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異世界移転者の凡常  作者: 北澤
第2話 異世界移転者の日記
14/49

下 の うえ

 結局のところ、ジュリアは私の勧めを受け入れ、マルコスさん夫婦に引き取られることになった。



 昨夜は一晩中、ジュリアの部屋から鳴き声が漏れ聞こえた。今朝もそのまま部屋に閉じこもって私と顔を合わせないようにしていたが、それでも朝食をちゃんと作っていてくれた。……大変残念な出来になってしまってはいたけど。

 そして今朝は――、やはりキャロルは家を訪れて来なかった。あの時の「さよなら」は、本当の意味での別れの言葉だったようだ。好きな人が男色家だったと誤解した彼女の気持ちは、女の私には痛いほどよくわかる。だけど誤解を解くことは出来ないし、しない。

 思い出すと憂鬱な気分になる。けれど仕方がないことだ。キャロルも、ジュリアも、いずれにしてもこのままの関係を続けたところで想いに未来が無かったのだから。――そして、私も。

 少なくても昨日カインに会えたことは、私達にとって間違いなく先のある将来への転機になった。だから私は前を向かなくてはならない。自分の為に、そして2人の為にも。


 しんと静まった家を見回す。

 聞こえるのは、庭でざわめく木々の梢と鳥の歌だけ。今はもうこの家にジュリアは居ない。昼過ぎにようやく部屋から出てきて、私と顔を合わせた時には、もう彼女はすでに家を出る支度を済ませてしまっていた。泣き腫らした真っ赤な目から、さらにぼろぼろと大きな涙を溢れさせ、そしてジュリアは私に別れを告げた。


 ジュリアの荷物は驚くほど少なかった。肩にかけて担げる程度の大きさの鞄1個だけで、引っ越すにはそれなりの期間が必要だと思っていた私は、その簡素さにあっけにとられた。せめてマルコスさんの家までは見送りしようと言ったけれど、断られた。私の顔を見続けるのが辛い。そう言われてしまったのだ。

 そしてジュリアは鞄をひとつだけ持つと、そのまま振り向くこともなく去って行った。


 ひとつ溜息を吐く。ジュリアの居なくなった部屋は静かすぎて、出て行ったばかりなのにもう寂しくてたまらない。

 ひっそりした家の中を、不安さに足を忍ばせながら見て回った。近く私もカインと共に旅立つのだから、家を片付けなくてはならない。私は自炊が出来ないから、自室以外はもう使わないだろう。

 歩く端から見えた物をインベントリへとしまう。皮肉なことに、今日は1度も手間取ることなく物を収納出来ていた。


 家の中には、各部屋や廊下の要所要所にコフル――倉庫へのアクセス"ボックス"とも、単に"倉庫"や"長持ながもち"とも呼ぶもの――が設置されていて、一定の距離に近づくだけでアクセス出来る。インベントリが一杯になったところで、まとめて倉庫に移動させる。空になったインベントリ収集物リストをぼんやりと確認した。ジュリアの部屋前で足を止め、扉に指をかけ、そして離した。


 昨夜はどのくらいの時間、ここに立っていたのだろう。私が切り出した話の内容にジュリアは、それまで浮かべていた喜色を一瞬で失い、顔を真っ青にしてそのまま部屋に逃げ込んでしまった。ドアの向こうから聞こえる泣き声とジュリアの拒絶の言葉に、部屋に入ることが出来ずここからすっと話しかけていた。

 ジュリアを捨てるんじゃなくて、自立する必要があるんだって、そう言い続けた。この世界で生きていくために、この世界の人々と共に生活して暮らしていく必要があるって。けして私たちのような冒険者には成れないんだって。

 私はもう戦えない。戦えないけれど、いつかカイン達ギルメンと共に旅に出る。旅に出て万が一戦闘になった時には、剣は振るえなくても仲間を支援することは出来る。だって私の"アレク"はどれも高レベルの冒険者で、支援職"アレク"としても必要とされているのだから。そしてジュリアは、けしてその戦闘に参加することが出来ないのだから……。

 いつか旅に出るその日の為に、今までずっと準備をしている。いつか出る旅。――この世界から異世界、つまり現実へ、と。


 扉を開けてジュリアの部屋に踏み入る。目に映ったのは、備え付けられた家具以外何もなくなった部屋。机の上に置いてあった小物――私がプレゼントしたものだ――も、鏡台の上の化粧品も、サイドテーブルの上のぬいぐるみも、タンスの中の衣類も、何1つ無かった。昨夜から私物を処分していた気配はなかったし、もともとあまり物を持たなかったのかもしれない。だからあの鞄ひとつに収まったのだろう。


 ここに来てようやく私は途方に暮れて、ジュリアのベッドに座り込む。綺麗に整えられたベッドはホロフー鳥の羽毛布団で、あの日"ジュリアと一緒に"購入したものだ。

 ……ああそうだ、今日新しいのを届けて貰えるんだった。

 ふわふわとした布団を撫でる自分の手が、血が引いて酷く冷たくなっていることに気付いた。


「これも片付けなくちゃ……」


 ぽつりと呟いた声が思った以上に大きく聞こえて、私は目をつぶる。そして、堪えた。



《里香さん? 今、会話しても大丈夫ですか?》


 穏やかな、とても優しい声が頭の中に響く。カインの声はいつだって心を温かくする。つむっていた目を開いて、ジュリアの部屋を見た。――何もない部屋、さっきから何ひとつ変わらない部屋。


《もちろん。何かありました?》

《はい。今日夜にギルメン達と集まる予定のことで、少し》


 カインの声を聴いてじわじわと胸が温まる。冷えた手に少しだけ体温を感じて、よし、と気合を入れてベッドから立ち上がる。そして片付けを再開した。





 震える手で、肩にかけた鞄の取っ手を握る。たいして中身の入っていない鞄は、その大きさに見合わず酷く軽い。


「この部屋を自由に使ってね?」


 後ろから柔らかく声をかけられて、無言でうなずく。

 今まで使っていた部屋よりも狭いけれど、ベッドと机と長持、そして鏡台も置いてあって充分な設備だった。白い石造りの天井、それから少し日に焼けた壁紙が物悲しいけれど、素敵な部屋だと思う。……素敵な部屋なのだと、そう感じる。

 窓際の机の上に、鞄から取り出した蒼い表紙のノートを置く。窓の外は日が落ち始めて真っ赤に染まり、"残り日"が始まっていた。蒼いノートにも赤みが挿して紫に見える。


「ジュリアちゃん。今日からあなたはここで住むのだから、遠慮しないでなんでも言ってね?」


 そっと肩に手をかけて慰めるように言われた。

 後ろを振り返って顔を合わせたら、シンシアさんが困ったように眉を下げる。


「……恋が、叶わなかったと知るのはつらいもの。存分に悲しんで、そして吹っ切ってしまいましょう? ね。……私もあの人と会う前にはつらいことが沢山あったのよ? ……あなたの様に、酷い目にもあったの……」


 体を掻き抱くと悲しげに笑い、でも、とシンシアさんは呟いた。


「あの人と会って、そして私は幸せになったわ。あとのことは全部もう忘れて、ずっとマルコスだけを想って幸福に生きてこられた」

「……全部……忘れて?」


 ぽつりと零した私の言葉に深くうなずいて、シンシアさんがどこか遠くを見ているような目で微笑む。


「そう、思い出しても何も思わなくなったの。きっと全部吹っ切れたのね。……そしてマルコスと会ったの、紹介して頂いたのよ?」


 マルコスったら、ああ見えて貴族の三男坊でお坊ちゃまなのよ? と、シンシアさんはおかしそうに笑う。


「あなたにもきっと素敵な方を紹介して頂けるから、大丈夫」

「……でも、私……」

「もちろん、すぐにではないわ。まずはキチンと生活できるようにならなくては……ね? お料理とかマナーとか、覚えることが沢山あるから、きっと毎日忙しくて大変よ? そうしたらおのずとアレク様のことも、落ち着いて考えられるようになるはずだわ」


 うつむいた私にシンシアさんが励ますように言った。


「……私、なんでもお手伝いしますから……だから」


 もう、私は"ここ"以外には行く当てがない。――どこにも、帰る場所などない。

 不安で胸がいっぱいになった私に、シンシアさんは安心するように笑いかけてくれる。


「そうそう! お茶を淹れるのがとってもとっても上手なのよね! だからマルコスのお手伝いも上手く出来るわ。大丈夫、ゆっくり慣れていってね」


 私を優しく見て、シンシアさんが微笑んだ。私は泣き過ぎてひりひりする目を伏せて、頭を深く下げる。


「あの、どうぞよろしくお願いします」

「ええもちろん! これからずっとよろしくね。まずはそう……少しずつ必要なこと覚えていってね? ……そう、最初はマナーのお勉強からかしら? 接客のマナーは大切だもの。これからもずっとあなたの役に立つはずよ」


 私を励ますシンシアさんの言葉を真剣に聞く。固い私の様子にシンシアさんは少しだけ苦笑すると、なんにも怖いことはないのよ? そう言った。


「さ、そろそろマルコスも帰ってくるころだから、ジュリアちゃん、一緒に出迎えましょうね?」

「はい」


 うなずく私を微笑ましげに見ると、私の手を取って促す。


「私たち夫婦には子供が恵まれないから……ね、ごめんなさい。だからあなたを娘の代わりにしてしまうけれど、私たちの本当の娘のように思っているのよ」


 だから、あなたも私とマルコスの様に幸せになってもらいたいの。そうぎゅっと私の手を握るシンシアさんに、ようやく私はぎこちないながらも笑顔を見せることができた。


「はい! ……あの、ありがとうございます。嬉しいです」

「よかった。さ、それじゃ1階に降りましょうね」


 手を繋いだまま部屋から廊下へと出る。あまり広くはない階段を降りるためにいったん手を離したら、なんだか寂しくなった。

 そんな気持ちを自嘲して、階段をくだるシンシアさんの後を追う。


「そうそう、明日はあの人が来るからジュリアちゃん、あなたにも紹介してあげましょうね」


 私の恩人なのよ。そう朗らかに笑うシンシアさんにつられて、私もほんの少しだけ浮上した。


 街に深い藍色をした夜の帳が落ち始める。

 2階の廊下の窓から紫に染まった空が目に入る。美しすぎる一面の紫紺に、どうしようもない不安と、少しだけ見えた希望がさい交ぜにされて、胸が刺すように痛んだ。


 ――大丈夫、私はここで上手くやっていける。ちゃんと暮らして行ってみせる。そしたらいつか、アレク様の事も、全て心の整理が付くはず……。


 私は堅く手を握りしめて、そう決心した。





 浮遊都市から光のゲートを通り、下のオアシスへと降りる。

 都市を繋ぐゲートの利用料金はそこそこする。ついでに言うなら、冒険者向けの施設なのでこの都市ではなおさら高い。身一つで利用してこの値段だから、荷物を持った商人たちには関税とは別で痛い経費らしい。それでも日常品、特に食品に関しては特別の扱いが受けられるので、物価はそんなに上がらない、と……ジュリアが言っていた。


 いけない、いけない! もう、吹っ切らなきゃ。そう、良いことだったんだもの。いつまでもくよくよするのは駄目よね。落ち込んじゃ駄目だめっ!


 上とは違う、雑多なオアシスの大通りを歩きだす。

 日が落ちてもう夜だとは言え、オアシスは人通りが多い。屋台や建物の外壁に吊るされたランプの明かりが道を煌々と照らしている。活気が凄い。

 道の角を数えながら早足で進む。昔は何度かオアシスに降りてみたけど、この雑多な空気が凄く苦手。うっかりよそ見をしたり、立ち止まろうものなら、人から声をかけられて――つまり、ナンパされたり、ナンパされたり、ナンパされたりして大変なことになるから。

 顔が良いってこういう時不便……。まぁ、アレクは本当に恰好良いから仕方ないんだけどね。


 カインから教えられたとおりに道の角を曲がる。確か、この辺から道が複雑になるから、注意してくれって言われてたんだけど……。

 今まで直角に交差していた道が斜めに交わりだし、4差どころか5差路、6差路と入り組み始めた。カインに指示された場所――と、私が判断した道を行き、いかにも裏通りみたいなところを何本か通過したところで、本当は迷っているんじゃないのかと心配になってきた。

 じわじわと不安が沸いてくる。焦燥感に駆られてカインにコールしようとしたら、未読のメッセージに、「手が空いてるギルメンを迎えに出すから、心配しないで欲しい」とあった。着信時間をみると、どうやらゲートを通過中のタイミングで届いていたようだ。ナンパを回避することに頭がいっぱいで、メッセージが来たことに気付かなかった。添えられた道順と、今の状況は合致しているようなので、私は迷子ではないみたい。心から安堵する。ほっと息を吐いた瞬間、


「ねぇ。そこの……冒険者の人」

「え!?」


 細道の暗がりからいきなり声をかけられて、思いっきり後ろに跳び退る。距離を取ったところで声の方向を確認したら、細道のさらに細い壁の間から男がゆっくりと両手を挙げて出てきた。

 地味なマントを羽織り、安心させるように私に笑いかける男の顔は整っている。20代半ば位だろう。多分ハンサムと言って問題ない容姿のはずが、そのすさんだ雰囲気といかにもスレた笑い方のせいで、すごく胡散臭い。暗がりから出てきてマジマジと私の――アレクの顔を確認すると、胡散臭い男が目を見開いて驚く。


「うわっ! スゲー美形だな、あんた。キャラメイク上手いねー。それともデザイナー製?」

「デザイナー製のを自分でアレンジしたアバターだけど。……あなたも冒険者ですか」


 ――口の動きと言葉が合っている。この胡散臭い男の人も冒険者だ。美形ばかりのアバターを見慣れている冒険者に、アレクの容姿を褒められるのは嬉しい。嬉しいけどなんかこの男の人が胡散臭すぎて、嬉しさが微妙に半減する。


「うへっ、声まですげぇ良く調整してあるな。流石デザイナー製。そうそう、俺も冒険者。……ねぇ、あんた勝ち組っぽいね。凄ぇ顔いいし、さっきの動きも良かったし。レベル高いんだろ? それなら金もあるよね。――だったらさ、飴玉買ってくんないかな?」

「飴玉?」

「俺たちが作った、ノッポン印の飴玉。赤くて綺麗だろ? 木苺味。あ、甘いの苦手なら赤ワイン味もあるよ」


 地味な灰色の、使い込まれたんだろう擦り切れたマントを肌蹴けて、肩から背負っていた斜め掛けの鞄を開ける。小さな袋を取り出し、私に見えるように掲げてきた。麻を荒く織ったような半透明な布袋から、赤い飴玉が透けて見えた。

 飴玉? こんなところで飴玉売ってるの。ノッポン印って? もしかして日本ニッポン印のもじりなの? 何だか微妙なネーミング。


「木苺味と赤ワイン味か……。いくらなんだ?」

「初回だしサービスするよ。お試しだから……、味も2種類入れてやる。まぁ、この量だと、――こんくらいかな」


 そう言って、飴の小さな袋を見せつつ指を4本立てる。――って、それゲーム内通貨での値段だよね? 果実の砂糖漬けより遥かに値段が高いんですけど!


「高いからいらない。他をあたってくれ」

「いやいやいや! うちのは質の良い材料使ってんのよ。ほら見て、この地のきめ細かさ! そしてこの透明度! これが質の高さと後味の秘密でね、他のと違って絶対に後味良くすっきり終わるからっ! だからこれ値段に見合ってるんだよ。大丈夫、1回試してみれば分るから。ほら!」


 そう捲し立てながら、袋を私の手に押し付けてきた。びっくりして思わず振り払うが、それでも必死に懇願してくる。


「間違いなく1発で虜になるから! いい飴玉だよ! なぁ、俺を助けると思って買ってくれよ。その様子だと、あんた金に困ってないんだろ? 俺、これ売れないと生活マジやばいんだよ。メインとは別垢のキャラでこっちの世界飛ばされちゃってさあ、戦闘も出来ないし、とにかく苦労してるんだ」


 この人サブ垢で転移に巻き込まれちゃったのか。それは凄く気の毒だと思う。私は幸いアカウントを1つしか持ってないけど、ろくに育ててないキャラで来てたらやっぱり辛いだろうし。それに中期までのレベルが低い頃は、本当にゲーム内貧乏になるから。――課金をすれば別だけど。でもサブ垢で課金なんてそうそうしないと思うし……。

 ……うん。そんなに美味しいのだったら、1回くらい試してみてもいいかもしれない。不味かったら勿体無いけど植物の肥料にしよう。

 あまりの必至な様子に仕方なく心を決めた。


「……しかたないな。じゃぁ今回は買ってあげるよ。でも美味しくなかったら恨むからな」

「へへへ、お買い上げありがとう。心配しなくても、不味いなんてこと絶対ないぜ……。癖になるイイ味だよ。安心してくれ」


 上着の内ポケットから財布を取り出したら、飴売りの男がニヤリと笑った。あまり質が良いとは言えない笑みで、お金を払いつつも既にちょっと後悔してきた。


「本当に大丈夫なのか? これ」

「心配すんなよ、大丈夫だって。……次また欲しくなったら、だいたいこの辺に居るからさ、いつでも買いに来なよ」


 受け取った飴を袋越しに指で押して確認してみた。直径1センチほどの、おはじきみたいな型の小さな飴玉。濃淡の違う2色の飴は磨りガラスのようにキメ細かに透き通り、確かに綺麗だった。

 この人がこの辺にいつも居るなら、不味かった時には文句言いに来よう。食品だから返品は出来ないだろうけど、それはまぁ仕方ない。この人の生活費になったと思って諦めるしかない。


「わかった。不味かったら文句言いに来るからな」

「大丈夫だって! なぁ、お兄さん名前は――」

「――その赤い花粉玉、俺にも売ってくれ」

「え? 花粉?」


 いきなり後ろから声をかけられる。驚いて振り返ったらフードを目深に被った男――多分、男のはず――が佇んでいた。


「ちょっ! とっ!!」


 フードの男に目を奪われた私の脇から、飴売りの男が手を伸ばして買ったばかりの袋をいきなり奪い取った。慌てて袋を掴んだ手を叩く。ばちんっ! と凄い音をたてて袋を叩き落としたら、すっ飛んだ袋が細道の壁に当たって地面に落ちた。


「なにするんだ! ちゃんとお金払ったでしょっ!」


 舌打ちをした飴売りがそのまま踵を返して、さっき出てきた細い壁の間に素早く身を滑り込ませる。慌てて後を追って壁の間を覗き込んだら、飴売りがカニの様に横向きで狭い壁の隙間を走っていた。しゃかしゃかと両手を振る滑稽なポーズなのに物凄いスピードだ。あまりの光景にあっけにとられる。追うことも出来ず、ただ唖然と見る私の目の前から飴売りは横走りしたまま逃げ去っていった。

 後ろから含むような笑い声が聞こえてくる。


「あんな怪しい男相手に。――不用心だな」


 低く深みのある声でそう呟かれた。飴売りと同じくらい怪しい男が、目深に被っていたフードに手をかける。フードの端を長い指で摘み、黒い――違う、深い緑の髪がこぼれ出る。そのまま髪を滑るように、するりとフードが肩へ落ちた。

 うつむき気味の男の顔は整っていて、目元に影を落としたように前髪がかかっている。伏せ気味の瞼がゆっくりと持ち上がり、紫紺の瞳が私を見据えた。既視感からくる不吉さにたじろいで、思わず逃げ出すように1歩下がる。

 露わになった精悍な顔立ちは口元に微笑を湛えていた。射抜くように強く輝く紫紺の目を和ませて、どこかしら楽しそうに私を見てきた。

 歳は30過ぎくらいだろう男性。その姿に親近感を覚えて、さらに私は混乱した。


 この人格好良い……! ――じゃなくて、この人どこかで会ったことある。でもドコで見たんだっけ? こんな人、1度会ったら忘れられないと思うんだけど。でも、確かに見たことある顔の筈だし、ええと……。


 戸惑う私に向かって、その人は真っ直ぐ距離を詰めてくる。ゆったりとした重みのある歩みはなんの不信さも感じさせず、私はただぼおっと、その人が歩いてくるのをながめる。もうあと1,2歩で私をその腕に捕らえることが出来る。そこまで近づかれてようやく我に返り、慌てて後ろに下がった。

 いきなり警戒し始めた私に、その人は不思議そうに首をかしげた。


「――もしかして、俺が誰か分からない?」


 本当に? そう低く落ち着いた声――耳元で聞いたら腰砕けそうな、そんな深い甘みのある声で囁かれて狼狽する。その人は困ったように、それでいて見てるものを蕩かす様な優しい笑みで私を見た。宝石のような紫の瞳に見つめられて、なんだかもう、どうしようもなく焦る。


 あなた誰!? って、待って、その声は反則、反則なの! ちょっと待って、思い出すから! すぐ思い出したいけど、私いま混乱してるから!

 顔が赤くなるどころか、狼狽のあまり目まで涙で潤んでくる。おろおろと落ち着かない私の様子に、その人はカラリと笑った。――笑って、言い放ちやがった。


「うわぁ、ドン引き! "アレク"の顔でその態度はきめぇわ、サブマス。キャラ崩れ酷すぎるわー。ないわー! まじロールプレイヤーの名折れだわー」



「――五月蠅いっ、この変態がっ! 今すぐ死ねッ!!」


 怒りに任せて変態男の顔をぶん殴る――殴ったのに、ひょいっと頭を傾けて躱された。その避け方にさらにムカついて、さらに殴りかかる。今度は半歩下がって躱される。変態男は手を沿える様に殴る私の腕を流した。そのままくるりと私の後ろに回り込み、私の腰に手をかけて強引に引き寄せてきた。

 たたらを踏んで変態男の体に寄りかかる羽目に陥る。倒れまいともがく私の腕ごと捕まれて、あっけなく変態男の胸に埋まった。あまりの事態に私が取り乱して必死に身を捩ったら、さらに強く抱き締めて拘束される。その上、変態男は私の肩に顎を乗せてきた。

 耳元に口を寄せられ「ねぇ、サブマス?」とそっと囁かれる。


「どうせなら別の愛情表現とってくんない?」


 バイオレンス系はちょっとなぁ。そう溜め息と一緒に甘い声を耳に吹き込まれて、足から力が抜けた。がくがくと震える足を必死で踏ん張ろうとするのに、足が滑って上手くいかない。私の顔の直ぐ横で首筋をくすぐるように楽しげに笑われて、腰の後ろからぞくぞくとした痺れが走る。


 ――こ、股間が! 股間が! 主に朝とか、普段見ない振りで何とか存在を無視してやり過ごしてる、シリアスな変化をした股間がっ! いつもよりさらに大変な感じにッ!! うわぁんっ! もう、男の身体って本当なんなの!? これもう最低さいてい最っ低――ッ!!!


 もう恥ずかしくて、ただ混乱して、そして真っ赤になった顔で私は叫んだ。


「――変態! 変態っ! この変態っ!!」

「うーん、そうねぇ。俺は自覚のある正しい変態なんで、紹介乙! ありがとさん、としか言えないわぁ」


 そう笑われて、いきなり腕を放された。


「いっ?!」


 急に解放されて、私はそのままどすんと石畳にお尻をぶつけて座り込んだ。不意打ち過ぎる痛みに息が詰まり、思わずのけぞって腰を押さえる。

なのにヤツは私に構うこともなく、地面に投げ出された私の足を跨いで壁際に放置された飴の袋を取りに行く。袋を拾い上げると、興味深そうに中の飴玉をいじくり回しては、しげしげと観察していた。

 あんまりなその態度に腹が立って、私はヤツをキツく睨みつけた。


「ちょっと! 何するのよ、酷いじゃない!」

「おう。これは紛う難なき、嫌がらせキャンディ」


 思っていたのと違う言葉を返されて、一瞬気が抜ける。


「い、嫌がらせキャンディ?」

「そ。このマーク付いたキャンディ。わりと有名よ?」


 オウム替えしに問いかける私に、ヤツは袋越しに飴玉に刻印されているマークを見せてきた。……これ何? 玉ネギに羽が付いてるの?

 芽が出た玉ネギみたいな形に、ちっちゃな羽が付いている。飴玉に押されたその不思議なマークを見て、私は首をかしげた。


「以前ほむも、こんな風に裏路地で売ってた怪しげ~な飴喰って、ド派手に吐き戻したんだよね」

「ほむくんが……?」

「ギルマスから聞いてない? まぁ、吐いたらそれで済んでたからなぁ。言うほどのことでもなかったか? ぶっちゃけ、こんな怪しげなモノにサブマスが手を出すとは思わなかったしねぇ」


 ちょっと予想を外しました。

 そう言ってお預けを確認するように、ヤツは目の前でキャンディの袋をしゃらしゃらと振う。私の視線が袋を追うように釘付けになったことをわざわざ確認してから、ふっ、と袋ごとかき消けした。――インベントリに仕舞ったのだろう。

 あんまりな扱いに文句を言おうと口を開いた瞬間、ヤツは微笑ましげに目を細ませて苦笑した。


「食い意地はってんなよ、サブマス」


 さすがに顔が熱くなる。

 違うわよ! 飴に未練があるワケじゃなくて! ここのところ、この都市のスイーツを食べ歩くのがライフワークになっているってトコがあるから。でも新規開拓は悪いことじゃないし! 確かに、裏路地で売買するような食べ物に惹かれたのは、良くなかったと言えば良くなったけど、別に食い意地はってる訳じゃなくて! 単に好奇心に駆られただけと言うか、ボランティアも兼ねてたわけでもあるし、私は単に甘い物が好きなだけであって、けっして意地汚いわけでは……。

 ぶつぶつと呟くと、面白げに笑われた。


「何? その、どこぞの変態紳士みたいな言い訳は」

「い、言い訳じゃないわよ。だいたい変態紳士って何よ。変態は自分でしょ!」

「あ~。いやね、昔そんなこと言ってたキャラが出てくる有名なマンガがあってね、今はアーカイブからダウンロードできるんだけどね」


 そう言って手を捕まれて、地面から引き起こされる。立ち上がった私の背中をぽんと叩き、ヤツは私の腰に手を回して引き寄せた。歩き出すよう促される。


「取り敢えず、宿まで向かおうや。みんなもう待ち構えてるからさ。それとも、まだ何か他に寄る所とかあった? でももう行かないとマズい時間だと思うんだけども」


 引き寄せられて密着した恥ずかしさを誤魔化してぎゅっと顔をしかめると、それを宥めるように私の背中を何度もゆるりと撫でてくる。アレクより背の高いヤツが直ぐ隣で話すと、声が耳の近くに聞こえ過ぎてなんだかぞわそわする。ぶり返して目にも熱が溜まり、勝手に涙が潤んでくるのが分かった。

 背筋を撫でる手のひらの熱さと指の感触に、再びぞくぞくとしたものが這い昇って、自然と姿勢が丸くなる。歩き難くて、足がもつれそうで、座り込みそうになって、小声で必死に懇願した。


「う、うん。分かったから! もう行くから……! あの、お願い……。背中触らないで……!」


 哀願する私に目を細めて、ヤツはその紫の瞳に映ったものをとろりと溶かすように笑った。

 ――思い出した。この姿、髪や目の色変えてあるから分かり辛かったけど、オフ会で見たヤツの顔だ。そうだった。変態の中の人、こんな顔と声を確かにしてた……。

 最後にひとつ、ぽん、と背中を叩かれる。そしてようやく身体から熱が離れていった。


「おっと、失礼。――で。サブマス、そのマンガ知ってる?」


 ヤツはフードを深く被り直して私の顔をのぞき込む。うつむいた私がふるふると頭を振ると、そうかぁ。と考え深そうに呟いた。そうしてその甘い声で話し出した。


 「そりゃ残念だなぁ……。いや、これが実に面白いマンガでね」


 あ、2Dアニメも制作されているんだけどね。何というか、一見するとシルバニア的な平穏メルヘンな世界で沸き起こる、スリルとお色気サスペンスが実に絶妙でね。平和な学校の――日常の、あらゆる場面で行われる、連続犯が巻き起こす極めて巧妙かつ非道な犯罪の数々。そしてその妙。それに、真実を見通す眼を持つウサギと、犯罪へのやるかたなさに歯を食いしばるペンギンの、探偵同士の推理対決が手に汗握る――……。


 ――細い裏通りを抜け、大通りの先の先、そのまた先の大通りの突き当たりまで。

 そうして宿へとたどり着くまでのあいだ中、ヤツは延々と、延々と! 独りで、さも楽しげに! 私が生返事しかしないのにも関わらず! そのマンガの話をずぅーっと、説明し続けた。


 本当にもう、胸がムカムカする。百歩譲って、そのマンガの登場人物に私が似てるとしても。どう考えても変態クマは目の前のこいつで、その変態の被害に遭うネコが私でしょうがッ! 

 ――毎回毎回毎っ回、微妙なセクハラしといてこの変態男がっ! 自分を棚に上げて言わないでよっ!


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