずに悶絶する羽目になった。
「サブマスーぅ。俺、すんごくハラ減ってんのよ。早く食事したいんですよ。だからそんなトコで座り込まれると、大変困るんですけども」
「――っつ! あんたのせいでしょ! っもう!」
濡れ衣酷いわぁ。と、いかにも心外そうな顔を張り付けて、変態男は座り込む私を追い越して階段を登る。
「ほれほれ早く、早く」
――覚えてなさいよ! この変態男がっ!!
ちょいちょいと手招きする変態男に向かって内心罵詈雑言を吐きまくった。なんとか痛みを堪えて立ち上がることに成功する。変態男の後を追いながら、その無駄に広い背中をキツく睨みつける。階段を登る度にお尻に痛みが走り、奥歯を噛んで悲鳴を殺すことになった。ああ、もう本当に頭にくるっ!
所々にランプや発光するオブジェが置かれ、足元のみぼんやりと明るい階段を登りきると、大きな扉があった。そこが3階の広間らしい。やはり躊躇することなく変態男が扉を押し開いた、と、大きな窓が目に飛び込んできた。
3階の部屋はちょっとしたラウンジ風の広間としてデザインされているらしい。
扉を開けると大きな出窓が壁3面に広がり、その窓に沿うように巨大なソファが置かれている。モスグリーンのソファには所々にクションが小山のように積んであり、若草色や深緑、灰緑まで緑系のカバーが付けられて、まるでクッションで出来た繁みみたいだ。
部屋に入ってすぐ右横、廊下を挟んでいる壁側にはカウンターが備え付けられ、ちょっとしたキッチンとして使える。さらに左壁に付いてる扉は、3階奥の私室エリアへ行くためのものだそうだ。そして、部屋の中央には大きな丸いテーブルがあり、ギルメン全員分の椅子が並べられていた。
テーブルには美味しそうな料理がこれでもかと乗せられていて、部屋を開けた瞬間に鼻腔をくすぐった。大テーブルの脇にはさらに3つサイドテーブルが設置され、乗せきれなかった料理や取り皿、飲み物も置かれていた。
すでに他のギルメン達が集まっていて、それぞれ丸いテーブルの好きな席に着席している。
皆が笑顔で手を振ってきてくれる。変わらないギルドの面々が本当に嬉しくて、私も笑顔で手を振り返した。グラスをもったバルサ――相変わらず強面のアバターを使用しているらしい――バルサが、その精悍過ぎる顔をほころばせて挨拶をしてきた。
「サブマス、久しぶり。元気そうで良かったわ」
「ありがとうバルサ。うん、元気してたしてた! バルサも元気そうで良かった。ゼロスも、元気してた? 店は相変わらず繁盛してるの?」
「メグさん達のおかげもあって、なんとかなってるよ。今日も腕を振るったから、里香ちゃんも沢山食べてくれ。お土産もあるからな」
いかにも怜悧な理論家風アバターのゼロスが、眼鏡の奥の目を和ませて微笑んでくれる。
「嬉しい! ありがとうゼロス。――ほむくん達――ティーくんも、元気してた?」
「うん、元気してたぁ。サブマスにこれあげるー」
ひょいっと唐揚げを摘んで口に放り込んだほむくんが、視線を次の獲物に狙い定めつつもぐもぐと咀嚼しながら頷いている。と、ティーくんが私に向かって手を伸ばしてきた。なんだろうかと首をかしげて手を差し出したら、手のひらの上にそっと置かれた――花びら? の、水晶。
「キレーでしょ? あんねぇ、この間ビナーの海岸でみっけたんだー。サブマスにプレゼントするお!」
「ありがとう、本当に綺麗ね。大切にするね?」
「うん」
こくりとティーくんが頷いた。
うーん、相変わらずティーくんは素直で可愛いなぁ。アバターの見た目が18才位のハンサムな男の子だから、その仕草はちょっとアンバランスだけど。でも中身は確か13才位の子供だった筈だし、しょうがないか。
ちなみにほむくんの中の人は23才の立派な男性だけど、アバターはやっぱり17,8ぐらいの、如何にもやんちゃな少年マンガの主人公風な感じだ。いつも一緒にいる2人は、友達というよりはまるで兄弟みたいに見えた。
薔薇の花びらを模ったような白乳色の水晶を、慎重にハンカチに包んで上着のポケットに仕舞う。
「へぇ、海の花の欠片か。キレーなもんだな。それにしてもハラ減ったわー」
フードを脱いだ変態男が、いつもの定位置――ほむくんとティーくんの2人組どちらかの隣、当たり前のように空けてあるその場所――に座る。
「うわっ! なにアンタその顔。ちょっと、大丈夫なの?」
「うわっとか大丈夫とか言わないでくんない? 正しく俺の顔なのに。――まぁ、美化200%だけど」
眉を顰めたバルサからの容赦ない言葉に、変態男が顔を撫でながら答えている。そして楽しそうに笑って、自分の顔を揃えた指でつついた。
「キャラメイクさぼった結果がこの有様だよ! おかげで貴重な男キャラなのに、死蔵する羽目になったんだけどもね。道中フード被って来たし、色素含めて顔も微妙に弄ってあるから、なんとか大丈夫だろ。――ここ異世界だし」
「声も素のままじゃないですか。異世界と言っても他のプレイヤーも存在してますから、もうちょっと気を付けた方がいいんじゃないですか? あっち(現実)に戻れた時、困るでしょう」
「この場に居るのがギルメンだけじゃなかったら、もうちと考えたけどもねー。オフ会やって俺の顔知ってんだからまぁいっか、と思ってさ。でもってたまに男に戻らないと、いくら俺でもアイデンティティ崩壊しそうになるのねー。困ったねー」
オフィーリアだとサブマスも嫌がるしさぁ。そう言って、心配そうなゼロスの忠告をかわす。
――って言うか。この変態男、私が嫌がってたこと知ってたの!? だったら最初っから男で居てよ!
変態男を睨みつける。
「崩壊するようなもん、一応あったんすね」
ほむくんが呆れた顔で、実にもっともなツッコミを入れた。
「そらあるともさ。――主に股の間に、実に制御難物なヤツが」
「それをわざわざ捨てて楽しんでたじゃないの」
「それを捨てるだなんてとんでもない! 代わりに胸部に移動してただけよ? どっちも男のロマンの象徴ですもの」
「何がロマンよ。この変態がっ」
「――バルサ! ヒヨさんも、食事の席で下ネタ止めてくださいよ」
ゼロスがとうとう声を上げて説教モードに入ると、わざとらしくもしおらしい態度で、変態男とバルサが――何故かほむくんとティーくんも一緒に手を上げて、「はーいパパ」と4人仲良く声を揃えて返事をした。ゼロスのこめかみがぴくぴくと痙攣する。怒鳴りたくてもそのまま神妙な態度で席に着かれて、怒るに怒れないようだ。
……ゼロス可哀想。普段もホームで変態男に振り回されてるんだろうな……。
様子が想像できて、人事ながらうんざりする。変態男を何となく横目で確認するように見ていたら、席から立ち上がったカインに椅子を引かれて、着席を促された。
「どうぞ、里香さん」
「あ、ありがとう。カイン」
流石カイン。どこかの変態男とは全然違う! そうだよね。普通こうだよね。だって私はアレクだけど、中身は普通に女性なわけだし。
引かれた椅子に腰かける。私が座ったら、その左隣にカインが着席し直す。ちなみに右側にはゼロスが座って、皿からちょいちょい食材をつまんでは盗み食いしているほむくん達2人組に盛んに注意を繰り返していた。片手で切り分けられたミートパイを庇い、もう片手でほむくん達が手を伸ばすたびに蠅のようにパチリと叩き落とす。バルサはそれを呆れながら見つつ、お酒を飲み始めている。
――ねぇちょっと、すでにこのお皿ほとんど空になってるんですけど。今までどれだけつまみ食いしてたのよ、この2人……。
「トウセがまだですが、みんなもうお腹すいたでしょうし、先にはじめましょうか」
「やったぁ! 頂きますん! ミートパイ!」
「頂きますん! ミートパイ!」
私はカインの言葉でようやく変態男の隣の空席、そこにトウセが居ないことに気付いた。
ほむくん達2人組は遠慮なく皿に手を伸ばして、ガツガツと大手を振ってミートパイを食べていた。心底美味しそうにテーブルの御馳走を掻き込んで、見る間に皿を空にしていく。その食べっぷりに圧倒された。とりあえず私も食べ尽くされる前にと、サラダをカインと自分の皿に料理を取り分けて確保する。
「サラダどうぞ。あの、カイン。トウセどうしたんですか?」
「ありがとうございます。トウセですが、こちらに来る途中、酷い砂嵐に遭って随分と難儀したようです。結局飛べずに、モンスを振り切る為に走ってオアシス入りしたとか。相当疲れたらしくて、昨日からずっと寝込んでいるのですよ」
砂漠を渡り浮遊都市に辿り着くのは5日はかかる。けれど飛行系モンスをテイムしている私たちは、本来ならば半日程度でこの浮遊都市に来ることが出来る。ただし、便利な飛行系モンスにも欠点があった。大抵の飛行系モンスはその生態上、鳥目で夜間の飛行が出来ないのと、飛行高度が低いためにどうしても天気に左右されることだ。
だから滅多に遭遇しないとはいえ、砂漠で砂嵐やスコールに遭った場合は、地上に降りて歩いて渡るはめになる。
「走ってオアシス入りって……。モンス除けの鈴かテント、持って無かったんですか?」
「忘れていたみたいですね。確かに飛べる時には必要ない物ですし。砂漠に入るとギルドの共通タブも死にますから、後から出発したギルメン達も鈴を渡すことも出来ませんでした。それで結局、一晩中走って渡ったみたいです。無事オアシスまでたどり着けてなによりでした」
「……え?」
思わず変態男の顔を見る。2日前って、……この変態男、トウセより先に着いてなかったの?
いぶかしげに見る私の顔を見て変態男は笑うと、説明してくれた。
「俺が追っかけて砂漠入りした形にはなるが、その時にはもう連絡する余裕がないぐらいトレインしてたらしい。オアシスの手前で、ギルマスから連絡受けて待ち構えてた討伐隊がモンス処分して、はい終了ってな感じだったとさ」
「トレインしたあげく、他の人巻き込んで。あいつほんと馬鹿だわ。道中でMPKかましてんじゃないわよ」
「使ってる飛行ルートは、いわゆる蟻地獄だらけの最短距離かつ難関ルートを飛ぶから。まぁ最悪、巻き込んだところで大丈夫な高レベルプレイヤーぐらいしか居ないだろ。それか、通常行路を利用出来ない後ろ暗い連中だろうな」
だから別にいんじゃね? と、バルサのもっともなツッコミに変態男がいかにも軽い口調で答える。――バルサはともかく、変態の言い分は納得できない。だって、酷すぎる。
「"いい"なんて! だって、死んだら生き返らないのよ!?」
「里香さん、大丈夫です。一応、ゼロスさんが後を辿って確認してくれましたから。途中で誰かを巻き込んだりはしていなかったようです」
「それなら……。良かった」
「本当に幸いでした。早朝でしたが有志の討伐隊の皆さんに協力してもらえましたし、他にも色々と運が良かった」
「――早朝、だったんですか」
「ええ。もちろん死者や重傷者も出ませんでした」
「そうなんだ。本当に良かった」
ほっと安堵に胸をなで下ろした私に、変態男が面白くて堪らないと言った表情で笑った。
「討伐で死人は出なくても、そのあとでテンションが振り切れたらしいアホが浮遊都市から飛び降りたらしいけどな」
「飛び降りた、って……」
唖然として変態男を見返したら、今街では超ホットな話題よ? と笑顔で肩をすくめられた。
「高度約1万メーターからのダイブだ。絶景が目に焼き付くさぞかし楽しい旅路だったろ。想像するだけでも俺もテンションぶち切れそうだわぁ……!」
何という人類には早すぎるプレイ! マジ堪らん! そう変態男が文字通り変態らしい頭のおかしい妄想で身悶えると、サラダボウルに顔を突っ込むようにして食べていたほむくんがいきなり顔を上げる。
「――思い出した。ちょっと1発ぶん殴っていいすか」
「いきなりなんでお前がぶち切れてんの。目ぇ据わって怖いわー。ないわー。その顔ヒトとしてマジやばいわー」
半目のほむくんに躙り寄られて、変態がすかさず手元に確保していたミートパイを見せびらかす。――最後の1切れ。
「あ、俺も、もぅ1個食べたい!」
「お前らなぁ……。1人1個ずつの割り当てだったんだぞ。少しは考えて食え」
あっという間に空になる皿をミニテーブルに避けて、さらに自分のインベントリから料理をせっせと取り出していたゼロスが、呆れた様子で深いため息をついている。それを余所に、食欲に負けてミートパイを受け取ったものの、眉間にしわが寄ったままのほむくんと、さっきから散々食べておきながらお代わりを要求するティーくんが、結局パイを半分こにして食べていた。
この2人は本当に仲が良くて羨ましい。それにしても、いいな。ミートパイ私も食べたかったのに。しょうがない、こっちの野菜のキッシュを食べようっと。
赤いパプリカとベーコン、アスパラガスの緑、それに卵とパイ生地の香ばしそうな黄色が鮮やかに食欲をそそる。柔らかな野菜のキャッシュを崩さないようにそっとサーバーを差し込んで持ち上げた。慎重に皿に盛りつける私をカインが窺ってきた。
「ところで里香さん。彼女のことに区切りがついたところで、気分転換でもしてみせんか?」
「あ、します。嬉しいです。私もちょっと気分を変える必要があると考えてました。やっぱりずっと一緒に暮らしてた人が居なくなると、勝手が違いますね。見送ったばかりでなんですけど、凄く寂しく感じちゃって……」
まだ半日も経ってないというのに、私はもうジュリアが居ないことに堪えていた。思っていた以上に、ジュリアに心慰められていたらしい。
ゼロスが優しい表情で頷いて、考え深そうに目を細めている。
「ああ、あの引き取った子――名前なんだったけな……。結局顔を合わせなかったしな……。でも彼女、とうとう独立して暮らし始めたのか。そうか……」
「そうなの。……と言っても、今日からなんだけど」
「いや、それでも良かった。独立出来るぐらい立ち直ったってことだろ? 正直、一時はどうなるかと思ったけど、無事決まりが着いて良かった。
里香ちゃん、本当にお疲れさま」
ゼロスに労われて嬉しくなる。うん、そうだよね。寂しいけど、良いことだもん。私も吹っ切らなきゃ。
「うん。本当に良かった。やっぱり将来のことを考えると、あのまま一緒には居られないし。ちゃんとこの世界に馴染んで一般市民して暮らさなきゃね。どうやったって私たちみたいには成れないし」
「んー……。でもあの女の子さぁ」
「ティー。口の周りに食べカス付いてる」
目の前のご馳走に夢中になっていたティーくんが思い付いたように口を開いた途端、同じように食事を食い散らかしていたほむくんが自分の頬を指して注意する。
そのさまを面白そうに見て笑い、変態男が揃えた指先をひらめかせてインベントリからナフキンを出現させる。手品のような鮮やかな手つきに、インベントリを自由に扱える余裕が見えて、なんだが悔しい。渡されたナフキンで、ティーくんはゴシゴシと乱暴に口を拭いた。
「ティーぃ、逆、逆! そんな強く拭くと余計落ちないよ」
「んー……取れたぁ?」
「おーおー、取れた、取れた。ほれ、水飲んどけ」
「里香さん」
「え? あ、はい!」
変態男とナフキンをグラスと交換するティーくんをなんとなく見ていたら、カインから声をかけられた。目が合って微笑まれた途端、自分の頬に熱が帯びたのが自覚できてしまう。
「少し話があるのですが、良いですか?」
「え? ええ、もちろん!」
促されるままに席を立ち、一緒に廊下に出る。
扉を閉めた途端に響いていたギルメン達の声が消え、唐突な静けさに飲まれた。急な静寂に少し怯えるが、今度は街の喧騒が微かに耳に届いて、あいまいな不安が消えた。ほっと息を吐くと、カインが微笑みながらこちらを見ているのに気付いた。待っていてくれたんだろう。私もカインに笑いかけて話を促す。
「それであの、カイン。話って……」
「先日お話したことの続きになるのですが。里香さん、ここを引き払った後、ビナーで最近発見された図書島に行きませんか?」
「図書島?」
「はい。半年ほど前、踏破された西海洋域の大規模な諸島の中のひとつに、大きな書籍収集施設を有した小島が発見されました。その小島の通称です」
理解の意味を持つ"Binah"は、ゲーム時代で解放されていた大小6つのフィールドの中では最後に実装されたものだ。海洋面積が多く目印に乏しい上に、移動手段の船を手に入れる厄介さもあって、ゲーム時代は半分も攻略されていなかったフィールドだった。
公式公表されたAnnals(年表)における新しい項目――、"フィールド・ビナー、大航海時代の始まり!"にプレイヤー達は胸を躍らせた。そして、"新大陸発見"を掲げ、新しいワープポイントの解放の為にトップギルドが競うように船を操り、攻略に精を出していた。
――そっか、新しい陸地が見つかってたんだ……。
「図書島にほど近い群島のひとつに、ギルドホームを購入しました。そちらでまた書籍を編纂してもらいたいのです」
「――また、ですか……」
「すみません。また、なんですが、しかし今度はゲートが使えますから。フィールドの全ゲートが解放されたわけではないので、ギルドホームへの"ジャンプ"には制限があるのが難点言えば難点なんですが。それに俺も……諸島近海の大陸で暮らしますので、何かあったらすぐに駆けつけられます」
カインと過ごす新天地を想像して、じわじわと胸に喜びが湧き上がる。
「諸島はいわゆる南洋リゾート風の地域文化をもつところで、草食系のノンアクティブモンスしかいませんし、気候も穏やかで里香さんもきっと気に入りますよ」
「南洋リゾート……」
「ギルドホームのヴィラもデザインも使い勝手も良くて、周りの環境も良いところでした。……勝手に選んでしまったのですが、もしかして、その系統は里香さんの好みから外れますか? オフ会でその手のエキゾチックな感じの服装をされていたから、苦手ではないと思ったのですが……」
苦手ではない。でも、ものすごく好きと言うわけでもない。夏になればそれ系の服装が定番だから身に着けていただけ。……でも、服も靴もアクセサリーも全部自分で選んだ物だから。だから、身に着けるぐらいは"好き"と覚えていてくれたこと自体が凄く嬉しい。
「ええ……、はい! ……あの、よく覚えてますね。2年近くも前のオフ会の服装なんて……」
「はい。里香さんによく似合っていましたので。……綺麗だと思ったから、印象に強く残っていたみたいですね」
その言葉に、心の内で天まで舞い上がる。崩れそうになる表情を引きしめて、なんとか言葉を紡ぐ。
「あの、はい。大丈夫、行きたいです。環境を変えたかったこともありましたし……。なにより、その、……カインが近くにいるなら、凄く、心強いです」
「良かった。それで急なんですが、出立は3日後でも大丈夫でしょうか?」
「すぐにでも行けます。……あの、この前言ってた通り、ビナーへはカインも一緒に行くんですよね? ……その、2人で」
探るようになってしまった私の言葉にカインは「それはもちろん」と、屈託無く微笑んでくれた。
「ビナーに入ってから諸島までの交通手段が船だけなので、商船に便乗させてもらおうかと。今、あちらの商人と懇意にして頂いているのですが――大帆船で、安全だし凄く快適ですよ。約1週間の航路で、ちょっとしたリゾート・クルーズが味わえます。いい気分転換にもなると思います」
楽しみですね。そう言って、にっこりと微笑みかけられる。
「私、帆船って初めてです。リゾート・クルーズって、あちら(現実)の家族旅行で乗ったことあるのですけれど、船と言うより単なる海の上のホテルの印象しかなかったし、なにかご年配の方の方ばかりで……」
「ああ、なるほど。あちらのは淡水プールや劇場なんかがあって、豪華だと聞きいたことがあります。流石にそういった施設があるわけではないですが、こちらは若い人間が多くて居るだけでも活気があって楽しいですよ。招待してくれた商人さんも確か30過ぎたばかりの、若くしてやり手で評判の人です。今、一緒にこの都市に来ているので、里香さんには明日紹介しましょう」
――男として憧れるぐらい恰好の良い方でした。俺もいずれああ成れると良いのですが。
にこやかな笑顔の、伏せた目の奥で追想するようにカインが言った。