3. 死体の臭い
駅前を歩いていると名前を呼ばれる声がした。
声の主を探すと交番の前で手を振っている警察官がいる。
どうも、というように小さく頭を下げると笑顔で手招きをされ、顔が少し引き攣った。
なんだかこの人は苦手だった。苦手な大よその要因は父に似ているからだろう。
お時儀をしてしまった以上無視するのは躊躇われた。
彼の近くに行くと大げさに「じゃーん」と言う掛け声とともに手を僕の前に差し出した。
そこにはココアボールという小さなお菓子のケースが乗っている。
「え? ……あの……」
「ココアボール嫌いだった?」
「いえ、じゃなくて……」
「じゃああげる。昼間おばあちゃんにいっぱい貰ったからさ。」
「……はぁ……ありがとうございます……」
ココアボールを受け取り制服のポケットに入れた。
「それじゃあ」と去ろうとしたが昨日みた新聞のことを思い出した。
「あの、この町で」
「梶くん!!」
突然話しを遮られ何事かと思ったが、鼻からどろりとした感触がした。
ああ、また鼻血かと確認しようとすると警察官はすばやく自分の腕の袖で僕の鼻を拭い押さえつけた。
あまりにも早く自然な行動に驚いてしまって言葉がでなかった。
まだ二度しか会ったことのない人に咄嗟とはいえ嫌な顔ひとつせずむしろ心配そうに自分の制服で拭うなんて。
僕ならきっとできない。彼は警察官だから、とも思えなかった。
警察官は慌てながら僕を椅子に座らせ袖をタオルへと代え押さえつづけた。
「もしかして殴られた?」
「え……?」
「鼻の横にアザができてきた……」
「ええ……まぁケンカです」
「そっか」と警察官は小さくつぶやきほほ笑んだ。
確かに殴られてからずっと痛みはあった。だけどアザができるほど強く殴られているとは思わなかった。
誰にでも見えるところにアザをつくって僕に対する"暴力"を知られてもいいのだろうか、と溜息をついた。
少なくともこの警察官は察したはずだ。知られたくないわけではないが知ってほしいわけでもない。
母が知るとあのときのように泣き叫び僕の高校生活を間違いなくめちゃくちゃにする。家族を壊したように。
母が悪気がないのは分かっている。分かっているから恨めずにいるのだ。
警察官に身をまかせていると足下に何かが触れる気配がして悪寒が走った。
わっと足下を見ると猫が人懐っこく足にじゃれついてきていた。
「猫、嫌い?」
「いえ……別に。驚いただけです」
「マキっていうんだ」
「え?」
「猫の名前」
「飼ってるんですか?」
「まさか。ミルクを飲みにくるだけ。」
警察官はタオルをそっと離すと「止まった。止まった。」と安心するように笑い、奥の部屋へと消えた。
足下でじゃれながら寝転がっている猫を見下ろした。
猫は笑っているような表情で幸せそうにしていた。軽く蹴ってみたがそれにも気づかずごろごろと喉を鳴らした。
遊んでいると思っているのだろうか。幸せなヤツ。
警察官が戻ってくると両手に平べったい皿とマグカップを持っていた。
それは予想どおり皿を猫の前に置きカップは僕に差し出した。
ミルクだった。猫と、同じ。
受け取らずにいると彼は「嫌い?」と訪ねた。
「……名前……聞いてませんでした」
「ああ、そうだね。俺は志紀と言います。よろしく。」
そう言って彼はカップを持っていない手を差し出した。
僕はその手を握らずカップを受け取った。
ミルクを飲むふりをする。
顔を見れなかった。きっと屈託なく笑い温かい手をしているのだろう。
握れない。
どうしても。
【7月22日】
「カウンセリング受ける人は今日までだからねー」
先生がそう言うと女子からは落胆の声が聞こえた。
事件が始まってから学校では保健室にカウンセラーが導入された。
女子が「カウンセラーはイケメンだ」と話しているのを聞いたことがある。
本来のカウンセリングという目的を忘れ雑談に行く女子が多かったのだ。
クラスの担任が出ていくのを見計ったかのように「かーじくん」と笑いながらクラスメートたちに囲まれた。
明日から夏休みだというのにクラスメートたちは最後の最後まで暴力を振るった。
「しばらくは殴れないからな」と笑い、いつも以上に殴られていたような気がする。
だけどしばらく暴力から解放されるのだと思っうと少しほっとできた。
血生臭いニオイとともに屋上でぼんやりとしていると小川がやってきた。
いつものように目に涙をいっぱい溜めていた。
「ひどい……」
「…………」
「このままだと酷くなる一方だよ」
「……どうしろっての」
「わかんない」
小川はとうとう泣きだした。
わからない、そう小川が分かるはずがない。
彼女もクラスの女子から無視されつづけている。そんなヤツに暴力を止めることなんて出来るはずがない。
小川は、僕のために泣いているかのように涙を流す。でも本当は自分と僕を重ね合わせ泣いているのだ。
無力な自分。カッコ悪くて誰にも助けを求められない自分。惨めな自分。どうすることも出来ない自分に涙を流している。
「帰ろう」
小川は小さく頷いた。
交番の前を通ると警察官の姿はなかった。
巡回の時間だろうか、と横切ろうとすると猫の小さな鳴き声が聞こえた。
辺りを見回しても猫の姿はない。
ふと交番の中をのぞきこむと猫がこちらを見て座っていた。
扉を開くと足下にすり寄り高い声でにゃーと鳴いた。
ミルクが欲しいのだろうか。昨日もこのくらいの時間にミルクを飲みに来ていた。
すぐ近くにあるスーパーに行き小さな紙パックの牛乳を買うと、急いで交番へ戻った。
床に猫用のものだと思われる器があったのでそこに牛乳を注いでやると猫はゆっくりと牛乳を舐めはじめた。
猫は犬と違って上品に舐めるのだな、とぼんやりとながめていた。
母と父が離婚をする前に犬を飼っていた。白い犬だった。その犬は僕と父によく懐き賢い犬だった。
大好きで大好きでずっと傍にいたかったが父が引き取り会えなくなってしまった。
今から思えば父にとって僕は犬よりも価値のない存在だったのだろうか。
牛乳を舐める猫の背中を撫でると少しビクリとしたが器から口を離すことなく舐めつづけていた。
少し汚かったが白い毛並みで昔飼っていた犬と似ていた。
温かかった。撫でつづける手が震える。
「梶くん」
突然の声に驚き振り向くとそこには志紀さんがいた。
「ごめん。驚かした?」
「いえ……」
「……お、マキにミルクやってくれたんだ」
「はい、すみません……」
「ううん、ありがとう」
頭をがしがしと力強く撫でられていると、志紀さんの後ろにもうひとり警察官がいることに気がついた。
彼と同じくらいの若い警察官だったが冷たい目をする男だった。
「帰ります」
「え、あっ、ちょ」
志紀さんは僕を呼びとめようとしていたが気づかないふりをしてその場を去った。
走っているとポケットに違和感を感じた。
手を入れてみるとココアボールと書かれた小さな箱が出てきた。
そういえば昨日志紀さんから貰ったお菓子をそのままにしていた。文字の下で鳥のようなキャラクターがウインクをしてこちらをみていた。
「変なの」
もう一度ポケットにつっこんだ。
【8月】
夏休みに入ってから毎日のように死体のある場所へ通った。
死体はだんだんと腐敗が進み鼻を押さえても分かるほどの強烈な臭いとなっていた。
服にもその臭いが染みついているような気がして大切なもののようにクローゼットに仕舞った。
目を覚ますと手の中にあるTシャツをぎゅっと握りしめていた。
相変わらず階段に上りつづけている夢をみている。
その夢をみた日の朝は必ず汗でびっしょりになっていた。
上に昇るにつれてなんだか僕が僕じゃなくなっていくような気がしていた。
あの階段はどこにつづいているのだろうか。
「ちょっと髪伸びすぎなんじゃない?」
「…………」
「お金あげるから切っておいでよ」
母と朝食をとっていると前髪を摘まれそう言われた。
財布から一万円札を取り出し机の上に置いた。
「学生は夏休みがあるからいいよねー」
母は話しをつづけながら玄関へと向かって行った。
テーブルに置いた一万円札をポケットに入れ、ドアが閉まる音に耳を傾ける。
ドアの閉まる音がすると新聞へと手を伸ばし、この町で起こっている事件の記事を探した。
事件の記事を探し出すと綺麗に切り取ってノートに貼りつける。
それが毎日の日課となっていた。
見出しに"××通り魔連続殺害事件"と書かれていた。以前のものよりも記事はだんだんと小さなものになっていた。
今まで貼りつけていた記事をぺらぺらとめくりながらながめていると、ふと思いたち母の部屋へ向かった。
母の部屋の扉を開くと化粧品のどくとくのニオイがした。
真っすぐ化粧台へ行き化粧品が放りこまれている引き出しを開けた。
こんなに使うのかと思うくらいの口紅がぎっしりと詰めこまれている。
その中から死体の唇に塗られていたような赤色のものを探しだした。
見た目は違うものの赤色の口紅はたくさんあった。ひとつを適当に選び蓋をあけ下部を回すと口紅は真っ赤な姿を表した。
化粧台の前に立ち自分の姿を映す。
口紅をそっと自分の唇にあて、そのまま唇の形をなぞる。
死体は唇から外れ顎あたりまで塗られていた。
再現するように力強く顎のあたりまで塗ってみると力が強すぎたのか口紅は根元から折れ落ちていってしまった。
鏡に映る自分。
死んでいた女の人が重ね見えた。
家にインターホンの音が鳴り響き、はっとなり我に返るようだった。
―――僕は何をしているのだろう。
慌てて洗面台へと走り、顔を洗った。
洗って洗って鏡を覗きこむが真っ赤な口紅はとれない。
何度も何度も石鹸をつけて洗い何度も何度もタオルで拭き取ると跡は残っているような気はしたがなんとか流れ落ち、大きく溜息をついた。
駅前には警察官とマスコミの姿しかなくなっていた。
学生が夏休みに入ったことで町の人たちは事件から逃げるよう田舎に帰ったまま戻ることがなかったのだ。
交番の前を通ると志紀さんがいた。
夏休みに入ってから猫にミルクをやるため毎日のように交番へ通った。もちろん志紀さんしかいないときだけにしている。
「おはよう」
彼はいつもの笑顔で笑った。
志紀さんはこちらが恥ずかしくなるほど飛びきりの笑顔で笑う。
ときどき疲れてしまわないのだろうか、と考えることもあるが毎日その笑顔は絶えることがなく父とは違う本物の笑顔なんだと思えるようになっていた。
「おはようございます」
「今日は早いね」
「はい。髪を切りにいこうと思いまして。」
「そうなんだ。……あ、俺が切ってあげようか?」
「えっ いえ……」
「俺こうみえても美容師目指してたんだよ」
彼は悪戯っぽく笑い美容師を目指していたことを話してくれた。
家族に大反対されて警察官になったこと。彼の家族は警察一家であること。現在は家族と離れ暮らしていること。
困ったように志紀さんは話していたが幸せそうだった。やはり彼は幸せな家庭に育ったのだ。
僕が憧れる家庭がそこにはあった。
「じゃあ僕があなたのお客さん第一号になります」
「おっいいね」
彼は嬉しそうに笑いいつものように僕の髪をがしがしと撫でた。
「梶くん?」
名前を呼ばれ振り向くと、白い日傘をさし淡い水色のワンピースを着た女子がこちら見ていた。
彼女はすらりとしていてワンピースがよく似合っていた。
こんな女の知り合いがいただろうか、としばらく見つめていると、その女子は俯いてしまった。
俯いたことでやっと小川だと合点がいった。
いつも俯き加減で話す彼女は制服を着ているととても暗いイメージだったが印象が全く違ってみえた。私服の小川はどこかのお嬢様のようにとても綺麗だったのだ。
「小川……」
彼女は微かに笑い僕を待つようにして去る気配がなかった。
仕方なく志紀さんに別れを告げ小川につき合うこにした。
近くの喫茶店に入り席に着いた途端彼女は独り言のように「暑いね」とつぶやいた。
長い髪を耳にかけハンカチで汗を拭っていた。
そのひとつひとつの動作がとても綺麗で落ち着かなかった。
「僕に何か用だった?」
「え……あ、用ってわけじゃないけど」
彼女はもごもごと話し暑さで赤くなった顔を俯むけた。
「あたし、梶くんと一度ちゃんと話してみたくて……」
「何を?」
「……わかんない、けど……」
小川は困った顔をしていた。
しばらく沈黙がつづいたあと注文していたアイスコーヒーが運ばれてきた。
彼女は運ばれてきたアイスコーヒーが入ったグラスを何をすることもなくじっと見つめていた。
「……梶くんは、自分がイジメられてる理由を知ってるの?」
僕もつられるようにしてじっとグラスを見つめていたようで小川の声に少し驚いてしまった。
そして今まで気づかなかったが小川はとても綺麗な話し方をする人だ、と童話を聞くように聞き入ってしまっていた。
「……いや、知らない。気にいらないんだろ。」
「違うよ」
彼女は理由を知っているかのようにきっぱり否定する。
「梶くんがかっこいいからだよ」
「は……?」
突拍子もない答えだったので変な顔をしてしまったのだろうか彼女はくすくすと笑った。
小さく笑う表情も女性らしくとても綺麗だった。
「なんてね。……半分嘘で半分本当」
「…………」
僕が黙っていると彼女は慌ててごめんね、と手を合わせた。
「繭がね、梶くんのこと好きだからだよ」
"マユ"とは僕の隣の席で最近まで小川が仲よくしていた女子だったと思う。
小川はまだ冗談をつづけているのかと思っていたがだんだんと真剣な顔つきになっていった。
「でね、繭のことを永倉くんが好きなんだ……」
彼女は遠くをみるように「言ってる意味わかるよね」とストローでコーヒーをかき混ぜた。
"ナガクラ"とは中心となって僕を殴っていたヤツ。僕が殴ってしまったヤツ。
僕の知らないところでそんなことが起こっていたなんて気づきもしなかった。
友達がひとりもいない僕が気づけるはずもなかったが知りたくもなかった。
そんなくだらねぇこと。
その夜、何も考えたくはなかった。だけど小川に聞いた話しが頭のなかでぐるぐると回りどうしようもない思いを持て余していた。
ベッドに蹲り、目を閉じた。
目を閉じた途端あの死体のことが頭に浮かびベッドから飛びおりて、クローゼットに仕舞っていたくしゃくしゃのTシャツを取りだした。
そのTシャツに顔を埋め思い切り息を吸いこんだ。
僕のニオイと微かに臭う死体のニオイ。
そのままベッドに戻り蹲りながらTシャツについた死体の臭いを嗅いでいると紅潮し気が紛れるような気がした。
ふと机の上に置いていたココアボールが視線に入った。
箱に描かれている変な鳥を見つめていると、いつの間にか涙が溢れていた。