中 その 1
更新止めててすみません。心が折れてました。アレ過ぎました。
第2話概要その2:「自分を棚に上げろッ!!」
――もう、今日は作業をするのを止めよう。
溜息を吐いて上を仰ぐと、天窓から差し込む日の光を通して拡散して間接照明に仕立て上げるクリスタルの煌めきが見えた。飾り付けられたクリスタルが、直射日光を当てることなく柔らかな光で館内を照らしている。
凝った仕組みを持つこの図書館は、6階層からなる巨大な本棚の迷宮になっている。壁一面に埋め込まれたようなおびただしい量の本たちは圧巻で、この世界で綴られてきた歴史を感じさせた。重厚な作りの棚の上にはぶ厚く大きな板が橋のように渡り、それが階段として利用できる。また、所々に設置された机と椅子は広間の様相を呈していて、腰を落ち着ける休憩所も兼ねてもいた。
本棚の間をうろうろと歩き回り良さそうな書籍を手にとってみるものの、開いて見る気力すらない。ため息ばかりこぼれて作業する気が起きなかった。あの男の登場で今日はもう完全にケチが付いて、どうにも意欲が削がれたらしい。
今日の作業は諦めよう。お昼にはちょっと早いけど、ぶらぶら散歩しながら公園にでも行って、キャロルからもらったお弁当を堪能しよう。うん、それがいい。それからおやつに何か甘いものでも食べて……。
「――失礼ですが。その本、ご覧になりますか?」
「え?」
思いがけず近距離から声が聞こえて驚く。声がした方へと目を向けると、褐色の肌が特徴的な彫りの深い美貌の男性が居た。
わぁ……。凄いハンサム……。
"アレク"より少し年上だろう、野性的な容貌に知的さを兼ね備えたその男性は、柔らかく私に微笑んだ。今の私より僅かに背が高く、さらにその背丈に見合うだけの鍛えられた体躯が服の上からでも見て取れる。弧を描く口元から白く綺麗にそろった歯をキラリとのぞかせ、物柔らかな濃い緑の瞳でじっと見つめられて、思わす見惚れて立ちすくんだ。
物語から抜け出して来た様な美男子。その風貌に胸がばくばくと鼓動した。
「お手に取られてる本です。もちろん貴方がお読みになられるようなら諦めますが」
ぼぉっと見とれて反応しない私に、少し困ったように、それでも優しげな笑みを浮かべて問いかけてきた。ようやく我に返って、私は慌てて手元の本を確認した。無意識に手に取っていたらしいその本は、この浮遊都市とその下のオアシスに伝わる昔話的な逸話を集めたもので、どう見ても私が必要としていた歴史書ではない。
恥ずかしさに頬がじわじわと熱くなる。
「あ、いえ……。大丈夫です、これはもう棚に戻すところだったので」
「それは良かった。では、私が貸り出しても構いませんか?」
「えと、はい。もちろんどうぞ」
ゆったりとした軽い足取りで距離を詰めてくる。表紙を向けるように持ち替えて本を差し出すと、男性はそっと丁寧な手つきで受け取った。
「ありがとうございます。――もしかして冒険者の方ですか?」
「え? ええ、そうです」
「ああ、やはり。冒険者は見目好い方が多いですからね、一目でそれと解ります。もっとも貴方ほどの美貌を持つ方は稀ですが」
目を感嘆に細めてストレートな賛美する男性に、私はテレを通り越したじろいで1歩後ずさった。羞恥にますます顔が赤くなるのがはっきりと分かる。
日本人の私には、この手の外人のノリが凄く恥ずかしいんですけど……!
「い、いや。あの、美貌って、あなたも冒険者では……?」
自分で聞いておきながらすぐに気付いた。この人、口の動きと言葉が合っていない。自動翻訳がかかっているからだ。この男性は間違いなくこの世界の人間だ。
「いいえ? 私は商人をしておりまして、名をプラシドと申します。……ところで、私を冒険者と間違えられたという事は、貴方が私の容姿を好ましいものとして判断されたと、そう解釈してかまいませんか?」
「え!? は、はい。ええと、はい……」
図星を突かれて耳まで真っ赤になった私に、プラシドさんが顔をほころばせた。好意と喜色を隠すことなく私を見つめる。その綺麗な緑の瞳にもう本当にどうしようもなくなって、ひたすら私は狼狽した。
――なんかもうテレちゃうんですけど! アレクが褒められるのはとっても嬉しいけど、なんか口説かれてるみたいで恥ずかしいの! ああもう! アレクのキャラが崩れちゃうの嫌なのに!
「今までいろんな冒険者の方とお会いしてきましたが、貴方のようにそこに居るだけで嘆賞させられた方は初めてです。――お名前を教えて頂いても?」
「り……あ、アレクです。あの、プラシドさん」
「アレク――さん、ですね」
何かとても大切なものを受け取ったかのように、プラシドさんは優しく"アレク"と囁いた。
――瞬間、居た堪れなさと羞恥に頭が沸騰する。
恥ずかしいの! 本当に恥ずかしいのっ! あとそれ私の名前じゃないから! だから褒められてるのアレクだから! ああもう、ああもうっ! どうしたらいいの私!
「アレクさん――」
「えっと、とにかく本はどうぞ! これから用があるので、私もう行きますね!」
微笑んで何か言いかけたプラシドさんを遮って、私は早口で捲し立てた。そして急いで身を翻し、引き留める声を無視して後ろを振り返ることなく逃げ出した。
――無理! 絶対無理! あんなハンサムな人にあんな風にされて名前呼ばれたら、私もう無理! 考えたくない場所が、考えたくないくらいシリアスなことになるから無理! 無理無理ぜったい無理っ!
迷路のような本の壁を早足で駆け抜けて、図書館を出た。
王立図書館の優美な門を抜けて、学園都市部に戻る。学園や宿舎、学園都市を支える雑多な建物を通り過ぎ、店屋の並ぶ広場へと足を動かす。吹き上げる噴水の水が空の青に融けている。
興奮と恥ずかしさに弾ませた息を整えながらがむしゃらに歩き続ける。人が行き交い賑わう中心、その中央にある噴水のたもとへ一休みしようと近づいた。
ふと、水音に混じって呻くような……ひどく暗い、嘆きと言うにはあまりにも呪詛じみた声が耳に飛び込んできた。
「どうして……どうしてこんな。どうして……僕ばかり……どうしてこうなった……。何で……あいつら……なんで……! なんで……! どうして僕が……!」
――またか、そう思った。
高揚したはずの全身から熱が一瞬で引いて、引き過ぎて、反動で酷く冴えた気分になった。
直視しないように声の方にちらりと目を向ける。広場中央のベンチで座り込み、俯き震える手で武器を握りしめている男――多分プレイヤーだろう――が確認できた。
うつむく男は、全身を課金ガチャの豪華なレア装備で固めている。確かあのド派手な武器は1stキャラ職専門のノースキルウェポンだったはず、もしかしたらNoob(初心者)かもしれない。
やたらと派手な装備身につけといて、公共の場で聞こえよがしに恨み事言わないでよ、格好悪い。こんな目立つ所でやられても滑稽なだけですけど。自分今悩んでますってパフォーマンスなのかしら? そうやって自己主張してれば誰かが声をかけて助けてくれるって、そう思ってるとか? 道行く人が避けて早足になっているから、近くのお店の人が困ってるのに……。
なんだろう、Noobでやりがちな、装備性能に頼り過ぎた挙句にレベルと技術の頭打ちにあって途方に暮れてるとか? いくら武器が強くたって、プレイヤースキルを鍛えなくてはどうしようもない。ここは隔離された都市だから、レベルを無視して集団に紛れて辿り着いた低レベルプレイヤーが結局身動きできずに途方に暮れる、――なんてこともゲーム時代はよく見られたけど、まさかね。
たとえそうだとしても――。
今更「なんで」なんて、あの日からもう1年以上経ったじゃない。デスゲームになった上、プレイヤーの人数が少なくなって、この都市に強行して来ることも難しいはずで。今更、無謀なことをする馬鹿はいないと思うし、居てはならないとも思う。何があったかは知りたくもないけど、いい加減ここは他人に寄りかかれず、自立するしかない異世界と認識して学習すればいいのに。
自分の意志とは無関係に移転したこの世界に、巧く馴染めないプレイヤーは多い。現実は妄想とは全く違う。自分の想像から少しずつズレていく作り上げた理想のキャラ――想い描いていた自分の姿と、現実との差違に耐えられず、そして挫折するのだ。
私だって挫けた。ネナベプレイしていたわけじゃないけど、私のキャラは3つとも男――スキルと職業の違う"アレク"だけだった。仕方ないじゃない、だって装備が好みのデザインだったんだもの。家に帰ってからしか楽しめないVRより、常にプレイできる携帯端末には、自分のキャラが表示されていたんだもの。
せっかくなら、かっこいいアバターを見ていたい。自分の姿の見えないVRより、観賞することを優先して制作しただけ。……そして、ゲームから現実になった時、ただ打ちのめされただけ。
そう、ここは既にゲームではない、自分が楽しみ、あるいは逃避していた遊戯の虚構世界ではないから。
以前なら躊躇わず声をかけた。しかしこの1年そうして沸き起こるトラブル――ハーレムの厄祭とも言う――にうんざりした。
私だっていい加減学んだんだから。もう親切心から余計なトラブルに遭うのは御免だと。ただの親切を、自分だけの好意と勘違いして依存されては堪らない。そんなのは女の子だけで手一杯なの。
俯き嘆き続ける男をそれ以上省みることなく、私は目的の場所へと足を向けた。
坂を下り小道を抜ける。道の周りに植えられた木々を見上げると、濃い緑の葉の隙間から、日差しがきらきらと零れる。浮遊都市は王城と王立図書館を中心に学園の様々な建物が取り巻き、さらにそれを貴族達の館が囲っている。その学園と貴族地区の中間、細くうねった小道の先に拓けた小さな草原と川――下層にあるオアシスへと流れ落ちる、川の終点――が見えた。
どこまでも澄んだ空。遙か遠く、目と同じ高さふわりと流れる白い雲は、羽毛みたい。水は緩やかに流れ、重力を感じさせない優しい音を奏でている。
なんて、なんて、綺麗なところなんだろう! 本当にここに住んでいて良かった……!
何度来ても見飽きることのないこの景色に、うっとりと目を奪われる。地面の端には、低く積まれた煉瓦と木の柵があり、下を眺めようとしても落っこちることはない。
柵に手を掛けてのぞき込むと、サンドカラー一面の視界の中、遙か下方に点在する緑と青い色が見えた。下層のオアシス都市だろう。それを霞ませて川から流れ落ちた水しぶきが霧になり、太陽の光を受けて虹色の光の群れを立てている。頼りない朧な霧の様な、でも淡く発光するような不思議な光の粒の固まりが、そよぐ風にあおられ、巻かれて、ゆるりと形を変えながら綿菓子を千切るように空を泳いで、消えて行った。
ゲーム時代には、不届き者――うちのギルドのやんちゃな2人組のことだけど――が下に向かって石を投げ落としたが、どういう仕組みなのか、投げた石が描いた放物線をそのまま戻ってきて、顔面にクリティカルヒットしたあげくにHPが瀕死にまで減らされた。ポップアップした警告文は [ Should never throw stones ! ]。
あの時の笑いながら2人を見守るギルドのメンバー達を思い出し、そしてまたあの男――腹を抱えて爆笑したのち、瀕死の2人を巻き沿いにしながら遙か下のオアシスへと飛び降りて、元の位置へと死に戻ったあの変態――その顔を思い出して、また気が滅入る。
あれは本当に酷いと思った、普段やんちゃで悪戯好きのほむほむらぶくん――ほむくんが珍しくキレて、変態男に怒っていたのも覚えている。課金アイテムを使ってデスペナルティは回避できるとしても、こんな上空から覚悟なしにいきなり飛び降りさせられたのだ。悪ふざけにも限度ってものがあると思う。
いずれにしても、今はゲームの仕様のままではないとは思うけど、私は試す気なんかない。戻って来た石でアレクの顔を傷つけるのも馬鹿らしいし、万が一そのまま落下して、下のオアシスでそれがどうなったかを考えるのも怖いから。
また気持ちがぶり返してもやもやとしてくる。振り払うように、柵を背にどすんと草原に座り込んで、おもむろに籠の中の包みを取り出した。そして、包みを剥いてサンドウィッチに猛然と噛り付く。
ん~……美味しい!
スライスされたローストビーフは何枚も重ねられ、パンよりも厚くぎっちりと挟まっている。口いっぱいに頬張り噛みしめたら、柔らかな触感とジューシーなお肉の味が口内に広がった。
とろみのある甘酸っぱいビネガーとハーブのソース、それにぴりりと効いた胡椒が絶妙な味わいで、鼻から抜けていく香りがたまらない。時折歯にあたるプチっとした酸味のある粒状の物はケッパーかな? すごくいい触感のアクセント。胡桃入りのパンも、表面を軽くトーストしてあって、さくりとした歯応えはもちろん、胡桃の香ばしさがいや増してとても美味しい。
ふむふむ、スープはどうかな……。
ペト芋――多分、この異世界のジャガイモだと思う。かつてのジャガイモによく似たほんのり甘いスープも食べて、味を確かめる。ジャガイモと塩胡椒、それと小さく刻まれたベーコンだけの実にあっさりした味わいだった。
クリームか牛乳を入れてもっと濃厚に仕上げて欲しいなぁ、とちょっとだけ物足りなく思った。それかいっそベーコンを抜いて、バターを少しだけ足せば、ジャガイモ本来の甘みと癖が活かされていいのにな……。スープはちょっと残念な出来だ。
最後にインベントリに入れっぱなしの水筒を何とか取り出すと、熱々のまま保管されていた紅茶を飲んで、ようやく一息つく。
この紅茶は定期的に水筒に入れてもらって、保管している。インベントリに入れておけば、収納した当初の状態のまま保たれる。とても便利なのだ。
――そういえば、よく考えたらわざわざ顔を合わせなくても、都市に入った時点でトレード欄を使ってノートをやり取りできたんだった……。
自分のうっかりした性格を思い出し、改めて自覚して息を吐く。柵に背中を預けてずるずる寄りかかって、ただ脱力して目をつぶった。
トレード欄のことをすぐに思いつかなかったのは、この都市独自の倉庫システムになっていることと、"今のアレク"がギルドに所属していない認識が薄いからだ。
ギルドの共通インベントリはメッセージを添付して置いておけば済むし、自動でログも取得されるけど、フレンドのトレード欄でアイテムをやり取りするには、お互いの承認が受け取りの最初と最後に必要になる。手続きが2段ほど面倒くさいのだ。
攻守兼ね備えたこの騎士タイプのアレクは、この異世界で暮らすのに1番適している。そうカインに進められて――もちろん私もその意見に同意した――少なくともギルメンと離れている間、つまりこの都市にいる間は、騎士アレクでいるようにと指示された。
もちろん、この都市に来る前はテイム(飼い慣らす)した飛行モンスを操って砂漠を渡る必要があったので、別のアレクとしてジュリアと一緒にやってはきたけれど、都市に着いて騎士アレクになって以降、キャラチェンジの必要性を感じたことは一度もない。カインの判断はいつだって適切で、本当に頼りになる。そして、当然ジュリアは自分と一緒に旅したのが"今のアレク"とは違うアレクだなんて、気付いてもない。私の持ちキャラは、外見が全て同じ"アレク"なのだから。
都市に着いて最初の夜、ギルメンへの定期報告のメッセージを送ろうとして、初めてこのアレクがギルドに所属していないことに気付いた。
と言っても、フレンド欄にはギルメン全員が登録されていたし、多少――本当はかなり手間取ったけど、メッセージを一斉送信出来るように登録することで、以降はメッセージのやり取りがギルド所属アレクと同じように、簡易になった。
あの頃のカインは、お身内の方も移転に巻き込まれていたのが解ったことで、なんだかやたらとゴタゴタしていたし、このアレクがギルド未所属なことを忘れてたんだと思う。
それはしょうがないと思う。本当のことを言えば私も忘れてたし。必要ならキャラを変更すれば済むことだから、あんまり気にもしてはない。さらに言えば、ギルドへのメンバー加入手続きもなかなかに面倒くさい儀式があるので、今の私には難易度が高い。
"Annals of Netzach Baroque"のギルド加入手続きは、俗称で"儀式"と称されるぐらい大仰なものだ。まずはギルド設立のためには"オーブ"という、ギルド設立とメンバー登録の為の2対の高額なクリスタルが必要となる。
双方のクリスタルにギルド名や"誓約書"の値段等、必要事項――規律など、結構細かい設定項目がある――を登録し、片方をギルマスが、もう片方を中央ワープゲート施設こと"旅の総合案内所"に収めなくてはならない。
次に必要なのは、"誓約書"という羊皮紙だ。これはクリスタルから精製されるもので、ギルドに加入したい人間は、ギルドから任意に設定された金額で羊皮紙を買い、誓約してギルドメンバーになる。羊皮紙の購入金額は、そのままギルドの資金になるので、そのギルドの方針によって値段は様々だ。
カインの設立したギルドは、羊皮紙の値段こそただ同然だったが、そのぶん加入条件は厳しかった、……みたい。私は設立当初からのメンバーなので、途中加入の条件には関知していない。説明してもらったけど、複雑すぎて理解できなかったのだ。
ただ、あの変態男を女神と崇めるような頭のおかしい――類は友な変態が世間には大量に居たようで、要約すると"普通の人間"はともかく、変態は絶対無理だろう的な条件になっているらしい。
意外なことに、"Annals of Netzach Baroque"には、あるいはMMORPGにはと言うべきなのか、"普通の人間"と言える人間は滅多に居ない、らしい……。らしいんだけど、どういうことなの、それって……。
一応、条件をクリア出来なくても、ギルマスの承認か、サブマスの私を含めたギルメン5人の承認――うちのギルドの設定では――で加入承認できるシステムにはなっている。加入の最低条件は、誰でも総合案内所の納品したオーブを参照して確認できるので、「あんなん絶対無理です! アレクお姉様、どうか俺とオフィーリアさんの交際を許してください!!」などとほざきながら、土下座して頼むような気がふれた人間がたびたび出現した。
誰がお姉様よ! 私は変態男よりずうーっっと年下なのっ!! ふざけないでよッ!! それと、アレクがオカマみたいな表現しないで!
――とにかく! 加入条件か承認を得た人間はオーブから羊皮紙を購入し、うちのギルドは設定上、メンバー全員の立会いのもとで誓約する。
羊皮紙に手を乗せて宣誓コマンドをクリックし、設定されたギルド規約を読み上げて――これもうちのギルドの場合すごく長い。けど、ゲーム時代はポップアップウィンドウを読み上げれば良いだけなので、怠いだけで簡単に終わる――読み上げた規約文が羊皮紙に転移して焼き付くので、あとは総合案内所で買える安価なアイテムのインクとペンでサインし、オーブに誓約書を納めて、ようやく終了。
ものすごーく大仰で、ちょっとダルく、とってもとってもファンタジーなこの"儀式"は、ギルドっていうコミュニティを特別化し神聖化させていて、ある意味敬虔な気持ちにさせられる。――ただしそれはゲーム時代のお話。
今ではウィンドウを参照することの難しい私にとって、長ったらしいギルド規約を暗記しなくてはならない、とてつもなく高いハードルの"儀式"でしかない。
途中で詰まったり、読み間違いしたら焼き付けに失敗するって、ゲーム時代でもなんだかなぁって思ってたけど、そんなの全然甘い考えだった。まさかカンペ読むのも駄目だなんて……!
検証マニアのティーザラスことティーくんは移転直後、――自分がウィンドウを常に見る事の出来るタイプだったからか、この世界で使用できるコマンドの確認をする為になのか――わざわざギルドを一時脱退して試してた。でもあれは無理だ。私には絶対無理! あんな長文とても暗記できない……。
このアレクをギルドに加入させるのは難しいし、他のアレクでこの世界で生きるのは物騒だから、取り敢えず、ちょっと面倒くさいけどトレード欄を活用しよう。そして、もう2度とあの男と2人きりで会うのは止めよう。そう、決心した。
目をつぶったまま、せせらぐ川の音を聞く。さらさらとした音が心地よい。遠くでは鳥の声が聞こえ、脱力した全身にはぽかぽかと暖かな太陽の光が降り注ぐ。
本当に素敵なところ……。
優しく風が髪の毛を揺らして頬を撫でる感触に、満足したお腹から眠気が沸き上がってきた。うつらうつらと思考が蕩けたその瞬間、頭の片隅に警告が稲妻のように響いて掠める。――食直後の睡眠はデブの素ッ!!
慌てて飛び起きる。アレクを格好悪い男には絶対にしたくない。この鍛えられた体のお腹に摘めるような肉が付くなんて、私にはとても耐えられない。川で手でも洗って無理矢理にでも眠気を覚まそう……。
眠気を無視して、えいやっ、と立ち上がる。
柔らかな草を踏みしめ、埋もれる大きな白い石や、赤茶けた煉瓦色の砂利に足を取られないよう注意して川に近づく。革靴に水が染みないようにと気を付けて、川の縁ぎりぎりに足を置く。上着のポケットからハンカチを取り出して軽く唇で挟む。川端に屈み込むと、のぞいた緩やかに流れる川の水面に信じられなくらいの美青年が写り込んで、こちらをじっと見つめていた。
心臓がどきりと跳ねる。
もちろん写り込んでいるのはアレク――つまり私なのだけれど、1年以上経ってなおも、こうして不意打ちで「自分じゃない姿」を見ては驚くのだ。意外に馴れないものなんだと思う。
――まぁ、アレクが格好良すぎるのが、余計に見慣れない原因なんだとは思うんだけど。
川底まで良く見通せるほど澄んだ水の中で、沈み込んだ白い石が日の光を反射している。足下の砂利と同じ筈の色とりどりの石が、まるで宝石のように輝くのが美しい。川に手を差し入れると水は刺すように冷たく、背筋に震えが走って一気に目が覚めた。
ハンカチで丁寧に手を拭きながら川の中に魚を探してみたものの、結局1匹も見つけられない。この辺に住むと、うっかりしたら下に落ちちゃうからかな? 下のオアシスには海水も湧いているらしく、この浮遊都市は海産物もすごく豊富。ありとあらゆる食物がマーケットに溢れ、食の材料に不満が出ることなんてない。
――材料に関しては、だけど。
ジュリアと一緒に住んで、まぁ料理に関してはしょうがないとしても――あれは才能の問題だと思うから――このままずっと一緒というのはどうなんだろう、とも、実は時々考えてはいる。
ジュリアは私に捨てられることを恐れているみたいだけど、捨てるだなんて大げさな話ではなく、要は自立して生活できるという問題だ。
奴隷から救い出した当初、確かにジュリアは男性恐怖症というか、私以外の人間を恐れているところがあった。でもあれからもう1年も経って、ごく普通に生活する分には何も支障がないみたいだ。つまり、なんというか……。彼女の見ているアレクは恋愛対象になり得ない。だって中身が女性である私なんだから、真っ当に考えて一生一緒に暮らすことなんか出来やしないし。
私だって、その、……このままずっと元の世界に戻れないという覚悟が出来てきたし、そしたらこの世界で恋愛したいのだ。一生この世界で住まざるを得ないなら、好きな人と結ばれて暮らしたい。
――そりゃ、私の体は男だけど、それでもいいと言ってくれる人が、きっとどこかに居る筈だと思うし……。
ふと、さっき図書館で出会った男性――プラシドさんを思い返す。凄くハンサムな人だったな……。カインも素敵だけど、ああいう余裕のありそうな年上の男性が、本当のところでは1番好みのタイプなんだよね。だからあんな感じの人で、できたら私を良く理解してくれるような……。
えっと、とにかく! そのためにも、ジュリアには独立して生活してもらわなくてはならないワケだ。
新しい住処と、生活して行くのに困らないだけ稼げる仕事場。餞別というか、家政婦をしてもらっていた退職金はそれこそ沢山払ってあげよう。
今までだってもちろん、毎月ちゃんとお給料みたいなものは払っている。3食住居付きの仕事と言っても、そんなのは関係ない。女の子が生活するにはそれなりのお金が掛かるんだから! 服や下着だって可愛いのを着たいし、靴やアクセサリーもそれに併せて欲しい。何より心潤し慰めるスイーツや、生活に必須の化粧品だって、毎月バカにならない金額になる。
見捨てはしないけど、ジュリアをちゃんと独立させたい。――そして、じつはその心当たり――というか、手当てがあったりする。