2. 三人目の死体
階段を上っている。
辺りは真っ暗なのに黒い階段を上っているのが分かる。
ああ、夢だ。
これは夢だ。夢をみている。
夢のなかで僕は疲れ切っていて上りたくないのにどうしてもこの階段を上らなくてはいけない気がしている。
はぁ はぁ はぁ はぁ
真横で自分の息づかいが聞こえる。
しばらく上りつづけていると踊り場が見えた。でも階段は螺旋階段になっているようでまだまだ上へとつづいている。
踊り場に到着すると膝を抱えしゃがみ込んだ。
すると横から扉が開くような小さな光が射しこみ、まぶしく照らしはじめた。
その小さな光をたどり中を覗きこむと、僕がいた。
小学生の僕と父。
以前住んでいた家のテーブルに向かい合わせになり座っていた。俯く僕にそれを見据える父。
見たことのある光景だった―――
「僕は父さんといたい」
「お母さんが寂しがるよ。それに一緒に暮さないだけでいつでも会える。」
そう言って父は笑った。
だけど父は、母と別れてから一度も会いに来ることはかった。
恨みはしない。父は普段から嘘つきだった。
子供は嘘つきだと言った大人は誰なんだろう。大人だって子供と同じくらい嘘つきだ。
違うのは、嘘がうまくてすっかり騙されてしまうことだ。
目が覚める感覚が嫌いだ。
頭がぼんやりとしてじわじわとこれが現実だと突きつけられてるような気がするからだ。
今までみていた夢が幸せなものだったとは言わない。けれど現実よりもずっとずっと幸せだった。
「あ、目が覚めた?」
「………」
見慣れない天井、見慣れない人が覗きこんでくる。
起き上がろうとするとその人は「横になってたほうがいいよ」と嘘っぽい笑顔で言った。
たしかこの人は交番の前にいた警察官だ。覚えてしまうような目立つ顔立ちはしていないがこの笑顔で分かった。
「君、道端に倒れてたんだよ。病院に連絡しようと思ってたけど…… 平気?」
「……平気です」
「じゃあ冷たい飲み物持ってくるね」
そう言いながら彼は奥の部屋へと消えた。
ここは交番だろうか。
窓に目を向けると外はすっかり暗くなっていた。だけどセミは相変わらず五月蝿く鳴きつづけていた。
耳に残るセミの鳴き声、体に汗が流れる感覚。
また呼吸が荒くなりそうになるのを堪え大きく溜息をついて落ち着かせた。
「麦茶しかないんだけどいいかな?」
警察官は側に座りコップいっぱいに注いだ麦茶を差し出した。
それを受け取り休むことなく一気に飲み干した。
「熱中症かな?倒れてたときすごい汗だったんだ。」
彼は遠慮なしに額に手を当てた。
人に触れられるのが苦手だ。
だけど振り払うのも躊躇われたのでガマンした。
「君、名前は?」
「……梶です……」
「じゃあ梶くん。家に電話して親御さんに迎えに来てもらおうか?」
「いえ……、結構です。」
「……でも」
「僕、片親なので心配かけたくないんです。」
こういうと大人は「しまった」という顔をして引いてくれるのを心得ていた。
この警察官もまた同じだった。申し訳なさそうな顔をして「そっか」とつぶやいた。
この人は両親がいて兄弟がいてきっと幸せな家庭に育ったのだろう。
僕はそういうニオイに敏感だった。
両親がいる人は本当に幸せなのかそれとも幸せそうにみえたのかは分からないが僕にはない何かを持っているような気がしたのだ。
「じゃあ送って行くよ。最近じゃこの辺も危ないしね。」
送って行くという申し出を断ったが、彼はそろそろ巡回の時間だと言ってパトカーに押しこまれた。
車に乗るのは何年ぶりだろう。父も母も免許は持っていたようだが車は持っていなかった。
最後に乗ったのは救急車だ。そのあいだ意識は朦朧としていたのでよく覚えていない。
窓の外をながめていると何を思ったのかは分からないが警察官は窓を開けてくれた。
長い前髪が激しく揺れて少し痛かった。
「梶くんはかっこいいね。学校でモテるでしょ?」
「……いえ、別に。」
「何年生?」
「高二です」
「一番いい時期だねー」
何をとって一番いい時期だと言っているのかは分からなかった。この人にとって高校二年生が一番楽しい時期だったのだろうか。
曖昧に返事をして窓の外をながめつづけた。
家の近くに止めてもらいお礼を言ってパトカーが見えなくなるまで見送った。
そのあいだ父のことを考えていた。嘘っぽく笑う彼は父に似ていたのだ。
家に帰るとすぐにあるだけの新聞を集めた。もちろんこの町で起こっている殺害事件の記事を読むためだ。
自分の部屋に戻り、新聞を広げた。
ほとんどが一面になっていた。殺害がはじまったのは6月23日。一人目の女性が殺された日だ。
腹部を何度も刺されたことによる外傷性ショックが原因で死亡。動機は不明。
二人目の女性が殺されたのは7月7日。一人目の女性が殺されてからちょうど二週間後に同じ殺害方法で失血死が原因で死亡。こちらも動機不明。
やはり腹を何度も刺されている。だけど僕があの死体を見たとき、一番最初に目に入ったのは口紅だった。
それなのにそのことは一切書かれていなかった。
携帯電話をポケットから取り出し日付を確認すると今日は7月20日。
二人目の女性が殺されてちょうど二週間後で殺害方法も同じだ。
三人目の女性だけに塗っただけかもしれないし模倣犯という可能性もある。
違うのだろうか。僕が見たあの男はこの事件の犯人ではないのだろうか。
ベッドに横になり目をつむると死んでいた女の人を思い出してしまった。
「眠れねぇー……」
【7月21日】
朝、目を覚ますとすぐに朝刊を取りにポストへ向かった。
そして新聞を読みながらニュースを見ていたが、三人目の女性については何も報道されていなかった。
まだ見つかっていないのか。
内心ほっとしている自分がいて慌てて打ち消した。
母が朝食にと用意したトーストを齧る。
食欲がない。
眠っているときも夢をみた。あの階段を上っている夢だ。夢で疲れ果ててしまい現実でもうまく力がはいらなかった。
全ての授業が終わるとクラスメートたちの暴力がはじまる。日課のようなものだった。
授業が終わり屋上へ向かおうとカバンを持ちあげると、いつもそのタイミングでやってくる。だけど今日は少し違うようだった。
カバンを持ちあげると昨日屋上にやって来た女子が駆け寄って来たのだ。
「梶くん……あの、あの、」
「小川さん、梶くんに急ぎの用?オレたち梶くんに急ぎの用があるからまた今度ね。」
そう思ったのは一瞬のことだったが。
ほんの少し早くやってきたのが昨日の女子ってだけでクラスメートたちは変わらずにやってきた。
昨日の女子はクラスメートのひとりに軽く押しのけられよろめいていた。
「もしかしてお前、小川さんとつき合ってんの?」
ひとりが甲高く笑いだすとみんなが一斉に笑いだした。
下品な笑いかたに虫唾が走る。
昨日の女子は俯いたまま青ざめていた。
いつのまにか。
本当にいつのまにか真ん前にいたクラスメートの頬に自分の拳がめり込むのが見えた。
殴っていたのだ。
いつのまにか、なんてこと本当にあるんだ、と心のなかにいる冷静な自分がささやく。
クラスメートの頬を殴ったあと自分の拳をながめた。
痛い。でも外傷はなかった。
クラスメートは倒れこんでいた。
すると突然視界がぐにゃりと曲がった。
曲がった視界が少しずつ元に戻ると同時に隣にいたもうひとりのクラスメートに殴られたことを思い出していた。
「ってぇー……」
「梶くん!!血!」
昨日の女子が驚いた様子で僕を見下ろしていた。
血生臭いにおいがする。
痛みがあるところに手をやるとべったりと血がついた。鼻血だ。
クラスメートたちは倒れこんでいたクラスメートを抱え教室を出て行くところだった。
今日はこれで終わりかと肩を撫でおろした。
昨日の女子は「血まみれだよぉ」と泣いているのではないかと思うほど震えた声でハンカチを差し出した。
受け取らず立ち上がることも出来ずにいると女子は無理矢理口元を拭った。
振り払う気力もなく目をそらしたまま窓の外に見える夕日をながめていた。
教室には誰もいなくなっていて聞こえるのはセミの五月蝿い鳴き声と部活動を行っている掛け声。
「……名前、なんていうんだっけ?」
「……小川です……小川真樹……」
そして小川がすすり泣く声だった。
やっと鼻血が止まり学校を出たときには夕日は傾き、小川を家まで送り届けたころには辺りは薄暗くなっていた。
少し遠回りになったが死体がある雑木林へ向かった。
死体はまだあるのだろうか、という興味だった。
今朝は報道されていなかったのだ。まだあるはずだ。
雑木林にたどり着くと、日と同じように辺りに誰もいないかを確認してから一歩を踏み出した。
中に入ると辺りはよりいっそう暗くてほぼ何も見えず手さぐりで前へ進んだ。
進んで進んでいくと何かを蹴ってしまったような感覚があった。
ポケットからそっと携帯を取り出し待ち受け画面を開くと明かりが点った。
その小さな明かりで足下を確認すると、足が投げ出されたようなかたちで横たわった遺体があった。
その場にしゃがみ込み、眺めているとストッキングは破れ泥が多少ばかり着いていて汚れていた。
だけど細くて綺麗な足だった。
明かりを移動させると長い脚がつづき赤く染まった腹部、胸部、首まで照らしたところで携帯を閉じた。
顔は見れなかった。
真っ暗な中、僕と死体と二人きり。
二人?一人だろうか。
不意に涙が溢れだしていた。
二、三度制服の裾で拭ったが涙が止まる気配はない。せめて声が漏れないよう腕に噛みつき涙を流した。
流れる。流れる。流れる。
今日は体中の水分がこれでもかっていうくらい流れていってしまったように思う。
それでも僕は、干からびて死んでしまうことはないのだ。




